Gallery of the Week-Apr.15●

(2015/04/24)



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TDC展 2015
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

今年も、春恒例のTDC展。しかし、今回の出展作は、かなり顕著に傾向が違う。まず、入選作に海外の作品が非常に多いのだ。総応募作品が3,004点。そのうち国内が2,002点、海外が1,002点、すなわち2:1という比率からすると、入賞作の半数が海外作品というのは、やはり目立っている。そして、それらは皆ユーロピアン・プラクティスの作品である。
また、作品の傾向もこの数年とは違ってきている。今まで多かった「タイポグラフィーの枠自体を超えてゆこうという」作品より、オーソドックスなタイポグラフィー枠内で、フロンティアの可能性を探求してゆくタイプの作品が主流になってきている。実はこの両者は、同じコトの裏返しでもある。
東アジア系の文字に比して、アルファベットは抽象度が高くて冗長性がないため、あまりぶっ飛んでしまうと識別性がなくなり、文字として読めなくなってしまう。漢字とかなら、かなりぶっ飛んだデザイン処理をしても文字として成り立つので、大胆な発想を取り入れやすいが、アルファベットはかなりミクロな方向に可能性を追求するしかない。
けっきょく、その背後にあるのはデジタル化が行き着くとろまで行ってしまったということだろう。ある意味、デジタル化による目くらましが効いていたときには、それを大胆に取り入れられるアジア系の文字のデザインの方が親和性が高いし、面白いものが出来る。しかし、人々がそれに飽きてしまい、またミクロな方に関心が向かい出すと、やはりヨーロッパ勢の伝統が生きてくる。これもまた、ポストデジタルの原点回帰ということができるだろう。



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椿会展 2015 -初心-
資生堂ギャラリー 銀座

資生堂ギャラリーを代表する、70年近い歴史を持つグループ展の「椿会展」。現在は第七次椿会として、「初心」というサブタイトルの元、2013年から赤瀬川原平氏、畠山直哉氏、内藤礼氏、伊藤存氏、青木陵子氏の5名によるグループ展が継続しており、本年はその第3回となっている。昨年の10月にメンバーの赤瀬川原平氏が逝去したため、新たなメンバーとして、ダンサーの島地保武が加わった。なお、赤瀬川氏は今後も既存作品により、椿会展には参加するという。
「初心」というサブタイトルの通り、敢えて統一テーマや統一コンセプトの元に一つのインスタレーションを制作して発表するのではなく、それぞれの芸風、得意ワザが引き立つ作品を持ち寄るという、グループ展の原点のような展示は、かえって新鮮に感じる。特に最近の資生堂ギャラリーは、飛び道具とでも呼べるような、異次元インスタレーションが多いだけに、まさにギャラリーとしても「初心」という感じである。
そういう意味では、ともするとバラバラになりそうな個々の展示に対し、ダンサーというパフォーマンス系のアーティストを加えるというアイディアは、全体の統一感を生み出す上ではなかなか興味を惹かれる。実際にライブパフォーマンスを見たわけではないが、なかなか期待させるものがある。会期が終わるまでに、どういうケミストリが起こるのか楽しみである。
赤瀬川氏の逝去は本当に残念であり、ひとつの時代の境目を感じさせた。特に、偽札事件の裁判自体をパフォーミングアートにしてしまった風刺センスは、トマソン同様、江戸の風流に通じる稀有なアート感覚であった。しかし余談だが、赤瀬川氏のように「目を吊り上げ口角泡を飛ばす官憲を、斜に構えたギャグ感覚で笑い飛ばす」ノリは、見事に「3Dまんこ」の「ろくでなし子氏」が受け継いだ感がある。警察も、皮肉な意味で「粋」なことをやってくれるもんだ。



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生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村
サントリー美術館 六本木

正徳6年(1716)は、尾形光琳が没するとともに、伊藤若冲と与謝蕪村という江戸中期を代表する絵師が誕生した年である。来年がその300周年となるのを記念し、この二人の天才的なアーティストの足跡を、両者が活躍した京都の画壇での関係性も含めて、比較しながら総合的に振り返る回顧展である。個人蔵の作品を大量に集めて展示しているのも特徴である。
全体は、第1章 京都ルネッサンス、第2章 出発:40歳まで、第3章 画風の確立:40代から50代にかけて、第4章 新たな表現への挑戦、第5章 中国・朝鮮絵画からの影響、第6章 若冲・蕪村クロスロード:交差する交友関係、第7章 翁の時代という7つの章からなり、時間軸に沿った形で構成されている。若冲と蕪村両者の作品のみならず、その背景や関連のある作品も含めて広く展示されている。
両者が生きた時代は、江戸時代最初の文化的繁栄を享受した元禄時代が終わった時点から、田沼時代が寛政の改革により終わるまでという、まさに江戸文化中興の時代である。特に両者とも当時としては比較的高齢になってから、画壇でその名前を確立したこともあり、その活躍の中心は、江戸では蔦屋重三郎が世界に誇る洒落文化を築いた田沼時代ということになる。
これは日本において、まさに世界でもはじめて、貴族ではなく町人層が支持基盤となった大衆文化が花開いた時期である。世界的に見ても嚆矢といえる、パトロンに支えられた貴族文化ではなく、大衆マーケットに支えられた大衆文化。この両者の作風は、商業アートのさきがけとも言える。そういう意味では、伊藤若冲は、具象的な題材を図案化・記号化する、グラフィックデザインの祖といえるし、与謝蕪村は、動物や森羅万象を擬人化することで表情をつける、漫画の祖ということができるというのが、今回の発見であった。



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第12回グラフィック「1_WALL」展
ガーディアン・ガーデン 銀座

暖かい風とともにやってくる、恒例の春の「1_WALL」展。今年もグラフィック展から開幕した。会場に入るなり、今年の選考基準は、例年とはかなり違っていることが伝わってくる。この数年は、特にグラフィック部門では、新しい表現手段とオーソドックスな心象とを、いかにバランスさせるかというのがかなり前面に出てきていた。
今年も広い意味ではそういうコンセプトの延長上にあるのだが、手段の部分が、グラフィックの枠を飛び越えて、工芸作品的な世界に入ってしまっている作品が並んでいるのが特徴である。それらは、決して現代的だったりデジタル的だったりするワケではなく、どちらかというとトラディッショナルな工芸的味わいなのだが、今までにない手段で、今までも共有されてきた心象をどう表現するかという意味では、共通した問題意識といえるかもしれない。
ただその分、全体的によく言えば実験的、悪く言えば荒削りで習作的な作品になっている。ある意味、CGとか出始めの頃、このテクノロシーで一体何ができるのかという好奇心で、皆が習作を作りまくっていた時の感じとちょっと似ているかもしれない。その分、じこまんぞくてきになり伝わらないという問題もあるのだが。
ただ、新しい表現を生み出すには、リスクを恐れずいろいろトライすることが大事だし、それを応援する仕組みがあってはじめて、そこから何かが生まれ出てくるというのも事実である。もはやデジタルにフロンティアはなく、新たなフロンティア自体を捜し求める時代に入ってきた証だと考えれば、これはこれで意味があるのだろう。




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