Gallery of the Week-Jul.04●

(2004/07/30)



7/5w
デザインによる解決 -Suica改札機のわずかな傾き
デザインギャラリー1953 銀座

8Fの鉄道模型ショーに連動したわけではないのだろうが、7Fのデザインギャラリーは、JR東日本のSuica用自動改札機の開発において、そのマン・マシン・インタフェースとしての受信部をどうデザインし、どう使いやすいモノにしていったか、という軌跡を振り返る展示だ。非接触型ICカードの持つ技術的限界を、デザインのパワーでどう克服したか。開発のプロセスを振り返って見せる。
人間の動きには習性があり、また慣れやクセもある。そんな中で、自然に「タッチ・アンド・ゴー」してしまうようにするにはどうしたらいいか。技術面を限界まで煮詰めてからは、実用化できるかできないかは、そこにかかっていた。数種類のテスト用モデルを用い、実証実験をくりかえす中から、今のジャンプ台型のデザインが決まるまでを、モックアップと資料で展示している。
今の時代、どうにも技術先行か、机上のデザイン先行か、どちらかが突出するプロダクトがあまりにも多い。たとえば、携帯電話を見ても、技術を詰め込みすぎて、多機能になりすぎ、マニュアルがないと時刻修正もできないような機種があったり、デザインに凝りすぎてキーのストロークが浅くなり、ポケットに入れると勝手に入力されたり、電話をかけちゃったりする機種があったりする。
かつては、もっと技術とデザインが相互に連携し、使いいいデザインのために新しい技術が開発されたり、技術的に解決できないブレークスルーをデザインが補完したり、といったケースがたくさんあったように思う。そういう意味では、久々に、クリエーティブな製品を創るための原点を再確認できたような気がする。



7/4w
世紀の祭典 万国博覧会の美術
東京国立博物館 上野

開幕までもう一年を割っている愛知万博協賛企画として開催された、「万博」をキーワードにした美術展。内容的には、江戸幕府や薩摩藩が、日本から初めて公式参加した1867年のパリ万博から、20世紀の開幕を目前にした1900年のパリ万博まで、日本政府の公式パビリオンに日本から出展された「作品」を中心に、各万国博の会場の美術展で展示された、ヨーロッパの絵画や、ゆかりのある作品と共に展示している。
この時期の万博での日本の展示は、ジャポニズムの真っ盛りということもあり、欧米への主要な輸出品であった工芸品が中心となっている。この時期は、日本においても伝統技術であった金属加工や漆加工から、近代の「工芸」が確立する時期にも当たっており、そのプロセスをめぐる「洋の東西でのインタラクション」のあとがみてとれる。
実は、このテーマは、2003年の11月に東京芸術大学大学美術館でおこなわれた「工芸の世紀 明治の置物から現代のアートまで」の明治期の内容と、オーバーラップする部分が非常に多い。事実、展示されている作品も、その多くが件の展覧会でも展示されていたものである。しいて違いをいうなら、「工芸の世紀」が日本側の事情だけを、日本の資料でなぞっていたモノが、今回は、ヨーロッパサイドの様子も含めて紹介されているところと、今回の展示が、万博というあくまでも政府主体のイベントにスポットを当てているところだろうか。
特に、政治のあり方が反映されている点は別の意味で面白い。初期においては、日本の伝統や文化に強い自信を持ち、それを前面に押し出していたものが、段々と西欧列強の論理や秩序の中で、いかに日本を位置付け、プレゼンスを作るか、という視点に変ってくる流れが、展示の中からも見てとれる。これはちょうど、武士としての教育を受けた層が政治の主体であり、江戸時代の倫理や徳の流れを汲んでいた19世紀日本が衰退し、大衆社会としての20世紀日本が立ち上がるプロセスとシンクロしている。まあ、そんなことはさておき、平成館得意の「てんこ盛り攻撃」で、こってりと作り込んだ工芸品がこれでもかこれでもかと迫ってくる様は、見ていて損はない気がする。



