Gallery of the Week-Nov.99

(1999/11/26)



11/4w
DEEP SOUTH 野村恵子写真展
パルコギャラリー 渋谷
先週に続いて、今週も写真モノ。それも渋谷周辺。今回は、若手写真家のブライティスト・ホープとして着目される、野村恵子の作品展。アジアにこだわる作品を発表している彼女が、遠いルーツ(本人は関西出身、祖父母が沖縄出身)である沖縄にこだわり、現地に腰を据えて撮りおろした作品が集められている。基本的には、まさに日常を切り取った作品ばかりで、作者の目線の位置をストレートに感じさせる。
沖縄であることを感じさせるような景色や被写体には、沖縄沖縄したところが感じられない視線を投げかける。その逆に、本土でもどこにでもありそうな情景には、自分達は違うんだぞという強い意思を読み取る。これはまさに、地元に根が生えていてこそできる表現なのだろう。理屈ではわかるし、そういうモノなのだろうという想像はつく。しかしぼくにとっては、しょせんはここまでだ。
それはわかってても、何かリアリティーがない。実は沖縄には行ったことがないし、ましてや住んだことなどない。それなりに地に足が着いた視点がどこにフォーカスされるのかを、体験的にわかっていればもっと感じかたが違うのだろうが。文字通り、海の向こうの話でしかない。極めてエキゾチック。そういう人達が、そういう暮らしをしている国がある。それ以上は歩み寄りようがない。
多分、それだけ実態にストレートに迫っているのだと思う。その分、感じることの多い人は、いっぱい感じているんだと思う。シェークスピアを引用しても、元を知らなきゃパロディーにも何にもならない。これもそうだ。そこでも生活そのものがわからなければ、共感も思い入れも起きない。写真がジャーナリズムだった不幸な時代を引きずって、写真家の思い込みで事実を切り取り、誰が見てもわかるように主張するのが写真と思っている写真家も多い。それと比べれば、彼女のこの視線は、確かに新しいモノかもしれない。



11/3w
アーヴィング・ペン全仕事
東京都写真美術館 恵比寿
東京都写真美術館開館五周年を記念した、ファッション写真で知られるアメリカの写真家、アーヴィング・ペンのキャリアを振り返る展覧会。基本的にアメリカの写真家というのは、ぼくにとってはどちらかというと苦手な領域に属する。なんか描写がこってりしすぎているというか、画面に含まれている情報の量が多すぎるというか、とにかくシロップがいっぱいかかったアイスクリームデザート(それも大盛り)なのだ。画面に満腹感が漂っている。とはいうものの、得意分野以外のものの方が、こういう文章にしたとき面白いともいえるので、勉強をかねて恵比寿へ向かう。
彼はもともとファッション誌「ヴォーグ」のアートディレクターで、写真家が自分のイメージしたように写真を撮影してくれなかったことから、自らカメラを手に取ったという。有名な作品はもちろん見たことがあるものの、実はこういう基本的なことも知らなかったのだが、そう聞いて妙に納得するものがあった。写真にしては、画面が計算され尽くしているのだ。普通写真家は演出意図をもっていたとしても、それに加えて生身のモデルや、風景の空気感の生み出す微妙な偶然性をフィルムに記録したがる。それによって、自分の中の100%のイメージが、120%に、時として150%になるマジックが欲しいからだ。
その点、彼の写真は極めてクール。演出意図を100%きっちりと定着させている。実際、出品されている連続するコンタクトプリント(ブローニーだった)をみても、通常のファッション写真に見られるような偶然性が極力排され、そこにはかなりきっちりとした「意図」が見て取れる。ここまでくれば、確信犯としての美学がある。彼にとってのカメラは、デザインイメージをフィルムに焼きつけるマシン、今で言えばDTPのMacのようなものなのだろう。そう思うと、プリントテクニックに限りなくこだわったことも納得できる。
さて、ここで面白いのが描写の時代性だ。スナップショット派の作品なら、被写体の時代性はあっても、描写の時代性というのはあまりない。しかし、写真がデザイン作品となっているがゆえに、作られた時代のハヤりが構図やトーンの中に埋め込まれているのだ。これは、古い作品を近年プリントした作品で特に顕著に感じられた。
しかし一連のポートレート作品を見ていると、やっぱりアメリカの写真だと感じさせる。何でここまでやらなきゃいけないのという押し出しだ。見てるだけで疲れる。人の顔でこれだけ凄みの出た作品を作るというもの、考えてみりゃ相当なものだ。スゴいとは思うけど、あまり共感しないし、自分がそういう作品を作ってみたいとも思わない。なんとも複雑な感想だけが残った気分だ。



