Gallery of the Week-Sep.03●

(2003/09/26)



9/4w
東京流行生活展
江戸東京博物館 両国

東京という都市に生活する庶民、大衆の風俗という視点から、明治以降の日本、特にそこに生きる「人々の暮らし」を振り返る企画展。同館らしく、生活を感じさせる「実物」の展示で、懐かしさも、好奇心も大いにクスグる企画となっている。特に展示物は、一つ一つの資料が身の回りのもの中心ということで、比較的小さいこともあり、これでもか、これでもか、と、見ても見ても見つきぬ物量作戦で迫ってくる。
歴史は、どうしても政治や権力の構造で区切り、それぞれを時代としてとらえるコトが多い。確かにそういう上部構造は、不連続に変化するだけに、わかりやすいし、とらえやすい。しかし、庶民の生活ベースでは、そんな不連続な変化があるわけではない。明治維新にしろ、第二次世界大戦の敗戦にしろ、多くの庶民は、淡々と連続する日々の中の一日として生きていたに過ぎない。
そういう意味では、まさに今の「超大衆社会・日本」の大衆は、ジャポニズムを生み出した、希代の町人国家・江戸時代の庶民の直系の子孫である。そういえば、江戸時代から庶民は「旅の恥はかき捨て」し、「寄らば大樹の陰」で生きてきた。まさに「万世一系の『甘え・無責任』」なのである。ここに集められた、明治以降の庶民の暮しの変化を語る資料は、何も変っていない日本の大衆の本質をまざまざと見せてくれる。そういう面でも、実に見ごたえがある。
さておしいのは、なんといっても「○金、○ビ」、Be-1という、バブルに向かって突っ走る寸前のところで終わっているところだ。そこまでやるなら、是非。バブル期までを対象にして欲しかった。そうすれば、今に生けるバブルの象徴である、江戸東京博物館の建物そのものを、当時の鈴木都知事の題字共々展示物の一つとするという、希代の名企画ができたのに、と思うのはぼくだけではなかろう(笑)。


9/3w
日本の新進作家vol.2 幸福論
東京都写真美術館 恵比寿

昨年からはじまった、新進気鋭の写真作家によるグループ展「日本の新進作家」の第2回。今回は「幸福論」をテーマに、小松敏宏、蜷川実花、三田村光土里の3氏の作品で構成されている。のっけからナニだが、今回は何かインパクトがイマイチである。そもそも、作者の解説を聞かなくては、表現したかったものが何か伝わらないほど、過剰にコンセプチュアルな作品が、幸福「論」たりうるのだろうか。という疑問がついて回ってしまう。そんな中では、蜷川氏の作品は、もっとも企画意図とテーマがしっくり感じられるものだった。
そんな中で、今回のベストワンは、図録についている「ペーパークラフト」ではないだろうか。これ自体が作品というわけではないのだが、一番「幸福論」というテーマにあっている。妙に小さくまとまっている作品を、文字通り小さくまとめてしまったという、絶妙のパロディーも効いている。これで、外壁が単なるボール紙ではなく、本当に「幸福論」というピンクの文字の書いてある、レゴブロックのようなミニ段ボール箱を積み上げて作るんだったら完璧だったのに、とつい思ってしまったりした。
さて、意外とめっけものだったのが、同時開催の「しあわせアルバム」制作プロジェクトの写真展である。今回の「幸福論」関連イベントとして、一般から「自分の幸せな写真」を募集して展示する企画である。ちょっと前に、ポストモダン・マーケティング調査の手法として、自分の好きなモノとか、大切なものとか、テーマを決めて写真を撮らせ、それを心理学手法を使って分析するという「フォトストーリー調査」というものが流行ったが、今回の応募作品を、その方法論を使って読むと、けっこう「この応募者が、どういう心の状態なのか」がわかるのだ。幸せそうでも、実は幸せでないがゆえに、幸せを装っているヒト。本当に、平静な心をしているヒト。かえって、こっちのほうが面白かったかもしれない。


