Gallery of the Week-Apr.04●

(2004/04/23)



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難波田史男展
東京ステーションギャラリー 丸の内

すでに名声のあった現代画家難波田龍起氏の次男として生まれ、あの60年代に新新画家としてさっそうと登場し、人生を駆け抜けていった難波田史男。今年は、その没後30周年にあたることから、数多い遺作の中から、その一生を振り返れる代表作を選んで構成した回顧展。
夭折した天才というと、古くはジェームス・ディーン、最近では尾崎豊など、どうしても伝説化する傾向がある。彼もその例にもれず、その多作ぶりを反映して、回顧展となると、疾走とか、駆け抜ける、とかいう枕詞がつくことが多い。しかし、作品はその正反対で、静的で内省的なモノが多いのだが。
彼の作品は、活躍した60年代という時代背景から、抽象画のくくりのなかでとらえられることが多い。しかし、作品を見ていると、彼にとってはそれぞれのシーンがくっきりと見えていたように思えてならない。エイブル・アートが、描いた本人にとっては極めて具象的なのと同じように、これらの作品も彼にとっては極めて具象であり、だからこそ、多作が可能だったのではないか。
また、彼はどちらかというと、「自分のスタイル」が最初から最後まで一貫していた、と評されることが多い。確かに、筆やペンの勢いという意味ではそうなのだが、時系列的に見ると、思いのほか世情をきっちり反映し、その時代の流行りの表現スタイルに影響を受けているのに気付く。そういう意味では、まさにその時代に「青春していた」んだと思わせてくれる。



4/4w
第71回 毎日広告デザイン賞入賞作品展
デザインギャラリー1953 銀座

なんとも今週は忙しい。忙しいときには、銀座周辺のギャラリーが強い味方のはずなのだが、こういうときに限って端境期。運悪くどこもやってないのだ。ということで、見つけたのがこれ。小さな会場なので、限られたモノではあるが、テーマがテーマなので、それなりに考えさせられることが多い。それは、「いい広告」って何か、ということである。
もちろん、今回のコンテストは「広告デザイン賞」と銘打っている以上、「広告作品」そのものとしての、全体的な出来を競うというより、デザインだったり、アートディレクションだったりという部分に限って評価している分、基準はわかりやすい。しかし、それでも純粋なグラフィックデザインのコンテストではなく、新聞広告の体裁を取っている以上、広告としての評価から自由なワケではないだろう。
なぜ、こんなことを言うかというと、こと日本においては、広告の役割がこの数年で大きく変り、今もまたその変化のさなかにいるからである。かつてのように、広告作品の基本的な機能としては「連呼」以上のものではなく、アイキャッチャーというか、それをいかにエレガントに、かつインパクトを持ってやるか、ということならば、単純にお題を出して、その作品を作らせた中から優秀作を選ぶということも可能だろう。
しかし、今はそんなことでは「広告」にならない。完全な新ブランドとかで、認知を0から立ち上げなくてはいけない場合とかは、それでもソリューションになる場合もあるが、それは至って例外的な話だ。もちろん、審査員の中にはそのあたりを充分に理解している関係者もおられるので、それなりにスイートスポットをついている作品もあるにはあるが、こういうコンテストや賞自体が、時代に合わせた、あるいは時代を先取りしたモノになるべき時が来ているというべきだろうか。まあ、新聞の主催では多くはのぞめないとは思うが。



4/3w
スター・ウォーズ サイエンス アンド アート
国立科学博物館 上野

京都では国立博物館を会場にして、いろいろと話題を呼んだ「スター・ウォーズ展」。東京では、パート1、パート2をひとまとめにして、科博での開催ということになった。まあ、テーマとかイメージとかを考えても、科博というのは妥当な線である。今は屋外のロケットとD51以外なくなってしまったが、ぼくが子供のころは、別館は飛行機とかロケット、あるいは初期のコンピュータまで展示され、当時華やかだった「科学技術」の展示も充実していたのだから。
しかし、ミニチュアやマット画の現物をじっくり見て改めて気付くのは、「実はそれほど細密に作り込んではいない」という点だ。映画の画面に求められるディティールとして「必要にして充分」なレベルで止めてあり、それ以上の「不必要なコダわり」があるわけではない。逆に、それ以上の細かいレベルでは、どうせ写らないことを逆手に取った「製作者のアソび」が随所に見られたりする。
特に、競技場の観客を綿棒の着色だけで表現したミニチュアなど、この映画か掛けられる予算と手間を考えれば、それこそ全部プレイザーの人形を並べることもできるのだろうが、あえてそこを割り切ってしまうバランス感やコスト意識には、まさに製作作業を「仕事」と考えるプロフェッショナル意識がありありと見える。
この点、日本のこの手の造作物では、趣味の作品同様の「必要以上の作者のコダわり」にあふれたモノも多く、彼の地とこの地の好対照を見せている。仕事である以上、プロフェッショナルとしてやるべきレベルに対し、必要にして充分なレベルで応えれば、それで充分。この割り切りは、アメリカの技術者や職人にはよく見られるが、日本では欠けてしまっているバランス感である。



