Charles Baudelaire(シャルル・ボオドレール):(1821-1868)詩人。『惡の華』『巴里の憂鬱』『人工の楽園』。当初われわれはこのホームページを当時の新興作家や新興画家を擁護したボードレールの文筆活動に倣いあくまでも擁護するという立場で発信することを企図していた。結果はどうあれこのことは記しておくべきとの判断によりここに記す。ちなみにわれわれの主宰者がただのマセガキだった中学生の頃何になりたいかと尋かれたとき"ボードレール"と答えたという、どうだ恥ずかしいだろう。ついでに書けば小学生の頃は七夕の短冊に「"有名人"になりたい」と書き、幼稚園児の頃は"ブルドーザーの運転手"であった。さらについでを書けば、われわれは「はたらくくるま」が大好きで、工事現場などは眩く見えたものだ。
澁澤龍彦(しぶさわたつひこ):(1928-1987)フランス文学者、評論家、小説家、サド裁判被告、『血と薔薇』編集長。『サド復活』『高丘親王航海記』。その著作群にわれわれは「多大」とでは表現しえないほど多くの影響を受けた。また散々宣伝をしデモンストレーションまでしておきながら未だに発売されないCD-ROM『澁澤龍彦 DRACONIA WONDERLAND』の一日も早い発売をわれわれは旧デジタローグ現シナジー幾何学に要求する。
Andre Pieyre de Mandiargues(アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ):(1909-1991)小説家、詩人。『海の百合』『イギリス人』『大理石』。決してメインストリームにあらわれることのない想像力の持ち主。シュールレアリスム周辺から出発するが、正体はマルキ・ド・サドの隔世遺伝である。生田耕作による訳業の成果のひとつでもある短編集『黒い美術館』『燠火』『狼の太陽』がある。
"Road Runner and Wylie Coyote"(ロードランナー):Warner Brothers 制作の連続TVアニメーション。駿足の鳥類とそれを捕食せんとするコヨーテの追いかけっこのみを延々と繰り返す。放映の後期には自己模倣の悪循環に捕らわれ退屈なものになってしまったが最盛期のチャック・ジョーンズの演出した作品にみられる極度の抽象性はいかなるものも到達しえない透明な美しさをもっている。
Johann Sebastian Bach(ヨハン・セバスティアン・バッハ):(1685-1750)音楽家。われわれが今さらコメントするまでもない。
土方巽(ひじかたたつみ):(1928-1986)舞踏家、暗黒舞踏の創始者であり稀代の文章家。『犬の静脈に嫉妬することから』等の文章作品はまさに言葉による舞踏とでも称しうるもの。また、それらはなんといっても優しさに満ちている。むかしTVのドキュメンタリーで土方が振付けをしているところを観たことがあるが、そこで彼はダンサーに「あんたはもう死んでるんだから、ね」と諭すように云っていたのを思い出すが、彼の言葉には決して悪意が込められることはない。われわれは彼のことばを纏って眠りたいと思ったものだ。それらを毛布に書き込んでみようかとさえ考えたことがある。その実演に接しえなかったことをわれわれは残念に思う。また、その舞踏の口演たる『慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる』の録音もどのような手段をもってもあなたは必ず耳にしなければならない。
1998年に先の音源は未発表部分を加えて CD 化された(装丁は羽良田平吉)。以前より入手は容易になったはずなのでさらにあなたは必ず耳にしなければならない。なお、旧音源は詩人の吉増剛造の採録で活字化されているが、われわれも一部を試みに活字化してみた。『オシリス』の詩人の向こうを張って、などという気持ちはさらさらないが比較の機会を得たものは詩人とわれわれの耳の違いを確認されたい。CDではトラック15の部分だ。
15.
