***** 1998年6月15日 *****
[T:19688] Burutore-shounen Mail #2 & Tanna-Tunnel



 こんにちは、深町です。


 さて遅れ馳せながらの続きなのですが、「出雲2号」から「あさかぜ」ま
で撮って、その後しばらく間があるので、湯河原の大カーブへ移動しました。
「瀬戸」が行った後のためか、人は全くいなくて、ここで「富士」、「はや
ぶさ」を撮影。いやいや久しぶりですよこっちは。前に来たのは・・・・・・
EF58の荷物列車撮った時です(笑)。

 「はやぶさ」と「さくら」の間が開いているので、海沿いの国道へ出てファ
ミレスで一服。そしたら徹夜のせいもあって根っこが生えてしまい、「さく
ら」はパス、になってしまいました。(=o=;;;;;

 メインの予定はこれで終了、なのですが、ちょっと思うところあって丹那
トンネルを見に行きました。ここのところ、新橋〜横浜の鉄道建設物語や、
弾丸列車の話や、故・島秀雄氏にまつわる話を読んだりしているものだから、
先人達の鉄道へかけた情熱、意気込み、多大な労力や犠牲・・・・・ちょっ
と近頃感化されている部分も多々、あったりします・・・。

 それに丹那トンネルは、峠越えの克服、の一例でもありますし。(^^;



 さて熱海のヤオハン(ぉ の前を抜けて来宮へ。この駅を出てすぐに、丹
那トンネルは口を開いています。来宮は下田線の駅ですが、ここまではまだ、
東海道本線と並行していて、丹那トンネルを前に下田線は南へと向きを変え
ていきます。熱海を出た「踊り子」が下田の方へ向けて旋回、それを追うよ
うに、分割した5両編成の修善寺行きの「踊り子」が、真っ直ぐ丹那トンネ
ルへと入っていきました。

 その坑口の上に、連続して石が積まれていて、その裏側は、このトンネル
の工事に携わって犠牲になった人達の無を刻んだ碑になっています。トンネ
ルの真上に来て、線路を見降ろす向きに立つと、この碑と向き合います。

 67名の犠牲者の名が刻まれ、この碑を説明する文章が添えてあります。
日本語に英語、そしてハングル語でも記してあるのが、このトンネルの成り
立ちの一面を、物語っています・・・・・。

 今日も多くの列車がこのトンネルを通り、さっき撮ったブルトレ達も、こ
こを抜けて関東へ入ってきました。何十年も当り前のように列車を通してき
たこのトンネルも、しかし最初から当り前に存在していたわけでは、無いん
ですね・・・。名も無き大勢の人達に、鉄道は支えられて来たんだなぁ、と
ぼんやり思いながら、目を移すと、「のぞみ」がすぐ横の新丹那トンネルを
抜けていきました。

 新丹那トンネルが、戦前の「弾丸列車」計画の際に途中まで掘られていて、
それが東海道新幹線に活かされたことはよく知られるところですが、難工事
だった丹那トンネルと同じルートがまた採られたのも、工期の問題から、既
に地質データのあるこの場所が選ばれたからだとか。それにトンネル工事の
技術の進歩も、あったでしょう。

 土木技術の進歩は、工事に携わる人達の安全と、環境改善をもたらしまし
た。かつて難しいとされた壮大な工事が現実に行われ、いとも簡単に、と錯
覚さえしてしまうほどに、難なく完成し、使用される・・・・・山国日本、
長大トンネルで地形を克服するというのも、現代では常套手段でさえあります。

 そう思う時、技術万能、的であればあるほど、見えなくなるものがあるの
ではないかな、とも思えてくる・・・・・・技術が未熟であるが故に起こる
事故があるとしたなら、発達した技術の中で起こる事故というのは、いかな
るものなのか・・・・・・意外と、これは恐いものであり、見落とされてい
るものなのかも、しれません。昨今鉄道界で色々な事が起こっていますが、
物事が高度になり細分化される一方で、かえって目が届かなくなることも、
あるんじゃないかしら、と。

 先人達の苦労や犠牲から、学べることは山ほどある気がします。技術の発
達した現代ではもう無縁だ、とは言い切れない根本的、本質的な部分で。



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     深町 忠利  ふかまちただとし