Gallery of the Week-Sep.10●

(2010/09/17)



9/3w
石上純也展 建築はどこまで小さく、あるいは、どこまで大きくひろがっていくのだろうか?
資生堂ギャラリー 銀座

石上純也氏は、国内外で最も注目されている日本の建築家の一人であり、既成概念にとらわれない自由な発想で新しい建築のカタチを追求していることで知られている。その世界観を集大成した作品集の本を、来年出版予定である。この展覧会は、そこに収録予定の作品か主要なもの約60を選び、模型で展示している。
しかし今回のように数々のプランを、「記号化した模型」で展示するというのは、わかりやすいことはわかりやすいが、果してベストな方法だったかというと、いささかの疑問が残る。まず、もともとのプランがコンセプチュアルな場合、カタチになり切らない部分がどうしてもある。あくまでも「抽象的」なイメージは、具体的な模型では表せないからだ。結果、「見た印象」のほうが、そこにこめられていたはずのアイディアより強くアピールしてしまう。
もう一つは、全然違う景色のジオラマでも同じ作者が作ったものはすぐわかるように、模型には「作風」があり、一人の作者が数を作ると、その共通点の方が浮き上がってきてしまう点だ。元々のイメージがかなり違うものでも、並べているうちに共通点の方が浮き立ってくる。全体としてのトナリティーは明確になるのだが、それぞれのインパクトは埋没しがちになる。
キュレーションの「習作」というか、試みの展示という意味では、なにか夏休みの工作の宿題展示のような感じで、ユニークで面白いと思うが、元来の石上氏の世界を表現する意味では、ちょっと物足りないかもしれない。もともと、資生堂ギャラリーの空間の中には入り切らないスケールの発想なのだから。



9/2w
プッシュピン・パラダイム
シーモア・クワスト/ポール・デイヴィス/ミルトン・グレイザー/ジェームズ・マクミラン
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

1960年代から1970年代への移行期は、全世界的に大衆文化のあり方が大きく変貌した時代であった。映画、音楽、演劇、ファッションをはじめとして、あらゆるムーブメントが、それまでのトップダウン型のメジャー主導から、ボトムアップ型のポップカルチャー主導へと転換した。そんな中で、世界のグラフィックデザインをリードし、80年代・90年代へと繋がる流れに大きい影響を与えたのが、ニューヨークのデザインスタジオ、プッシュピンの出身者たちである。
今回は、そんな時代のプッシュピンを代表するアートディレクター・デザイナー・イラストレーターであるシーモア・クワスト/ポール・デイヴィス/ミルトン・グレイザー/ジェームズ・マクミランの四人にスポットライトを当て、プッシュピンで試行した方法論をどう広げ世界観を築いていったのか、200点あまりの作品から振り返る。
当時の日本の状況からして、そのベースとなった「プッシュピン」の名は知らなくても、シーモア・クワスト/ポール・デイヴィス/ミルトン・グレイザー/ジェームズ・マクミランの4人の名前は、当時の最先端を追いかけていたヒトたちにはおなじみだろう。いや、そこまで時代を追いかけていなくても、彼らの主要な作品は、当時の時代感覚をリアルタイムで体験した人なら、記憶に残っているものも一つや二つではないだろう。
それどころか、当時の日本のデザイナーが、彼らの作品をパクって作ったグラフィック作品なら、それこそ腐るほど見かけているはずだ。近世以降の美術史を全て吸収し、独自の方法論へと再構築していった彼ら。その表層だけを捉え、カタチをなぞることで、自分が時代の寵児でいる気分になった、日本のフォロワーたち。彼岸と此岸、その距離感の違いは果たして40年間で埋まったのだろうか。1970年といえば大阪万博の年。そう考えると、決して上海万博を笑い飛ばすことはできないだろう。



9/1w
私を見て! ヌードのポートレイト
東京都写真美術館 恵比寿

今年の東京都写真美術館の館蔵コレクション展は、「ポートレイト」をテーマとして構成されている。5月〜7月にかけて行われた第一弾「侍と私−ポートレイトが語る初期写真−」に続くシリーズ第二弾として、ヌードにスポットライトを当てた「私を見て! ヌードのポートレイト」が、8月〜10月にかけて開催されている。写真の歴史と共に存在してきた被写体である「ヌード」を通して、写真の進歩、表現の広がりを見て行く企画である。
全体は、4部構成になっている。まず、写真が発明された頃、まだ絵画においてもタブーが強かったヌードに、どう写真が取り組んでいったかをみる、第1章「邂逅(かいこう)」。芸術としてのヌードの確立を承けて、絵画のような芸術的作品へのトライアルを振り返る第2章「表現」。とりわけヌードで撮影されることの多かった家族写真を通して、私的な作品表現ヘの志向を読み取る、第3章「家族」。そして、セルフヌードに代表される、被写体の人間性を純粋に写し取る手法としてのヌードを考える、第4章「自己(アイデンティティー)」である。
一般に写真作品は、技法や手法、被写体やそのバックなど、一つの画面の中にいろいろな情報が含まれているので、特にインフォメーションがなくても、作品の制作時期を推定するのは、関心のある者にとっては、比較的たやすい。ところが、スタジオで白バックで撮影したヌード、それもオーソドックスなポーズをオーソドックスな構図でキメたものとなると、モデルの化粧法や髪型ぐらいしか判断材料がないのだ。
ノーメイクで、ナチュラルな髪型だったりすると、お手上げである。短髪で筋骨隆々とした男性ヌードでも、やはり同様なことは起こる。今回の出展作品の中にも、制作年代がわからず、解説を見てびっくり、というようなものがいくつかあった。ある意味、この「情報量のミニマル性」も、ヌード写真という表現の一つの特徴であることに気付いたことも、今回の発見の一つであった。



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