Gallery of the Week-Aug.03●

(2003/08/29)



8/5w
Happy Trail
資生堂ギャラリー 銀座

スキーを手作りし、そのスキーで雪山を滑るというプロジェクトを、ドキュメンタリーヴィデオと、工房やスキーの展示で見せる、曽根裕、デーモン・マッカーシー、エリック・アラウェイの3人のコラボレート展。このところ、アートかアートでないかという、ボーダーラインぎりぎりのクセ球とも言える企画をぶつけてくる資生堂ギャラリーが、またまた投げかけるキモい企画である。
はっきりいって、考えれば考えるほど、これもまた「器か中身か」というところに行き着いてしまう。資生堂ギャラリーだから「アート」に見えてしまう、というだけで、多分コンテンツ自体は境界線の外側にあることは間違いない。新雪の中に残る軌跡が、山肌に描かれた「作品」になっている、とかいうオチでもあれば、もうすこし違う解釈もできるかもしれない。しかし、これを百貨店の催事場のような会場でやったのでは、全く意味合いが変ってしまうだろう。
それなら、先週末に行われた鉄道模型マニアのイベント「JAM」の会場で恒例になっている「三日間レイアウト」(イベントが行われている3日間で、ジオラマ制作の名手達が寄ってたかって、大型のジオラマを制作、完成させるパフォーマンス)は完全に境界線の内側、ということになる。できた作品も、「造形作品」の範疇に入っているし。あれを資生堂ギャラリーでやったらどうなるのだろうか。ふと、そんなことまで考えてしまった。


8/4w
鉄道と絵画
東京ステーションギャラリー 丸の内

鉄道が開業した19世紀の半ば以降はまた、近代・現代の美術の方法論や社会的ポジションが形作られてゆく過程でもあった。その中で、まさに近代を具現する記号として、鉄道にまつわるいろいろな題材を取り入れた美術作品を、数多く見ることができる。この展覧会は、JRの文化財団らしく、近代の美術に登場した「鉄道」を、ヨーロッパ、アメリカ、日本の作品から振り返ってみる企画である。
そもそも汽車や鉄道は好きだし、「故郷と都会を結ぶ鉄路」といったロマンが、映画や唄のテーマとして取り上げられていたのを知っている最後の世代でもある。おまけに、アクセルをベタ踏みした加速感にナチュラル・ハイになるような、「未来派」のやんちゃな感覚も決して嫌いではない。そういう意味では、アートという興味の琴線とはちょっと違う面からも行ってみたいと思わせるモノがいっぱいあり、それはそれで充分楽しむことができた。
さて、純粋に絵画という視点からみても、それなりに面白い発見がある。それは、鉄道が題材になるということ自体、作者の心象の発露としての純粋な表現作品でも、アバンギャルドな実験作品でもなく、極めて市井の俗っぽい視線から題材をとらえた作品が多いということである。それはまた、その時代の「一般ウケの良い作風」を微妙に反映していることになる。ハレとケでいえば、ケである。ともすると、特異点のようなハレの作品ばかりが美術館をかざることになるだけに、こういうケのトーンを伝える作品が見れるというのは新鮮でもある。
それだけでなく、庶民の暮らしや風俗までも、絵の題材となっており、今では与り知れない情報をキチンと伝えてもくれる。ちょうど、各時代の高級車やスポーツカーは、今でも博物館に行けばクラシックカーコレクションとして見られるのに対して、いにしえの大衆車は、ほとんど見るチャンスはないし、ましてや庶民がそれをどう使っていたかに至っては、知る由もないのと似ている。そういう意味でも極めて貴重な意味があるといったら、言い過ぎだろうか。


8/3w
新島実展
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

新島実氏は、あのポール・ランド氏に師事したデザイナーで、現在は武蔵美の教授として活躍している。ふつう、日本のグラフィックデザインにおいては、タイポグラフィーというと、格別のコダわりがある。それは、漢字やかなが、書道の長い歴史を持ち、その書体や書きかたによって、単に文字が伝える以上のメッセージを含むことが、社会的コンセンサスとなっているからであろう。実際看板などは、商号や会社名の揮毫だけで、品格や風格まで表現できてしまうワケで、これが日本をはじめ、中国、韓国など「書」の歴史を持つ国でのグラフィックデザインの一つの特色ともなっている。
そういう中で氏は、その履歴が示すように、完全に欧米仕込みの目でタイポグラフィーをとらえる特異な視線を持っている。今回の展覧会では、「Interaction of Colors and Fonts」と題し、まさにフォントという「カタチ」と、そこを埋める「色」に焦点を絞った作品を発表している。そこには、日本のグラフィックデザインが基本においている、「文字とカタチの相互作用を色で補強する」という発想はなく、意味性をフォントから切り離してしまう潔さがある。
そこにある画面の構成要素は、字のカタチはしているものの、文字としての記号性からは切り離されている。それらがタイポグラフィーにはみえず、あたかも色面構成の演習の材料か、モンドリアンのコンポジションの枠のような存在となっている。文字に対してクールというか、冷たく突き放している。不幸にして、欧米におけるタイポグラフィーのとらえられ方については不案内なのでコメントできないが、少なくとも、日本においてはこのように文字をとらえるコトができるというのは、極めてユニークな視点だ。
それもあってか、同時に展示されている代表作には、あの「バブル期」の作品が多く目立つことも特徴的である。確かにあの時期なら、あえて日常性から乖離させるコトを目的とし、そこに多額の資金をつぎ込むことも決して珍しくはなかった。良い悪いとかいう以前に、極めて目立つ、目につくことは確かだ。そういう意味では、とても面白い。



