Gallery of the Week-Nov.13●

(2013/11/29)



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チェコの映画ポスター テリー・ポスター・コレクションより
東京国立近代美術館フィルムセンター 京橋

絵本、人形劇、アニメーションなどの分野で独自の文化を誇るチェコは、映画においても中欧の映画大国として、独特な映像文化を生み出してきた。映画ポスターの分野でも、映画そのものの世界や表現を大きく超えた、独自のユニークなイマジネーションを表現したポスター作品が、1960年代以来大きく花開いた。この展覧会は、チェコの映画ポスターミュージアムとして知られるテリー・ポスター・コレクションから、1950年代から80年代にかけての代表的な作品を集めた企画展である。
通常の、20世紀後半の先進国のグラフィックデザインは、わかる人が見れば、どの国のものでもほぼ5年スパンぐらいでなら、時代を読み当てることが可能だ。そのくらい、グローバルレベルで、相互に影響しあって進歩してきたからだ。しかし、このチェコのポスターの文法は、それとは全く違う。もちろん西欧からの手法的な影響は受けているのだが、それは個々バラバラに現れているだけなのだ。
これらはやはり、中欧圏独特の歴史と文化的背景の上に成り立っているのはもちろんだ。しかし、東欧ジャズが、本来のそれとは全く違う独自の世界を築いたように、鉄のカーテンの時代、限られた形で伝わってくる西欧の文化を、受け取ることができた表面的な表現や形式から独自にふくらませ、自分たちのものとしていった歴史も多分に影響しているのであろう。
とにかくイマジネーションの膨らませかたがものスゴいし、情報過多の中で育った我々とは、根本的に違うメッセージを読み取り表現してしまうのだ。この異境性・魔界性こそ、中欧・東欧の魅力だろう。もっともそれは西欧的グローバリズムに「毒された」眼から見ての話であって、当人は至って自然に、真面目にヤっているだけだとは思うのだが。



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日本のデザインミュージアム実現にむけて展
21_21 DESIGN SIGHT 六本木

2007年の開館以来、デザインをキーワードにユニークな企画展を送り続けてきた21_21 DESIGN SIGHTが、これまでに開催した23の企画展をトータルに振り返ることで、21世紀のデザインミュージアムに求められるものを考えるという、一風変わったメタな企画展である。コンセプトやポリシーが一貫した活動を行なってきたがゆえに実現できた企画ということもできるだろう。
デザインがファインアートと大きく異なる点の一つに、作品が作品として絶対的に存在するのではなく、作品の持つ機能性・目的性が常についてまわるという点がある。広告やポスター、エディトリアルなどは、そこで情報を伝えることが目的だし、クルマは移動したり乗って楽しんだりできてはじめてクルマとなる。
そして目的性や機能性は、21世紀の現代においては、送り手ではなく、受け手が決めるべき領域となっている。それは、車を作るメーカーと、利用するユーザーとの間の認識や評価のズレ(メーカーは非日常的なハレの領域を強調したがるが、ユーザーは日々使う道具としての実用性、安全性を求める)が、結局ユーザーが評価した車種しか売れないことからも理解できる。
商業映画や大衆音楽も同様だが、送り手の手を離れてから、受け手の間で新たな価値が生まれてしまうという「匿名性」がデザインにはついてまわる。デザインミュージアムというコトバを聞いたときに、直感的に感じる難しさはこのギャップをどう埋めるかということだろう。いろいろな試みは、今までの企画展の中からも感じられるが、決定的な切り口が示されたわけではない。多分カギは、この対立する矛盾をどう両立させるかというところにあるのだが、なかなか道は遠そうである。



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土屋幸夫展 -美術家、デザイナー、教育者
目黒区美術館 目黒

