おたくの煩悩

第二章 鉄道一般


煩悩 その17
特急こだま
「こだま」といっても、新幹線のローカルではない。むかしのこだま、栄光の151系の特急だ。少なくとも新幹線ができるまでは、こだま号といえば、電車の中のエリート中のエリートだ。だから、ことあるごとにこだま号のイラストや写真がでてくる。
だいたい鉄道マニアというのはひねくれているから、こういうメジャーなものは嫌いだ。当然、ぼくは151系は好きではない。おかげで今でも、あのボンネット型の特急型というのはあまり好きではないくらいだ。模型でも、一度も買ったことがない。ああいうのを買うのは、邪道なパンピー鉄道ファンと思ってしまうのであった。
ちょっと説明が必要だが、昔は、男の子が鉄道模型とか欲しがるのは、けっして異常なことではなく、小学生が一度はかかるハシカとか、ミズボウソウのようなものであった。いまや、こういう伝染病にかかる子供も少ないらしいが、白い目でみられてまで鉄道模型を欲しがる子供はもっと少ない。銀座4丁目の「天賞堂」の二階に白昼堂々入ってゆくのは、土橋のアップルインに白昼堂々入ってゆくより、もっと勇気がいることなのだ。
このころは、東京→大阪間が6時間半かかった。いまなら、東海道線の快速、新快速をウマく乗り継ぐと、7時間半ぐらいで大阪までいける(乗り換え時間含む)。しかし、当時はそれでも革命的であった。なんせ東海道線が全線電化されて2〜3年という頃だったのだから。
しかし、その後5年ほどで新幹線ができてしまったことのほうが、驚きといえば、驚きなのだが。

煩悩 その18
特急つばめ
こだまとくれば、つばめだ。金田正一氏が活躍した「国鉄スワローズ」からもわかるように、「つばめ」は国鉄の大銘蹟であった。いまは「つばめ」といえばJR九州の装甲車みたいな特急(ハナシは変わるが、あれと踏切で事故ったら、生きては帰れないだろうと思うくらいコワいデザインだ)になっているが、大変歴史のある名前だ。
オールドファンなら、青大将と呼ばれた、先頭のEF58から最後尾の展望車マロテ49まで、そろいのライトグリーンに塗られた、最後の客車特急を思い浮かべるだろう。いまでも、模型の格好の題材になっている。
しかし、実は、ぼくはこれに乗ったことがあるのだ。とはいっても、乗ったことは覚えてはいない。それも当然なハナシで、産まれてまもない赤ん坊の頃、オヤジの実家がある名古屋まで、じいさん、ばあさんに見せにいくため乗ったのだ。しかし、乗ったことには間違いない。なんせ、証拠の写真がある。
さて、その後特急こだまが登場し、さしもの豪華編成も時間的に太刀打ちできなくなったため、電車化が検討された。そのために登場したのがパーラカー、クロ151だ。さすがに東海道線時代には、こだまも、つばめも、はとも、名古屋行のためによく乗ったので、一般の車輌は記憶にもあるが、クロ151は正式には乗ったことがない。
しかし、覗きにいった覚えはある。そしたら、お客さんのいない個室部分に乗せてくれた。むかしは車掌さんとか子供にはやさしかったのだ。

煩悩 その19
特急あさかぜ
特急づいてきたので、もう一発。忘れてはならないのが元祖ブルートレイン、特急あさかぜだ。あさかぜも歴史が長く、時代時代により、いろいろな編成があった。当然何度か乗ったことがある。しかしその中でも、いちばん心に残っているのは、昭和40年代はじめの20系時代の究極の姿だろう。
プルマンスタイルの、一人用、および二人用個室を持った、ナロネ20。これは上野→札幌間の「北斗星」用の車輌が登場するまで、もっとも定員の少ない国鉄/JRの車輌として知られていた。同じく、個室とA寝台(当時は一等寝台)を持ったナロネ22をはじめ、座席車を廃し、二等車もB寝台(当時は二等寝台)で固めた編成が、なつかしい。これは、HOでもNでも再現した覚えがある。
しかし、あさかぜに限らず、ブルートレインはモデラーとしても、実物マニアとしても、充分に楽しめる数少ない名列車といえるだろう。EL、DL、そしてSLも絵になる(特急さくらの早岐→佐世保間は、運用の都合とはいえ、なんとC11が牽引していたこともある)。
幹線でも、ローカル線でも、都市区間でも、田園風景でもよく似合う。
それに、マニアならずとも納得する旅情。去年、博多から佐賀までゆくのに、特定区間を利用して特急みずほに乗ってしまったが、たかが一時間そこらなのに充分旅行した気になった。よいものだ。