でもねぇ、ぼかぁっとしてるとねぇ、際限がないからねぇ、ぼかぁっとしたのが回復するから、ね、だからもう人はね、辛抱や心棒をはずしてね、どっかへどどどどどぉーって落ちる必要があるねぇ、私は本当に何も見ないよ、しかしそういう確信もないよ、本当にもぉ、どぉだっていーよもぉ、ほぉぅ、いーったらいーんだよ、虫みたいに私はなるんだから、どぉだっていーんだよ、なぁに、湯気?あぁ湯気は好きだよ、湯気はいいです、私ね、釜の蓋の湯気見てるとねぇ、ね、犬ぅ殺したくなるン、うん、私はね、何も食べてません、私何も食べてません、湯気見てねぇ、私はもうちっとも羨ましいと思わないですよ、えぇ、もう左足がビッコでしょ、ビッコ、これスキーやってね、ビッコンなったんですよ、だからもぅ、だめだと思うとき左足のね、間接はずすの、して道路にぴしゃーって座ってね、もう学校サ行かないっと、そう思うの、でもスイカだけは違うよ、私スイカ好きです、ね、スイカ喰うとき知ってる?スイカはねぇ、スイカの上に歯を飛ばしてパチョパチョパチョパチョパチョシューチョチョチョチョシューチックッチッって喰うもんだしね、あのスイカの生臭い汁で着物がべたっと濡れないとスイカなんか喰われませんよあなたたち、えぇっ、ぺろらっとした赤ぐろーい果物、ね、ちょっと腐ったような、あれがいい、ね、ところが冷蔵庫開けるとツンと三角でしょ今どこのうちでも、三角のスイカでしょう、ね、その頂点に歯をカッとたてて「アルプス」、何を言ってるん、そんな登山家みたいなこと言うんじゃないよ、そんなことするからダメなんですよ、ちぃさい俎板の上に子供の頭持ってってね、濡れてるんですよ子供の頭、それをパンッと上から落とすの、ね、その俎板もちぃさくなきゃいけないの、オンーッと割ればいぃんだよ、するとブンーッと匂ってね、スイカが、川流れのスイカだ、ね、私ねもう水ざまし(?)になると一番好きなんだよ、ね、だって、し、死んだ人と一緒に食べられるスイカなんかもぉ美味しぃんだから、えぇ、今の馬鹿野郎はそんなスイカも喰ってねぇんだろ、大馬鹿野郎だよ、ざまぁみやがれ、ほんとに、そう思いませんか、思いませんかもなにもないよな、人がどう思おうが不味いもの喰って生きてるんだから、えぇ、よくよくだよ、ほんとに、 |
私は、私の体のなかにひとりの姉を住まわせている。私が舞踊作品を作るべく熱中するとき、私の体のなかの闇暗をむしって、彼女はそれを必要以上に食べてしまうのだ。彼女が私の体の中で立ち上がると、私は思わず坐りこんでしまう。私が転ぶことは彼女が転ぶことである。というかかわりあい以上のものが、そこにはある。 |
藤枝静男(ふじえだしずお):(1908-1996)小説家、眼科医。『空気頭』『田紳有楽』。私小説という閉塞的なジャンルを跡形もなく粉砕しまくり、新たに私小説というジャンルを創造した偉大な小説家。なお、患者には吉行淳之介がいた。かつて図書館で藤枝静男全集を読んでいたとき、見返しに署名があったので出来心でちぎって持ってきてしまった。ごめんなさい。
Antonio Vivaldi(アントニオ・ヴィヴァルディ):(1678-1741)音楽家。『ラ・フォリア(Sonata in D minor RV63 "La Follia")』。あまりにもポップフィールドに引用されすぎてミイラのようになってしまっているが、われわれはわれわれの方法で新たな血脈をヴィヴァルディのおかれている状況に注ぎ込むことを計画している。それが追々このホームページ上でなされることを預言する、とともにその目論見が挫折することも預言する。
Jean-luc Godard(ジャン=リュック・ゴダール):(1930-)映画監督。『気狂いピエロ』『中国女』『勝手にしやがれ』『勝手に逃げろ』。あまりにもポップフィールドに引用されすぎてミイラのようになってしまっているが、それでいいのだ。所詮、ドライヤーのものを除いて映画などミイラの擬態にすぎない。叔父の蔵書を眺めていたとき、竹内書房から刊行されていた『ゴダール全集』全四巻を見付けて出来心で黙って持ってきてしまった。ごめんなさい。
Aphex Twin (Richard
D. James)(エイフェックス・ツイン):(1972-)音楽家、戦車のオーナー。『セレクテッドアンビエントワークス85-92』"SELECTED
AMBIENT WORKS VOLUMEU"『リチャードDジェームスアルバム』"Ventrin"。テクノ/アンビエント/インダストリアル/ドラムンベース/デジタルフィールドに限らない音楽的営為の先端的作品群をいつでもわれわれは待ち望んでいる。またギャビン・ブライアーズ、ベック等ジャンルを越えた多数のリミックスにも注目されるべき仕事が多い、テクノレーベル
