***** 2006年4月20日 ***** [T:44533] Kouhaku (& Tokyo sta.) こんにちは、深町です。 こちらに投げるのは、今年初めてかもしれません。あけましておめで とうございます。m(_ _)m(ぉぃ #勢いでまた長くなってますが・・・。(_ _) 今年は交通博物館イヤーなんですよねぇ・・・・・と書こうかとモタ モタしているうちに、鉄以外の雑誌でも特集組まれるやら、あちこちメ ディアでも取り上げられて、そしてとうとう、あと1ヶ月を切ってしま いました。新春初笑い・立川真司ライブの話題など、もう古いですよね・・・。 #ここまで来ると既にあちこちで紹介されている話とカブるかもしれま #せんが、そこはご容赦を。 大宮への移転が発表されたのは、2年ほど前になりますか。その時の 話は・・・ごそごそ・・・[T:43534]あたりで書いておりましたが、その へんも含めつつ・・・・・で、この2年ばかり、機会を見つけては足を 運ぶようにしておりました。ついででちょっと寄れるのも、都心にある 今のうちで。 やえもん、なかよし号、パノラマ運転に、こだま食堂と、えーとそれ から、そうそう101系ドア挟み! やったわやった、なーつかしーな〜(ぉ ・・・・・時代とともに変わったもの、眺める視点の高さ以外ちっとも 変わっていないもの・・・・・幼い時分から訪れていた身としては、そ こで蘇る記憶を見て歩く博物館、のような気もしてきます。なんだか自 分探しモード入ってますが。 そういえば、こんな駅張りポスターがありましたね。外の0系の鼻先 の前で、Vサインを作る少年の写真。そして短いコピー。 「帰りたくないと、君が泣いた場所です」 ・・・こみ上げましたわ。 たしかに、この頭だけの0系、ずっとそこにいて、その泣いていたか もしれない頃から、成長した(そして老けつつある(汗))姿まで、ずっ と見守られていたようで、どうもこの前では、嘘などつけないような気 もしてきます。「おー来たか。おまえ、もういくつになった?」「やー、 もうこんな歳ですよ」「おまえのオムツ換えてやったのもついこの間だっ たのになぁ。ところでいい人いないのか?」・・・・・なんだか親戚の 叔父さんみたいでもあり。 そういえばこの前でずーっと立ってた記憶があるのですが、そうそう、 かつては交通博物館でも、記念切符の発売の割り当てがありましたよね。 「さよなら雲仙・西海」とか並んで買った気が・・・・・あれはいつま であったんでしたか。0系と中央線の間に発売窓口がありました。 昔話ついでに、修学旅行電車「なかよし号」、私はギリギリ、臨時の 「伊豆」か何かでまだこの色だった167系に乗ったことがある程度な のですが、修学旅行電車としては、湘南色になっていた155系(また は159系)で、日光へ・・・・・蛍光灯が枕木方向に並んでいたのが 妙に印象的で・・・・・当時は東京〜上野間で直通出来てて。(^^; でその「なかよし号」、昨年の鉄道の日月間に、運転室を公開してい たのですね。記念品もくれるというのでクレクレクリャリンコ(世代依 存全開)とばかりに並びまして、並びながら、案内の若い学芸員(?) 氏に気になるところを訊ねてみました。確か昔はもっと客席部分が残っ てて、ボックスがいくつかあったと思うんですがぁ・・・・・すると 「あぁ、昔ぁーしですね」・・・・・昔ぁーし、でしたかもう。 さらに。「日本の車両」とか「日本の特急」とか車両の顔の並んだ下 敷き、「しおじ」とか「ひばり」とかそのあたりのを持ってた記憶があ ります。時々顔ぶれが変わったりしてましたか。今は種類があまり無い みたいで・・・・・今の小学生は下敷きって使わないのかしらん? 机 も凸凹してないし・・・・・あー、トーマスとか「しんかんせん」とか 強豪が? ソフビの新幹線貯金箱、ありましたよね。団子鼻の頭が大きくてすぐ 後がきゅっと細くなって尻尾になってる・・・・・あの「えへ」って顔 で見上げる表情がなかなか良くて手許にも1ケあるんですが、これ、売 店であらためて見回すと、いつの間にか消えており・・・。下敷きもソ フビも、交通博物館と、交通科学(博物)館と併記してあったと思いま すが、弁天町でももう無いのでしょうか。 先日「こだま食堂」でカレーライスを食べた折、ふと気付くとスプー ンに「NSK」の文字。おやおや日本精工じゃこんなものまで造ってた のかと、よくよく見ればそのすぐ上に動輪のマーク・・・・・日本食堂 ですがな。営業線を走る食堂車も今や極々僅かに残るのみ。それに乗っ て確かめることもままなりませんが、ここのスプーンはまーさーに、今 なお現役。ん、これまた弁天町のナシ20はどうだったかしらん・・・? 4月に入ってから、正確に何日からだったかは判りませんが、外の0系 とD51、中のC57やマレーや「やえもん」や「なかよし号」、それ ぞれにさよなら仕様のHMが付きました。それぞれ、どっかで見たよー な絵柄に「交通博」等の文字。最早いつもの交通博物館ではなく、刻々 と別れへ向かってしまう、儚い空間になっています。