8/2w
ROCK'N'ROLL EYE ミック・ロック写真展
東京都写真美術館 恵比寿

「ロック」が、音楽的現象から社会的ムーブメントと成り出した60年代末以来、ロンドン、ニューヨークを中心に活躍し、ロックスターの写真で時代を風靡した写真家、ミック・ロックのオリジナル・プリントを集めた写真展。ピンクフロイド、デイヴィッド・ボウイ、ローリング・ストーンズをはじめ、グラマラスでグラフィカルなロックスター達を被写体に、その時代を象徴するような写真が並ぶ。
そもそも、会場のデザインや構成、そしてその雰囲気も含めて、意図的に70年代っぽさをムンムンと溢れさせている。なんか、ぼくらの高校時代の文化祭のようである。もちろん、文化祭は工房なりにその時代の時代感をなんとか表現しようと、精一杯背伸びした「努力賞」にすぎないのだが、流石にリアルタイムでやったことには、時代感があるということだろうか。
しかし、改めて感じたのは、ぼくらが69〜72年ぐらいに日本で感じていた「ロック」は、決して当時のロンドンやニューヨークのリアルタイムの動きと同じではなかったということ。当時の東京では、限られた情報とアルバムの音、そして、わずかな来日アーティストのライブからしか、何が海の向こうで起こっているかわからなかった。それは、渋谷、新宿に生息していても、であった。その時ぼくらが対峙していたのは、向こうでは66〜68のロック・レボリューションと、69以降のロック・ムーブメントが渾然一体として伝えられたものであった。
クリームとゼップは、根本的に違う。片や、ロックというフィールドでの悶々としたエネルギーのぶつかり合いだし、片や、ロックをカルチャーなりビジネスなりに昇華しようという動きである。この違いは、その時にはわからなかった。しかし、ストーンズが後者の路線に乗れたがゆえに生き残ったコトからもわかるように、歴然とした違いである。それは、ビジュアル的な部分をリアルタイムで見ていれば、すぐわかったモノであったことを、ミック・ロックの作品を見て、改めて気付いた。
ところで、この30年ちょっとの写真技術の進歩というのは、思った以上にスゴいことに改めて感心した。ステージをはじめ、かなりぎりぎりの光線条件で撮ったものがおおいだけに、ストレートに違いが出ている。5年ぐらいのスパンで見れば、カメラと感光材の進歩で、どの時代に撮影したものか、だいたいわかってしまう。思わぬ発見であった。



8/1w
STRANGE MESSENGER & CROSS SECTION THE WORK OF PATTI SMITH
PARCO MUSEUM 渋谷

アンディー・ウォーホール展に続く、渋谷パルコ30周年記念展の第二弾は、パティ・スミスの作品展。日本では彼女は、パンク・ムーブメントの時期に「ニューヨークの唄う吟遊詩人」といった紹介のされ方で登場し、それなりのポピュラリティーを得てしまったため、幸か不幸かアーティストとしてよりも、ミュージックシーンのほうで名が知れている。あるいは、知っていても「パフォーミング・アーティスト」というイメージのほうが強いだろう。しかし、その実は「最後のニューヨーク・アンダーグラウンダー」とでも言うべき存在である。
60年代のニューヨーク・アンダーグラウンド・アートシーンにグラフィックのアーティストとして登場し、当時のシーンで活躍したアーティストの多くがそうであるように、絵画、造形、写真、パフォーマンスとマルチに活躍してきた。その半生の作品を、ドローイングと写真、そして「テキスト」から振り返る展覧会となっている。ぼく自身そうなのだが、70年代末から80年代の活躍を、リアルタイムで体験した人間にとっては、その当時、「前歴」が全く伝えられなかったこともあり、新鮮に見ることができる。
作品を通して見えてくるのは、多くのアンダーグラウンド系アーティストがそうであるように、自分の表現したいモノが何かあるのに、それに手段がついてこないという、悶々とした欲求である。それが、いろいろな表現にトライするモチベーションとなり、新しい世界を切り開いてゆく原動力となっている。しかし、そういうタイプのアーティストの場合、通常、「表現したいモノ」ははじめから明示的に心象の中にあり、それを表現しきれないことが、次に挑むパワーとなっているコトが多い。
だから、初期から「荒削りだが何かある」という感じになるものである。だが、彼女の場合にはこれが違う。何か、心の中から外に発したい「モヤモヤ」があるのだが、それ自体が捉えられていない感が強い。そういう意味では、プロセス自体が「自分探し」だったのであろう。それが、屈折したエネルギーを生み出してきた。ぼくには、そう読めてしまったのだが。



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