Gallery of the Week-Jan.02●

(2002/02/22)



2/4w
森万里子 ピュアランド
東京都現代美術館 木場

90年代、演出したセルフポートレートスタイルの作品で鮮烈に登場した森万里子の世界を伝える初めての本格的個展が、帰国・凱旋展的なスタイルで実現した。もちろん、個々の作品をばらばらに見る機会はあったのだが、これだけまとまった「大作」を、広いスペースを贅沢に活用した会場で見るとなると、これはまたインパクトが全然違う。とにかく、バラバラで見ていたのでは気付かなかったものが、全体を通して見えてくる。その際たるものは、彼女はグラフィックの作家ではないという点だろう。
とにかく、平面に固定された作品でも、平面からの発想ではない。時間軸、空間軸に沿ったパフォーマンスとしての表現があり、それを便宜的に平面に固定しているにすぎないのだ。作品は常に、固定された空間や時間軸から飛び出そうとしている。多分に音楽であり、演劇であり、ステージングの発想を感じる。ちょうどひとり多重録音の作品はライブのステージ上では再現不可能なのと同じように、あらゆる役回りに求められる要件をこなせるのが彼女しかいない以上、スタティックなカタチでしか発表できないというだけだ。彼女がプレイヤーやスタッフの数だけクローン増殖できれば、間違いなくライブパフォーマンスとして表現しうるものだ。
そういう意味では、ヴィデオ作品も、多くの絵画・空間系のアーティストが作るヴィデオインスタレーションとは全然違う。あきらかにパフォーマー系の表現者の作品である。だから、そういう時間軸表現になれた人間が見ても全く飽きさせない。音がついているが、その音を消しても、映像が音楽である。実際に音楽をプレイする人なら、このニュアンスはわかってもらえると思う。
基本的に気に入っているし、しっくり来るものがある。しかし、ぼくにとってはデジャブ感というか、なんかしっくりきすぎるところがある。よく考えてピンときた。こりゃ「猫屋」だよ。表側に出てきている表現の結果は大きく異なるが、そのパフォーマンスの根っこにあるモチベーションは間違いなくよく似ているし、だからこそしっくりくるんだと思う。バブル期の「猫屋」の残映を覚えているかたは、一度思い出しながら見ていただくと面白いと思う。なんせ、当事者がそう感じているんだからね。



2/3w
宇野亜喜良展
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

またまたのっけから言い訳になってしまうのだが、忙しいのである。おまけに今週は休日があって、一日実動が少ない。だいたい、こういうときに限って用事が立て込むのである。しかしその一方で、忙しいときほどリフレッシュしないと、いい発想が出てこないものである。ほんとはゆっくり頭を切り替えたい。なかなかそうはいかない。ま、これが現実であろう。ということで、いつものように近場である。それにしても、今週は「それでも行けてよかった」という感じさえする。
それにしても、宇野亜喜良氏というのは、時代とパーソナリティーがくっついてしまっている人だ。60年代より前から60年代していたし、60年代を過ぎても60年代のいいところを決して失わない。ぼくなんて、そのリアルタイムなインパクトは「背伸びして垣間見た」という程度なのだが、それにしてもある種の時代性の緊張感を今に伝えている。
世代か、時代かというのは常に論点になるところだが、最初の一撃というか、時代の風を吹かせはじめた人は常にいる。そういう人は飛び抜けてクリエーティブだし、誰かのマネをしてそのスタイルをはじめたのではないという意味では、決して時代の子ではない。いい悪いとか、らしいらしくないではない。その人のオリジナリティーあふれるスタイルが確立しているかどうか、問題はそこだけである。新作中心なだけに、あらためてこの原点を感じさせてくれる。



2/2w
オーストリア・デザインの現在
原美術館 品川

世紀の代わりめということで、なにかとウィーンがらみのイベントが多い昨今だが、これはちょっと趣向を変えて、20世紀末からのオーストリアのデザインの今を伝える展覧会。世界各地を巡回している展覧会であるが、会場のスペースも関係してか、そのサブセットでの展示となっているようだ。その分、英語版のパンフレットには、出展されていない作品も数多く収録されている。
確かに、現代オーストリアのデザインといわれても、スグにそのイメージが湧くものではない。いったいどんなものかという興味も含め、会場に向かう。で、結論からいってしまえば、「いってますますワケがわからない」というところであろうか。デザインというのは、アート以上に「わかりいい」ものであるはずだ。説明の必要なアート(それさえいいとは思わないが)は時々であうが、説明の必要なデザインというのは頂けない。
美術館でやるということで、必要以上に構えて構成しているのかもしれないが、何とも観念度が高い。要は、何を言いたいのかよくわからないものが多いのだ。それが「オーストリア・デザインの現在」なのだといえばそうかもしれない。でも、選手が自ら「解説」しながらやっている野球なんて面白くないし、見たくはないぞ。天気が良かったので、お散歩としてはよかったけど。



2/1w
未完の世紀-20世紀美術がのこすもの
東京国立近代美術館 竹橋

二年半の工事期間を経て、全く内部構造を改め、新たに生まれ変わった近代美術館。そのオープニングは、日本の20世紀美術の総ざらえ、オールスター顔見せ公演といった趣の展覧会からスタートとなった。20世紀を10年から15年単位に8つのエポックに分け、それぞれの時代ごとのテーマを象徴する作品を集めて見せる企画である。有名な作品も数多く出ているし、とにかく400点になんなんとするその物量には圧倒される。
確かにここに作品を見てゆくと、この作家のこの時代なら、別の有名な作品のほうが代表性があるだろうな。とか、何でこの時代にあの人の作品がないの、あるいは、何でこの人が入っているの。とか、いろいろ気になるところも多い。なんせ一世紀分を網羅しようというのだ。どうしてもそういう「不満」はツキモノである。とはいうものの、この展覧会はそういう趣旨ではないという気がする。
とにかく、圧倒的な物量の作品群。それらを目前にしたとき、個々の作品や、作品に込められた作者の意図などどうでもよくなってしまう。ここで重要なのは、その作者や作品が属する時代の「時代性」をそこから感じ取れるかどうかだろう。そう見てゆくと、確かにそれぞれの時代がどういう雰囲気だったのか、時の流れを越えてリアルに伝わってくるものがある。深く考えてはいけない。美術作品という「手段」を通して、20世紀の日本のあゆんだ道、そこで生きていた人の生きざまを振り返ればいいのだ。いわば、ここの作品を要素として使った、20世紀の日本を表現した「コラージュ」なのだ。そういう意味では、面白いし、一見の価値はある。
しかし苦言をするわけではないが、ドンガラだけ残して内装を全く一新したワリには、動線の作り方がいまいちという気がする。展示室の広さや高さといったスケール感が一新され、非常に新鮮な感じがするのだが、今回のように全館を使って展示会を行う場合には、いまいち流れがウマくない。前の中二階形式が、常設展には辛くても、全館を使った企画展には効果を発揮していた分、ちょっと寂しい気もする。



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