Gallery of the Week-Dec.10●

(2010/12/17)




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警視庁カメラマンが撮った昭和モダンの情景 石川光陽写真展
旧新橋停車場「鉄道歴史展示室」 新橋

石川光陽は、警視庁のカメラマンとして東京大空襲を記録したことから、「空襲カメラマン」として知られている。公式記録を撮影することが職務だった彼は、昭和初期の街の様子を記録した、スナップショットも数多く残している。彼の作品は、現在「昭和館」の所蔵となっている。今回の展覧会は、その1万点あまりのコレクションから、街と乗り物にスポットライトを当てて選んだ80点で構成される写真展である。
日常の風景や状況の忠実な記録というのは、実は極めて難しい。今でこそ、画像や映像を撮ることは、極めてベタで日常的なモノとなってしまったが、かつての日本では、カメラを向けること自体が「ハレ」の行為で、たちまち「カメラ目線」のポーズになってしまうのが当たり前だった。今でも、開発途上国とかにいけば、そういうノリを味わうことができる。
だから、戦前の日常を切り取った写真というのは、非常に貴重な記録である。警視庁の公式カメラマンという職業意識が、ある意味、作為を入れない忠実な記録をもたらしたのかもしれないが、写真作品としての魅力と、記録としてのナチュラルさを併せ持つその作風は、まるでその時代にわれわれを連れ戻して行くかのような気分にさせる。
その最大の理由は、「実は、人々はそれほど変化していない」というところにあるのではないだろうか。今回展示された作品は、昭和ヒトケタから戦後の昭和30年代初頭までに撮影されたモノである。しかし、それらは人々の生活や風俗という視点からは、リニアに一体化している。戦前のシーンも、ぼくらが覚えている昭和30年代と、それほど大きな違いはない。最近でこそ、戦後の「懺悔史観」の裏返しで、戦前と戦後の連続性が強調されるようになったが、何を今更、日本の庶民は何も変わっちゃいないのだ。改めてその事実を感じさせてくれる。



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「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」
サントリー美術館 六本木

18世紀後半の江戸といえば、町人文化の花が開き、浮世絵では歌麿、写楽、戯作では山東京伝、狂歌では大田南畝など、一世を風靡し、今に名を残すビッグネームが登場する。このブームを仕掛けた江戸文化のプロデューサーといえるのが、それらの版元となった蔦屋重三郎である。
生まれ育った吉原の人気上昇を当て込んだ、今流に言えば、吉原のカタログ・ガイドブックといえる「吉原細見」の大ヒットにより出版界でのポジションを築いたのち、風俗を反映した本や浮世絵の発行により、次々とヒットを繰り出し、江戸の流行の最前線を創り出した。
全体は第1章 蔦重とは何者か?――江戸文化の名プロデューサー、第2章 蔦重を生んだ〈吉原〉――江戸文化の発信地、第3章 美人画の革命児・歌麿――美人大首絵の誕生、第4章 写楽“発見”――江戸歌舞伎の世界、という4部から構成され、蔦屋発行の書籍や浮世絵版画のみならず、関係深い浮世絵師の肉筆画や、関連資料も展示されている。
浮世絵ファン、歌舞伎ファン、江戸文化ファンなど、幅広い層にアピールする内容だけに、閑散時でもかなりの客入りがあり、蔦重の見立てが200年を経た今でも充分通じることを感じさせる。そういう意味では、パロディーやギャグ満載の黄表紙本など、今に通じる日本の大衆文化の原点を感じさせ、明治維新も、太平洋戦争の敗戦も、決して庶民のマインドを変えるものではなかったことを、あらためて感じさせる。



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幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷 展
INAXギャラリー 京橋

実は、ちょっと前に告知をみて、妙に興味を感じたので、始まったらぜひ見に行ってみたいと思っていた展覧会である。そもそも不勉強なもので、松浦武四郎については、ほとんど予備知識がなかった(幕末期に、アイヌ民族にシンパシーを持って蝦夷地の探検をした探検家がいた、という事実は知っていたが、それがこの松浦武四郎ということは行ってみて初めて知った)。
松浦武四郎は、幕末から明治にかけて多面的に活躍した、冒険家であり、文章と絵画に優れた著述家であり、各地の様々な文物にたけた博物学者であり、多くの著名人との交流もった文化人であった。そして、その生き様は、終の棲家として建てた「一畳敷」に象徴されている。
各地の社寺や名跡の部材を元に作られた、たった一畳の書斎である「一畳敷」。それは、今も国際基督教大学のキャンパスの中に現存しているという。今回の展覧会は、原寸大の壁面写真のパネルで再現した「一畳敷」を中心に、松浦武四郎の業績を、コンパクトに振り返る企画展である。
幕末というと、維新の志士たちの活躍ばかり注目されがちだが、いろいろな分野で、新しい時代を迎えるにふさわしい活躍をした人たちがいた。そして、そういう一人一人が、極めてスケールの大きな発想をしていた。その深さと広さがあったからこそ、明治に入って文明開化が実現した。その事実を、あらためて感じさせてくれる。



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生誕百年 映画監督 黒澤明
東京国立近代美術館フィルムセンター 京橋

日本を代表する名監督として、世界的な評価を受ける黒澤明の生誕百周年を記念した、上映会と展覧会を組み合わせたイベント。監督を務めた全31作品の紹介と、整然の愛用品や撮影資料、関連コレクションなどで構成する。会場の特質もあり、ポイントを押え、コンパクトにまとまった回顧展となっている。
黒沢監督が、優れた映像作家であり、独自の世界を持った監督であることは間違いないが、「映画ビジネス」視点から見た場合に、どういう評価になるかという問題については、いろいろな見方があり得る。映像表現としての評価と、エンタテイメントとしての評価は、必ずしも一致しないからだ。
今回のように、通史的に振り返ることで、そのような問題も、現代の視点から過去を評価するようなことなく、時系列的に捉えられるのが面白い。昭和30年代の邦画黄金時代を支えたブロック・ブッキング方式については、功罪両面がある。しかし、映画史に残る黒沢作品を制作できたという意味では、明らかにプラスだったであろう。
駄作も多く生み出したが、超名作も生み出す原動力となった。そういう何でもありなところこそ、邦画黄金時代の黄金時代たる由縁だろう。黒沢作品の映像芸術的側面を、当時の観客が理解して見ていたとは思えない。それでも、映画館に足を運んで、喜んで見てくれていたというところが、当時の映画界のパワーだったんだ、と言うことがよくわかる。



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