Gallery of the Week-Sep.02●

(2002/09/27)



9/4w
田尾沙織 「ビルに泳ぐ」
ガーディアン・ガーデン 銀座

今週は、とにかく忙しい。そもそも二週続けて連休でウィークデイが少ない。おまけに半期末である。そこに輪をかけるがごとく、今週は出張が二件もある。これでは時間がなくなるワケだ。ということで、これまた二週連続、近場でお茶を濁すこととあいなった。安易ではあるものの、カラダはひとつしかない。文字通り、背に腹は代えられない。と、まあ、言い訳ではある。
さて田尾沙織は、都会に生まれ、育ったものらしく、都会を都会の目線でとらえる作品に特徴のある、昨年の第18回「ひとつぼ」展のグランプリ受賞者である。そのコンセプトを一年かけて拡げたものが、今回の写真展である。都会というのは、何でも呑み込み、受け入れてしまうが、いつの間にかそれらをどこかに埋没させ、沈殿させてしまうとりとめのなさを持っている。この作品群もまさに、そのとりとめのなさをカタチにしたものとなっている。
そのポイントは、なんといってもブローニー版の四角い画面、それも広角よりのレンズを利用した絵作りにある。昔の二眼レフとかで作品を撮ったことのある人なら実感があると思うが、ブローニーの広角というのは、よほど意図して作画しない限り、とりとめ、メリハリのない絵面になりやすい。何でも等価に写ってしまい、なおかつクッきり写ってしまうからだ。これが主役です、という画面構成をしないと、なんだか判じモンのような絵になってしまう。
これを逆手に取って、あえて作為を排することにより、正方形の画面の中に何でも切り取って閉じ込めてしまう。それが都会のとりとめのなさそのものを実感させる。こういうスタイルで、この判の特性を「活用」したアーティストも珍しい。コロンブスの卵のインパクトである。



9/3w
Graphic Wave 2002
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

第七回となった今年のグラフィックウェイブは、左合ひろみ、澤田泰廣、新村則人のという中堅デザイナーの共演。それぞれ全く異なる作風を持つ三人が、新作で挑む展覧会である。異なる芸風とはいっても、実際に見てみると、全体を通じて共通する通底音がある。それは「画材としてのデジタル」を消化しつくした表現ということである。デジタルという「絵の具」なり「筆」を使わなくては出せない表現でありながら、決して「デジタルに使われている」のではない表現なのだ。
あくまでもポスターなりパッケージなりというグラフィックデザインではあるものの、これは前にも書いた、1.ディジタル技術があくまでも手段となっており、主役然として表に出ない表現であること、2.ディジタル技術を使わなくては不可能だったり、極めて手間やコストがかかる表現であること、3.そもそも芸術作品としてのメッセージやコンセプトが打ち出されている表現であること、というぼくの「ディジタル・アート三原則」に近いような世界である。多分そういうパラダイムシフトは、アートではなくデザインのほうから来るのではないか、と思っていたが、案の定、という感じで我が意を得たり(笑)。
もっとも、個々の作品のテイストやトーン&マナーが個人的趣味にあっているかというと、必ずしもそうではないのだが、このこなれ方は清々しい。今だに「ディジタルだぞ」とばかりにうやうやしく機械を扱い、マガマガしい表現に終わっている「アーティスト」が多いだけに、爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいぐらい。時代は確実に進んでいるのね。よしよし。



9/2w
アフガニスタン 悠久の歴史展
東京芸術大学 大学美術館 上野

シルクロードもなにかと昨今、展覧会のキーワードになっているようだが、段々と西進して、今度は、911一周年でこれまた政治のキーワードになっているアフガニスタンである。アフガニスタンは、まさに東西、南北の文化の交差点として、いろいろな民族、いろいろな宗教が覇権を争い、戦争と統治を入れ代わり立ち代わり行ってきた因縁の土地であり、その呪縛は今でも解けていない。それだけに同じ地域の中で、文化的には極めて多様な要素が重奏しており、世界を凝縮してみつめる、という意味では、とても面白い地域である。
さて今回の展示は、大きく3部構成になっている。世界巡回のフランスギメー美術館所蔵品を中心とする、アフガニスタンの地をめぐる歴史的な発掘物の数々。平山学長の水彩画によるアフガニスタンの思い出。そして、主として日本にある流出美術品を中心とする展示である。メインになる、紀元前からイスラムの流入までの数々の文化の栄枯盛衰を核に、日本側であとの二つを付け加えたカタチになっている。
中国からシルクロードを西に行くと、その料理は段々スパイスが濃く、多様になってくる。最初は中華料理の炒め物だったのが、最後にはカレーになる。これが連続的に変化しているのだ。まさに文化もそうで、ギリシャ、インド、ペルシャ、アラブ、中国など、周辺の影響が時代とともにかわっていった様子がよくわかる。
しかし、ちょっと問題なのは「流出文化財」の扱いである。どの国でも、文化財の流出はある。そして、この30年ぐらいのアフガニスタンは、戦乱に明け暮れ、その国民が大変不幸な思いをしていたことも確かだ。だからといって、傍観者であるわれわれの価値観でものを判断していいのだろうか。内乱も、文化財の流出も、その国民にとっては、それなりの大義名分はあるはずである。それを無視してロマンティシズムとノスタルジーだけでものが言えるのだろうか。それをいったら、そもそもメインの展示になっているギメー美術館の所蔵品は何なんだ。日本だって、廃仏毀釈で多くの美術品が流出したではないか。この部分に関しては、どうにも歯切れが悪かった。



9/1w
江戸蒔絵 -光悦・光琳・羊遊斎-
東京国立博物館 上野

そういうわけで、東博の平成館。シルクロードの展示は通常の企画展の半分、東側のウィングのみの利用となり、あとの半分は、創立130周年記念特別展として特別常設展扱いの「江戸蒔絵」である。日本の代表的な工芸美術として世界的にもファンの多い蒔絵の作品の数々を、名匠の作品、印篭と根付、江戸の輸出漆器、大名の婚礼調度、という4つの視点から特集している。
まあ、確かにスゴいことはスゴいと思うし、その重量級の存在感は認めるのだが、個人的にはどうも「蒔絵」というのは、美術としては余り好きになれない。部屋の中に蒔絵の硯箱が置かれている姿をイメージしてもらうとわかると思うのだが、これは決して自分の心が共鳴したり、心象イメージがふくらんだり、というようなものではない。作品と自分とのインタラクションがほとんど出てこない。
その一方で、それを所有している人が、他人から受ける羨望の視線という意味においては、他の美術工芸品にないものがある。要は、持っていることを誇示してはじめて意味のある美術品なのである。そう考えると、これは「元祖バブル」である。まさに、自分のためにではなく、人に見せてそのフィードバックを味わうものなのだ。
となれば、江戸時代の町人文化が華やかになるとともに、隆盛を極めたことも、海外で、特に室内調度としてもてはやされたことも、こう考えると合点が行く。また、他人の視線が介在しないと成り立たない、というところに、個人的に落ち着きの悪さを感じるというのも納得できる。この金ぴかな世界の中に、ある種日本人の本質を感じてしまい気が滅入ってきてしまった(笑)。



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