Gallery of the Week-Oct.99

(1999/10/29)



10/5w
西遊記のシルクロード 三蔵法師の道
東京都美術館 上野
大唐西域記で知られる玄奘三蔵法師の求法の道のりを踏まえ、インドからシルクロードを経て、中国、日本へと伝わった7世紀前後の仏教の足跡を、世界各地から集められた収蔵品で振り返る展覧会。テーマも幅広く、出品されている収蔵品も逸品が多いので、なかなか見ごたえはある。実際ヒトもよくはいっている。
しかし、都美術館の特別展示室がいかに広いといっても、扱う領域の方がさらに広い。内容もテンコ盛りになっていて、かなりこの領域に予備知識がないと、アタマの中が整理できない。きちんと全体像を理解するには、7〜8世紀の仏教やシルクロード文化のみならず、ヒンズー文化や、中国の大衆信仰といった分野まで含めた見識が問われてしまう。そういう意味では、多少上級向きかもしれないが、全体を眺めて楽しむという意味では、まさに目で見る西遊記の世界。それはそれで楽しめる。
しかし玄奘三蔵法師生誕1400年にはまだ少しあるし、西域からインドの地をたずねた旅からは1370年ぐらい。周年事業にはまだ間があるというのに、なぜか玄奘ブームがこのところスゴい。関連する展覧会やイベントも、これを含めてけっこう多い。そういえば先頃人質が解放された、ゲリラによる拉致事件がおこったキルギスやウズベキスタンも、玄奘が歩いたシルクロード南回廊にそってある国家だ。そういえばキルギスの治安責任者の大臣は、どことなく敦皇や北魏の仏像を思わせる顔をしていた。
やはり極めつけは、あのゴダイゴが再編してしまったことだろう。実際、館内ではなつかしい実写板西遊記のビデオが、順路の最後で上映されていたし、結びつけたくもなってしまうというもの。しかしあの歌詞の"They say it was in India"はマズいんでないの。ガンダーラはどう見たってパキスタンだよ。ただでさえインド・パキスタンで国境紛争があるっていうのに。原爆が落ちちゃうぞ。しかし、パキスタンといえば、あのクーデターは深い。追放された首相は、インド亜大陸の福々しいおっさんタイプだが、代りに権力を掌握した軍の司令官は、ガンダーラ仏そっくりのシルクロード顔だ。これもその影響なのだろうか。



10/4w
琳派空間
Bunkamura ザ・ミュージアム 渋谷
昔、3Dの球体に尾形光琳の屏風絵をマッピングして、「リンパ球」というCG 作品を作ろうかと思ったが、それはさておき、Bunkamura10周年記念の、琳派をキーワードにした展示会である。琳派といえば、大胆な構図でデザインかされた意匠の屏風絵が思い出されるが、今回のコンセプトは、インテリアデザイン、空間デザインの元祖としての琳派の世界を、実際の空間として表現しようという試みにある。
「花」をキーワードとして、生け花作品の組合せによる、琳派の描く世界の再現。さすがに会場は生け花関係者ということでの動員か、中年女性の姿が圧倒的に目立つ。さながら書道の同人展のようだ。さすがに平日昼の繁華街はオバさんの天下であると改めて感心する。さて、肝心の試みであるが、努力は買うものの、コンセプト倒れという感もぬぐえない。まあそれだけ琳派の世界の方がスケールが大きいということなのだが。しかし、期間中生け花をキープしておく努力もなみたいていのものではないと思うし、とっつきやすい切り口で見せるという点に限っては、評価していいかもしれない。
しかし、改めて作品群を見ると、やはりスケールの大きい発想・デザインをしてきた人達だ。これはやはり、広々とした空間の中で見せることで、その発想や存在感が際だってくる。これを支えた江戸時代の市民文化の懐の広さも伝わってくるかのようだ。さらに、細かいデザイン意匠面のみならず、発想や空間コンセプトみたいなものを含めて、後のジャポニズムへと続き、近代社会の商業美術の手法の形成に大きな影響を与えたことがよくわかる。
まさに17世紀は世界的通商ネットワークのでき上がった時代であり、それはとりもなおさず世界的情報ネットワークが形成され始めた時代でもある。江戸は17〜8世紀を通して世界最大の消費都市であった。世界の近代市民文化のさきがけとして、江戸で形成された文化が、ヨーロッパに伝播し、それが数々の現代社会を支える構造となって日本に戻ってきたのが、近代の文化史そのものと考えることもできる。そこまで思わせる広がりを持って作品を見せたということは、その限りにおいてはウマい見せ方なのかもしれない。



