確信犯とメディア






神戸の少年惨殺事件で、容疑者の少年の名前や写真のマスメディアへの掲載が議論になった。これは人権問題としてとらえられているが、この問題で難しいのは、「地元では、誰でも犯人を知ってるし、前から怪しいと思ってた」って点でだ。疑うこと自体、ある種の人権侵害だが、個人の心の中は法律の規制外(個人利用(笑)!!)だし、どこからが法律の対象になるかというのも実にあいまいだ。

ホームページも、自分から積極的にリンク等で公開してるのなら、責任も問いやすいが、公開してないアドレスのページに書いておいて、それを誰かが見つけたとなると、線引きが難しい。良くある、怪しい電波オジさんの貼紙とか、どこまで内容に責任を追及できるのかという点では、至って曖昧なところがあるのと似ている。

しかし、怪しい電波オジさんといえば、あの事件の目撃者として登場した、「ブラウン管に登場した史上最もアブないヒト」こと「新聞配達の男性」は、その後どうなったのだろうか。初期にあった「犯人は30代の怪しいオジさん」という目撃証言は、あのヒトを見かけたものではなかったのか。でも、やはり関西は濃い、深い。あんなオジさんが生息してるとは。

このように名前の掲載(余談だけど、少年の本名も「読み方が h* だっけ a* だっけ。少年Aだから、a*だろう」なんていう小咄になるぐらい有名になっちゃったよね、オカシな話)、顔写真の掲載って、少年法云々の文脈で議論されることや、プライバシー問題として議論されることが多く、すでにそこにも問題があるのだが、メディアのコンテンツとして考えると全然別の問題がある。それは、名前や顔写真の公開が「確信犯である少年の顔や名前を公開することは、少年の犯罪に加担してる」という視点だ。

彼は、英雄気取りの確信犯だ。自分では社会や学校への復習に燃えるヒーローだと思い込んでいる。そして、彼の犯罪自体は、彼の存在を社会へアピールし、社会にその主張を伝える手段だと信じている。こんな彼にとっては、彼の名前が大々的に扱われ、彼の写真がメディアに登場することは大歓迎だし、それ自体が彼の犯罪の一つの目的と見ることもできる。

そのしり馬に乗って、ほいほい名前や顔写真を出すことは、いわば彼の犯罪を応援し、彼の美学を完成する手伝いをしてるに他ならない。彼にとっていちばん辛いのは、どんな過激な犯罪をしても、みんながシカトして、誰も話題にしてくれない状態だ。確信犯は、メディアが騒げば騒ぐほど増長する。この点においては、明らかにメディアは共犯だ。

しかし、あの友が丘中学の校長、ありゃヒドいおっさんだ。あの記者会見の「答弁」をみてると、どうみたって教育者じゃない。いわゆる小役人、今問題になってる規制と利権に明け暮れる官僚と全く同じ精神構造だ。あんな奴等に「教育」されちゃ、そりゃ殺人鬼も育つというもの。当然だ。こういう役人根性が国を滅ぼすんだよね。きっと。

(97/07/08)



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