9/2w
GRAPHIC WAVE 2003
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

ギンザ・グラフィック・ギャラリー秋恒例の企画展、GRAPHIC WAVE。8回目の今年は、佐野研二郎、野田凪、服部一成の3人をフィーチャーし、新作と近作でそれぞれの世界を紹介する。時代を反映したのか、全体としてエネルギー感がイマイチ。それぞれ面白い世界を持っているのだが、妙に小賢くまとまりすぎているところが気になってしいまう。やっぱりこういう展覧会のための作品のアートディレクションは、折角クライアントがないんだから、どこか「アホ」に突き抜けているところがあってほしい気がするのは仕事のサガなのだろうか。
もしかすると、このご時世、クライアント作業のほうが、よほど突き抜けたものができるかもしれない。時代の閉塞感が重いなら、それを突き抜けるものは、理屈や数字ではなく、デザインのパワーにあることは、もしかすると常に生活者や時代と対峙し、「実績」が上がってきてしまうクライアントのほうがよほどわかっているかもしれないからだ。
そういう意味では、この3人の中では、野田氏の作品に一番パワーを感じた。特にYUKIのアルバムやプロモーション・ヴィデオでのディレクションは、まさに依頼主の側の意図もあったとは思うが、相当なインパクトがある。解散→ソロ化以降、特にここ何枚かのアルバムでは、無防備な「フェロモン溢れ出し」状態での露出が多く、こんなモノがマスにのっていいのかと、こっちがオドオドしてしまうようなビジュアルが多い。
こんな演出はとても男性にはできない、できるとしたらとてつもない大物化、と思っていたら、やはりその影には彼女のディレクションも大いに貢献していた、ということである。昨今の女性アーティストには、この系列で強烈な作風を持つヒトが多い。種明かしをされたような感じだが、インパクトを感じたことには間違いない。


9/1w
写真家・岡本太郎の眼-東北と沖縄
PARCO MUSEUM 渋谷

岡本太郎氏といえば、日本の現代アーティストの中では例外的に、一般的に人気があり、タレント性も高いという、ワン・アンド・オンリーな存在である。それは、アーティストとしての存在感のみならず、一方で博学で知性派という一面を持ちながら、その一方で自分の興味がおもむくと、一切のバランス感覚が崩れてしまうという素朴で可愛らしい面を持っているアンビバレンスも大きいだろう。インテリな一方で超大衆的。まさに彼自身が、「歩く対極主義」なのである。そもそも「太郎」という名前からして、前衛芸術家とは思えない、いかにも親しみが持てるネーミングではないか。
その岡本太郎氏が、1950年代から60年代にかけて、自らが興味を持ったモノの記録として、数万カットに及ぶ写真を撮影し、写真家としても独自の境地を開いていたことはよく知られている。今回の展覧会はその膨大な写真作品の中から、日本の中でもマイナーで非合理的なものが根強く生き残っているがゆえに、縄文につながる神秘のルーツを今に伝える、東北と沖縄を写したカット、約200点から構成されている。
戦後、しかし高度成長前という、この時期の日本のローカルな姿を写した写真は、それなりに数が残っている。しかし、それは地元のヒトの記念写真か、旅行者の観光写真か、写真家の撮影した芸術写真かのどれかである。それらは、確かにその時代の風景を切り取ってはいるものの、決して自然のままの姿ではない。ある種、よそゆきの、格好をつけたカットがほとんどである。当時の人々の生態や風俗をリアルに伝え切ってはいない。
その点この写真群は、撮影者の岡本太郎氏が、ある人物の表情だったり、ある建物の作りだったり、どこか一点の興味に惹かれてシャッターを押したものだけに、思わぬものが写っている。当時の東北の列車や駅の写真はそれなりにある。しかし、列車の乗客の風俗を記録したものは、ほとんど見たことがない。同様に、よろずやに並べられた商品とそのディスプレイとか、祭を見ている一般人の表情とか、とんでもないモノがてんこ盛りである。不作為の作為とでもいおうか。だから芸術は面白い、といったら元も子もないのだが(笑)。



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