Gallery of the Week-Jun.02●

(2002/06/28)



6/4w
ジブリ美術館
三鷹

今回はちょっと趣を変えて、企画展ではなく、常設のミュージアム。開設されて2年以上になるが、今だに人気の衰えないジブリ美術館である。流石に平日は入れるようになったそうだが、休日は今でも予約チケットが入手難とのこと。興味はあるのだが、わざわざチケットを取る手間は、と考えていたところ、ちょうどさる筋から休日のチケットを運良く入手できたので行ってみた。
基本的には、テーマパークとミュージアムの中間的なコンセプトである。場や空間自体は、数々のテーマパークのように、スタジオジブリのイメージと色で固められている。しかし、ライドやレビューがあるわけではなく、展示部分はけっこうしっかりしている。まさに、プロダクションとしての「スタジオジブリの全て」という感じで、どちらかというと硬派でマジメな展示である。
宮崎駿さんといえば、マニアからの評価が高いのはもちろん、一般の映画ファンからも評価が高い。はっきりいって、この両者は水と油である。一般向きにしてしまえばおたくマニアはブーイング(これがけっこうウルサい)だし、マニア映えする内容では、とても一般の家族連れは理解できない。そういう意味では、どこをターゲットに置くか、コンセプトメイクには難しいものがあるだろう。
しかし、そこが流石である。展示内容は、「アニメはこうして作られる」というのを、絵が動いてみえる「視覚技法」という面と、実際のプロダクション作業という二つの面から見せているだけなのだが、これがコンパクトなワリにわかりやすいし、チョコチョコッと受けるネタがまざってたりして楽しめるし、誰でもそれなりに楽しめる。
そういう意味では、全体が小規模なだけに、ポイントはこれからどう展示の「新作ネタ」を入れ、レピーターにも楽しいモノとするかだろう。もっとも映画自体の新作ができれば、その制作プロセスに置き換える手はあるので、アニメ界での優位性があるうちは、このままでいいのかもしれない。ディスニーランドでも、ディズニープロの仕事ぶりをコンテンツ化して見せるものはなかったのだから。


6/3w
日本の新進作家 風景論
東京都写真美術館 恵比寿

中堅どころのとして活躍中の写真家3人、平野正樹、鈴木理策、中野正貴がそれぞれワンテーマで作品を出展し競演する写真展。写真の原点とも言える「風景」を被写体に、写真表現が多様化する中、基本的には正攻法で硬派の写真表現の可能性を追及する。中野正貴の作品「Tokyo Nobody」は、人とクルマを消し去った都会の風景を、大判のディティールフルな画面で捉えた作品。それをどうやって撮ったかはさておき、こうやって作品を見て行くと、実は人間そのものは風景の一部分ではないという事実を「発見」してしまう。人がいないからこそ「見慣れた風景」だし、決して違和感ない。我々自身が都会のランドスケープを捉えるときにも、意識的に人を消し去っていることに気づく。模型のジオラマなどで、駅のホームに動かない人形がいるよりも、かえって人形がいないほうがリアルに感じることも多い。それがなぜか実によくわかる。
鈴木理策の作品「KUMANO」は、風景写真というよりフォトストーリーといったほうが良いかもしれない。熊野神社の火祭りに参加するまでの旅程を、写真構成で再現する。これまた、ある種写真の原点とも言えるモチベーションである。多くの日本人にとって、もっとも写真らしい写真は、旅行のスナップではないだろうか。その旅行のスナップの中に、どれだけ表現性をにじませることができるか。これが、サービス判でアルバムに貼られていたならいざしらず、これだけ大きくして、これだけ仰々しく飾ると、結構虚構性が出てくる。そこが表現としてのねらい目なのだろう。
平野正樹の3作品は、元来ある種の社会性を帯びたテーマであったはずである。しかし、逆にここでも写真の虚構性が強調される結果となっている。戦場の廃屋の窓、建物に残った弾痕、開発により伐採された切り株。どれも一つ一つなら告発力を持つものが、たくさん集めることにより記号性を失ってしまう。弾痕のコレクションも、こうなると、ネコの模様のコレクション、とか、昔のおもしろい看板のコレクションとか、トマソン物件のコレクションとか、こだわりの写真コレクションと何ら変わりがないものになってしまう。それが作者の意図かどうかは別にして、写真の持つ重要な機能を改めてクローズアップさせている。結果的に三者三様ではあるものの、ある種の写真の本来的な姿を改めて見せるという意味では、なかなかおもしろいと思う。



6/2w
やなぎみわ "Granddaughters"
資生堂ギャラリー 銀座

CGを駆使した合成写真にによる作品で知られる女性アーティスト、やなぎみわの映像インスタレーション。世界の「おばあさん」たちが登場し、映像の中で自分自身の祖母の思い出を語るというコンセプトの映像作品を、マルチスクリーンで上映する。作品の展示というより、ギャラリー全体がインスタレーションという趣向になっている。これは最近の資生堂ギャラリーでよく見られる手法である。
しかし、この空間といい、この映像の出方といい、なにかデジャブ感がある。じっと考えてみて思い出した。科学万博を頂点に、博覧会ブームに沸いた80年代。その時代の博展パビリオンと、その主役だった大型映像である。そういえば当時は仕事で関わったものだ。最先端CG、3D映像、マルチ360°映像、と、手を変え品を変えやったものだ。
そう考えると、今度は疑問が湧いてくる。あの時かけた映像は、万博という場でやったから特別な意味を持ったのであり、それだけとりだせば単なる映像コンテンツである。常設の大型映像シアターで見る映像にはお祭り気分はない。やなぎみわの作品も、このフッテージを一般のドキュメント番組としてオンエアしてしまったらどうなるのか。映像が、アートとなるのかコンテンツとなるのか。危ない境界線を垣間見せてくれる結果となった。



6/1w
東情西韻 アラン・チャン展
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

グラフィックデザインから、CI・VIデザイン、パッケージデザイン、プロダクトデザインと、いかにも香港らしいマルチさであらゆるデザインをこなす一方、空間プロデュースやオリジナルグッズの開発まで手がける、アラン・チャンの作品展。おなじみの三井住友銀行のCIをはじめ、日本でも手がけた作品は多く、その作風には慣れ親しんでいるヒトも多いと思われる。もっともそれ以前に、デザイン的なコンテクストの中では、東アジアの中でも香港と日本の近しさというのは歴然とあり、その土壌の中から出るべくして出てきたデザイナーというべきだろうか。
いつも言っていることだが、グラフィックデザインにおいては、タテにもヨコにもナナメにも、はなはだしきはフリーハンドのラインに合わせても、キチンと文字列がコトバとして認識される文字系を持っていることは、圧倒的に自由度の強みになる。具体的には日本語、韓国語、中国語ということなのだが、改めてその可能性を認識できる。この3カ国語でしか成立しないデザイン語法というのは明らかにあるし、それは極めて豊かな発想をもたらすものである。特に、今後の中国のデザインマーケットがどうなるか、いやが上にも気になってしまう。
さて実際、彼自身そのキャリアを広告代理店からスタートさせたのだが、彼の発想は明らかにデザイナーである以前にアドマンである。溢れんばかりのアイディアとコンセプト。それは時としてカタチや色の中では受け止められず、作品のグラフィックや造形の外側にまでこぼれおちてきている。そういう「活きのよさ」、「爆発力」を見せ付けられると、広告が広告であるためには何が必要なのか、改めて認識してしまう。うん、広告が元気がなくて、何で世の中が活性化するものか。なかなか元気が出ます。



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