11/2w
金と銀 かがやきの日本美術
東京国立博物館 平成館 上野
新たに完成した東京国立博物館平成館のオープニングを記念して行われた特別展。特別展会場として利用される平成館の、第一段のイベントだ。めでたい記念展らしく、金と銀という素材、色に着目して、古代から近世までの日本美術史を振り返る企画。基本的には中世までが仏教美術中心、近世以降が工芸・装飾中心という感じで、このアタリも教科書通り。多少こじつけっぽいテーマではあるが、オープン記念では仕方がないか。
出品されているものは、館蔵のものを中心に、かなり「有名どころを集めました」的なラインナップ。一度はみたことがある有名な「お宝」も多く、その意味でも教科書的か。でも考え方を変えれば、この時期やってきてこの展覧会を見れた海外の旅行者は、とってもお得という見方も。修学旅行の中高生にもいいかもしれない。
平成館自体は、本館との調和にも注意しつつ、最近の美術館的な作りと格調を両立させた建築物。エントランスロビー部分は、中国古代楽器の演奏会場として使われてときに入ったことがあるが、二階の特別展会場は、天井の広い、余裕のある空間が特徴。オープンエアで仏像を展示する場合など、その余裕がよく映える。会場全体の広さも充分あり、今後に期待できるところ。
さて平成館の一階は、考古関係資料の常設展示と、寄贈収蔵品の展示室となっている。考古資料は、旧表慶館の展示物をもとに展示物を充実、年表的に歴史の流れに従って、そのディスプレイを一新した。いってみれば、どこの博物館、郷土資料館でもおなじみの、あの現物にみる年表の親玉と考えればいい。そうはいっても、さすがに東博のそれ。国宝や重文をふんだんに織り込んでの展示は、まさに活きる日本史教科書古代編である。だが、せっかくのお宝も、こういう見せられかたをすると、なんか御利益が減ってしまうのも確か。
そういう意味では、福岡市博物館の金印(安田火災美術館のゴッホの絵みたいにかざってもいいのに、歴史コーナーに無造作に展示してあった)とも通じるけど、ちょっと残念かも。しかし、今まで見たことのない考古資料も出ており、単にお勉強という以上に、マニアも充分楽しめる。寄贈品の専門コーナーは、新アイディアだが、核家族化してお宝の維持が難しい元名家などから、今後の寄贈を促す意味では、いいインパクトがあると思う。法隆寺宝物館も含め、全体として展示スペースは5割ほど増えただろうか。少なくとも物量的見ごたえという意味では、世界の有名博物館にひけを取らない、「ゆっくり見ると充分一日コース」の博物館になったと思う。



11/1w
国際ファッション・フェスティバル モードの仕掛人たち
三越本店特設会場 日本橋
世界のファッション界をリードする雑誌誌面をかざった写真を中心に、ファッション写真界を代表するフォトグラファー、約150人の新作を集め、トレンドクリエーターの今に迫る展覧会。百貨店催事会場での展示ながら、製版・印刷されることを前提にした写真のオリジナルプリントが並ぶ様は、それなりに独特の迫力がある。
かつてはファッション写真といえば、カメラマンの天下だった。要はブツ撮りだ。便宜上そこに生身の人間がいるとはいえ、それを撮っているのではない。商業写真の極致というか、とにかく撮影者の存在までも消えてしまうような、淡々とした写真でなくては意味を成さなかった。しかし、その時代は確かに終わった。ファッション雑誌の中では、エディトリアルデザインというもう一つの枠組みや、各誌ごとの印刷や製版といった、文字通りトーンアンドマナーがある分、今一つ見えてこない部分もある。雑誌そのものとしては、ある種のジャーナリスティックな見せかたこそ流行っているものの、それほど大きく変わっていなからだ。
しかしそれでも、その中に登場する写真の視点は変わってきている。それがその写真だけを切り出してきたこの展覧会では、特に強く感じられた。ほとんど通常の写真展、それも作者の意図を強く打ち出した作品としての写真展と何ら変わりない。いや、一人当たりの出品点数が限られている分、主張はより強力かもしれない。
篠山紀信さんの作品でヌケないのと同じ理由で、ファッション写真ではヌケない。それは、撮る側の思い入れが消されてしまっているからだ。ある種の悶々とした思いが作画意図の中に込められてはじめて、興奮を生むし、共感を産む。その時写真は製品から作品に変わる。つまりドロドロとした感情が直接的に伝わってくる。
これ自体、生活者にとってのファッションの位置づけが大きく変わったことの反映なのだろう。アパレルビジネスが提供できるものは、あくまでも材料とそれにまとわりついたイメージに過ぎず、その先に何を欲し、何を生み出すかはユーザーの手に掛かっている。そう考えてゆけば、これもまたこれからのマーケティングの方向性を示す道しるべと取れないこともない。きっと広告写真やCFも、そう遠くないうちにドロドロした感情が表に出るものが求められるのだろう。そのほうが、本当のみでのクリエーティビティーが活きるし、ぼくとしては面白いのだが。



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