おたくの煩悩

第八章 自動車


煩悩 その77
トヨタスポーツ 800
1960年代は、高度成長とともに、日本のモータリゼーションが花開いた時期だ。大衆車の登場により、多くのヒトたちにマイカーの夢を与えると同時に、すでにモータリゼーションを自分のものにしていたヒトたちには、さらに大きな夢を与えるスペシャリティーカーも登場してきた。
そんなクルマの中で、いちばん手の届きそうな夢を与えてくれたのが、トヨタスポーツ800であろう。当時の大衆車であるパブリカのコンポーネントを利用し、独特のタマゴ型のボディーをのせた超ライトウェイトスポーツだ。基本的にはエンジンがエンジンだけに、スゴいパフォーマンスではないし、流線型ではあるものの、ダウンフォースをまったく無視したようなデザインでは、決して速く走るものではなく、楽しく個性的に走る、今でいうパイクカーの祖先ともいえるクルマだ。
そういうこともあって、このクルマのポイントは、かわいらしさだ。日本のクルマ史上、かわいらしさでは随一ではないだろうか。
もともと、丸っこいデザインが好きなぼくとしては、大好きなクルマだ。

煩悩 その78
トヨタ2000GT
基本的にはヤマハ発動機が開発し、トヨタの技術と販売力を加えて製品化した、本格的スポーツカーだ。世間的には、特別仕様のオープン版が、007映画の日本ロケで使われたことが有名だが、カーマニアにとっては、エバーグリーンの一つだ。
しかし、なんとかいってもこのクルマ、国内では200台しか販売されなかった。だから、たしかに同時代を生きていたのだが、小学生、中学生の頃には、2、3回しか見ていない。かえって免許をとって自分でクルマを運転するようになってからのほうが、よく見ていたりするぐらいだ。
さて、今となっては信じられないことだが、当時はトヨタのクルマというのはマニアから人気がなかった。当然、少年カーマニアもトヨタが大嫌いだった。だが、さすがにこのクルマは認めざるを得ない。そこで、「このクルマは本質的にはヤマハだ」という便法を使って、言い訳するのが常であった。
この時代に育った世代には、アンチトヨタが擦り込まれているひとも多い。ぼくもけっこうそうだったのだが、ことし、ついに免許をとって自分のクルマを持ってから20年目にして、トヨタのクルマを買ってしまった。もちろん、いろいろ冷静に比較した上での、納得づくの選択だ。
55年体制が崩壊し、自民党政権が崩れる年だ。少年の日の「擦り込み」も、崩れておかしくはない。

煩悩 その79
フェアレディーSR
60年代の国産スポーツカーの花といえば、なんといってもフェアレディー。これは、あの時代を知っているものなら、だれでも異存はないであろう。ダットサントラックのシャシー(ここが渋い)に、スリムなオープン2シーターボディーを積み、特別に設計した2000cc(当時は、排気量はccで表わされた)エンジンをつみ、レギュラーモデルで国産初のオーバー200km/hカーとなった。
また、対米輸出モデルとしても、性能/価格比の高さから大ヒットし、ホンダのバイク、ソニーのトランジスタラジオなどと並び、「Made in Japan」の文字を、安かろう悪かろうの代名詞から、安くて高品質の代名詞に変えた立役者の一つでもある。
これは、国内でもかなり売れたので、けっこう頻繁に見かけた。スポーツカーだけど、手の届くところにあるクルマに見えた。免許をとったら、ああいうクルマにのりたい、と、鮮烈にイメージを植え付けられたものだ。
免許を手にしたときには、すでに生産中止になっていたが、最初に買ったクルマは、気持ちに忠実に、フェアレディーの名を継いだ、SRの後継たるクーペモデルのフェアレディーZの2シーター(大学の合格祝を、事前に親戚中に吹っ掛けておいたので、買えたのであった)を、迷うことなく購入したのであった。

