Gallery of the Week-Jun.14●

(2014/06/27)



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葛西優人「Sail to the Moon」
ガーディアン・ガーデン 銀座

昨年の第9回写真「1_WALL」グランプリを「Marginal Man is Dead」で獲得した葛西優人氏の個展が、一年を待たずして開かれた。今回も、受賞作の方法論をさらに進化させた、自らの内面を写真というメディアを通して表現する作品を我々の前に提示してくれる。今回の作品は、前回とは異なり、かなり多くの枚数でたたみかけることで、内面をより饒舌に語ってくる。
写真を写す者としてみると、確かに手段として写真を使用しているものの、表現手法としては、今までの写真になかったやり方である。フォトストーリーのように、写真の組合せで、ここの絵柄とは違う一つのフィクションのストーリーを作る手法はあるが、この場合はストーリーというより、写真の組合せから、もっとぼんやりとしたイメージを作り上げているというべきだろうか。
同じ「言葉」や「文字」と使っていても、小説と和歌は表現手段としては全く異なる。ある意味互換性がない世界である。比較的近いと思われる「詩」と「和歌」でも世界は大きく異なる。それと同じように、同じ写真機材を使い、同じよういnプリントアウトしても、表現としては今までの写真の概念とは大きく異なっている。その可能性が、葛西氏の魅力だろう。
ただ、表現しているものが、人々の間で共有可能なイメージではなく、もっと心の中にあるゴツゴツ・ザラザラした原石的な状態そのままをぶつけてきている分、受け手を選ぶコトは否定できないだろう。ものスゴく強烈に響くヒトと、理解はできるが共感はちょっとというヒトと、はっきり分かれてしまうと思われる。しかし、それを含めて今までにない表現をしたいという意気込みは力強く伝わってくることは間違いない。



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背守り 子どもの魔よけ 展
LIXILギャラリー 京橋

人間の体の構造上、背中は注意を払いきれない急所の一つである。不意打ちは、背中の方からやってくるというのは、いわば常識である。それだけに、自分の身を自分で守らなくてはならなかったいにしえの人間にとっては、安全を守るために、一段と神の加護が必要となる部位でもあった。このため、江戸時代から昭和の初期にかけては、子供の背中も魔よけとして「背守り」をつけていたという。
この展覧会は、そんなかつての背守りのついた、江戸時代から大正時代にかけての子供の着物を中心に、同様に子供に対する縁起物として広く親しまれた、「百徳着物」「守り袋」「迷子札」ども含め、広く現物のコレクションを展示している。当時は布が基調だったため、子供の着物は古くなった大人の着物の布地を再利用したものが多く、子供着トしての使用後は、さらに布巾・雑巾などとして利用されたため、子供着のまま残存しているものは少なく、その意味でも民俗資料として基調である。
未就学児童が「着物」の子供着を着ているのは、地方の農村地帯に行けば、昭和30年代ぐらいまでは日常的に見ることができた。ぼく自身も、田舎に行くとそういう子供がいたことは覚えている。しかし、背守りのような風習は、昭和初年で途切れてしまっていたようだ。こういう習慣があったことは、今回初めて知った。
こういう習俗が、1920年代まで残っていたということは、そのあたりまで、江戸時代からほとんど生活パターンが変わらなかったヒトたちがそれなりにいたということに他ならない。政治や経済が変わっても、人々の生活はそう簡単には変わらない。当然のコトなのだが、ついつい忘れられてしまいそうなこの原点を、ここにある資料は、力強く語ってくれる。生活の歴史に興味がある人にとっては、極めて意義深い展覧会である。。



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中村誠の資生堂 美人を創る
資生堂ギャラリー 銀座

中村誠氏は、1950年代にかけて資生堂のスタッフ・アートディレクター、宣伝部長として活躍し、高度成長期からバブル期にかけての資生堂のデザインと広告を創り上げてきた。特に、山名文夫氏の跡を継ぐような形で、資生堂のデザインアイデンティティーやコーポレートイメージを、伝統と格調を踏まえつつ、今に通じる現代的なモノへとブラッシュアップした存在感は大きなものがある。
この展覧会は、そんな中村誠氏の資生堂での活躍の数々を、グラフィックデザイン作品を通して振り返る企画展である。そういう意味では、資生堂ギャラリーとしてはちょっと異色の企画展であり、ワンブロック離れた「ギンザ・グラフィック・ギャラリー」とか、資生堂でいえば、かつて旧本社ビルの中にあった「 House of Shiseido」とかでの展覧会を思わせる。
個人的な印象になるが、中村氏の活躍した時代は、ぼくにとっては物心がつき始めてから、この業界内で働いている時代までとシンクロしている。中村氏自身が、子供時代に山名文夫氏がデザインした資生堂のポスターを見て、デザインの道に進むことを志したエピソードが語られているが、まさに子供心に外側から広告を見ていた頃から、実際に「中のヒト」となって広告を作る側に廻ったときまでの想い出がよみがえってくる。
それにしても、アナログ時代は、今ならコンピュータ上でピッピッと数秒でできてしまう作業も、恐るべき手間とコストをかけてやっていたものだ。より完成度の高いクラフトを作りこんだ作品にしたいという欲求と、バジェットや締め切りとの鬩ぎ合いが、必要最低限にえして最高の効果があるレタッチを生み出していた。アナログ時代を経験した人は、このバランスセンスが身についているのが大きいんだと、あらためて実感した次第である。



6/1w
赤松陽構造と映画タイトルデザインの世界
東京国立近代美術館フィルムセンター 京橋

映画のイメージを人々に印象付ける上で、題字やタイトルデザインが与える影響は大きい。監督によっては、この部分に大いなるこだわりを持ち、並々ならぬアイディアをエネルギーを投入することも珍しくはない。そんな映画タイトルデザインの日本における歴史と、現代のタイトルデザインの第一人者である赤松陽構造の業績にスポットライトを当てた企画展である。
映画の題字やクレジットタイトルのデザインも、広い意味で言えばタイポグラフィーの一種だし、そのルーツやベースになったものは共通している。しかし、その表現技術面での違いから、特に戦後はタイトルデザインは、かなり独自の蜜を進んできた。それは、手書きで作ったテロップを、アナログエフェクトを駆使したコマ撮りでアニメーション化するという、極めて手作り的要素が強い製作プロセスがもたらしてものである。
80年代の前半には、テレビの仕事に関わっていたことがあるが、その時代、すでに番組制作の基本は16mmフィルムではなくVTRになっていたが、タイトルのテロップなどは、専門のデザイナーが、レタリングの手法を駆使して、手書きで作っていた。ポスターなどの印刷原稿でも、オリンピック前の昭和30年代頃までは、手書きのレタリングで文字を入れたものも多かったが、70年代にはすでに極めて特殊な効果を求めるとき以外は使われなくなっており、驚いた記憶がある。これもまた、映画業界から引き継がれたレガシーだったのだろう。
ここまで独自表現としての伝統が確立してしまうと、デジタル化しても、その表現手法を受け継ぐことになる。ちょうど、アニメーションが製作プロセスこをデジタル化しても、表現手法は手書き時代に確立・発展したものを踏襲しているようなものである。その現代化のプロセスは、ATGから出発し、一連の北野武監督作品など、多くのヒット作・話題作のデザインを手がけた赤松陽構造氏の業績を通して見ることができるようになっている。




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