Gallery of the Week-Feb.14●

(2014/02/28)



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第10回グラフィック「1_WALL」展
ガーディアン・ガーデン 銀座

いつの間にか「1_WALL」展の時期がやってきた。これが季節の変わり目、という感じである。今度は第10回。例によって、2月末から3月がグラフィック、3月末から4月が写真。このところ、そういう傾向が強かったが、今回も「ストロングスタイル」というか、モロ「イラストレーション展」である。
デジタルがベタになってしまった時代だからこそ、原点回帰で「発想と腕」ということなのだろう。主催者側、審査員側の強い意図が、そこには感じられる。毎回書いているが、1980年代から横行し出した、テクノロジーなんとかみたいな「猫騙し」は、習作ではあっても表現作品ではないというスタンスだったので、喜ばしい限りである。
表現できる人は、紙と鉛筆でも(今回はホントにそういう作品があった)、ワークステーションでも、同じように自分のイメージを作品化できる。表現したいイメージや制作環境に合ったものを選べばそれでいいだけである。ここまでくるのにこれだけ年月がかかったのは、技術の発展にかかった時間もさることながら、日本のデザイン界がクラフトの方に寄っていることの弊害も大きいだろう。
それはそれで喜ばしい限りだが、逆にイラストレーション展みたいになってしまい、「壁面を利用したインスタレーション作品」という、「1_WALL」展のオリジナリティーともいえるコンセプトがおろそかになってしまっている感じがするのは、ちょっと寂しいかもしれない。次に狙うべきは、この両立であろうか。



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第8回shiseido art egg 今井俊介展
資生堂ギャラリー 銀座

資生堂ギャラリーの開催する公募展、第8回 shiseido art eggの第二弾は、今井俊介氏の個展である。今回のart eggは、「立体と平面」というのが大きなテーマとなっているが、今井氏の作品もまた、二次元と三次元の垣根を破るべく、新たなチャレンジを行なって生まれてきたものである。
今回の展示は、オリジナルのストライプ柄を組み合わせて作ったデザインの布を用いた立体作品と、その立体作品を描いた大型の絵画作品を組み合わせたインスタレーションである。同じモチーフの絵画作品と立体作品を、同じ空間の中に置くことで、平面性と立体性の意味を問いかける作品となっている。
作品そのものの製作過程を理論的に語ると、「1.色面構成によるデザインで、テキスタイルを作る」、「2.そのテキスタイルを立体的にディスプレイして写生する」ということになる。しかしこれでは、専門学校とかのデザインの実習である。しかし、その「色面構成」が、一般的な単色ではなく、カラーのハッチングになっているというだけで、オリジナリティーと表現力があふれ出してくる。
「コロンブスの卵」といってしまえばそうなのだが、この「0」を「1」にするところにこそ、アートのアートたる由縁がある。デジタルの時代になり、みんなそういう「ひとひねりのフロンティア」は。なくなってしまったと思い込んでいるようだが、どうしてどうしてそんなことはない。みんなが枝葉の部分にコダわりすぎていた分、かえって本質的な部分においしい可能性があふれている。そんなコトまで示唆しているかのような作品である。



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メイド・イン・ジャパン南部鉄器 −伝統から現代まで、400年の歴史−
パナソニック汐留ミュージアム 汐留

江戸時代初期、盛岡南部藩の産業振興策として生まれて以来、岩手に産出する鉄を生かした工芸品として、広く親しまれてきた南部鉄器。その400年の歴史と、現代工芸品としての姿を紹介する展覧会。全体は、第1部 南部鉄器の歴史 その発展と逆境、第2部 南部鉄器の模索・挑戦といま、第3部 現代の生活における南部鉄器、という3部構成となっている。
南部の鉄瓶というと、おなじみの縄文土器のような装飾性の高い「ヤカン」を思い出す。子供の頃、親戚の家などに行くと、火鉢の炭火に上に載っかって、コトコトと湯気を立てていたものである。大体、昭和30年代の子供というのは、高度成長期らしく新しいモノ好きで、伝統的なものには興味をひかれたかったが、なぜかこの南部鉄瓶だけは、子供心にも妙に好きだった。
石炭ストーブや、はたまた蒸気機関車に通じるような、熱い鉄のパワーをどこか感じさせるところがあった点に、心ひかれたのであろうか。しかし、そのようなスタイルが確立したのは、実はそんなに古いことではなく、幕末から明治になり、南部鉄器が人気の工芸品として欧米に輸出されるようになってからであるという事実を知って、驚いたりもする。
その分、歴史的な伝統というより、今に生きる工芸品として、新しいチャレンジが今も続いている。しかし、鉄光する地肌仕上げは、なぜか九州の蒸気機関車の色合いを思い出す一方、漆を焼き付けた黒光りの仕上げは、まさに盛岡や青森といった東北の蒸気機関車の色合いを連想させる。蒸気末期には、東北から九州に転属になったカマも多いが、不思議なことに、使っているうちに段々色合いが東北色から九州色に変わっていく。なぜかそんなことまで思い出してしまった。



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K田菜月展「けはいをひめてる」
ガーディアン・ガーデン 銀座

昨年3月の第8回写真「1_WALL」展で、グランプリを受賞したK田菜月氏の個展。その時の受賞作「水辺の子ども」の方法論をさらに研ぎ澄ました作風で制作した、オリジナル新作展である。K田氏の特徴は、やはりそのナチュラルな作風にある。はやりの「カメラ女子」に通じる、気負いもてらいもない、あるがままに感じたものを画面上にそのまま定着させる作風。それは極めて「横から視線」なところに特徴がある。
写真、特にプロのカメラマンが撮る写真は、記録写真だろうと、報道写真だろうと、芸術写真だろうと、これ見よがしの強い主張を伴う「上から目線」が、その誕生以来特徴となっていた。しかし、こと成熟・安定した社会となった日本では、上から目線ということだけで、人々から受け入れられない環境となっている。「カメラ女子」手金っ視線が評価され受け入れられているのも、そこに理由がある。br> かつて一緒にロケに行ったヴィデオのカメラマンと雑談していて、武器を持った犯人を警察官が逮捕するような現場を撮影するのって恐くないんですか、と聞いたことがある。答えは、丸腰ならビビるけど、カメラを抱えてファインダー越しなら、画面を見るのと一緒で第三者的に見れる、というものだった。昔、雲仙普賢岳でお立ち台で取材していたカメラマンが、軒並み火砕流に飲み込まれて殉職するという事件があった。あれも、ファインダー越しだと気が大きくなるからこそ起こったことだろう。
かつてのカメラは、操作すること自体が難しく特権であった。その時代、撮影者の視線が「上から目線」になってしまうのは、致し方ないことであろう。しかしデジタル化で、キレイな絵は誰でも撮れる時代になった。このような時代においては、一人写真だけが上から目線でいられるワケはない。真の意味で「一億総カメラマン」化した今だからこそ、横から目線のメッセージしか通じないし、共感を呼ばない。実は、デジタルだ銀塩だなどと言う以上に、これが20世紀から21世紀にかけての、写真の一番大きな変化かもしれない。




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