Gallery of the Week-Apr.99

(1999/04/30)



4/5w
超感覚ミュージアム M.C.エッシャー生誕100年に捧げる
銀座松屋 銀座
これまたいわゆるアートとはちと違う面もあるけど、こういうだまし絵的なものは決して嫌いではないので、見に行ってきた。トリックアートの作家達のコンピレーション展。この手のモノは、眼の錯覚というような原理をむき出しにせず、どれだけウィットでつつんで作品にできるかが、よりアート的な評価につながる。
そういう意味では流石エッシャーは、単にトリックの面白さだけでなく、思わず見ている人をなごませ、ニタりとさせるような味がある。これがないと全然つまらない。しかし集められた作品をみてゆくと面白いことに気付いた。ローテク、アナログな作品ほど、こういうウィットにあふれている。その一方でハイテクアート的な作品は、単に仕掛けを見せているだけで、全く面白さが感じられない。
それはこの手の作品にもっともたいせつな、「こういう風になったら、面白いだろうな」という夢が感じられないからだ。それは、ハイテクなものほど夢から作品作りがスタートするのではなく、こういうことが技術的にできる、というところからスタートするからだろう。こういうプロセスでは、いくら凝って作ってみたところでワクワクするような作品にはならない。ハイテクアート一般の持つつまらなさも、これでその理由がわかった気がする。
そういえば、技術的に進みすぎた最近のコンピュータゲームがつまらないのもそのせいだろう。昔のコンピュータは画像や音声の技術に限界がある分、ゲームデザインそのものに凝って勝負せざるをえなかった。その分、ボードゲームやパズルとしても充分面白く、好奇心をくすぐる、ハマりやすいゲームが多く生まれた。しかし、今は絵柄とか音から入っていくので、ゲームコンストラクション自体はおろそかになってしまうからだ。
人間の感覚というものはけっこうするどいので、こういうめくらまし的なものはすぐに飽きてしまう。その時評価されるのは、作品以前のコンセプトやイメージのはっきりした作品だけだ。ハヤリものに便乗するのも人の性だが、とかくテクノロジ絡みのところでは、この落とし穴にハマらないように気をつけなくてはならないことを、今一度感じさせてくれた。



4/4w
悠久の大インカ展
三越美術館 新宿

今週はちと美術とは趣が違うけど、ペルーの南米先住民の考古展。インカとなってるけど、スペイン侵略までの間アンデスに開花した多様な文明の代表的な遺物を、網羅的に集大成している。といっても、部族国家のような小単位の文化が、紀元前から数千年に渡って続いてきているだけに、かなりのバラエティーがある。
アンデスものはけっこう好きなので、ワリとよく見に行っているが、そのたびにいつも思うことがある。それはデザインの発想とかとらえかたに、中国古代の青銅器、日本の縄文土器と、何か似たものを感じてしまう点だ。個々の意匠や絵柄は違うのだが、発想というか、まとめかたというか、なぜか相互に思い起こさせるところがある。その後の戦国以降の中国の意匠や、弥生時代以降の日本の意匠とは、それらは明らかに違うのだが、横のつながりの方を強く感じる。
確かに縄文人とアメリカ大陸の原住民は、どちらも古モンゴロイドに分類されており、そういう近似性もあるのかもしれない。そう考えると、中国大陸の古代文明のにない手も、今の中国大陸の住民とは違う、古モンゴロイド系の人々だったのかもしれない。どちらにしろ、東アジアの新石器〜青銅器時代に共通する何かを持っている分、妙になごみ感が湧くということもいえるだろう。
しかしいつも思うのだが、三越美術館の展覧会のネーミング、なんとかならないのかね。これじゃ、催事場の企画だよ。まあ、ここもなくなっちゃうんだろうからどうでもいいけど、ある種の姿勢が感じられちゃうよね。まったく。


