Gallery of the Week-Jan.99

(1999/01/29)



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「ボイチェフ・プラジモフスキ展」
ストライプハウス美術館 渋谷

それにしても、暗く、重い。ロシアのアートや音楽に代表されるような、東欧や北欧の持つ「暗さ」は、そのまま地続きにアジア的な深みに通じるのでぼくは大好きだし、それだからこそ興味があって行ったのだが、この重苦しさは何なのだ。それは、やはりポーランドというバックグラウンドに求められるべきであろう。
自虐的に自分を傷つけ、痛めつけ、流れる血と痛みを常に感じていなくては、自分のアイデンティティーを確認できない。常におそいかかる異民族の侵略の脅威の中で、自己の存在を守ってきた歴史がそうさせているのだろう。まるでリストカッターが、自らを傷つけることの中に自分の存在を確認できるように。
多分、それが民族の証しでありアイデンティティーであるということなのだろうが、 海峡を越えてやってきた流れ者であるわれわれ日本人にとっては、もっとも直感的に理解できない感情でもある。もちろん大西洋を渡ってきた流れ者たるアメリカ人にも理解しがたいモノだろう。しかし、そこがまた、日本人やアメリカ人が世界で疎まれる理由でもあるとは思うのだが。
しかし、今月は全部写真展だね。一月は企画展は不作だけど、結果的にそうなったのでした。おもしろい。

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「写真芸術の時代」大正期の都市散策者たち
渋谷区立松涛美術館 渋谷

「写真芸術」という雑誌を舞台に活躍した、大正時代の文化人写真家たちの撮影した、日本やヨーロッパの街角や風景をとらえた作品の特集展。写真と共に生まれた「印象派」からの表現技法のフィードバックや、当時海外で試みられていた最新の写真表現技法へのトライなど、その時代背景を感じさせてくれる作品が並ぶ。それだけなら単なる習作で終わってしまうはずだが、それ以上の何かを感じさせてくれる作品も多い。それはなにより、写真には作者の意図を超えて「写ってしまう」モノが多いからだ。80年近い年月は、作者の意図的な作画表現以上に、時代を切り取ったスナップとしての存在感を強調する。関東大震災で江戸以来の伝統が断絶する前の東京の写真などは、その典型的な例だろう。さらに、作者たちの視線の魅力だ。キャプションを読まなくとも、浅草は浅草と、京都は京都と、今の風景しか知らないものにとってもきちんとわかる視点になっている。これは、都市の持つ日本的な魅力を、十二分に理解していてはじめてできる表現だ。
それは彼らが、いわば大正デモクラシー期の風流人ともいえる存在だったからだろう。明治期に生まれ、まだ江戸時代の風情を片隅に残していた、大正期の都市に活きた。その心は、欧米の文化や最新情報に深い造形を持つとともに、江戸時代以来の風雅の心も忘れてはいなかった。これが、単なる習作や文化人の道楽を超えて、作品の中に今も訴えかける命を与えることになった。そして、そのような「粋」な風情を理解できない人達が増えていったとき、日本は侵略戦争への道をまっしぐらに進むことになったともいえるのではないか。


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「ジェフ・バートン展」
Take Ishii Gallery 大塚

まったく予備知識をもっていないアーチストだが、なんか呼ぶモノがあったので行ってみた。アメリカの若手写真アーチストで、ポルノ映画のスチル・カメラマンが本業という。で、作品はというと、そんなプロフィールとは全然別の面で大いに考えさせられるものがあった。それは、アメリカって何かということ。彼の作品は、どれを取っても、いろんな意味でアメリカしている。それを肯定するとか、否定するとか、そういうスタンスの問題以前に、アメリカたらんとしているのだ。これを見ていて気がついた。そう、アメリカというのは、アメリカ「である」んじゃなくて、アメリカ「になる」んだと。一人一人が主体的に求心力を働かして、アメリカごっこをやってはじめて、アメリカはアメリカたりうる。これは強みでもあるし、弱みでもある。アメリカたるものでいたいと思う人がいさえすれば、アメリカはブラックホールよろしくそれを呑み込んでゆく。しかし、実はそこに実体があるわけではないのだ。まさに文化という面で、それを強く感じさせてくれる作品だった。
話は変わるが、このギャラリーのある大塚駅北口というのは、昭和30年代以来東京で生まれ育ったぼくにして、今回はじめて降り立ったところだ。しかしこの街に漂う、空虚感、無力感はなんなんだろう。まるで産業衰退・人口減少にさいなまれる、地方の中堅都市のようではないか。東京にもこういうところがあるんだ。少なからぬ驚きがあった。


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今週は正月休みにつき、一回休みとします。



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