Gallery of the Week-Sep.06●

(2006/09/29)



9/5w
リール近代美術館所蔵 ピカソとモディリアーニの時代
Bunkamura ザ・ミュージアム 渋谷

キュビスム革命以降、20世紀初頭のパリでは、新しい絵画運動や表現様式が生まれ、その中から現代美術の基本型が形成されてきた。フランスのリール近代美術館のモダン・アート・コレクションは、そのような20世紀初頭のパリ画壇の作品を中心としてうる。その中からモディリアーニ、ピカソをはじめ、ブラック、レジェ、カンディンスキーといった、ビッグネームの作品を集めた企画展。
リール近代美術館のコレクションは、20世紀初頭のコレクターロジェ・デュティユールによる収集品を基礎としている。同氏は、伝説の画商カンワイラーとも親しく、流派に関らず、斬新な作品を発見しては購入していた。まさに、リアルタイムのコレクターの眼を通したチョイスというところにポイントがある。
歴史というのは、後づけならどのようにも整理がつく。しかし、激動、混乱のさなかにあったヒトが、リアルタイムでどのように見、感じたものは、後から理論的にまとめられた定説とは明らかに違うはずだ。そういう意味では、20世紀の美術を語るべき体系ができる前に、萌芽的動き、実験的動きも含めて、同時代人がどう捉えていたのか、という視点は、今となってはなかなか辿ることが難しい。
その点、このコレクションは、20世紀美術が誕生しようというその時に、一人のコレクターの審美眼にしたがって選ばれたもの、ということで、まさにタイムカプセルのような意味がある。まさに、いろいろな流儀を持つアーティストの、いろいろな作風を持つ作品が集められている。その中から、どうやらこのあたりが、当時の先鋭的な目利きからみた「絵画」のエッジの領域なんだろうな、というものがおぼろげに浮かんでくる。個々の作品以上に、このあたりが醍醐味というところだろうか。



9/4w
女たちの銀座 稲越功一の視点+銀座の歴史展
ハウス・オブ・シセイドウ 銀座

「ハウス・オブ・シセイドウ」と「資生堂ギャラリー」の連動で開催される企画展、「女たちの銀座」。その後半戦(といっても約一ヶ月はオーバーラップして開催されるが)も相当する、ハウス・オブ・シセイドウで開催される写真展である。資生堂ギャラリーの「女たちの視点」が、銀座に勤める女性たち「の」撮った写真を集めたものだったのに対し、今回の「女たちの銀座」は、銀座に勤める女性たち「を」撮った写真展である。
80年代のアイドル全盛期の写真集の数々をはじめ、ポートレートで知られる稲越氏だけに、キレイにキマッている写真の中に、仕事や人生の経験やノウハウまで写し込んだ作品は、なるほど戦前から女性が働いてきた街である銀座ならではの奥行きを感じさせる。しかし、それ以上に深いのが写真につけられたキャプションである。
基本的に「あなたと銀座との出会い」「あなたにとって銀座とは」という2問だけなのだが、これが極めて本質をついている。これだけの人数が集まると、それなりに、銀座という街の持っている、「全国区」と「ローカル」という二面性がくっきりと現れてくるから面白い。
「銀座の歴史展」は、繁華街としての銀座の発展史と、文化発信における資生堂の直接・間接の貢献を振り返る。銀座という繁華街は、江戸時代から脈々と続く伝統があるが、それが今の銀座の全てのルーツではない。東京・銀座・資生堂というコピーは、銀座という街のイメージに資生堂がのっかったのではなく、資生堂が銀座という街に新しい付加価値を与えた歴史的な証しである。まさに、世界の高級ブランドショップが競って店を出す街としての銀座は、後者の伝統の上にあることは間違いない。



