ミュージシャンと評論家





音楽については、基本的には好き嫌いですから、どう論評したところで、つきつめれば好みの話になっちゃう。それを脇においたら、ほんとにどれだけ売れたとか、客観的な指標をどう読むかという話しか残ってない。こういうのはROEとか、お金の効率の問題と同じになっちゃう。面白くもなんともない。こんなところに、深入りしてもしかたがない。だから、音楽なんて基本的には個人的なものでいいと思うし、他人にいいとか悪いとかとやかく言うもんじゃないと思う。

たとえば、ぼくは個人的趣味としては、音楽という面では山下達郎氏とか好きじゃないし、その奥方の竹内まりあ女史に至っては、FMでオンエアされれば必ず局を変えるぐらいキライですが、彼らのファンだというヒトを非難したり、侮辱したりしませんし、山下達郎氏の声の良さや、彼の音楽に対する博識ぶりについてはきちんと高く評価しています。そういうもんでしょう。

いつもぼくが言っているように、「好き・嫌い」は個人の自由ですが、嫌いなものでもいいところはいいとして評価できる心の余裕があったほうが、音楽もより深く楽しめると言うことはあるでしょう。まあ、一般のリスナーは、単に好き・嫌いでCD買うわけですから、「好きなものは好き、嫌いなものは嫌い」でかまわないですよね。どうせ嗜好品なんだから、それでいいじゃないですか。自分がプレイするヒトは、嫌いなモノも正しく評価できたほうが、得るモノは大きいでしょう。

一部の唯我独尊的な嫌煙権主義者やフェミニストのように、自分と意見の違う人間を攻撃したり、排除したりしなければ、好き嫌いの問題ほど、個人の自由に任せられるものはありません。ただ、作り手の側となると、そうもいってられない。嫌なものでも、学ぶべきは学ばないとね。敵に学べるひとのほうが、勝負には勝てますから。

音楽の場合には、受け手としての立場や視点と、送り手としての立場や視点があって、それぞれちょとづつ違う。で、評論家ってのは、基本的に一番声のでかいリスナーでしかないと(笑)。一方、ひとたび送り手の立場に立っちゃうと、なかなか受け手の立場には戻れない。

結局、評論家なんて音楽の世界の外側にいるだけだからね。「じゃ、てめえ、奏けるのかよ」「じゃ、てめえ、唄えるのかよ」「じゃ、てめえ、曲書けるのかよ」。この連発攻撃で簡単に撃破できる。だから、ミュージシャンは、評論家なんて音楽界の外側にいる異界の住人だと思って、ハナから相手にしないのがふつうです。きちんと音楽をクリエートしている人なら、どんなものからでも、「学べるもんは学ぼう」という気持ちでいっぱいだから。まあ、評論家になっちゃったヒトはしょうがないけど、評論家のマネして、この音楽はああだこうだと、できもしないのに偉そうに主張するのは、見苦しいですからヤメたほうがいいですよ。


(96/09/04)



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