Warp Records との契約の際、ロイヤルティに加え戦車一台を要求した。また自身のレーベル Rephlex を起こし、変なアーティストの紹介につとめている。ちなみにわれわれがリスペクトリスト作成を思い至ったのは、彼の営為に倣ってであった。
1997年2月の来日公演時には新宿リキッドルームの入場者数の記録を出したという(っていうか詰め込みすぎ。最高だったけど。)。
六代目三遊亭圓生(ろくだいめさんゆうていえんしょう):(1900-1979)落語家。われわれは特に落語を含めた話芸に明るいわけではないが、圓生の口演だけは大好きである。ちなみにわれわれはそれをすべて所有し珍重してもいるという赤川次郎に対抗すべく、ソニーより発売されている『圓生百席』のCD版全58巻を揃えることを遠い目標においている。あわせてわれわれは広く経済的援助を求めている↓。
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銀行名 | 東京三菱銀行 |
支店名 | 青山支店 |
口座種別 | 普通預金 |
口座番号 | 0873336 |
口座名義人 | マツザワ マサト |
Brassa< (ブラッサイ):(1899-1984)写真家、『夜の巴里』。月並みな表現だが、夜の歓楽街にうごめく人間の感情やその場の空気までを写し込むことをなしえたこの人なつっこい顔をした写真家をわれわれは同胞的意識をもって尊敬する。
Loop Guru(ループ・グル):(1992-)音楽家。"Amrita"。詳しい資料はないのだが、80年代なかばのイギリスのバングラが台頭しはじめた頃に出てきたと思う。バングラの多くがローカリティや異文化を強調するようなものであったなかで、LOOP GURU だけはそんな次元にとどまらないサンプリングのセンスを見せる。われわれは"GURU"の名に恥じることのないそのかっこよさにおいて評価する。オウム真理教(自称アレフ)の松本智津夫は恥じ入るように。
Maria Callas(マリア・カラス):(1923-1977)オペラ歌手、人間の「声」がどれだけ強く美しい旋律たりうるか、確認されたい。
遠藤賢司(えんどうけんじ):純音楽家、存在そのものが音楽たりうることを証明する数少ない人物のひとり。われわれは、彼だからこそ作りえた超巨大 CD(60cm×60cm)『史上最長寿のロックンローラー』を、日々エネルギーの照射をうけるべくアジトの壁面に飾っている。しまっておく場所がないとも云いうる。
Glenn Gould(グレン・グールド):(1932-1982)ピアノ奏者、歌手、音楽家『バッハ/ゴールドベルク変奏曲(1983年版)』。コンサートを拒否してスタジオでの制作のみをおこなった。抜群のテクニックに加えて奇行や変人ぶりでも知られる。
Nusrat Fateh Ali Khan(ヌスラット・ファテ・アリ・カーン):(1948-1997)歌手、スーフィー(イスラム神秘主義者)。「声」の持ち主。これがレトリックの類でないことは来日公演時に忘我の境地になったムスリムが何かにすがるかのようにステージへと向かってくのが多数目撃されたという事実からも明白であろう。また、われわれがこのページを作成している最中にその訃報をきいた。われわれがその声を直接聴くことは決して叶わないこととなってしまった。しかしわれわれは決してかれのことを忘れない。忘れないということ。このことを明記するをもってわれわれの追悼の表明とする。
Jimi Hendrix(ジミ・ヘンドリックス):(1942-1970)ギター奏者、音楽家『エレクトリック・レディ・ランド』。歯でギターを弾いたり、火をつけて燃やしたりといったショッキングな面からではなく、その求道者的営為によりわれわれは高く評価する。巨大な性器の持ち主としても知られ、石膏でかたどったものが販売されていたりする。
石垣島(いしがきじま):沖縄県南西部、八重山列島の主島。面積221.1平方メートル。観光でいったに過ぎないがそこで感じた空気や時間や人々、風景などはわれわれの歴史をその時点で二分するほどの大きな転換をもたらした。石垣島以降われわれに芽生えたものは憧憬という感情のプロトタイプであるかもしれない(何をいってるのかわからないが)。われわれはトポロジカルな物理的最終点として石垣島を目指す。安易な言い方はさけたいが「石垣に住んで、死ぬまでぼ〜っとしてたいんだよね」なのである。これも陳腐な楽園幻想の変奏なのであろうか、嗚呼。