4/3w
交錯する流れ MoMA現代美術コレクション展
原美術館 北品川

ニューヨーク現代美術館の所蔵する著名現代作家の作品の中から、ジャンルを問わず三十余点紹介する展覧会。基本的に、この10〜20年の間、いわば20世紀の第四・四半期の作品を集めている。各々名の知れた作家の作品であり、MoMAのコレクションとして選ばれたいることもあって、ひとつひとつの作品についてみるなら、それなりに重みはあるモノの、展覧会自体から伝わってくるモノは至って希薄だ。
ある面でそれは、今の現代美術をコンピレーションして見せようとする以上、不可避なモノかもしれない。テーマも、表現形式も、モチベーションも、拡がるだけ拡がってしまったのが、20世紀末の現代美術の状況だ。どういうくくりかたをしようと、もともとくくりようがなく散漫なものは、エントロピーを減らしようがない。その状況を素直に見せることが、今の美術界の姿を正しくとらえることになるのは間違いがないのだろうが。
しかしこの後何十年か経った後の美術ファンたちは、この状況をどうとらえるのだろうか。時代を越えて価値を持ち続ける作品もあるだろうし、時代のメルクマールとして歴史的遺物としてとらえるべき作品もあるだろう。一人のアーチストの中での動機付けや手法によりそれは変化するし、同じようなメッセージ性を持っていても命を持ち続けるものと標本としてしか残らないモノもある。すでに、この作品における「活き」の差は、わかるヒトにはワクワク感の差として感じられているという気もかなりするのだが。
しかし、原美術館って庭の半分がマンションになっちゃうのね。いろんな状況を考えると仕方ない気もするけど、なんか寂しいね。


4/2w
20世紀静物画の展開
東京ステーションギャラリー 東京

今週はまた、ぼくの得意なドメインからするといちばん遠いところ。アメリカ人の作品が中心だが、正統的なアメリカ美術自体、神経症になりそうであんまり得意ではない。静物画というのも、抽象的に描いても具象性から完全に自由というわけではないのでこれまた得意ではない。しかしたまには、不得手な分野にあえて挑戦するのも、新しい発見につながるもの。というわけで、覗いてみた。
でもやっぱりよくわからない。見てても伝わってくるものがないからだ。なんかあるのかなと思って深読みしてみるのだが、それでもわからない。それがこれだけ物量で迫ってくるとなると、こりゃわからないのがホントなんじゃないかを思うようになってくる。そもそも、もともと何かを伝えようと思ってはいないんじゃないか。そう思えば、それなりに納得するところがある。
音楽でいえば、打ち上げの席とか、酒のはいったブルースセッションみたいなもの。気楽にさくさくとノリで奏き切ってしまう。流れで奏いてるからメッセージも何もないけど、手癖だけは出てる、みたいな。その分、その作者の得意技はよく見える。どうやって描いてるかというプロセスもよくわかる。これはこれで楽しみ方はありそうだ、という気がしてきた。まあ、中にはそれなりに気合いのはいってる作品ももちろんあるんだけどね。


4/1w
明和電機百貨展
小田急美術館 新宿

特に好きなわけではないけど、それなりには気になる人達。明和電機というとそんな感じで、あんまり積極的にフォローしたりはしてないんだけど、ちと見に行ってみました。会期末が近いということもあるのかもしれないが、普通この手の展示では余り人のいない時間に行ったにも関わらず、けっこう人がはいってる。それも老若男女いろんな人が。これにはちょっと驚き。
で、感じたこと。やっぱり、この人達パフォーマンスの人だよね。作品を作るってプロセス自体がパフォーマンス。多分、作品が目的じゃないんだろうと思う。それなりに思い入れやこだわりはあるとは思うけど、行為そのものの方がずっと表現として強い。自分達だけでパフォーマンス表現になっているというか。
はっきりいって「作品」だけ見せられても、全部剥製が並べられてる動物園みたいで、アーティストの展覧会としては物足りない。でも発想を変えて、そんな展示に喜んできているお客さんを、パフォーマンス作品の演目として考えると、これはこれで皮肉が効いててけっこうイケるかもしれない。小沢健二の音楽みたいというか(笑)。これじゃまた「オマエの発想だ」とかいわれそうだけど。でも、「裸の王様を陰から笑う」って好きなんだよね。シチュエーションとして。
でもまあ、もの作りというか、本当に工作が好きな人だということは作品を近くで見るとよくわかります。アルミの切断面の処理とか(爆)。元模型少年・工作少年としては、そっちの方が共感したりしてネ。


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