ネットワークコミュニケーションと責任



文章は著者の手を離れたら、それ自体独立した存在です。いったん書いたものなら、どうとってもらっても読み手の自由です。難しいと思われようと、やさしいと思われようと、いっこうにかまいません。これは文章の特徴ですよね。これはまた、著者の責任も示しています。どう読まれようと、それは書いたヒトの責任なんですから。

ただぼくの文章が日本語で書いてあった場合、その前提としての仮名や漢字の知識、熟語や文法の知識は難しいと思っても理解のためには必要不可欠です。この部分をどうこういわれたり、ましてや「日本語で書いてあるから読めないじゃないか」なんていわれても、これは責任の取りようがありません。

同じように、internetという仕組みはコミュニケーションの道具なので、あるレベル以上のノウハウと理解がなくては、基本的に扱えません。こういう知識のないひとがinternetを使おうとすると、トラブルを起こすか、身近にいる知識のある人に多大な迷惑を及ぼす結果に陥りやすいのです。これは使う側が責任を取らなくてはいけない部分です。日本語そのものを知らないで、日本語でコミュニケーションしようとするようなモノですね。

電機メーカーとかの研究所でさえ、かつてのjunetに接続するとともに、多くのヒトにとって扱いきれない部分が出てきて、ボランティアでやってたはずが、ほとんど仕事が「network番」になっちゃった人が、各部署ごとに出てくるハメになるぐらいですからね。素人は使うべきでなくて、ちゃんと勉強して、自分の尻ぐらい自分で拭けるようになってから使う、というぐらいの気持ちでいてほしいと思います。

internetというのは、全体の仕組みがあるのではなくて、ユーザの一人一人が、ボランティア的にその一翼を担うことで、はじめてなりたっている、非常にユニークなシステムです。「私、使う人。あなた、作る人」という態度では、そもそもなりたちません。しかし、こういう「質の悪い」ユーザが増えていることも事実です。パソコン通信や、NTTの電話回線と同じような「サービス」として、internetをとらえてはいけません。internetを利用する前には、少なくともこの一点だけは、理解していただきたいものです。

さらにその先の問題があります。たとえば、自分の会社も、相手の会社も、IIJとか、同じ接続サービスにぶる下がっていれば、相手の所まで届く可能性は高いのでしょう。だが、そっから先、どういう扱いになっているか、はっきりいってだれにもわからない状況ですからね。

素人の管理者が管理しているマシンで、ハック(クラックか?)し放題の環境かもしれないし、逆に管理者が超ヲタクで、他人のファイルを全部覗いてるかもしれないし、はっきりいってわからないです。このリスクに対しては、「送り手の側」で責任を持つ必要があるのが、少なくともルールにはなってます。アメリカ流の「In your oun risk」ですね。もともと、責任にはいたって感覚が甘い日本人ですから、この辺が、イメージ的にとらえられないまま、世間一般でのインターネットブームが起こってるのは恐い限りです。

まあ、自然科学自体、自然界の真理を究めて、自分が全知全能なる存在に近づこうというところがありますしかし、世の中でいちばん簡単に全知全能になろうと思えば、unixの管理者になるのがいちばん早いです(笑)。だからスーパーユーザには、そういう人が多いのではないかと(爆)。IIJで相手の会社まできちんと行っても、相手の会社のマシンの管理者がそういう人では、セキュリティーもヘチマもありませんからね。また、こういう管理者に限って、internetにつなぎたがる傾向が強かったし。

けっきょく、これもパソコン通信の困ったちゃんと全くおんなじルーツですよ。技術は「物理的にできることと、やっていいことの区別」がついていなくては、使っちゃいけない。言い換えれば「技術的にサリンを作れるから、それを自由にばらまいていい」というのと、全く同じ論理ですよね。幼児的技術主義というか、なんというか。このサリンの例と「技術的に自分の環境は2バイトコードを送受信できるから、それを自由に送受信していい」というのが、まったく同じであり、社会的意味は変わらないということ。少なくとも、internetを使うんであれば、unixの知識うんぬん以前に、この程度の社会的バランス感は持っていてほしいものです。

少なくとも、internetは、アメリカで生まれたカルチャーです。そして、アメリカは「詐欺にだまされたら、だまされたほうが悪い」という、自分の安全と財産は自分で守る、という発想の国なのです。それに従えない人は、internetなど、触れるべきではないでしょう。たとえ、使える環境にいてもね。internetなんて、使わなくても、使えなくても、人生なにも変わりません。これは、保証してもいいです。「それがいやなら、つかわなければいい」。それがルールというものでしょう。

たとえばウイルスの問題だって同じこと。みなさん、道にアイスクリームが落ちてて、それを拾って食べますか?だれもそんなモノ食べないし、食べておなかこわしたり、毒が入っててどうにかなっちゃったりしても、だれも同情しないですよね。似た例ですが、雑木林に生えてるキノコなら、人によっては拾って食べちゃうかも知れません。この場合でも、間違って毒キノコを食べても、それは本人の責任ですよね。これまた、嘲笑の対象になっても、同情の対象にはなりません。

パソコン通信の書き込みなんて、これと同じです。ウイルスがあるよって書こうが、それはウソだって書こうが、ウイルスそのものをアップロードしようが、それは書いた側の責任でやる分には自由だし、どうこういえるものではありません。それを見て信じるか、バカなヤツとあざ笑うか、困ったヤツだと顔をしかめるか、これまた読み手の自由ですただ、それで迷惑を被っても、それは読み手の責任ですよね。

つまり、パソコン通信も実社会と同じ。「知らない人間のいうことを信じちゃいけない」。簡単ですよね。常識だもの。パソコン通信だっていうだけで、どこの馬の骨かわからない人間のいうこと信じるほうがおかしいですね。実世間の常識がある人なら、そのまま常識人でいてください。その常識は十分通用します。実世間の常識のない人は、まず常識をつけましょう。パソコン通信だからといって機械相手じゃないのです。人間を相手にしたコミュニケーションなのです。ここ間違えちゃいけませんよ。



(95/04/17)



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