意味なきものは美しい

技術者と研究者をわけるもの



技術には、基礎技術と応用技術というものがあります。これらは同じ技術というコトバでくくられていても、まったく違うものですね。

基礎技術は、いってみれば理学であって、ルーツは哲学だし、これは、技術者ではなく「研究者」の領域。
この分野は、そもそも「目的合理的」なモノではないし、その意味では、ビジネスそのものとは相入れないなにかを持っているワケです。

一方、応用技術。これは工学であって、ルーツは練金術だし、まさに技術者が活躍する領域。
この分野は、きわめて「目的合理的」なモノで、課題が明確にならない限り、技術が技術として増殖すると、とんでもない方向に暴発してしまうわけです。

個人としての技術者、研究者のなかには、この両者の要素が、あるレベルで配分されているのでしょう。しかし、一連の作業を行う場合には、自分がそのなかで果たすべき役割が何なのかを明確にしなくてはなりません。

技術者的課題の場合は、どこがブレークスルーなのかを明確にディレクションしないといけない。「サイズを半分にする」とか、「コストを6割削減する」とか。その課題がきつければきついほど、技術者はM系なので、のけぞって喜びます。
技術者が燃えるには、目標が重要です。それも、明確で、実現がむずかしいものほど、燃えてくる。この目標が、基本的には外側からしか出てこないのが、技術のいいところでもあり、限界でもあるんですね。

一方研究者的課題の場合は、当人がクリエイトすべきテーマを、自分で発見しなくてはいけません。これをはき違えると、どこかのメーカの研究所の公開のように、技術者的課題に研究者的方法論で対応して、「なんだよ、こんなの世間じゃ常識だよ。それを、こんなに手間とコストかけてやって」みたいなコトになりかねませんね。

このどこが問題かというと、研究者的課題の場合には、アート的な付加価値を創造しなくてはいけなくて、これは役にたってはいけなものだからです。だから、「純粋数学は人類にとってほとんど意味がないから美しい」のと同じように、研究は意味がないから価値があるんであって、すべてをビジネスのように「目的合理的な」意味で割り切ったのでは、人類の未来がなくなってしまいます。文化ってそういうもんですよね。イギリス人とか、このへんははっきりしてます。役に立つものは学問にしない、という鉄則があるそうです。まさに意味のなさこそが、文化を創るのです。

さて「技術そのものが、アートでもある」と主張する人もいます。まあ、ここまでくるとコトバのアヤになってしまうのだけれど、ぼくは、「技術的要素」と「アート的要素」をできるだけ分離して、それぞれ「技術」「アート」とわけてとらえるコトが大事だと思います。このようにわけてとらえるのには理由があります。それは、この両者は、モチベーションも、目的も、マスターするプロセスも、かけ離れているからです。

表現芸術の中には、そもそも「技術」と「アート」の両面があるものがあります。たとえば音楽などは、自分のイメージを聴き手に伝えるためには、楽器奏者としての「技術者」のスキルと、表現したいメッセージを心のなかに持つ「アーティスト」としての感情を、両方持っている必要があります。まあ、後者だけでも、作曲家とかなれば、自分らしい作品をクリエイトすることはできます。

問題なのは、前者だけのヒト。日本のクラシック系の音大出たヒトとか、こういう「テクニックだけはあるけど、何を表現したいかがカラッポ」という単純職人が多いわけです。こういうヒトたちは、外側からいうべきメッセージを与えられれば、それをプレイするけど、自分はスキルだけしかない。こういう人が多いんですよね。でも、そういうヒトがいる以上は、そういうポジショニングを明確にしなくちゃいけないし、そのためには、「技術」と「アート」は、わけてとらえる必要があると思うのです。

この問題になると、いくらでもハナシが出てきちゃいますね。ぼくの場合。まあ、一流の表現者というのは、それだけ内なるパワーがある。これは天性のもので、スキルみたいに努力でどうのこうのというのではない。

最近、高度なAF・AE一眼レフが出てきて、写真の世界が変わっりました。昔重要視された、技術者としての写真家のスキル(英語ではcameraman)がなくても、写真としての基本は、カメラが押さえてくれる。だから、構図とか、どの瞬間を切り取るとか、表現者としての写真家(英語ではphotographer)のセンスさえあれば、いい作品が残せるようになってきました。これを受けて80年代半ばから、特にアメリカで現代美術の作家が怒涛のように写真作品を発表するようになりました。こういう人達のほうが以前の「写真家」の作品よりもずっとインパクトがあったりしてます。これなんかいい例ですね。

コンピュータが進歩すると、スキルのところは、どんどんコンピュータで置き換えられてく。しかし、センスの部分は、絶対にコンピュータではできません。このへんが、これからの時代を考える上で重要なところですね。だから「コンピュータとアート」の議論をすると、こういう芸術論、表現論になってしまいまうのは、必然的な帰結だと思ってます。


(94/08)



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