Gallery of the Week-Sep.04●

(2004/11/26)



11/4w
大 水木しげる展
江戸東京博物館 両国

日本のマンガ史に異彩を放つ、孤高の天才水木しげる氏の生涯を、荒俣宏氏・京極夏彦氏のプロデュースで振り返る企画展。基本的に、水木氏自身が描いた自叙伝マンガをベースに、少年時代の画帳から、人気マンガ作品まで要所要所に現物を配置して半生を見せる構成。息子が「鬼太郎」の大ファンなので、ガキと一緒に見に行く。こういうパターンは、このコーナー3回目ぐらいか。
入るといきなり水木氏の蝋人形がお出迎えし、オリジナル書き下ろしの「人生絵巻」がそこに続く。けっこう密度が濃いので、このあたりが一番混雑している。混雑ついでに客層をみると、30代、40代が中心で、子供連れも多く、けっこうこの手の会場にしては異質な感じ。やはり「鬼太郎」世代が中心ということだろうか。
この世代の漫画家同様、天才少年画家だった少年時代。妖怪にみせられたルーツが、少年時代に聞いた語りべの老婆の話にあること。など今まで余り知らなかった事実や、「ゲゲゲの鬼太郎」でブレイクする前の、紙芝居、貸本マンガ時代の、戦争モノや時代劇など多様な作品群など、けっこう新鮮な資料も多くおもしろい。
こうやってみると、鬼太郎アニメの平成シリーズ後半のエンディングテーマの歌詞「オバケにゃちょっと住みにくい時代さ」ではないが、やはり妖怪がいられたのは、街の外れにも暗がりがあった昭和の高度成長期まで、という気がしてならない。そういう意味では、客層同様「鬼太郎世代」のヒトならとても楽しめる展示だ。



11/3w
ベラルド・コレクション 流行するポップアート
Bunkamura ザ・ミュージアム 渋谷

さて、今週は久々の「普通」の展覧会。有料の(笑)。ポルトガル有数の資産家で、現代美術の世界的コレクターとして知られるベラルド家の現代美術コレクションから、アメリカの代表的なポップアートアーティストの作品と、陰に陽にそこから大きな影響を受けた、ヨーロッパのアーティスト達の作品を集め、20世紀後半における「ポップアート」の意味と影響を振り返る。ポルトガルというと、何もない国というイメージが強いが、そういう国の常として、スゴい金持ちがいるんだ、と改めて実感。
さて、アメリカのアーティスト達の作品は、「らしくて大きい」のが大集合。ザ・ミュージアムは、天井高はあるモノの、それほど床スペースが広いわけではないので、大型の作品を並べると密度感がスゴくなってしまうが、逆に今回のようなポップアート作品だと、ゴールデンエイジのニューヨーク・タイムズ・スクエアみたいなモノで、妙にシナジー効果が出てくる。これは、意外な発見。やはり、ポップアートというのが生まれた裏には、アメリカンカルチャーの存在が切り離せなく存在していると実感。
一方、ヨーロッパの作家のそれは、手法やモチーフ、コンテクストなど、共通点はあるものの、アメリカにおけるような意味でのポップな作品ではない。そりゃ階級社会で大衆社会じゃないんだから、ある意味で、浮いた存在になっちゃうし、アメリカ社会でポップアートが問う意味は持ち得ないんだろうな、と実感。せいぜいイギリスなら、ある程度までアメリカと共通する存在感を持ち得るけど、他はポップじゃなくてオルタナティブでしかない。そういう意味では、日本というのはホントに大衆社会なんだ、と感じさせてくれる。日本とアメリカだけだね。こういうのって。
それにしても、このタイトル。何とかならないモノか。「逆行する蝋人形館」じゃないんだからさ(笑)。まあ一旦展示を見てしまえば、いいたいことはわからないワケではないけど、タイトルってこれから見ようというヒトに、どれだけアピーリングかというのがポイントなんだから。原題の「POP ART & Co.」ってのが、なかなかヨーロッパ的(というよりイギリス的だけど)なウィットが利いてただけに、チト物足りなし。



11/2w
北井一夫 「時代と写真のカタチ」展
ガーディアン・ガーデン クリエーションギャラリーG8 銀座

各界のベテラン・第一人者にスポットを当て、その足跡を振り返る「タイム・トンネル」シリーズ。その第20回目は、写真家の北井一夫氏の作品展。独特の写風を持ったドキュメンタリー構成で知られる北井氏の代表的な作品シリーズを、オリジナルプリントで構成する。
北井氏といえば、「当たり前のものを当たり前に撮る」のがそのスタイルだが、実はこれは非常に難しいことだ。不確定性原理ではないが、そもそも撮るときには「写真家の存在」という非日常的なものが介入してしまうワケで、その空間自体が「当たり前」ではなくなっている。さらに、当たり前のモノであればあるほど、画像としてのインパクトは薄くなる。当然、評論家はいろいろいいやすくなるワケで、外野のノイズも多くなる。
ところが「当たり前のもの」自体が、時代と共に変ってゆく。いつまでも当たり前のものなどない。ある時代に「当たり前」だったことこそが、時代が変れば「その時代に特異な」ことになる。まさに時により熟成されてこそ、この手の写真は価値を増す。そういう意味では、70年代、80年代を歴史として捉えられる今だからこそ、新たに気付く意味合いも多い。
そういう意味では、極めて鉄道写真に近いモチベーションを感じた。鉄道写真は、その時代時代の当たり前を、当たり前のまま切り取ることが前提になる。実は、大上段に構え、大見えを切ったショットよりも、そういう当たり前をフィルムに定着させたカットほど、あとで価値が出てくる。SLが廃止されて以降、なんでぼくが「撮り」に対する熱意が起きなくなったのか。なんかそんなことまで考えさせてくれた。



11/1w
都会蝶 関洋写真展
銀座教会東京福音会センター 銀座

昆虫の写真家として知られている関洋氏が、「都心部で見られる蝶」をテーマに追いかけた写真展。東京と神戸の都心で撮影した写真を集めている。登場する蝶も、いかにもいそうな、モンシロチョウやシジミチョウだけでなく、各種のアゲハやタテハチョウ、アサギマダラなんてのまで登場している。都心の自然をよく見ている人なら、飛んでいることは気付いているとは思うが、多くの人にとっては、カット自体が新鮮なモノに映るかもしれない。
実際、ぼくらみたいな都会育ちで、60年代の東京の自然の状態からよく知っている者にとっては、80年代以降、東京都心部の自然はかなり戻ってきていることを実感している。ぼくらの子供のころは、チョウやトンボも余り見られなかったし、それ以前に野鳥も少ないし、川はドブのようにガスが湧いていたりという状態だったので、普通のアゲハだけでなく、アオスジアゲハやカラスアゲハなども頻繁に見かける昨今は、とても環境がよくなってきた、と感じている。
ところが、なかなかそういう目で環境を見る人は少ない。都会には、都会で育った人より、都会に出てきた人のほうが多く、そういう人は、生まれ育った故郷の様子と、都会の環境を比べるからだ。そういう意味では、とてもいい視点を提示してくれていると思う。新聞で取り上げられたとのことで、なかなか反響も多いと言っていた。都心はヒトが思うより自然に富んでいる。そういうコトバがそこここで聞かれるようになるとうれしいのだが。



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