***** 1998年7月19日 12:29:54 *****
[T:20245] [Mo]Usui Mail 1998/7/19 #1



 ども、ふかまちでございます。


 只今、安中榛名駅で釜めし食べたところ、だったりします。「おぎのや」の
鉄道部門の方、つまり、以前テレビで取材受けたり「おぎのや」のポスターに
登場したりという、「あの方」がいらっしゃいました。(^^;;

 ゴルフっぽい人や、乗るのか観に来たのか判らない家族連れがぱらぱらとい
る構内、時々「あさま」が通過する、どわーっという音が聞こえてきます。そ
の通過する時、料金表が若干歪んで、改札口の風鈴もちりりんと鳴り出し、ホ
ーム上で展開されているであろう疾走シーンが、窺えるようです。

 さて既に一部JR東日本高崎支社フリーク(笑)の間ではお馴染みなんです
けど、安中といえば、アレがあるのですよ。

    悟留譜観世音菩薩。

 悟留譜は「ゴルフ」と読みます。暴走族じゃありません(笑)。

 世界唯一の、ゴルファーの守り本尊、なのだそうで・・・・・・そらそうで
しょうな(爆)。

#しっかし何からゴルファーを守るんだろう? 雷? ホールインワン?

 千手観音よろしく、背中に放射状にクラブが生えてます。なんとも・・・・・
・・・・・あえてコメントしません。(^^;;;

 オレカと、お守りキーホルダーがあります。いやはや。



 さて、静かな駅構内、そうそう駅前は相変わらずなのですが、「JR東日本
小さな旅」などのパンフがあります。出たばかりの「新幹線DEトレイング」
というのをゲットしたところで、「小さな旅」の奥多摩・甲州特集号を開いて
みますと、その地域の色々なお勧めコースが載ってます。

 お?

 「大月・リニヤ(ママ)実験線見学と湯ったりの旅」・・・・・むむむむむ。

 「あの」JR東日本がリニア実験線を・・・・・うーむ、バックグラウンド
的にこれは意外。(ぉ(ぉ



 ではでは、そろそろ横川方面へ向かうとしましょうか。



  *****
     深町 忠利 > ふかまちただとし(モ)
        E-Mail > cub@t3.rim.or.jp
           URL > http://www.t3.rim.or.jp/~cub/



***** 1998年7月20日 4:44:29 *****
[T:20254] [Mo]Usui Mail 1998/7/19 #2


 ども、ふかまちです。


 横川駅前の「おぎのや資料館」を覗いてみました。

 そうそう、「旅と鉄道」最新号(臨増?)の、廃線跡小特集に横軽も
取り上げられているのですが、そのライターさんが取材に訪れたのは
GW過ぎの週末。「おぎのや資料館」に感想ノートが置いてあるのです
が、その日にその方の記名もありました。

 んで、私のも同じ日のその後にあるの。(^^;;;;

 感想ノートには、熱いのやしみじみなのや、色々な書き込みがなされ
ているのですが、バカだのなんだのという書き込みも紛れ込んでしまう
のは、こういうものの宿命なんでしょか? はぁぁ。



 丸山へ行ってみました。ここには「あの」コスモスの花壇があるので
すが、その手入れをしている人達がいました。

 そもそもここを開墾(!)したのは、知る人ぞ知る「MAD.W」さ
んという人なのですが、このMAD.Wさん御当人はいらっしゃらず。
作業をする方々に訊ねてみれば、彼らは「横川鉄道感謝の会」の方々で、
MAD.W氏は今日は不在の由。

#TRAINWWWの「横軽談話」にも予告されてましたね。

 横川運転区の裏手に空き地があり、ここは今「横川鉄道文化むら」の
予定地でもあるのですが、そもそもそこは国鉄の社宅があったのだそう
です。そこで生まれ育った人達が、横軽廃止を前に集まって「感謝の会」
が誕生した由。「感謝=官舎」だそうで。(^^;;

 横軽の最後の数日、プリントを配ってお別れの言葉や思い出を書き込
んでもらっていた人達を御記憶の方もいらっしゃると思いますが、それ
がこの彼らだったのでした。

 廃止を前に、何かしらの「お別れ」の形を残したい、というのが最初
の動機だったようで、けれども廃止後に「横川鉄道文化むら」が誕生す
ることを知るに及んで、この地の応援をして行こう、ということになっ
て活動が続いているのだとか。廃止への恨み言を言うよりも、これから
「創って行く」ことを考えている人達と見受けました。



 花壇(私は「MADガーデン」と呼んでますが(笑))の手入れを少
しだけながら手伝わせていただいた後、色々なお話をしたんですけれど、
最後の「あさま37号」は、宿舎道踏切と第16中山道踏切の間のカー
ブで、見送ったのだそうです。そこは、かつて自分や友達の父親の仕事
っぷりを眺めていた場所、なのだそうで・・・。

 あの時私は、「お気に入りの昼寝場所」だったざんげ岩にいました。
やはり最後に見届ける場所は、私なりにもこだわりたかったので。

 因みにあの日の「あさま37号」の運転士さんは、その前の「あさま
38号」でも峠を越えて、高崎で折り返し、つまり上下の「あさま」の
峠越えの取りを務めたわけです。この運転士さん、峠への思い入れも一
入であったようで、「感謝の会」へも一筆寄せてくださったのだとか。



 これからの横軽を、ただ朽ちて行くだけにさせないようにしようとす
るには、クリアーしなくてはならないことが山積みのようです。今、
「鉄道文化むら」準備室や「感謝の会」他、様々な人達が、手探りなが
らも可能性と取っ掛かりを得ようと、動いています。

 あのわーきゃー騒いでいた日々が遠い過去の記憶になりつつある一方、
昨年9/30以降も、「横軽」は、依然として存在し続けています。



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