煩悩 その80
横四ッ目
戦後、日本の乗用車のデザインは、造形的に考えると二つの革命的変化があった。一つは、戦時中にアメリカで起こった流れが、戦後になって日本に届いたもので、フェンダーの内装化だ。昔の乗用車は、エンジンルームと、客室スペースが別の躯体をなしているわきに、タイヤを覆うべく、独立したフェンダーが付けられていた。
これが、このフェンダーが、エンジンルームや客室の躯体の中に取り込まれるとともに、ボディーサイドが、フロントからリアまで、基本的に一つの連続したフラッシュサーフェスになった。これは、ぼくが物心ついた頃にはもう終わっていた変化だ。
そして、ちょうどぼくがものごころついて、のりものに興味を持つようになった頃、もう一つの変化が起こった。これは、それまで独立したボリューム感を持たされていたヘッドライトが、フロントグリルと一体のものとなった。つまり、ヘッドライトの「でっぱり」がなくなった。これは、日本では昭和36〜37年ごろ起こった変化だ。
それ以前のクルマは、ちょうどローバーミニを考えていただければいいが、ヘッドライトはボンネットから、ちょこんと半分顔をだしているのがふつうだった。
これを最初に取り入れたのは、日本ではトヨタクラウンと、プリンスグロリアだったと思う。ものごころついた時に、子供でもわかるほど強烈に、「デザインで、古いもの、新しいものが、決まるんだ」という擦り込みをされたことは、その後の人生に大きい影響があったと思う。

煩悩 その81
スカイラインGT-B
プリンスは、今は日産と合併してしまったが、独自のポリシーのある自動車メーカーであった。その一つに、同じボディーに、大きいエンジンを積んで、スペシャリティーを作るというものがある。
そもそもグロリア自体が、最初はスカイラインのハイパワーバージョンとして登場した。そして、日本でもモータースポーツがさかんに行なわれるようになると、スポーツバージョンとしてのハイパワーバージョンである、スカイラインGTシリーズがうまれたのだ。
今度は逆に、グロリア用の2リッターエンジンをスカイラインに積むべく、フロントフェンダーごとエンジンルームを延長し、ロングノーズ化したボディーに、チューンした2リッターエンジンを装着して登場した。
このスカイラインGT-Bは、折りからはじまった、日本グランプリに代表されるモータースポーツブームにのり、輸入車を蹴散らす大活躍。モータースポーツのイメージアップにも大いに役だった。
このスカイラインGT、街でもよく見かけたが、外見は同じでも、チューンしてないシングルキャブエンジンのGT-Aのことが多かった。そんなときは、なんか、ちょっぴり損した気がした。

煩悩 その82
ダットサン1000
ぼくがものごころついて、はじめて気に入ったクルマが、このダットサン1000だ。戦後日産が生んだ、最初のオリジナルの自動車であり、昭和30年代の半ばでは、タクシーに自家用車に、と、大活躍する代表的な小型車であった。
いまでも、クラシックカーフェスティバルや国産ヴィンテージカー専門店で、見かけることができるが、なんともかわいいデザインで心がなごむ。デザイン上は、グリルやフロントフェンダーこそ、その後の初代ブルーバードに通じるラインが見いだせるが、キャビンからリアトランクへのラインは、1940年代の香りを色濃く残すクラシカルなもので、リアトランクが、リュックサックをしょっているようにちょこっとついている、日本車では類をみない2.5Boxともいえるものだ。
これは個性的だ。今みても充分個性的だ。当時の国産車の常で、全高に比べて幅が極端に狭いデザインだが、なかなかバランスがとれている。このデザインを生かしてパイクカー仕立てで出してもよかったくらいだ。
国産車がまだ、日本の国土にあったサイズであったという点も、忘れてはならない点だ。

煩悩 その83
日産ブルーバード
ダットサン1000が進化して登場した、初の日本車らしい日本車といえる小型車だ。実は、ぼくの実家で最初に買った自家用車がこれだ。当時、東京のナンバーは、なにも添字のつかないナンバーであり、我が家のブルーバードは「5 そ 5423」であった。カラーは、下がライトブラウン、上がマルーンのいわゆるツートーンカラーであった。
さて、当時の東京はクルマは少なかったものの、道路事情自体が悪く、都心部は都電が走っており、山の手線の外側では、計画道路ができていなかったし、ある道は、たんぼの畦道がそのまま発展したようなものしかなかった。
だから、いくらクルマが少ないとはいっても、そうクルマで遠出はできなかった。この頃よくドライブにいくところというと、当時は中野に住んでいたので、そこから西へ走り、23区と三多摩の境あたりまでいくというのが多かった。
具体的にいうと大泉学園とか石神井公園とかのあたりから、いっても神代寺か多摩墓地のあたりまでだ。これで片道2時間ぐらい、お弁当もっていったのだ。
青梅の鉄道公園なんていうのができたが、ここにいくとなると一日仕事のドライブになるのであった。
今からみると、別世界のようなハナシだ。