煩悩 その20
東海道新幹線
いまの日本は、新幹線とともにはじまった。そんな気がする。オリンピックにあわせるべく、突貫工事で建設され、昭和39年10月1日に開通した新幹線。開通当時は、東京→大阪間4時間、ほどなく習熟期間は終わり、東京→大阪3時間10分運転がはじめられた。
さて、この3時間というのが速いかどうか。いまや、これが世代を分ける踏絵となっている。3時間は速いのか、当たり前なのか。このへんから、新人類というかニュータイプというか、ことなる感覚を持った日本人が分けられるのではないか。
ぼくは、それ以前の在来線の特急に乗ったことがある。だから、6時間半という事実は知っている。しかし、その長さがどんなものか自分で感じられるところまではいってなかった。そして、自分の意志で計画を立てて移動できるようになってからは、明らかに新幹線の3時間が標準になっている。だから、ぼくの世代アタりが、ちょうど境目になっていると思う。
6時間派のヒトには、世の中は変わるもの、変えるもの、自分で切り開くもの、と映る。まさに高度成長のスピードを擦り込まれているのだ。3時間派のヒトには、世の中はあるもの中から探すもの、選ぶもの、どこかにいけば与えてもらえるもの、と映る。
第二次性徴期とともに新幹線を迎えた、いわゆる段階の世代のクリエータのほうが、いまだに不思議なパワフルさを持ってるのも、これなのかという気がする。

煩悩 その21
半室運転台
運転台のうしろに陣取って、前方に続く線路の様子を眺める。これをその世界の用語でカブりつきという。当然、鉄ちゃんにとっての必修科目だ。しかし、これでわくわくするのは、鉄ちゃんに限らない。なんといっても、子供たちなら、男の子も、女の子も誰だってカブりつくではないか。ほんとうは、大人だってカブりつきたいものを、理性でガマンしてるだけにちがいない。
その証拠に、小田急ロマンスカーの先頭の展望席は、一等先に席がうまってしまうではないか。しかし、ロマンスカーのいちばん先頭の席は、一度のってみたいものだ。そのちょっとうしろ、運転台の下あたりに立ってみたことはあるが、下北沢の満員のホームを通過するときなどスゴい迫力だ。
さて、ふつうの電車ではいちばん先頭のところは全部運転台になっている。しかし、私鉄の電車や、ディーゼルカーでは、運転台が左側しかなく、真ん中の貫通ドアから右側は、なにもない設計の車輌もある。これを半室運転台という。車輌によっては、このオープンスペースに直接入れるものと、パイプで一応仕切られているものとあるが、ここより前はガラス一枚という開放感は格別のものだ。
カブりつきのことを考えると、これほど魅力的なものはない。だから、鉄道マニアは半室運転台が好きだ。ふつうに立っていても、カブりつき同様に眺望が楽しめるというのも、大人向きだ。また復活してほしいものだ。

煩悩 その22
湘南顔
関東地方のブランド地名としてすっかり定着した「湘南」だが、これは実は、むかしからあった呼び方ではない。旧国鉄が、東海道線の東京口の近距離列車を戦後電車化するにあたって、この新しい列車の愛称としてつけたものが「湘南電車」であったが、湘南というのはこのとき生まれた造語なのだ。電車から生まれて、この定着度。まったく使われず、恥ずかしい死語の代表となった「E電」と比べれば、雲泥の差だ。
さて、この湘南電車のために作られた、客車と同じ客室構造を持った電車が、モハ80、クハ86だ。先頭車のクハ86は、初期の数輌こそ戦前の丸妻デザインの流れをくむ、半流線型の三枚窓の設計であったが、すぐ設計変更され、大きな2枚の正面窓を持ち、全体が4つの平面の組合せにより構成される独特のデザインに変わった。ここに湘南顔が生まれたのだ。
これは、その後横須賀線用に作られたクハ76や、デッキタイプから改造されたEF58など、いろいろな新型車輌に受け継がれた。さらに、私鉄でも取り入れられ、西武、京王帝都などでは標準スタイルにさえなった。井の頭線なんて、いまだに新造車もこれだ。
しかし、ぼくはどうもこのデザインがスキになれない。むかしの幼児体験云々ではなく、造形的にキライなのだ。生理的なものだ。なんか、モダニズムの匂いがぷんぷんして仕方がないのだ。こういう邪悪なデザインは、はやく絶滅してほしいものだ。

煩悩 その23
玉電
むかしの、「新」がつかないほうの東急玉川線だ。246の上を走っていた本線は、首都高速3号線の開通とともに廃止され、鉄道法に基づくフル規格の地下鉄である新玉川線に生まれ変わった。三軒茶屋→下高井戸間だけが、世田谷線として生き残っている。
ぼくが中学に入ったとき、まだ玉川線は残っていた。ぼくの中学は世田谷区の北東の隅のほうにあって、中野の実家からは電車でかよっていた。基本的には井の頭線が便利なのだが、玉電でも通えないことはない。ということで、急ぐ朝は別として、池尻から渋谷まで、帰りにはときどき玉電を利用した。特に時間がたっぷりある土曜の午後などはわざわざ二子玉川まで乗ったりもした。
このころはまだ都電もけっこう残っていた。しかし、都電というのは都心部だけであり、実家から買い物とかどこかにいくときには、国電とか地下鉄とかで用が済んでいた。だから、記憶の中では都電というのは、わざわざ「乗りにいく」ものであった。しかし、玉電は、けっこう日常的な感じで使っていたので、ナマの感じを覚えているぶん懐かしい。
2年前に三軒茶屋に引っ越した。それからは、けっこう世田谷線を使う。税務署とか世田谷線でいくせいもあるが、やっぱり懐かしいのだ。
夏の晴れた日、運転台のワキ、始発駅でしか使われない進行方向右側のドアのところに立って、事実上「カブりつき」状態でいると(車輌の構造上、てすりにつかまっていると、ふつうに乗っててもカブりつきになってしまう)、開け放たれた正面窓から入ってくる風が実に心地いい。ぜひ一度おためしあれ。

