Gallery of the Week-Dec.07●

(2007/12/21)



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文学の触覚
東京都写真美術館 恵比寿

今年の年末から来年の年始にかけては、正月休みの期間が、ちょうど週末から週末の一週間分に当たっているので、ちょっとイレギュラーではあるが、第三週から年末進行。>Gallery of the Weekも、2週分まとめて、今年の千秋楽とさせていただく。ということで、安易といえば安易だが、続けて東京都写真美術館のイベント、「文学の触覚」である。
この企画展は、東京都写真美術館が、映像メディアのアート&テクノロジーを対象に展開する、「映像工夫館展」の一環として行われるものであり、純文学とメディアアートとの接点に焦点を当てたものであるという。文化庁支援というので、ちょっとヤな気はしたのだが、案の定、なんとも中途半端な印象である。
そもそも、文学作品もそれ自体がメディアであり、ビジュアルイメージとして我々に伝わってくるものである。エディトリアルデザインに関わったことがあるヒトなら、そんなことぐらい常識以前。テキストのべた打ちであっても、フォント、級数、レイアウトをはじめ、どういう紙質かまで含めて、文学作品としての価値の一部である。
やはりこれは、「メディアアート」を自称する側に、本来切り離せないはずの「表現内容」と「表現技術」を分けて考えようとする、20年ぐらい前の、メディアアートが出始めの頃の悪弊がまだまだ残っているということなのだろうか。とはいえ、アーティストの側には、そういう残滓はないと思うので、やはりこれは文化支援で既成事実を作りたい官庁と、その利権を握っていたい一部のヒトの成せるワザということだろうか。



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土田ヒロミのニッポン
東京都写真美術館 恵比寿

「写真の時代」1960年代から活躍する写真家、土田ヒロミ氏のライフワークともいえるテーマを、東京都写真美術館のコレクションを中心に振り返る個展である。全体は、「Part1 日本人」「Part2 ヒロシマ三部作」という作者ならではのテーマに加えて、今回の個展のために、これまたライフワークとして撮影したセルフポートレートを編集したインスタレーション、「Part3 Dailyセルフポートレート」を加えた三部構成となっている。
土田ヒロミ氏といえば、なんといっても日本人の大衆の心のふるさととでもいうべき、土俗的な信仰や文化をテーマとした作品が思い浮かべられる。この同じテーマを追い続けた作品で構成されるのが、「Part1 日本人」だ。旧来の土俗的な信仰や文化のカタチは、1980年代まで細々と生きながらえていた。このコーナーの前半では、その姿をドキュメンタリーのように追う。しかし、それはバブル期の到来と共にパタリと断ち切られてしまう。
だが、面白いのはこれからである。旧来の土俗的なカタチこそ消えたものの、大衆のココロはにある土俗的なものは決して消えてはいなかった。1990年代以降、作者のカメラアイは、「消え行く土俗的なカタチ」ではなく、「力強く受け継がれる土俗的なココロ」をとらえる方に向かう。まさに、親から「農村共同体」的なマインドを受け継いだ「団塊Jr.世代」が、社会人となるのと軌を一にするように。
そういう「現実をあるがまま見つめるマインド」は、「Part2 ヒロシマ三部作」にも発揮される。ヒロシマというテーマも、もう、何度写真家によって作品化されたかわからない。しかし彼の手にかかると、遺品の時計のように8月6日8時15分でときが止まってしまったヒロシマではなく、今の時代の中に生きているヒロシマが見えてくる。
そういう中でも、「Part3 Dailyセルフポートレート」は、相当に面白い。1986年以来、毎朝撮り続けているセルフポートレートを、コマ撮りとしてつなげて動画化し、映像作品としたものである。そもそも記録された画像がなくては作れない作品だし、静止画をを一つの動画としてつなげるだけでも大変なのに、連続映像となっているというのは、それだけでもスゴい。その上に、変わっているところ、変わっていないところ、という変化がちゃんとストーリーになっているというのだから面白い。まさに、一生に一度しか作れない作品。これぞ、ライフワークというにふさわしいだろう。



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青葉益輝ワン・マン・ショー AOBASHOW
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

1960年代から、広告・ポスターを中心に活躍してきたベテランデザイナー、青葉益輝氏の世界を満載した個展である。1Fは、氏のライフワークでもとなっている「環境と平和」をテーマにしたオリジナルポスターの展示。BFは、長年創作し続けてきた膨大な数のオブジェやドローイングと、美大でのデザイン教材として作られたタイポグラフィーにより、アーティストとしての青葉ワールドを展開している。
通常、「環境」とか「平和」とか声高に叫ぶと、デザインまで主張に引きずられて、輝きを失い、見るヒトに抵抗感さえ与える作品となってしまうことが多い。しかし、青葉氏の一連の作品には、主張はあるものの、そういう「臭さ」はない。それは、なにより主張そのもの以上に、ビジュアル作品としての「活き」を大事にしているからだろう。
ゴミや廃棄物などを題材にした作品でも、その汚さ、醜さではなく、そのカタチの面白さやユニークさに着目し、それを活かす作品作りをする。本来は排除されるべき存在であっても、作品の中では、愛敬がありいとおしささえ感じさせるカタチとなっている。これは青葉氏が、なにより「モノのカタチ」にコダわり、その持ち味を活かす、いわば意匠家とでも言うべき才能の持ち主だからだ。これこそ、デザインの力と呼ぶべきモノではないだろうか。



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ムンク展
国立西洋美術館 上野

今月もまた、とっかかりはちょっと傾向を変えて、国立西洋美術館。行かないワケではないが、前は通るものの、あまり入るチャンスがない美術館でもある。今回も、実はガキがムンク展に行きたがったので、一緒に行ったのだ。うちのガキは、「ゲゲゲの鬼太郎」とか妖気あふれる世界が好きなのだが、ムンクの世界はそういう子供にもアピールするということだろう。
ムンクというと、日本では妙に人気が高いが、ガキも知っているように、基本的には「叫び」に代表される怪奇でおどろおどろしい作風を持つ、「世紀末」の画家というイメージが強い。確かに、それも彼の一面ではあるが、もう少し美術に詳しいヒトには、オスロ大学講堂の壁画に代表されるような、大型の装飾画の作者としても名高い。
今回の企画展は、その装飾画家としての側面にスポットライトを当て、装飾的な組画であるフリーズとして作品を展示している。そうやってみると、確かにムンクの作品は、単独で、かつ、近寄ってみるものではなく、集合で、離れたところから見ることで、本来の輝きを発揮するものであることがよくわかる。独特の色使いや粗いタッチも、こうやってみることで、そのワケが見えてくる。
それだけでなく、彼自身のモチーフは強烈にあるものの、時代や顧客を反映したカタチで、多彩な作品を生み出せる画家であったことも発見できる。生きた国や時代が違い、20世紀後半の日本で活躍したなら、ムンクは漫画家になっていたかもしれない。そのあたりの感じもまた、彼が日本で高い人気を誇る理由なのだろう。



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