Gallery of the Week-Jun.99

(1999/07/30)



7/4w
サンフランシスコ近代美術館展
伊勢丹美術館 新宿
アメリカを代表する近・現代美術の殿堂の一つ、サンフランシスコ近代美術館のコレクションの中から、アメリカ、それも西海岸、カリフォルニアを拠点として活躍してきた作家を中心に、アメリカ美術の20世紀を振り返る展覧会。今回は余り予備知識なしで行ってみた。地下鉄から表を歩かずにアプローチできるのが、梅雨明け後、強烈な日射と猛暑の続く中では魅力的でヒヨったというのが実情というところか。
そもそもアメリカって本音と建て前というか、表と裏というか、いろんな意味で外見と内実とずれがある。日本から見えているアメリカは明らかに外見だし、日本人の多くがアメリカにビジネスや観光で行って体験するアメリカもまた外見でしかない。それはアメリカが自分自身の中に、グローバルスタンダードとローカルルールを内在、共存させているからだ。アメリカ人にとってのアメリカとは、あくまでもローカルルールでしかない。これはアメリカの田舎で生活してみるとよくわかるのだが。
アメリカ行って、地方の一流ホテルのワインリストを見るといい。圧倒的にドメスティックワインが偉そうにリストに並んでいる。もちろん次のページにフランスワインもあるのだが、モンダビとかの方がずっとイバってる(笑)。ニューヨークなんかの高級レストラントとは違うのだ。当然美術界でも同じことがある。現代美術においては、アメリカの美術シーン自体がメインストリーム的なところもあって、どうしてもそっちの「グローバルスタンダード」に目が行くが、どうしてどうして、ローカルルールも実は盛んなのだ。
たぶん、そっちの方が絵としても売れてるし、ニーズも高いのだろう。今回のコンピレーションは、そっちの「ローカルルール」中心なのが面白かった。わかりやすいし、ストレートだし、どうにもアメリカ的な作品が並んでいる。ぼく自身は好きなトーンではないが、いわゆる現代美術らしい作品と比べたときのコントラストが面白い。それにしても、会場に入ったときの空気の臭いには笑ってしまった。アメリカ製品のパッケージを開けたときの、あの「アメリカの臭い」がしてるのだから。できすぎだよ。


7/4w
「生まれかわった法隆寺宝物館」展
東京国立博物館 上野
ぼくが法隆寺マニアなのは知る人ぞ知るところ。その由来はさておき、本物の(笑)法隆寺にも十回ぐらい行っているし、東博の旧法隆寺宝物館にも数回いったことがある。この旧宝物館というのがスゴくて、収蔵物の保護のため毎週木曜日のみの開館、それも雨天閉館という、まさに秘宝中の秘宝という趣。そういうワケで展示されている法隆寺献納宝物は、御物なども含めて、一部の布の残欠を除けば一度はみているのだが、やはり気になるのがマニアというもの。早速見に行った。
しかし、この新しい法隆寺宝物館は一体なんだ。今世紀最後のモダニズム。よみがえるバウハウスの亡霊。おいおい1930年代の万博パビリオンじゃないんだから(笑)。でも根強いよね、モダニズム。まあ、東博は本館が帝冠様式の典型的な作品として、20世紀日本の建築の生きた見本になっていることを考えれば、これまた20世紀日本で大人気だったモダニズム建築をコレクションに加えたと考えればいいか。でもこの時代錯誤感はほとんどパロディーだぞ。まったく。
とはいうものの、中に入ると展示スタイルはなかなか良し。従来の博物館のイメージとは一線を画する、見せるディスプレイになっている。専用のハコにしては動線設計がちとマズいかなという気もするが、小金銅仏を部屋いっぱいつかって大きく見せる手法などまずまず。国立の施設としては、中はなかなかよろしい。もっとも民間の施設はもっと先行ってるんだけど。
しかし、これならいっそのこと法隆寺東京別院をつくちゃったほうがよいのではという気もする。もちろん宗教施設を国が国費で作るわけには行かないのだが、せっかくの仏像や仏具も、単に見せ物にしてるだけじゃかわいそうな気もするし。実際、仏像とか拝んでるお年寄りとかけっこういるんだよね。


7/3w
ロシア国立東洋美術館所蔵
首藤コレクション 幻の日本画名品展
そごう美術館 横浜
数奇な運命を経て、ロシアの美術館のコレクションとなっていた日本画個人コレクションの里帰り展。現在ロシア国立東洋美術館に収められているコレクションは、旧満州で一代で実業家として成功した首藤定氏が、私設美術館を作ろうとはじめた日本画および東洋美術のコレクションが元になっており、そのなかで近世以降の日本画の流れを一覧できるような作品選びとなっている。コンパクトにまとまっており、ある意味ではとっつきやすい。
とくに手書きの浮世絵は、集める方もリキがはいっていたのかなかなかの充実ぶり。このコレクションをソ連側が引き取るきっかけになったのが浮世絵コレクションというのもわかる。
元が個人コレクションということがあって、収集作品の選定にはかなり首藤氏の趣味が反映されており、必ずしも各アーティストの代表的作風といえないモノもあるが、それがかえって各作家の画風を対照させる結果となっている。今に伝わる戦前の実業家の個人コレクションは、戦後財団や公共美術館化されており、ある種一般的・平均的なコレクション化しているモノが多い中、元来の個人コレクションの姿を伝えるモノとしても興味を惹かれる。
しかしなんといっても称賛すべきは、この日本の降伏直後の敗戦期、混乱の極みにあった旧満州地区に進駐したロシア軍の司令官と副司令官だろう。美術品供出の申し出に、即座にその価値を見抜き、食料と交換したこともスゴいが、そのコレクションを、闇市場に流したり散逸されることなく国立東洋博物館に集蔵させたその手腕は軍人というだけでなく、並々ならぬ政治力を感じさせる。そういう人物を司令官にするという発想もスケールが大きい。虐殺と略奪と強姦しかアタマになかった関東軍とは大違いだ。


