Gallery of the Week-Aug.99

(1999/08/27)



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館蔵 中国美術の源流展
出光美術館 有楽町
出光美術館の館蔵コレクションで見る、中国古代から唐代までの陶器、玉器、青銅器のながれをテーマにした展示。陶磁器のコレクションはよく知られているが、こうやってみてみると、青銅器もかなりのものあがある。中国の博物館でこれ見よがしに飾られる、超巨大な青銅器こそないものの、かなりの逸品がそろっている。ここに限らず常設コレクションは、特に有名な目玉の作品はさておき、なかなかまとまってみるチャンスは少ない。東博などでも、まめに常設展を見ていないとほとんどお目にかかれないという作品もけっこうある。そういう意味ではなかなかいい企画だと思う。
殷・周代の青銅器は人気も高く、よく見るチャンスもある。しかし、戦国時代の金属象眼を施した青銅器などは、あまり見るチャンスがない。刀剣や武器類など、小型の青銅器で、緻密な細工を施したものも、こうやってみてみるとけっこう新鮮な印象がある。こういうものにお目にかかれるのも、館蔵展ならではといえるだろう。
それにしても中国の古代文物は、いったいどのくらいあるのだろう。世界に色々なコレクションがあって、それぞれ優れた作品が集められている。それ自体、近代に入ってからの中国の不幸な歴史の証明ではあるが、それでも尽きぬがごとくに、中国本土にも、台湾にもすばらしいコレクションがいくつもあるというのは驚く限りだ。これこそ、中国的スケール感の骨頂なんだろう。
出光興産も、このところは石油業界再編の中で調子がよくないが、いい時代にいい蓄積をしたものだ。アメリカの株式市場を見ていると、まっとうにマジメなビジネスに励んでる企業ももちろん評価されているが、バブル期のように海千山千のビジネスを過大評価している面も大きい。特にインターネット関連とか。それならば、よほどこういうコレクションにある程度の資金をまわし、社会還元する企業の方を高く評価すべきだろう。そういう評価軸を持つべきだし、作るべきだと思うのはぼくだけではないと思うのだが。


8/3w
伝統への接点 田中一光ポスター展
東京国立近代美術館フィルムセンター 京橋
グラフィックデザインの大御所、田中一光氏のここ十年程の近作を中心に、代表作も盛り込んだポスターの展覧会。ビッグネームらしく、自身のスタイルにがっちりと存在感のあるデザイナーなので、その作品が数あつまった時の迫力、世界観は相当なものがある。
田中一光氏といえばやはり文字。文字の美、文字の深み、文字の面白さなど、そのデザインの原点は文字のバランス感や表現力にあるが、それだけでなく面白いことに気がついた。純粋なデザイン部分、図形部分も、フリーなデザインではなく、文字のバランス感や構成感がベースになっている。離散数学というか、文字のバランス感というのは決して連続的ではない。ハマるところと、ハマらないところがはっきりと分かれている。それにあわせて、デザインのいわば画素のようなものを、文字の構成バランスを基準に配置するところにオリジナリティーがあるのだ。
これが、同じようなモチーフを用いても決して焼き直しを感じさせないデザインをもたらしている。これは同じ漢詩を書にしても、書きかたによって、模様としての文字列としては同じでも、伝わるイメージ、メッセージは異なることに通じる。世界共通のシンプルなデザイン構成であっても、なぜか和風の伝統を感じさせるのは、その配置バランスの原点となっているグリッドが、日本語の文字レイアウトを基準としているからだろう。
このようなテキストベースでのグラフィック発想は、漢字文化件独自のものだし、その秘密はアルファベット圏の発想では決して解き明かすことができない。直接関係はないが、その昔プリミティブなパソコン用のゲームとかで、グラフィックやキャラクタを分解してフォントとして持ち、それをテキスト列として扱うことで、スピーディーな操作と、プログラムのコンパクト化を図るテクニックがあった。なぜかそれを思い出してしまった。
しかし、われわれ広告屋にとっては、ポスターというのはある種の究極な姿。プレゼンの際にポスターのデザインを理屈で説明すると必要がないぐらい、メッセージそのものをイメージ化し得るパワーを持っている。ピタッと当たればインパクトがあるが、それ以上に外れることも多い。まるで湾岸戦争時のイラクのスカッドミサイルとか、テポドンミサイルみたいなものだ。それだけに意図とデザインがピッタリ決まっているポスターというのは、実に見てて気分がいい。これは広告屋だけの習性なのかもしれないが。


