Stewart Copeland
< drams, vocal >

 
 
 
 
 
本名:
スチュワート・アームストロング・コープランド
Stewart Armstrong Copeland
生年月日:
1952年7月16日 (蟹座)
出身地:
Alexandria, Virginia, USA
身長:
180cm
趣味:
乗馬(ポロ)、8mmビデオ

 
 

●ポリスまでの歩み●
 彼の家庭環境は、ポップ・ミュージックの世界でも珍しいものだった。父マイルス・コープランド・ジュニアは、かつてグレン・ミラー・オーケストラのトランペッターであっただけでなく、CIAの初期の佐官の一人でもあった。彼は後に中東のリーダーや石油王に対する、フリーランスの政策アドヴァイザーとなる。そんなわけで、スチュアートは子供時代をカイロで過ごし(ナセル大統領もディナーのレギュラー・ゲストのひとりだった)、それから9年間をベイルートで過ごした。そこは、ニュース・レポーター達の決まり文句になっている“紛争によって引き裂かれた”という言葉が、当時からぴったりの場所だった。(ところで、こういった環境は孝古学者である母ロレインにとって全く都合の良いものだった)。コープランド一家は、大勢の召使を使って、ある程度贅沢に暮らしていたけれど、その平穏は見せかけのものに過ぎなかった。スチュアートの一番幼い頃の記憶のひとつに、レバノンの内戦がある。「ぼくは、ちょうどよちよち歩きを始めたばかりの赤ん坊だった。だけどそういった場所で、ぼくらは食糧に溢れた部屋と水の張られたバスタブのあるアパートに住んでいたんだ」。
 ベイルートの町からは直接的な被害を受けなかった彼だが、兄達や姉によって家の中で酷い目にあっていた。マイルスIII世は、成功者である父をアグレッシヴに見習おうとしていた。父のいない間、彼は厳しい規律を課す役目すらも肩代りしていた。イアンは反抗し、近所のアラブのギャングに加わった。レオノーラ(愛称レニー)は、自分の周りで荒れ狂う男っぽさに逆らって、我が道を行った。そしてスチュアートは、余り自信のない子供として育った。当時を振り返って、彼はこう語る。「ぼくはあらゆる点で成長が遅かった。年の割りに体も小さかったし、眼鏡をかけていて学校でも全くダメだった。僕は単なる人工統計の数字のひとつに過ぎなかったんだ」。10代の間、彼は逃げるようにドラムを叩き続けた。それだけが特別 なことだった。だが悲しいことに、彼はひとりきりでプレイしなければならなかった。参加するようなバンドもなかったのだ。政治状況が少々悪化してきたため、1966年、一家はイギリスに移り住み、スチュアートはそこで学校教育を終えた。それからバークレーのカリフォルニア大学へ進んだ。そこで音楽、公共政策、マスコミについて楽しみながら学び、ついにある種の自尊心のようなものを持つに至った。そしてこの時、全く予想もしなかったことが起こった。ロックンロールが10代を通 じて犬のように喧嘩ばかりしていたコープランド兄弟を再び引き寄せ、結び付けたのだ。


 60年代の終わり、マイルスIII世は天職と称していた株式業界から手を引き、イギリスでウイッシュボーン・アッシュ、ルネッサンス、クライマックス・ブルーズバンドのような“プログレッシヴ”バンド専門のエージェント/レコード会社を始めた。その頃、自ら志願してベトナムに行っていたイアンが、勲章を受けた“英雄”として帰還。マイルスの会社で働くようになったが、彼は自分が生まれながらのエージェント―電話でうまく人を説得できる巧みな話術の持ち主であることを、すぐに理解した。そして72年、休暇でバークレーから戻ったスチュアートは、マイルスが熱い期待をかけていたキャット・アイロンのツアー時の“アーティスティック・ディレクター”として加わった(結局キャット・アイロンは成功しなかったけれど、このバンドには後にポリスの共同マネージャーとなる若きドラマー、キム・ターナーがいた)。それ以来、スチュアートの音楽的キャリアはコープランド家と常に結び付いていた。

 
彼はジョーン・アーマトレイディングの全米ツアーのマネージャーとなり、しばらくカリフォルニアに戻っていたが、学校で学位 を取ることは出来なかった。それから彼はイギリスに戻り、カーヴド・エアーのツアー・マネージャーを担当していたが、ドラマーがバンドを辞めたとき、メンバーとなった(彼等は、やがてマイルスの会社であるBTM傘下に入った)。見込みのあるようなギグではなかった。彼等は既に一度解散していて、ただ税金を払うためだけに再結成したのだった。だが、イギリスの音楽新聞にスチュアートの名前をしらしめたのは、カーヴド・エアーだった。それは間違いない。この“新進パーカッショニストのダイナミックなパワー”を絶賛するファン・レターが編集部に殺到したのだ。数年後スチュアートは、これら熱狂的な褒め言葉の大部分が自分で書き送ったものであった、と誇らしげに告白するのだが…。ともあれ、以前は尻込みしていた恥ずかしがり屋のスミレが次第に花開き、派手なテクニカラーの色彩 を帯びていったのは確かだった。
<Message in a Boxより>

 

 

 

 

 

 


カーヴド・エアー

 

 

 

 

 


コープランド兄弟
(左よりイアン、 スチュワート、
マイルス)