7/2w
ダリ展
三越美術館 新宿
どうもダリはよくわからん。というかピンと来ないのだ。アート作品たり得るためには必ず伝わってこなければならない何かが、からっきし臭ってこない。ぼくとしては評価のしようがないのだが、なぜか人気がある。けっこう一般人にとっては、シュール・レアリズムや現代アートの代表作家的なとらえられ方をされているのも確かだ。作品そのものはさておき、このギャップはけっこう興味をそそられる。それを確認したくて足を運んでみた。
会場は「あの」三越美術館。いつもタイトルのセンスのなさにかちんとくるのだが、今度は単に「ダリ展」。これならと思いきや、ポスターのキャッチコピーがいただけない。「ダリだ」はやめてくれ。困ったもんだ。といっても、どちらにしろ三越新宿南館の閉館でヤメになるらしいから、これが最後の辛抱ということか。さて、その南館は閉店セールということで、相当の人混みだ。きちんと商品を見れば決して安くはないのだが、お祭りの夜店には財布のひもが緩むということだろうか、けっこうな売上らしい。ということで、その余勢をかって会場も結構な人出だ。
で、作品を見る。基本的に器用な人だ。きちんとしてるところはきちんとしてる。でも、この作品はシュールでも不条理でもなんでもないぞ。実にわかりいい。要は絵文字ではないか。そのまま読んでいけばいいし、それ以上のメッセージはなさそうだ。クロスワードパズルみたいなモノといえばいいか。ストレートに書いちゃったらあまりにつまらないので、ヒントが書いてあって、それを順に読んでいけばいい。ということで、ポピュラリティーの理由はあっさりわかった。わかりにくそうで、実際は誰にもわかる明解さ。これだ。
そういう意味ではあれだ。トリックアートと似たところがある。そしてぼくにとって物足りない理由もトリックアートに似ている。作品で伝えようとしているのが、作品でしか伝わらない、モヤモヤしたコトバにならないメッセージじゃないからだ。誰が見てもわかるコトバで、ストレートに書いてある。オリエン資料の情報をそのままヴィジュアル化してしまう、新入社員研修で作るCMのコンテやグラフィックのサムネイルみたい。
つきつめて考えれば、ピカソより充分に後だが、現代アートが習作でない作品を生み出し表現として認められるよりは前という、ダリの生まれた時期や活躍した時期がそうさせた面も多いだろう。しかし、そういう作品が受け入れられ、ポピュラリティーを得たということが、ある種20世紀という時代を語る貴重なメルクマールになっていることも確かだろう。巨匠になるより、独特のパロディーセンスを活かせる活躍ができた方がクリエーティブな評価は高かったかもしれないという気がしてならない。


7/1w
大ザビエル展 来日450周年、その生涯と南蛮文化の遺宝
東武美術館 池袋
イエズス会、キリシタン、フランシスコ・ザビエルといえば、名前だけは異常によく知られている。これは何より暗記物の受験勉強の賜物とは思うが、やはり暗記物の弊害か、その中身については名前のワリには知られていない。ある程度キリスト教に詳しい人でも、殉教者や禁教の歴史はさておき、大航海時代のカトリック宣教師の実態について語れる人は少ないだろう。そういう意味では、なかなか歴史として語られない部分にスポットライトを当て、数々の遺物で実証的に見せる、ユニークな切り口の展覧会だ。
特に、ヨーロッパ側の受け止め方には、想像もつかない面があり大いに興味をそそられる。それは、異常なまでの個人崇拝、宣教師や殉教者の聖人化だ。キリスト教そのものの教義を考えれば、相当に逸脱しているとしか言いようのない個人に対する聖人崇拝が行われていた。その対象として、イエズス会士をはじめ多くの聖者が生みだされ、聖なるもの、畏れるべき力を持つものとして偶像化されていた。なかなかこの事実には気付かない。
それのみならず、聖伝説や、数々の奇跡を起こした伝説まで加わっては、これはもはや異端ではないのか。そこまでいってしまったから宗教改革が起こったのか。宗教改革が起こったからこそ、そういう土俗信仰的な面を必要としたのか。ヨーロッパというより、環地中海文化という色の方が濃いイベリア半島だからこそそうなのか。残念ながら、そこまでの知識は持ち合わせていない。
しかしこれは、成功とも失敗とも曰く言い難い日本での布教の結果を考える上では重要だ。一方でこういう面があったからこそ、日本などのネイティブな宗教観、崇拝観とも親和性があったのだろう。正面きって教義を唱えても、共感されるとは思い難い。その一方で、土着的な信仰と競合する面があったからこそ、ウマく日本化し切ることができず、その影響力も一定のもの以上にはならなかった。
日本はもともとごった煮の社会・文化なので、どんな外来文化を日本化してウマく取り入れる。そんな中でキリシタンの影響があくまで局所的だった理由はここにあるのではないか。信仰心は宗教関係の美術・工芸品の中にビジュアル化して表現される。はっきりいって鑑賞というより学習だが、今回は展示品の語るものから、このギャップを強く感じることができた。



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