Kate bush(ケイト・ブッシュ):(1958-)音楽家『天使と小悪魔』。われわれは、現在までの唯一の来日である東京音楽祭のTV中継を観たとき以来のファン(少し恥ずかしい)である。菜食主義者であり動物愛護主義者。筋が通っていて良いが、瀬戸内でのイルカの大量捕殺を理由に来日が不可能となってしまったのは残念である。なんとなれば、われわれは(1)国家組織および政治的区分を認めないし、(2)渡航費用を簡単には捻出するあたわざる状況にあるためである。
Malcolm
McLaren(マルコム・マクラレン):(1946-)音楽家 、NewYork Dolls,SexPistolsの仕掛人、数々の訴訟でも悪名高い、詐欺師と呼ばれていたこともある。『おれがマルコムだ(というのは帯のコピーだったかもしれない原題は"Duck
Soup"ちなみにこれはマルクスブラザースのアナーキー映画『我輩はカモである』の原題でもある。ちなみに収録曲の"Buffaro Girls"は雑誌「OLIVE」創刊時のテレビCMの使用曲)』『ワルツダーリン』←傑作。その嘘っぽいカッコヨサにおいてわれわれは評価する。
2000年のロンドン市長選に立候補した。結果は知らない。
Jack Kerouac(ジャック・ケルアック):(1922-1969)小説家、ビートニック。『路上』『地下街の人々』。われわれは禅がどうのといったところまでフォローしないし読んでいない。しかしこの二作品については断固支持する。
赤塚不二夫(あかつかふじお):(1935-2008)漫画家、アルコール中毒。『天才バカボン』はわれわれの聖書である。われわれのすべての思考や行動の参照点、あるい基準点としてこの作品は存在する。ちなみにわが主宰者は、バカボンを読んでいたところ、それを見付けた祖父に烈火のごとく怒られた記憶が鮮明に残っているという。また、主宰者の一番最初に憧れた人物であり、漫画家になりたいと思うきっかけとなった人物でもある。それは当時まんがくらぶという部活動をして、あまつさえ部長であったという履歴によっても容易に判断されるであろう。また1980年頃第一回のみ開催された漫画家とファンのイベント「ジャパン・コミック・コンベンション」で手塚治虫や石森章太郎のブースがあふれんばかりの人だかりであったのに、赤塚のブースは人がおらず、暇そうにしながら皿にバカボンの絵をマジックで描いていたのが目撃されている。思えば天才バカボン以降低迷した赤塚漫画の人気を物語っていたのかもしれない。なお、この事項作成のための調査の過程で血液型がA型であることが判明した、どうでもいいことだが。1998年6月に立川談志門下に入門、高座名は「立川不死身」。
1999年にしばらく絶版状態だった『ギャグゲリラ』『レッツラゴン』がごま書房より刊行開始となったが、これについてわれわれは一言言わざるをえないほど不満に感じたのでそのことを記そう。
われわれの論点を明確にするために1994年に刊行された竹書房版『天才バカボン』(以下、『竹書房版』)との比較のうえで記述を進める。先ず上記2タイトルを刊行されたことについては素直に感謝しよう。しかしながら、その書籍としての提示の仕方がひどく杜撰に思えたのだ。例えばその装丁である。『竹書房版』が装丁の時点から作品を現在の地点から評価しようとしているのは、デザインをCoz-Fishに依頼したことからも明白である。『天才バカボン』のような一種抽象的な世界をギャグマンガというジャンルで括ってしまうのは不可能なことをきちんと心得ており、ギャグマンガに対する現在的アプローチの方法をわきまえているプロフェッショナルのデザインに装いを任せるというのは全く疑問を抱く余地もなく正解なのである。しかし、ごま書房版『ギャグゲリラ』『レッツラゴン』(以下、あわせて『ごま書房版』)にはそういった模索の痕跡が見られない。いわゆる普通の装丁なのだ。これが普通のギャグマンガであればわれわれは何も思うことはなかっただろうが、少なくとも『竹書房版』が世に出されたあとで赤塚作品を再刊するということの意味が分かっていないのだ。現在、アプローチすべき方法の最良の形が『竹書房版』により提示された後で、この装丁はないだろうと思ってしまう。