煩悩 その84
いすゞヒルマン
昭和30年代の日本では、小型車ではオリジナルの車種もぼちぼち生産されていたが、全体としては海外メーカーからのノックダウン生産の車種が多かった。いすゞのヒルマンをはじめ、日産のオースティン、日野のルノーなどがあった。
さて、ブルーバードの次にオヤジが購入したクルマが、このヒルマンであった。これはけっこう大きなクルマで、中型タクシー並のゆったりしたのりごこちがあった。しかし、ノックダウン生産末期のモデルであったので、当時としても若干古めかしい感じがしたのことはいなめない。
この頃になると、地方の国道もだんだんと整備されてくるようになったので、夏休みとかには、10日間とか2週間とか、延々と地方を回る旅行が恒例になった。
しかし、これは運転してるオヤジは面白いかもしれないが、のってる子供はたまったもんじゃない。一日10時間とか、揺られ詰めだ。当時の道路事情では、飽きても寝るに寝られず、ひたすら耐えたのであった。

煩悩 その85
スバル360
どうやっても、昭和30年代をかたるのにかかせないクルマ、それはスバル360をおいてほかにないだろう。両国の江戸東京博物館にも、戦後の東京の展示として、実物(それも、ヘッドライトやフロントのインテイクが小さい、オリジナルタイプ!!)が飾られていて郷愁をそそってくれる。
それほど、当時の日本の景色の中に、スバル360は溶け込んでいる。
それにしても、よくできたデザインだ。実は乗ってみるとわかるのだが、かなりデザイン優先の面があって、キャビンスペースは充分とはいえないし、決してスペースユーティリティーがいいともいえない。まあ、それでも許されたし、クルマには夢が必要だった時代だからこそ実現した、デザインといえないこともない。
スバルの富士重工もそうだし、プリンスもそうだし、当時敗戦と共に、空への夢を折られた飛行機メーカーの後身という自動車メーカーには、それなりに思い入れでクルマを作っているところがあった。
それにしても、スバル360は実用第一の国民車なのだ。けっして軽スペシャリティーなどではない。実用性を押えてからデザインに取り掛かる現代の軽セダンからは、なかなかでてこないデザインといえるのではないか。

煩悩 その86
ニッサンディーゼル ボンネットバス
クルマのハナシといえば、乗用車、それもスポーツカーとかそっちのほうにいきがちではあるが、バス、トラックのたぐいもけっこう忘れられないものがある。当時、バスといえばボンネットバスだ。
いまでは、SLよろしく観光用に保存されているものしかないが、当時はほとんどのバスが、トラックのシャシーにバスボディーを装着したボンネットバスだ。
さて、ボンネットバスも各社各様のものがあり、というか、デザイン上の特徴がいちばんでているボンネットがついているぶん、いすゞ、三菱ふそう、日野、日産ディーゼル、トヨタなど、各メーカーそれぞれ個性があった。
その中でもぼくにとってなつかしいのは、日産ディーゼルだ。これは、実家の近くに路線の多かった「関東バス」が、日産ディーゼル一本槍だったことが大きい。
さて、そのどこがなつかしいかというと、エンジン音だ。
日産ディーゼルのエンジンは、独特の2サイクルディーゼルという技術を使っていた。基本的に、バイクみたいな2ストロークで1サイクルのディーゼルエンジンだ。燃費とか、整備性とかいろいろメリットも多かったが、けっきょく排気ガス規制に対応できず、今は使われなくなってしまった。
で、この2サイクルディーゼル、音がスゴいのだ。グォーという、ジェットエンジンのような、ものすごい迫力の音だ。いまでも、その響きは耳についている。また聞いてみたいものだ。

(93/12)



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