Gallery of the Week-Apr.02●

(2002/04/26)



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福王寺法林・一彦展 大自然に学ぶ親子の熱情
東京ステーションギャラリー 丸の内

現代日本画の世界は、日本画界を飛び出したアーティストとして活躍している人以外は、必ずしも詳しくない。とくに日本画壇の内側のことはよくわからない。そういうワケで、親子で日本画で活躍する福王寺法林氏、一彦氏については、どちらも余り詳しくない。しかし、こういう全く知らないアーティストの作品ほど、先入観なしに見る驚きも期待できる。という流れで、東京駅に行ってみる。
で、まずはオヤジさんの法林氏のほうがだ、見てびっくり。どえらい人がいたものだ。愚公山を移すという言葉があるが、いい意味で、とんでもなくスケールの大きい気の長さをもった人である。執念というか、根性というか、作品自体が物理的にも大作だが、その構想から着手、完成までの長い道のりと、そこで払った労力の大きさからしても、とんでもない大作ばかりである。
そればかりではない。人生のとらえかた自体が、またとんでもないスケール感なのだ。ヒマラヤの絵をモノにしたいというモチベーションを、文字通りライフワークとして、一生を賭けて実現する。そのタイム感は、現代を生きる常人のそれを飛び越えている。まさに、悠久の時の中に存在している、ヒマラヤ山脈そのもののような雄大さである。まったく、スゴい人がいたものである。何か取りつく島がなくて近寄りがたい感じさえする。
その点、息子の一彦氏のほうは、世代が近いこともあるせいか、なるほどわかりやすい。オヤジさんの視線が、ヒマラヤの彼方、宇宙の果てまで外側を向いているかの如き眺望を示すのに対し、息子の視線は、徹底的に内面を向いている。心に浮かんだ風景を描いた風景画。それはまるで、模型のジオラマを作るモチベーションのようだ。こちらは、いたって共感を呼び込みやすい。その道を知らないがゆえに、お手軽な異次元体験。なかなか新鮮で楽しかった。


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椿会2002展
資生堂ギャラリー 銀座

資生堂ギャラリーのリニューアルを記念して、昨年から復活した企画展の2回め。児玉靖枝、世良京子、辰野登恵子、堂本右美、三輪美津子、山本直彰、青木野枝、イワタルリ、鷲見和紀郎の9人のアーティストが、2001〜2005の5年間にわたり、合同企画展を開くシリーズの二年目にあたる。
前回の2001も見ているが、2回めということでもあり、資生堂ギャラリーのイメージやポジショニングも定着してきたこともあり、前回以上に「椿会展」という方向性やあり方が見えてきている気がする。
それは、コンセプチュアルなものより、なんといっても場所である。資生堂ギャラリーという空間があり、そこに9人の作品を据えることで、空間をインスタレーションする、という感じが明確になっている。それぞれの作品の置き場所も含めて、グッとはまってきている感じがする。さて、次回はどう発展するのだろうか。



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02TDC展
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

毎年恒例の東京タイポディレクターズクラブによるTDC展である。ということで、毎年恒例であるが見に行く。年度初めの強い味方というところだろうか。とにかく、世の中は景気が悪いということになっている。景気がいいという定義自体が問われている昨今なので、果してこの状態をなんと呼ぶべきか議論もあるが、少なくとも高度成長期のように、懐にアブク銭があまっている状態でないということは確かだ。こういう時には、期末が稼ぎ時になる業種は割を食う。その延長上で、広告や商業印刷で「オイシイ話」が減っていることも確かである。
仕事そのものが激減しているとは思えないが、まあ、バブルの頃を引き合いに出してはいけないが、ああいう意味でじゃぶじゃぶした仕事はなくなっている。そうなると、妙に世知辛い広告が増えてしまうのも確かだ。同じようなものを作ろうとして、予算がなければそりゃセコくなる。しかし、限られた予算でもそれなりに面白いインパクトを作ってこそ広告屋である。そこで現れてくる強い味方が、タイポグラフィーである。中国のカンバンを見てみろ。もろ書道というか、墨跡もなまなましい文字だけというモノも多い。しかし、それでシズル感、インパクトとも充分出している。そういう文字だけでインパクトを持てる文化を持つ国であることを喜ばなくてはいけないのだ。
前置きが長くなってしまったが、景気が悪いせいとだけも言えないだろうが、ことタイポグラフィーということについては、なかなか活きがいい。文字しか使えないなら、文字で勝負。それは正攻法である。その分、そういう攻め方のできないアルファベットの国は可哀想だ。原点といえば原点なのだが、デザイナーも写真に頼ったり、デジタルギミックに頼ったりする前に、もう一度書のもつ力を再認識するべき時なのだろう。グラフィックのパワーダウンも言われるが、それを救うのはヴィジュアルイメージより「書」の力ということだろうか。



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カンディンスキー展
国立近代美術館 竹橋

カンディンスキーというと、なんといっても日本ではバウハウス以降の文脈の中で語られることが多い。日本人のバウハウスびいきを考えれば致し方ないのかもしれないが、ぼくもそこに至るプロセスに詳しかったわけではない。今回も展示されている「コンポジション」シリーズぐらいしかしらない。今回の展示は、故郷であるロシアの美術館に収蔵されている、カンディンスキーのプレ・バウハウスともいえる初期の作品を中心に構成した展覧会。極初期の完全に具象的な風景画から抽象スタイルを確立するまでの流れを見せてくれる。
カンディンスキーというと抽象画なのだが、完全に心象をたたきつけて具現化するタイプではなく、どこかに「モノ」を引きずっている。極めて観念的ではあるけれど、完全に次元を越えてしまっている作品ではない。末期の作品を見ていても、それは感じるのだが、今回の展示では、そこに至る流れの中で作られた作品を、時代にそってみることで、実際写実的で具象作品を作っていたものが、観念的な具象作品になり、その抽象度が高くなってゆくことを確認できる。これでどれだけ感動したり、心が洗われたりするかという面はさておき、カンディンスキー、ひいては20世紀前半の美術に関心のある人なら、一度は見ておくべき展覧会だろう。
さて、ついでにリニューアル後はじめて、常設展の方も足を運んでみた。展示は、再オープン時の記念展「未完の世紀」をベースにしたもので共通部分も多い。まあ、館蔵作品による記念展だっただけに、当然といえば当然なのだが。その時に感じたのと同様、やはり動線が変だ。どこかのフロアで行ってこいをしなくてはならない構造になっている。おかげで自然にあるいていたら、3階と2階で逆走する羽目になってしまった。これはやっぱり頂けない。



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