8/2w
10人の写真家たちの眼 20世紀写真の記憶
東京都写真美術館 恵比寿
何やら世紀末企画というか、20世紀をテーマにした美術展が多くなっているが、これもまた20世紀日本の代表的写真家の作品で振り返る、日本の近代写真表現の歴史展。20世紀とはいうものの、日本に限らず、写真に表現というか撮り手の意思が重視されるようになったのはそんなに古い話ではない。19世紀に生まれた写真が、ファインアートとしての絵画を生み、その表現方法論が写真にフィードバックされるようになってからだからだ。
実際ここで展示される10人の写真家の中で最長老たる木村伊兵衛氏でさえ1901年、20世紀になったからの生まれなのだ。それに次ぐ世代でもぼくからすれば親父程度の世代。今でも存命の人は多く、そういう意味ではあまり大上段に構えた歴史という感じはしない。それだけでなく、ぼくが写真に興味を持った中高生の頃は、まだ木村伊兵衛氏も存命で現役であり、写真界の重鎮として存在感が大きかった。
それに加え写っているシーンも、戦前のものは都市部を中心としており、戦後の色濃い作品と共に、ぼくらの世代にとっても決して異次元の光景でないどこかで見たことのあるものばかりだ。原爆や空襲にしても、ぼくらの子供の頃には、いまでは想像もつかないほどリアリティーが残っていた。結局ぼくにとっては、写真回顧展は多くの場合、何らかの体験、疑似体験していたものをおさらいする感じにならざるを得ない。これはこれで個人的には興味深いのだが、新鮮な発見や驚き、歴史の深さみたいなものにつながらないのはちょっと残念。
今回は代表作というより、作家ごとの写真集や写真展でのテーマに沿ったカタチでまとめられているが、それでも昔作品をはじめて見たときの印象が思い出されるような、有名な作品も多い。ニュープリントも使って、版型を揃えているのがかえって一つ一つの作品の重みを引き出していて興味深い。あと、篠山紀信氏の作品のみカラーというのは、氏の「最後の職人カメラマン」たるところが強烈にでていて、いろんな意味で面白い。


8/1w
モダンアートの100年 ハーバード大学コレクション展
Bunkamura ザ・ミュージアム 渋谷
なんか先月からアメリカづいているが、今回はハーバード大学のミュージアムから選ばれた現代アートの代表作家の展覧会。大学のミュージアムはいっても、あの「銅鐸を 叩けば坂村アホと鳴り」でおなじみの東京大学の博物館とは質も量も桁が違う。そもそもハーバードは、ニューイングランドのイギリス植民地時代から学問のみならず文化の殿堂として位置付けられいた。
のみならず多くの美術学者やキュレーターを輩出しているように、学問としての美術もそのテリトリーとしている大学だ。当然コレクションも、公共性・文化性の高いステータスを持っており、アメリカでも一流の美術館とされているそうだ。その中から19世紀末以降の、20世紀の美術作品に焦点を絞って出展されている。
面白いのは、そのほとんどが寄付作品という点だ。これもアメリカらしいといえばアメリカらしい。しかし、個人コレクションのようにある種のコンセプトを持って集めたものとは違うバラエティーの幅があり、全体像を俯瞰的に回顧するためには面白いともいえるだろう。
大学コレクションだからそうなのか、選んだ人のセンスがそうなのかは知らないが、全体として現代美術を学ぶ素材としてはいいと思うが、作品のアピール度という面からは弱い。20世紀美術の流れを、本物の作品で手早く触れて振り返ってみたいという人にはいい。ちょうど夏休みだし、子供たちにはピッタリかもしれない。


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