Jazzの本質





Jazzの話をするとき、まず困ってしまうのは、「なにをもってJazzとするか」という「定義」が、ヒトによってあまりに違うこと。まずここをクリアして共通の基盤を持たないと、そもそも議論にならないでしょう。ならない議論を無理にディベートするのが、ジャズマニアの心意気とおっしゃる方もいるかもしれませんが、これじゃふつうのヒトはとてもついていけません。

ジャズファンの中には、フリージャズみたいな、爆発する自由な表現こそ、Jazzの醍醐味だ、と思う人もいる半面、ジャズ理論やスイング感に代表される「形式美」があってこそJazzだというひとも多いのです。この二面性は、Jazzプレーヤーの中にさえ内在してるし、ましてや日本みたいに、自然発生的にJazzマインドがでてきたのではなく、あくまでも「輸入文化」としてスタートすると、本来の姿がないのですから、自分勝手な思い入れの応酬になってしまいがちです。

ただはっきりいえるのは、「形式的な、Jazz理論に代表されるような、頭でっかちの評論家向けJazzには、もはや生きた音楽としての将来はない」ことと、「本来のJazzスピリットである、何物にもとらわれない、自由な感性のほとばしりとしてのJazzなら、まだ可能性は大きい」ことではないでしょうか。誰もがジャズ独自のアイデンティティーと認めるものに、interplayの応酬があります。これを否定するジャズファンはいないでしょう。こういうアドリブプレイ自体が、自由な感性のほとばしりの発露といえるわけです。だから、この面ではまだ可能性があるといえるでしょう。

とはいうモノの、こういう即興性がからっきしだめで、Theoryどうりに淡々とひくだけという「ジャズメン」が多いのも、日本のジャズシーンのいかんともしがたい現状ですね。更に、そういうプレイを見抜けずに拍手喝采してしまう「ジャズマニア」が多いのも、この惨状に拍車をかけてます。だいたい、ジャス喫茶で、首でリズムとってる連中は、ほとんどこういう勘違いしたやつらだよね。これならまだ、機械をバックに、スゴいアドリブプレイができる人が一人でプレイしたほうがましというものです。日本のジャズは、「ジャズマニア」が甘やかし悪くしてる。わたしゃ、いつもそう思ってます。

なにはさておき、ジャズに限らず音楽からクリエーティビティーがなくなったら、それは「生きる屍」です。クリエーティブで、オリジナリティーのある音楽やプレイは、いつ聞いても新鮮です。逆に、モノまねやパクりだけでカッコつけた音楽やプレイは、新譜で聞いても陳腐です。もっとも、クリエーティビティーやオリジナリティーは、多層的なものだから、聞く人の能力によって(クリエーターとしての)、見えている(聞こえている)ものがどこまでの深さを持っているかは、大きく違います。いい作品は、自分が成長するたびに新たな発見があるのはこのためです。

創造的な作品が、エバーグリーンなのは、作品の中のごくごく深いところに込められた個性が、時代とともに広く認識されるようになってくるからでしょう。コルトレーンとか、あるいはタイプは違うけどセロニアス・モンクとか、ジャズの天才の過去のプレイとか聞くと、それを感じますね。そしてこの深みこそがジャズの本質じゃないかと、ぼくは思っています。


(95/05/12)



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