10/3w
太郎千恵蔵 パブリック・ゴースト
第一生命南ギャラリー 日比谷
今週もめったやたらと忙しいので、近場の、それもコンパクトな展覧会になってしまった。作家については全く事前知識がない状態だったが、雑誌に載っていたガイドに興味を惹かれたので行ってみた。第一生命のビルは、高層ビルに改築されてから行ったことがなかったのだが、旧第一生命館部分の中が、ある種のパブリックスペース的に利用されていて、そこのウィング部分がギャラリーとなっている。
さて作品だが、TVやアニメのキャラクターを利用している作品が特色となっているのだが、決してポップアート的にはならず、実に重い。完全に客体化しているというか、観念的に心情を込めた富士山の絵における富士山の存在みたいな感じといえばいいのだろうか。そこにあることを見てしまったから描かざるを得ない、とでもいうような存在感が伝わる。
いいかたを変えれば、ミックスド・テクスチャーの作品の中で使われる布だったり、砂だったり、板切れだったりのような存在感といえばいいのだろうか。モチーフではあるがある種の再構築を経てしまっているので、それ自体の素材感はない。これはこれで、リアルな時代性といえないことはない。
一般的にどう見られ、どう評価されているのかは知らないのだが、ぼくにとってはクリエーティビティーのあるヒップホップミュージックのような感じだ。クリエータと呼べるラッパーやDJによりサンプリングされループされたグルーブは、たとえばそれが、シェリル・リンの"Got to be Real"が元であったとしても、その属性はサンプリングされた時点で消えてしまう。あたかも、デジタルピアノに搭載された波形が、もともとはどこかにあるピアノをサンプリングしたものであっても、それを奏くプレイヤーにとっては、その属性は念頭になく、そのデジタルピアノの音色でしかないようなものだ。そういう意味ではけっこう興味を持った。もうちょっと他の作品も見てみたい。



10/2w
「現代日本絵画の展望」展
東京ステーションギャラリー 丸の内
今活躍している、30代、40代の作家を中心に、これからの美術や表現の展望をテーマに、地域別の代表推薦で選ばれた63人の新作を一堂に展示する展覧会。いろいろな手法やいろいろなモチーフの作品が、大型作品でズラリと並ぶ。作品とスペースのバランスもよく、公募展等では望めないような作品の多様性が楽しめる。
見てて感じたのは、なによりのびのびと気持ちよさそうに描いている作品の多かったこと。でもこれって大事だよね。ちょうどうちのガキが、鉛筆とかもって、線とか丸とか描きはじめたけど、絵の表現の原点の一つって確実に「描く気持ちよさ」だと思う。ちょうど太鼓とか叩いて楽しいのが、音楽表現の原点になっているように。だから、技法自体がいかに高度になっても、この原点を見失わなければ、表現としての絵がなくなることはない。逆に、この原点を見失ってしまえば、絵は行き場を失う。
現代美術って、ともすると頭でっかちな人も多くって、この原点を忘れがちな面もあった。その分、絵画はおしまいなんじゃないかという、強迫観念も常についてまわった。まあ確かに、そういう技法とか、なんとか風な表現とかにとらわれちゃっているような人も中にはいるけど、全体としては吹っ切れている。これが今の美術の「気分」なら、それはとてもいいんじゃないかな。そういう気がした。
細かいこと言い出したら、それはそれでいろいろあるけど、深く考えなければなかなか気分いいよ。やっぱり絵画にこだわったってのがいいのかな。作者自身が創作を楽しんでいれば、結果的に作品って生きてくるんだね。当たり前のことだけど、けっこう忘れがちなこと。なんか発想が行き詰まってるときに見るといいかもしれない。よいのでは。



10/1w
フィリップ=ロルカ・ディコルシア展
ザ・ギンザ アートスペース 銀座
ストリートスナップを作風とするアメリカの写真家、フィリップ=ロルカ・ディコルシアの作品展。ホームグラウンドとするニューヨークをはじめ、LA、東京、メキシコシティーその他ヨーロッパ、アジアの都市の風景を切り取った作品を集めて紹介している。基本的にはスナップ的に演出なしで撮影しているとは思うのだが、なんともウソ臭い絵柄になっているのが面白い。そうではないとは思うが、ワザとらしいのだ。
写っている人物には、別途照明を当てているのだが、これがバックの自然光と大いに違っていて、画面に違和感が満ちている。ちょうど外資系自動車保険のCMで、日本の街頭風景のバックに、ニュージーランドのスタジオで撮ったメインの役者を合成して違和感バリバリの画面のよう。すっかりバックから浮いた画面になっている。アナログの青バックのスーパーインポーズだよこれじゃ。
たとえばロサンゼルスの街角の写真では、ヒスパニック系顔の比率が異常に高いとか、それぞれ何を見せたかったかという部分は、見えるといえばよく見える。しかし、それも絵柄のワザとらしさにかき消されてしまっている。東京の写真でも、確かにその時代の東京を切り取ってはいるものの、人が入っていることでかえってポイントがボケてしまう。
そこまで意図的やっているのだから、それがポイントなんだろうとは思うけど、なんとも撮影イメージや表現したいメッセージがわからない作品群だ。というより、もしかすると撮影者自体の存在を見せないというのが、彼の作風なのかもしれない。確かにアンセル・アダムス以来とはいわないが、アメリカの写真家には、「風景」の前で自分の存在を消してしまうタイプの作家がけっこういる。ある種、その路線と考えれば納得できる部分も大きい。
そういう意味も含めて、フォトグラファーではなく、偉大なカメラマンということなのだろう。そういう面でのテクニック、被写界深度やシャッタースピードによるブレ効果の読みなど、実に的確だ。日本でいえば篠山紀信氏のようなタイプなのだろうか。それなりにスゴいとは思うけど、ぼくからは遠い発想をする人なんだろうと思った。



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