***** 2015年9月27日 *****
(独り言)
一月ほど前、この2月に設立された「碓氷峠浪漫倶楽部」の、Webサイ
トが公開された。
碓氷峠浪漫倶楽部(碓氷峠歴史文化遺産研究会)
http://www.roman-club.com/
峠仲間のM氏はいつの間にかレポート投稿してるし(驚)。
さてその碓氷峠浪漫倶楽部で「碓日嶺鉄道碑」の現地説明会を開くという。
現地とは勿論、熊ノ平の構内。現物を前にしての講義である。その存在自
体は知っていたし、この碑がこうして熊ノ平で落ち着くまでの凡その経緯や、
碑文の内容の大雑把なイメージはあったものの、ここで改めて向き合ってみ
るのも有意義かと、参加してみることにした。
雨さえ降らなければ、横川から歩いても、バイクで行ってもという気分だっ
たが、どうも具合がよろしくないのでクルマにて出立。特にコレといったイ
ベントもないまま・・・・・と思ったが、久しぶりに富岡から一般道を流し
て行こうか、とICを出たその次、またまた気分が変わって、安中城址へ向
かう。
安中城址・・・・・あらためてその場所を地図で探すも、ここですよ、と
いう程のモノが見当たらづ。公園にでもなっているのだろう、というぼんや
りとした先入観は覆されて、ネットで調べてようやっと、この辺りかと目星
を付け、ともかく県道212号を道なりに、碓氷郡役所跡前へ突き当って、
くねくね入り込んで、文化センター、なる施設の駐車場にクルマを入れる。
辺りをぐるぐる歩いて、結局戻ってきたところに、それはあった。
「安中藩安政遠足之碑」。
あるのは知っていたが、そういえばこれまで見に来たことが無かったので
ある。毎年行われる「安政遠足」も、安中城址をスタートして、という言葉
としての理解はあったが、城址自体が来たことなかったから、全然イメージ
に無かったわけで。そうかあ、これかあ・・・・・折角なのでクルマも入れ
て、ぱちり。
傍らには「日本マラソン発祥の地安中」という小さな碑と、「安政遠足覗
き石」なる岩が、でん、とあって。そこに穿たれた、直径5cm前後かとい
う覗き穴の真っ直ぐ向うに、熊野神社のある旧碓氷峠があるという。
地図と照らせば確かに、方角は合ってそうだが・・・・・意外と仰角も・・・
・・・何も見えん。
長年の懸案(?)を片付けたところで、横川へ。途中沿線にギャラリーが
いたから、今日はSL運転日だろうか。
今年は秋の訪れが早かったので、コスモスも咲いてるのでは、という淡い
期待を抱きつつ、丸山へ急ぐ。もうじき出る「シェルパくん」の始発と絡め
られないかと・・・・・直線を歩いているうちに背後から追いかけられ、ど
うにか逃げ切って、かつてロクサンでそうしたように、コスモス越しに流し
撮り・・・・・ってシェルパくん、遅っっっっせぇぇぇ・・・。シャッター
を1/8まで落として、その返しも狙ってみるが、どうにも覚束ない。
ところでどうやら今日来る気配のSL、時刻表を見れば旧客らしいという
のはさておき、「釜めし号」ってナニ。おいおいなんだそりゃ、というわけ
で横川へ取って返し、これを迎える。思いっきりおぎのや仕様、お馴染みの
オレンジ色をベースに、これまたお馴染みの釜めしの掛け紙に描かれてるイ
ラストが入ってる。おぎのやのおの字も無いが、殆ど冠スポンサーの趣。
もう一度、丸山へ行って流してみるが、やはり遅い、遅過ぎる・・・。
そうこうするうちお昼・・・・・おっといかん、熊ノ平の説明会は1300
からなのだよ。
右に左にと旧道を流し、熊ノ平下の駐車場着。眼鏡橋から歩こうかと思っ
ていたが、そんな時間もなくなってしまった。M氏のクルマが既にある。歩
道を登って・・・・・息が上がる情けなさ・・・・・行くと、碑の正面あた
りで人だかりがしてる。あれだ。受付をして資料を貰っていると、M氏に声
をかけられた。
やがて「現地説明会」が始まる。講師の先生は「碓氷峠浪漫倶楽部」理事
長さんが直々に務められる。自分でやればカネかからないから、と仰るのだっ
たが、そんなものが謙遜であることは直に判るのだった。
まず石の産地や碑の様式をざっくり説明した後、碑文を読み進めながら解
説、というスタイル・・・・・しかしこの、送り仮名も無ければ返り点も無
い、長々としたこの漢文を、スラスラと訓読されるあたり、相当に、読み込
んでらっしゃるご様子で・・・・・まず初っ端に「碓日嶺鉄道碑」の読みか
ら入って、「嶺」の字が「みね」でなく「ね」と読むのが正しい、とのこと。
ごく最近にどこかの先生から聞いたばかりだとかで、配布資料ではまだ思いっ
きり「みね」だし、先生ご自身時々「みね」と発していたくらい。
読みといえば「阿武止」も「アプト」でなく「アブト」と読むべき、との
ことで・・・・・ここはドイツ読みに近い「アプト」を尊重したいが、この
碑文が刻まれた当時はそう発し、字も当てたわけだろうから、一理ある。
ふと思い出したが「文化むら」が出来た頃か、「阿武止」のTシャツが売
られていたのだな。多分横川の用品店が拵えたものだったと記憶するが、た
しかこの碑から採った字体で、背中にドーンと入ってる。デイパック背負う
と隠れてしまうので胸の方にも欲しかったが、その胸のところには小さくラッ
クとピニオンのイラストに「Apbt」と入ってて・・・・・正しい綴りは
「Abt」であり、これは「アプト」と「アブト」の鬩ぎ合いを、表してい
たのか。
はさておき、こういうスタイルの石碑自体は明治以降であるらしい。さら
に鉄道関係で石碑を建てるということも珍しかったようで、先生の調べた限
りでは、この「碓日嶺鉄道碑」が、現存する鉄道碑の最古のものである可能
性があるとのこと。また作文した漢学者の重野安繹、書を認めた長ひかる
(廿に火)、石に彫った廣羣鶴は、当時の錚々たる顔ぶれで、さらにその彫
りも篠彫りという高度な技法である由・・・・・分野がどんどん広がって、
こりゃ大変だ(汗)。先生は廣羣鶴のお墓を訪ねたりもしたそうな。
これだけのものを彫るには、5年程かかるという。しかし鉄道線の工期は
もっと短かったため、開通に合わせて建てたならば相当の突貫であったろう、
とのこと。完成時期や関係者名などは空けて、予定稿で彫ってたわけだろか・・・。
碑文を読むだけで、出るわ出るわの濃厚な時間だった。同席していた碓氷
線インストラクターさんが、熊ノ平の解説をして下さるというのでそちらも
聴いて・・・・・‘50年の土砂崩れの話等々。軽井沢に米軍の偉いサンが
来ていたので復旧を急がせた、なんて話もありつつ、その時の土砂を片付け
た沢が、今駐車場になっている一帯だという・・・・・ああ、言われてみれ
ば国道がそこをショートカットするでもなく、不自然といえば不自然な地形
だった・・・・・ん、めがね橋駐車場の土地も、なんか似てないか?
その後はM氏と玉屋へ流れて、力餅食べながら駄弁リング。相変わらず史
料集めに勤しむM氏の話に圧倒されていると、見覚えのある顔が入ってきて
・・・・・ああ、そういえば9/30目前なのだった。
(終)