4/2w
04TDC展
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

今年もTDC展の季節である。なんといってもタイポディレクターズクラブというぐらいで、グラフィックデザインの起点でもあり終点でもある「文字」へのコダわりという、「絵」だけで語れる世界とは違う面白さと難しさが、個人的には特に興味を持っている点であり、毎回楽しみにしている点でもある。
とはいうものの、最近の傾向として、若手ほど「文字」であることをヤメてしまう、とでもいえるような感覚が感じられて気になる。読まれること、伝えることを意識しているとは思えない作品がけっこうな量を占めている。これは、今年もやはり同傾向であり、全体にこじんまりした印象が強い。
中堅、ベテランは、「作風」があるだけに、自分らしい「決まり手」に持込み、手堅くまとめてくる。その一方で、若手は決して冒険せず、自分の得意技に持ち込める「小さな土俵」を作って、そこを守ってくる。どちらにしろ、「守り」を強く感じてしまう。それで仕事になっているのだから、とやかく言うべきモノではないのかもしれないが、これでは今ひとつ寂しいのも確かだ。
別にデザインは経営ではないのだから、必要以上にリスクの高さを気にするべきではないだろう。それどころか、予定調和でないリスク含みだからこそ、デザインって意味があるのではないか。若手は、どうせ読まれないコトを前提にするのなら、「絵」の中に逃げてしまうのではなく、「文字」の世界自体をぶっ壊してしまえばいい。ベテランは、どうせ足元をすくわれないのなら、その力量を思う存分発揮して、好きな世界にもっといってしまえばいい。そのぐらいの意気込みがほしい気がした。



4/1w
20世紀デザインの旗手 レイモンド・ローウィ
たばこと塩の博物館 渋谷

数々のグローバル企業のVIやパッケージデザインという面では、お仕事のほうで縁が深いし、GG1、S1、T1をはじめとするペンシーのトータルデザインという面では趣味とも縁の深い、アメリカンデザインの体現者、レイモンド・ローウィの回顧展。ショートピースのパッケージデザインでつながりの深い、日本たばこのたばこと塩の博物館開館25周年記念の特別展ともなっている。
しかし、何とも興味深かったのは、BP、シェル、エクソンという石油の世界3大メジャーのCI作業を全て引き受けた上に、シェルとエクソンについては70年代初頭という同時期に、並行作業でこなしていたという点だ。業務経験的にいえば、こういう作業は、プロデューサー的に関わるのなら可能だが、アート・ディレクター的に関わるのは極めて難しい。そう思ってみると、CI・VIのみならず、パッケージやインダストリアル・デザインでも、競合関係の作業を難なく同時にこなしている例は多い。
多分、この「プロデューサー的な関わり方」というところに、ローウィのスゴさやオリジナリティーがあることに気付いた。そう思ってみると、彼の作品は決して「自ら時代を切り開く尖鋭性」があるわけではなく、どちらかというと、誰もが夢見ていた時代の雰囲気を見事にカタチにしたものが多い。同様に、まず初めに「ローウィー・ウェイ」の表現法があり、その流儀や話法に従って作品があるのではなく、時代の流儀や話法を取り入れるのが非常にウマい。
つまり、デザインで名を残しているヒトではあるが、エッジなクリエーターではなく、プロデューサーとして評価すべきヒトであることを発見させてくれたワケであり、小さい展覧会ではあるが得たものは大きい。これは決して悪い意味ではなく、それだけ仕事のスケールや発想が大きいという意味である。そういう意味では、ビッグビジネスとしての「デザイン・ビジネス」の創始者と位置付けるべきヒトだ。それでこそ、アメリカンドリームの体現者たりうるだろう。



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