***** 2014年3月22日 ***** (独り言) 十川忠行写真展「あのときから」〜旧信越本線横川―軽井沢間の記憶〜 ・・・にお邪魔した。何故今碓氷峠なのか、というのは十川氏自身の内な るもの、「あのときから」のタイトルにあるように、同氏にとってひとつ の原点であったことを示す。 今回の個展を知ったのは、昨年秋別の写真展で初めてお目にかかった時 のことだったが、厳密には全くの「はじめまして」ではなかった。お話を 聞いて、あ!、と思い当たったのだが、随分昔にメールを頂いたことがあっ たのだ。その頃燃え尽き症候群にあった(ということにしといてください・・・) 私は何かと礼を欠いていたに違いなく平謝りなのだったが(汗)、その彼 が、碓氷やりますよ、初心者でも(確かに彼はそう言ったのだが社交辞令 的予防線でないことは後に判る)これだけ撮れたというのを見せますよ、 というようなことだったので、そろそろか、そろそろかとあちこちカチカ チチェックしていたのである。 1ヶ月前程になりネットの告知の写真を見て、彼の言葉の意味が解った。 ロクサンの流し撮り。どこか突き抜けてる。俯瞰でもない、眼鏡橋でも ない、釜めしでもない・・・・・碓氷峠の定番、或いは鉄板、或いは 「記号」的な手垢にまみれたものを脱ぎ捨てるような清々しさを、その写 真は予感させた。 これは事実上の「同窓会」となるかという予感があった。むしろそのつ もりでお邪魔したようなものなのだったが、あの日あの時、あなたそこに いたの、私こっちにいたよ、などという話は尽きず、昨日だけのつもりで いたのが、2日連続でクローズまで居座ってしまった。 十川氏によると、レイル・マガジン1996年6月号(通巻153号) が、碓氷へと誘ったのだという。コンパクトカメラひとつ持って乗り込み、 火が付いて一眼レフを揃え、最後の一年とその後を撮り続けることにな る。 碓氷にはスゴイ人達がいて、雑誌などでそのスゴイ写真を目にするたび、 私は溜息をついていました。 そこで過ごす人達が羨ましくなって・・・・・ かつて私はそう書いた。私もまた、「峠の四季帳」はじめ碓氷の大先輩の 方々への憧れや畏敬と共に、碓氷の魅力に染まったという経緯がある。 RM1996/6号といえば、そんな私が現地へ通ううちに知り合った峠 仲間と、こぞって同誌に投稿していた(笑)頃で、十川氏からすれば大先 輩共々「見られる側」にいた格好で、面映いやら申し訳ないやら。 また、ここには眼鏡橋も丸山変電所も出て来ない。会心の写真が手許に あったとしても、ここでの表現の方向性に乗ってこないのであれば当然外 すべきではあるが、十川氏自身、そこに迷いはなかったらしい。 十人十色とはよく言ったもので、見たことのない撮り方というのは後か ら後から出てくる。面白いのは、当時であれば駄目出しかも知れぬ作品が、 今見るとこれはこれで良いではないかと思えてくること。恐らく当時は商 業寄りの観点で「クウォリティ」という価値観が優ったものが、今や歴史 上の「リアリズム」にそれが移っていることの証左では、あるまいかこれ は。 中でも印象的だったのは、丸山の直線を行く列車の真横を、霧積川の向 う岸から狙った流し撮り。丁度上信越道の橋の下辺りだが、私自身は後に シェルパくんの西日ギラリを狙ったりはしたものの、実はここでロクサン を撮ったことが多分無い。他にかまけてて手が回らなかったといった方が 正確か。晴天では橋の影が入ってしまうので、上信越道の建設が進んでか らは敬遠されていたようなのだが、ここでは臆面も無く(!)バーンと橋 の影が入っている。ところがこうして見ると、ちっとも邪魔じゃない。む しろその影が高速道路の気配を感じさせ、「橋を絡めた」写真と言うべき ものに仕上がっている。しかも橋の影の間に丁度、ロクサンとあさまの連 結部分の前後が良い具合にハイライトになっていて。 やられた・・・。 また話題を集めたのは最終日にロクサン2号機が、軽井沢への片道の旅 に発った姿を、第16中山道踏切から捉えたもの。この時私は駅前のおぎ のや本店にいて、悠長に昼飯にありついていたのだ。店から覗く駅では単 機のロクサンが見えて、単171かとかなんとか言っていたら、3両だっ たという。最終日は半ば呆けていたのだったが、何故あれもしなかったこ れもしなかったと、後悔後を絶たづ・・・。 他にも当時回したビデオなど、商品的な価値は恐らく全然持てないであ ろう(失敬!)記録をワイワイと観ながら、それぞれで共有する「何か」 を、或いは確かめ合えたような、そんな時間なのだった。 この先もきっと、碓氷は見知らぬ者同士も結び付ける「共通語」であり 続けるのであろうし、一方世代を分けるキーワードとしての色合いも、こ の先益々帯びてくるのだろうけど、なんというか歴史の時間軸の上の自分 の位置や、自分の時間軸の中での今の位置を見つめ直す、ひとつの道標の ように感じる、この頃で。 私は私の「あのときから」だったのだし。 (終)