当然ながら、あの 「帰りたくないと泣いた」かもしれない「元」鉄道少年達が、或いは子 供をダシに、或いは独り密やかに、訪れている姿が目につくようになっ た気もします。最近始まった館内スタンプラリーに興じている姿は、文 字通り「大きな子供」・・・・・他人事じゃないんですが。(ぉ 今度、懐かしのスタンプ帳買って捺して回ってみよか・・・(ぼそ)。 万世橋駅跡のツアーは大盛況のようで、連日受付には長蛇の列が、売 店前からマレーをぐるりと回ってまた売店前近くへ、そこで折り返して 今度はC57をぐるり・・・・・といった具合。事前の予約無しでは一 日過ごす覚悟が要る(再入場しても安いものですが)ようです。20分 ヘッドで正直忙しないツアーですが、それでも十分に価値ありかと。最 初に見せられる映像がまたよろしく。 そういえば、マレーの横の休憩所、あそこの階段が石造りで怪しいと 思っていたら、やはり2代目の駅の改札内であったようで。最近、休憩 室の化粧板の壁の一部をくり抜いて窓が出来て、これまた遺構が見学出 来るようになりました。こちらは覗くだけで予約不要。ツアーが無理で も、せめてこちらを。 さよなら記念品、シコタマ買い込みました。(^^; どこぞのチャラチャ ラした(失礼!)イベントとはワケが違う、あの交通博物館がとなると ・・・・・要するにブレーキが壊れちゃってんですが、あの0系とD51 の並ぶ入口前の模型、出来はさておき所望しますと、売店のお姉さんが 「これ2つ揃えるとブックエンドになりますヨ」・・・・・その手は桑 名の焼き蛤。カモは承知の上とはいえ、余程スキモノに見えたんですか ねえ。 因みにビューカード使えます。今ビューカードで¥1K以上買うと、 手作り風味の小さな1枚モノのカレンダーくれます。ただし5月までの カレンダー・・・。翌月の明細書に「交通博物館」と入れば、これも記 念になるでしょう(笑)。 DVDソフトも出たので、また買いに行きました(ずぶずぶ)。館内 を紹介するナレーションの、〜でした、〜ました、といった言い回しに ハッとしまして。これ、後々振り返るようにして観る構成なんですね・・・。 5年後か、10年先か、恋しくなったら、あらためて。 GWを過ぎたら、もう僅か。当たり前に存在しいつでも迎えてくれて いた博物館が、記憶上の存在に変わります。みんなの心の中にいつまで も・・・・・などというのも陳腐の極みですが、あの博物館を知る者同 士での「共通語」として、その世代が死に絶えるまで、残り続けるので しょう。まあでも、単に展示物や収蔵品だけではなく、それらを取り巻 く様々なものも一緒に、きっと大宮へ連れて行ってくれるだろう・・・・・ そう、信じています。 足には事欠かないので、折角この時代に居合わせたのだし、最後の日 は入れずとも見届けに行きたいなとは思ってます・・・・・またワケ分 かんないのが三本締めとか始めるのかしらん・・・。 閉館後のこの場所の行方がどうなってるのか私はよく知りませんが、 せめて交通博物館を偲べる場所であったなら、といった願望はあります。 立地が良いので何か建ちそうですが・・・・・でもガード下の部分につ いては、活用の道がありそうな。窓くり抜いて神田川見下ろすレストラ ンとかでも良いですが。 その前に、閉館後は搬出作業が続くと思いますが、見届けるというこ とにおいてはやはり、そこも見ておきたい・・・・・C57なんか大掛 かりになりそうです。そして交通博物館が、その気配を消していくまで の様を・・・。 ときに、交通博物館への道すがらの中央線ガード下にある「ラジオガァ デン」、旧き良き秋葉原然とした電気部品やらジャンク品やらと、場所 柄プラレールなんかも扱っていて、交通博物館を訪れる家族連れには一 種「梁」(笑)のようになってましたが、こちらの今後もちょっと気に なるところ。(^^; 長々ついでに、今年は東京駅イヤーでもありました。開業100年を 機に、戦災に遭う前のオリジナルの姿に戻すとのこと。4月に入って、 丸の内中央口の前の井上勝像のあたりが掘り返され始めているのを見か けましたが、駅舎の工事とは別だったりして・・・。 あのバブルの頃でしたか、とっとと壊して高層ビルに、なんて計画が あったように記憶しております。反対運動が起こったりしましたが、今 にして思えばよくぞ残ったなと。「次の100年」の迎え方も、全く違っ てしまいます。 一方今の姿も、既にオリジナルの頃の2倍もの歴史を持っているわけ で、これはこれとして重みのあるところ。またこれしか見たことのない 世代・・・・・要するに団塊以下なら全員ですが・・・・・にとっては、 こっちがオリジナルみたいな部分もあるわけで、そこまで考えると心情 的に複雑なものがあったりもしますが、戦災復旧時にオリジナルを主張 していたという、東京駅長をはじめとする当時の人々の無念が、遅まき ながらようやく晴れることにも、なるわけで。ありきたりですが、これ もひとつの「戦後」でありました。 ときに、本家がまた出てくるとなると、深谷駅は・・・。(^^; *****