9/3w
ポスト・デジグラフィー
東京都写真美術館 恵比寿

写真や映画と並んで、ディジタルの画像や映像にも力を入れてきた東京都写真美術館が、「ディジタルコンテンツの歴史」にスポットをあてた企画展。コンピュータアートが出現した1960年代に始まり、コンピュータグラフィックスが大ブームとなった80年代、そしてあらゆる映像・画像がディジタルになってしまった現代まで、その流れを振り返ることで、「ディジタルのこれから」を考える。
商品にプロダクトライフサイクルがあるように、表現手段にもライフサイクルがある。新しい素材が登場すると、それをどう表現に使うべきか、という試行錯誤が繰り広げられるとともに、その新鮮な質感だけで見るヒトを惹きつけブームが起きる。しかし、そのうち誰もが使う定番の手法となるとともに、目くらませ効果はなくなり、いつしか数ある手法の一つとして、伝統の中に溶け込んでしまう。
リトグラフが出てきたときもそうだったろうし、アクリル絵の具が出てきたときもそうだったろう。そして、ディジタルもまた、登場から30年以上を経て、もっともあたり前の表現手段となった今、それがコモディティー化する歴史を振り返ってみることは意味がある。
コンピュータグラフィックスやコンピュータアートの登場当時、いろいろな実験的作品が作られた。心あるヒトは、その多くが手法の可能性を示すための「習作」であるコトを見抜いていたが、表面的な色や質感の面白さを持って「作品」としてもてはやしたヒトもいた。終わってみればなんとやら、ではないが、後づけでみれば、あらためてその差がはっきりと見えてくる。けっきょく、手法で表現内容そのものが変わるワケではないことが改めて理解できる。



9/2w
Graphic Wave 2006 SCHOOL OF DESIGN
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

中堅デザイナーが共同で作品を企画・発表するグループ展である、ギンザ・グラフィック・ギャラリーのGraphic Waveシリーズ。 1996年からスタートし、11回目を迎える2006年は、古平正義氏、平林奈緒美氏、水野学氏、山田英二氏の4人による共同展である。
メインテーマは、4人のデザイナーが「School of Design」というデザインの教科書をつくるコトで、デザインの考え方を問い直し、自らのデザイン観や姿勢をアピールして行こうというモノである。同時に、各人の最近の代表作を「Graphic Wave11」というカタチで展示する。
「School of Design」については、確かにアイディアはすばらしいし、個々のアートワークの出来もいいのだが、なんか気負いすぎというか、力み過ぎ・考え過ぎという感もなきにしもあらず。それぞれの作品には、デザイン作業のツボを示す英語のコピーがついているのだが、それを読まないと、メッセージが伝わってこないのだ。
「デザインの力」を示すのであれば、いい作品である以上に、ビジュアルだけからメッセージが伝わってこなくてはいけないと思うのだが、このへんはちと残念な気も。そういう意味では、近作展のほうが、メッセージは伝わってきますよ。



9/1w
メーク×モード ビューティーの時代展
ハウス・オブ・シセイドウ 銀座

20世紀を通して、日本の美を創造し発信してきた資生堂の広告活動を通して、各時代の化粧とファッションの流れを見せる企画展。その中でも、特に広告キャンペーンが活発になった、1950年代以降の広告作品をベースに、その中に表現された「メークとモード」を振り返る。
日本人の生活や文化、風俗といった面においては、1967年から72年にかけての5年間の間に、大きな転換点があったというのは、いろいろなところで語られている定説である。確かに、ここに並ぶ広告作品を見ても、あらっぽく言えば、60年代までと、70年代からの間に、明確な不連続性がある。60年代までは、ある意味では戦前からの延長上にあり、そのトレンドが戦争を挟んで復活し、ある種の高みに達したプロセス、と見ることができる。
その一方で70年代以降は、テクニック的な変化こそあるモノの、発想や目のつけ所という面においては、明らかに一貫性がある。こういう分野では、「戦前vs.戦後」ではなく、「高度成長までと、それ以降」という二分法の方が余程有効である。これを見ていて気付いたのだが、実は、70年代以降というのは、日本で現代大衆文化が定着し、そのストックが蓄積される過程だったのだ。
60年代までの資生堂の広告は、戦前の広告がそうであったように、明らかにハイ・ブロウな層をターゲットとしている。付加価値志向の高い化粧品においては、「上」をターゲットとし、上昇志向のフォロワーを集めるのが有効だったのだ。当時はそれが文化であり、蓄積され伝統となったものも多いであろう。しかし、70年代以降の文化は、大衆が直接、自分の身の丈で担い手となるものになった。
当初においては、大衆の文化にはストックがない。当然、0からの蓄積となる。しかし、それから20年たち、30年たち、蓄積されたモノが、根を張り、花を開かせているのが、現代の文化なのだ。そういう意味では、連続性があって当然である。各時代のメイクを、現代風にアレンジしたモノも紹介されるが、60年代以前のそれは、現代のリバイバルルックに見える一方、70年代以降のそれは、今あるバリエーションの一つにしか見えないというのも、この構造を反映しているのであろう。



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