情報とその価値




自分で表現したいものを持っている人は、テクニック以前に、自分の扱える手段だけでも、あふれてくる感情をそれなりに表現してしまいます。子供の詩なんて、そのいい例ですね。逆に、自分で表現したいものを持っていない人は、いくらテクニックをつけても、なにも創造できないし、なにも表現できません。大事なのは、クリエーティブな才能で、テクニックではありません。ワープロを使う上で一番重要なのは、「文才」であって、いい文章をかける人なら、ワープロは「使え」ます。でも、いくら操作法を知っていても、文才のない人には、ワープロは使えません。

パソコンとか、ハイテク機器ってのは、基本的に道具なんだから、それを使う人間に才能があれば、いいものができるし、才能がなければ、単なるノイズというか、乱数みたいなものしかでてきません。ただ、使うのが簡単な道具なんですね。修練なしで使える。ここが、コンピュータのいいところですね。

どうしてこの問題にこだわるかというと、どれだけ儲かるかは、近い将来、「無から付加価値を生み出す創造力」をどれだけ発揮したか、に応じて決まってしまうからです。単に、既存の知識をまとめただけとか、手連手管の器用さとかでは、お金はもらえないし、そういうところで動く金が、どんどん価格破壊で安くなるのが、ディジタル化の妙味なんですよ。

じゃ、そういうときにどこで稼ぐかというと、誰も思いつかないユニークで付加価値の高いアイディアをどれだけ生み出すかってとこ。作業で稼ぐんじゃなくて、相手がもうかるような知的生産をして、それを提供する対価として稼ぐ。だからこそ、「まとめる力より、生み出す力に価値がある」ことを、一人一人が自覚して、一人一人が実践していかなくてはいけないのです。もっとこのテーマは、真剣に考えていいのではないかな。

さて、世の中には、知ってりゃ偉い、って考えてる人も、いまだにいます。困ったものです。公開情報であっても、それをまとめると、けっこう背後の意図とか戦略とか読めることがあります。これは、その情報を読む人の洞察力、判断力によります。同じ情報を得ても、バカは、なんにも気づかないし、勘のいい人は、ものすごい情報量を読み取っちゃう。現代のスパイ戦はこれ。情報を入手することが重要なのでなく、それをどう読み取るかが大事。情報そのものは、メディアに乗ってるオープン情報で充分という。

だから、情報そのものに価値があるわけじゃない。価値は、情報を読む側が作り出すもの。これが、情報化時代になると、知識の時代から、知恵の時代にかわるといわれる由縁ですね。情報なんて、あって当たり前。そこから先が問題。これについては古くは70年代ぐらいから、いろんな人がいろんな言いかたをしているぐらい本質的なんですけれど。

で、最近、いろんなところでこの話をしているんだけど、テクノロジと表現の境目で、新しい分野がでてくると、最初にでてくる表現は、「実験的習作」なのはしかたない。だけど、こういうときに限って、「技術者としても、アーチストとしても、どちらも二流」な人間が、具ともつかない表現なのに、見た目の目新しさだけにたよって、「作品でござい」とかいって、偉そうな顔するのね。それで、だまされる観客も観客だけど、これは、ニューメディアだ、ニューロだ、マルチメディアだ、インターネットだって、名前だけで実態わからずにわいわい騒ぐビジネスマンと同じだから、しかたないか。

しかし、CGだって、コンピュータミュージックだって、ほんと、最初は表現でもなんでもないものを、偉そうに「クリエイトした」ってしたり顔で発表するバカばっかり。そのうち、技術者として一流の人が、誰でも簡単に使えるツールを作って、アーチストとして一流の人が、ちゃんとなにかが表現された「作品」をつくるようになって彼らは淘汰されるんだけどね。今の、「マルチメディア」って、けっこう、このやからが多い。

逆に、ほんとに表現者として一流の人は、なにやってもちゃんと自分を表現しちゃうから、特定の技術やメディアに根差した場はいらない。これからの時代は、コンテクストがつくれる人、と同じ意味で、本当にオリジナリティーある表現を産み出せる人しか、アーティストとは呼べなくなるでしょう。古くて新しい問題だけど、結局のところ、紙と鉛筆があれば、いやそれさえもなくても、新しい価値を作れる人だけが、クリエーターと呼ばれるのでしょう。

    クリエーター
    職人

-----ここに、コンピュータが入る-----

    一般人
    バカ

という、新たな階級差別が起こるのは必然ですね。だからこそ、「コンピュータ以下」の俗人があせってるワケでしょうか。



(96/02)



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