土屋幸夫氏は、1930年代から日本の現代美術界で活躍してきた画家・アーチストであり、1996年に亡くなるまでの永きにわたり、それぞれの時代のスタイルで作品を発表し続けてきた。またこの世代のアーチストには珍しく、元々デザイン畑の出身であり、広告やパッケージ等のグラフィック・デザインでも多くの業績を残している。
さらに、長く武蔵野美術大学で教鞭をとり、戦後のデザイン教育の基本を作ると共に、若いアーチストに活躍の機会を与えるなど、教育者としての側面でも多くの足跡を残している。この回顧展は、この土屋幸夫氏の持つ三つの横顔にスポットを当て、土屋氏個人が収蔵していた作品を中心に、その生涯を振り返るものである。
この時代の日本の現代美術家の多くがそうであったように、土屋氏も、限られた人生の中で、目まぐるしく新しい表現が生み出される世界の現代美術の波に追いつき追い越せとばかりに、若い頃から色々な表現技法をトライする。それはあたかも、現代美術史を自分の中で再現しているかのようである。しかし、晩年に到達したオリジナルな表現世界は、二次元の絵画ではなく、まさに「カタチ」そのものによる表現であった。
このあたりには、デザイナー出身という氏の真骨頂を感じる。教育者でもあった氏は、最後にこそ高みに達せと身をもって示したのであろうか。なお、この展覧会に関しては、武蔵野美術大学時代に土屋氏から指導を受けた、いわば土屋氏の弟子筋に当るデザイナーの友人からチケットをいただいき、訪問することとなった。この場を借りて改めて彼女にお礼を述べたい。



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"LAS MENINAS RENACEN DE NOCHE" 森村泰昌展 ベラスケス頌:侍女たちは夜に甦る
資生堂ギャラリー 銀座

なりきりセルフポートレートで世界を創り上げる、森村泰昌氏のスタイルは、今や表現形態として確立し、森村チルドレンといえるフォロワーやその手法を進化させたアーチストたちを生み出している。そんな森村氏が、さらなる高みを目指して取り組んだ新作が、この「ベラスケス頌:侍女たちは夜に甦る」である。この展覧会は、日本及びスペインで今年から来年にかけて開催される「日本スペイン交流400周年事業」の一環として行なわれている。
この展覧会というか作品は、17世紀スペイン絵画の巨匠、ディエゴ・ベラスケスの謎の多い名画「ラス・メニーナス」をテーマに、「全8幕の一人芝居」として新たな物語をつくり、それを作品化している。今回の作品では、マドリッドのプラド美術館の実際の展示室を背景に、登場人物の撮影も京都市立芸術大学で特別授業として公開制作するなど。その制作プロセスも含めて表現の一部としている。
氏はすでに、動画による映像作品も発表しているが、静止画像で発表した初期の作品から、時間軸に沿った動きを中に秘めているところに特徴があった。「ラス・メニーナス」自体、絵の中と外で、空間や時間が交錯する不思議な作品であり、その世界観まで含めて、リメイクの対象とし、スケールの大きな世界を創り出している。
もちろん、氏の持ち味である、シリアスにやっても、どこかコミカルなとっつきやすさを感じさせるスタイルは、今回の作品でも共通している。このアタりが、先週のコメントでも触れた、韓国の現代美術と日本の現代美術の一番違う点であろう。ぜひ、今度とも鮮烈なアイディアの作品を送り出し続けてほしいものだ。



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韓国若手写真家4人展 「等身大の韓国写真 2013」
ガーディアン・ガーデン 銀座

90年代からアジア諸国の若手写真家を日本に紹介してきた、ガーディアンガーデンの「アジアンフォトグラフィー」シリーズ。2年ぶりとなるその第8弾は、4度目の韓国写真家を取り上げ、今注目されいてる30代の4人のアーチスト、琴惠元氏、姜在求氏、張晟銀氏、金信旭氏の作品を紹介している。
この15〜20年で、韓国の現代美術は大きく変化してきたが、写真もまた、世界的な流れがそうであるように、現代美術との密接な連携をとりつつ、表現の多様化を進め、より洗練され落ち着きをもった作品を生み出している。四人四様の作風の中から、それらの新しいトレンドをあぶりだす構成となっている。
韓国の現代美術というと、その流れが生まれだした80年代から、独特の内省的で真面目な作風が特徴となっている。その大きな傾向は、今も変わっていないようだ。ともすると、日本の現代美術がポップでちょっとコミカルでさえある方向を狙いがちなのと、際立った対照を示している。もちろん個々の作品や作者はいろいろあるが、多くのアーティストの作品が集まる展覧会全体で見るとこの傾向は顕著である。
ここに集められた四人の作品も、まちがいなくその例に漏れない。とはいえ、どれもグローバルな意味での、現代美術としての同時代性が共有されているのはもちろんである。それに加えて面白いのが、空気感の共通性である。韓国は勧告でグローバルレベルで独自の発展をしているのは間違いないが、それだけ表面のカタチに違いが出ても、そこに漂う空気感がやっぱり日本と似ているのだ。それが写真の端々からわき立っている。その本質がいったい何なのか、大いに興味をそそられるところだ。




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