煩悩 その24
添乗
ぼくがSLの撮影をはじめた中学生のころは、43.10のダイヤ改正を経て、幹線とかではSLの廃止が進んでいたとはいえ、世間的にはまだSLブームには程遠い状況であった。東京の周辺でも、西の八高線や川越線、東の千鉄局管内の各線など、まだまだSLは多く、北海道や九州のローカル線までわざわざSL撮影にいくようなマニアは珍しかった。
だから、地元のヒトたちや鉄道関係者との関係も、至って良好でトラブルもなく、遠来の珍客は大いに歓迎されたのだ。
ましてやそれが中学生ともなれば、みんなからかわいがってもらえて、いろいろ便宜を図ってもらえたのだ。たとえば、機関区までいけば、内々に庫内を見学させてもらえるだけでなく、お茶もだしてくれたり、はては、帰りにもよりの駅まで出区して行くSLの運転台に乗せてもらえたりした。
駅で止まっている列車を撮っていると、SLの運転台に招きあげられ、さすがに本線走行中に乗せてはくれないものの、いろいろ説明してくれたり、機械に触らせてもらえたりしたのだ。さらに、親切な車掌さんとかだと、列車のない時間帯とかには、貨物列車の車掌車に乗せてくれて、いろいろハナシを聞かせてくれたりした。
今からは、とても信じられないが、ほんとなのだ。なんとものどかな時代であった。

煩悩 その25
編成美
鉄道の楽しみかたの一つに、列車の編成を楽しむというのある。ブルートレインや特急電車のように、専用の車輌で固めた編成美というのもあるが、これはパンピー向け。鉄道マニアはどちらかというと、いろいろな車輌が混ざった、バラエティーに富んだ編成がお好みだ。
だから、むかしの二軸貨車の編成とか大好きだし、旧型客車、旧型電車、ディーゼルカーなど、色もカタチもいろんな車輌が渾然一体として編成されるものほど興味の対象となるのだ。
そんなマニアが、いちばん編成美を感じるもの、それは「編成の途中に組み込まれた先頭車」だ。東北新幹線と、山形新幹線の併結でも、ふつうの新幹線よりはわくわくするが、できれば貫通ドアがあって、なおかつ幌で貫通路が作られているほうがいい。
そしていちばんググッとくるのが、片側が運転台、片側がふつうの中間連結面で、その間が貫通路で結ばれている状態、これだ。こういう通路を通り抜けるときは、なんともゾクゾクするのだ。
特にディーゼルカーは、その構造、運用上、こういう連結面が多くなる。だから、ディーゼルカーが好きというマニアも多いのではないか。ぼくもそうであった。
そもそも貫通路がない正面など、マニアにとっては邪道なのだ。

煩悩 その26
京王線
京王帝都電鉄の路線のうち、新宿→八王子間が旧京王電鉄、井の頭線が旧帝都電鉄であった。京王帝都電鉄は、首都圏では唯一TV番組やCMのロケに応じて、便宜を図ってくれるので、トレンディードラマの舞台にも使われ、すっかりイメージがよくなった。しかし、井の頭線はさておき、京王線はもともとはきわめてイメージの悪い私鉄であった。京浜急行や京成に近いか、それ以下であった。
この3つの私鉄には共通点がある。それは路面電車として生まれた点だ。京王線はもともと甲州街道の上を走る、新宿→府中間の路面電車だったのだ。したがって、この区間の免許は一般の私鉄のような「鉄道」ではなく、路面電車用の「軌道」として許可されていた。このため、専用軌道敷になっても狭くて曲がりくねった、軌道用の規格で建設されたのだ。
そしてまた、これらの私鉄は、当時の東京市電と乗り入れるため、レールの幅が、旧国鉄の「狭軌」規格の1067mm、私鉄や新幹線の「標準軌」規格の1435mmとも違う、路面電車専用の1372mmという規格(なんと専門用語では「偏軌」と呼ばれる)を採用した。
京浜急行と、京成は、その後免許を鉄道のものに改めるとともに、標準軌に改軌した。しかし、京王線はいまだに1372mmなのだ。本来、鉄道の免許は、狭軌か標準軌でなくては下りない。京王線は例外規定だ。
ちなみに下高井戸で、世田谷線と京王線の線路を比べるといい。線路幅も同じだし、犬走りのない路盤の作りも一緒だ。

(93/12)



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