7/3w
2004 ADC展
ギンザ・グラフィック・ギャラリー、クリエイションギャラリーG8 銀座

広告界の活気を見るのには、企業の広告費の伸長や、広告会社の売上や利益の動向など、いろいろな経済指標があるが、そういう定量指標よりも、どういう作品がその年に生まれているのかを見るのが、ある意味ではいちばんわかりやすく、アタっている。活きがよく、新しいアイディアあふれる表現が生まれていれば、間違いなく定量指標もついてくる。そもそも広告界とはそういうモノなのだ。
そういう意味では、ADC展は、広告界の天気予報のようなモノでもある。それだけに毎年楽しみなのだが、今年のADC展は、まさに昨今の底打ちを反映するかのように、ここ数年にない勢いが感じられる。デザインの持つコミュニケーションパワーが、評価され開花している感じがあふれている。
さて、そんな中で気付いたのは、キチンとアカウント・プランニング的な問題意識を踏まえたアートディレクションが目立っている点だ。最近では、そういう視点からのソリューションをビルトインした作品を創れるアートディレクターが増えているのも確かだが、グラフィックデザイン的によく、なおかつ、広告としてもいい、という高次元なバランス感覚は、アドマンからすると、とても好感が持てる。
ただし、こういう作品は、絵面の良し悪しだけでなく、提供しているソリューションの良し悪しという、もう一つの評価軸が加わってしまい、そこで肌合いがあうか合わないかという、違う視点が生まれてしまうのも確かだ。実際作品を見てゆくと、この人とは合うだろうな、合わないだろうな、というのは、はっきり分かれてしまっていいるが、それも悪いことではないのだろう。



7/2w
ブラジル:ボディー・ノスタルジア "9人の作家による現代美術展"
東京国立近代美術館 竹橋

ブラジルだよ、ブラジル。鬼も出てくる、蛇も出てくる。何が起こってもオカシくはない人外魔境(笑)。未来世紀ブラジルなんてのもあったし。これ、インドでもメキシコでもサマにならないぞ。「何でもあり」といえば、アジアならフィリピンだ。どちらにしろ、何にもないがゆえに、失うモノもなにもなく、結果何でもありと、いう開き直りがパワーの秘密だ。
しかし、なんせブラジルはスケールが違う。いわば、何でもありだけで「大国」化してしまったのだから、恐いものはない。そもそも、その存在自体がシュールでアバンギャルドとさえいえるような、西欧近代文明とは別の世界に存在しているだけに、その中でアートを主張するとはいったいどういうモノなのだろう。そんなブラジルの現代美術を集めて紹介するという企画展と来ては、これは行かざるを得ない。
こちらも不勉強だったが、ブラジルのアートや文化のキーワードとして、「身体」というものがある。そりゃそうだ。全て失っても、身一つだけあるから開き直れる。そういえば、サッカーも身一つあればプレイできるスポーツだし、なるほど納得できるものがある。底知れぬエネルギーの秘密ここにあり、というものだろうか。
とにかく、どれもインパクトが充分。見たことも聞いたこともないような刺激とでもいおうか、化外の地ならではの、ボーダーラインも何も平気で乗り越えてしまう勢いにあふれている。おどろおどろしさも、心なしかハッピーになるほどだ。スラムとか扱っても、正義感とか、公正さとか、変な社会的主張がみじんも感じられず、ムズかしいこと全然なし。ひたすら現状肯定的なイメージが、先立って伝わってくるのが何ともいい。こうでなきゃ、人間は生き残れないよ。



7/1w
Water Falls-落ちる水- 十文字美信作品展
資生堂ギャラリー 銀座

広告写真で活躍するとともに、日本の美を捉えた独自の世界をもつ作品で知られる写真家十文字美信氏の、「滝」をテーマにしたインスタレーション。滝の写真と瀑音を組合せ、資生堂ギャラリーを滝壷に変えてしまう。まさに、ギャラリー自体が一つの作品となって迫ってくる。
会場の構造を活かし、4面の壁の全面をフルに使い、震動の滝、華厳の滝、鵜の子の滝、称名の滝の写真を、マルチ画面で展開。それぞれに合わせて、マルチスピーカーで滝の音を流す。動画でもないし、カラーでさえないのだが、動的なダイナミズムさえ伝わってくる。
実験的な試みとしては、かなり成功しているといえるのではないか。もっとも、ちょうど雨が激しく降っている日に行ったので、これがプラスに働いた感じもする。ここのところなぜか多い、例年の東京では余り見られないようなピーカンだったら、またイメージも違ったかもしれない。蒸し暑い外部に比べて、まさに滝のそばのような涼しげな感じさえした。



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