結局答えは出てしまったのだが、この現在の地点に立ち、赤塚作品を読むということの意味あいが『ごま書房版』にまったく感じられないのだ。しかも各巻に著名人の解説を収録するという『竹書房版』の方法(これも極めて意味のある方法だ)を踏襲しながらもその意味合いがまったく形骸化している。これはその人選がどうのということではなく『竹書房版』が赤塚作品をより光らせようとしているのに対して『ごま書房版』は著名人の名を出して売ろうという魂胆が見え見えなのだ。また『竹書房版』は各巻に『天才バカボン』の多面的鑑賞を助ける付録もきちんと付けるという心憎い企画も用意しているのに対し、『ごま書房版』はない、というより無駄だといわんばかりに作品の提示のみに終わっている。
結局『ごま書房版』は商売人根性のみが目に付くいやらしい企画だと思わざるをえない。ごま書房が本当に埋もれていた赤塚作品に再び光を当たらせようという思いがあれば決してこのような形にはならなかったはずだ。書くも憚られるようなクサイことばで書けば、『竹書房版』は出版が文化であることをわきまえていて、『ごま書房版』は出版はただの商売だとわりきっているという感じである。赤塚作品を神格化しているわけではないが、このような作品をないがしろにするような刊行は許せないと感じる(特に赤塚作品に関しては空白の期間があったので余計そう感じるのだが)。取り敢えず刊行は始まったのできちんと全巻刊行されることをごま書房には祈るが、全巻の刊行が終わったら速やかにその権利を竹書房もしくはそれに匹敵するような見識のある出版社に譲渡されることを切に願う。(われながら挑発的。ごま書房関係者が読んだらアタマくるだろーね、ちなみに本項に名の挙がったどこの関係者でもありません。ただの赤塚作品のファンです。)
Marcel Duchamp(マルセル・デュシャン):(1887-1968)美術家、チェスプレイヤー。『彼女の独身者達によって裸にされた花嫁、さえも』、スキャンダラスな『泉』。いまだにその営為の意味の全貌が解明されていない巨人。
Truman Capote(トルーマン・カポーティ):(1924-1984)小説家、アルコール中毒、ホモセクシュアル。その著作の中でも『遠い声遠い部屋』だけはどんな理由があろうと擁護し続けねばなららい。何となれば、まさにそこにこそわれわれが居るからである。
國枝史郎(くにえだしろう):(1887-1943)小説家。『神州纐纈城』『蔦葛木曾桟』『八ヶ岳の魔神』。完結を見ずに終わった小説が多いとはいえ、そんなことに意味があるのだろうか?物語の正確無比なダイナミズムを前にして何を語るべき言葉があろうか?
halcion(ハルシオン):(1984-)薬品。米国Upjohn社製のベンゾジアゼピンを主成分とする睡眠薬。遊びにつかわれることでも有名。1998年暮れにおきた平塚の昏睡強盗事件で凍死してしまった犠牲者が服用されていた。麻薬および抗精神剤規制法の対象となり流通が制限されいるが、「ハル」の呼称で数千円の値段で売られていたり、過去横浜の病院が地下に流していたことでも知られている。われわれは無神論者であるが、ハルシオンにより、神の面影というのは大げさだが、慈悲深い救済を感じることができるし、抗精神剤として法律によりその流通が規制されていることに何の意味や必要性を感じていない。われわれ自身を神のもとに近づけるために規制の撤廃を要求する。ちなみにその名前は(冬至の頃風波を鎮めるといわれる)神話上の鳥."halcyon"(かわせみ科の鳥の名でもある)に由来する。
Miles Dowey Davis(マイルス・デイビス):(1926-1991)音楽家。『リラクシン』『ビッチズ・ブリュー』。死ぬまで音楽的実験を怠ることはなかった。われわれはその意志の力に尊敬の念を惜しまない。
Emily Jane Bronte(エミリー・ブロンテ):(1818-1849)小説家。『嵐が丘』はいかなる解析でも及びえないところに屹立する。
Led Zeppelin(レッド・ツェッペリン):(1968-1980)音楽家。われわれすべてのアイドル。あるものはジミー・ページのポスターを見ながらギターの練習に励み、またあるものはロバート・プラントのように絶叫し、あるものはジョン・ボーナムのようにビートに命をかけていた。ジョン・ポール・ジョーンズはどうでも良かった。
スターログ:(1977-1985?)メディア。ツルモトルーム発行のヴィジュアルSF雑誌。われわれの1970年代後半の情報源はこれと当時の「POPEYE(現在の同誌メインのファッション情報はあまりなく、あくまでも新しい遊びの情報に重点がおかれていた)」と当時の「STUDIO VOICE(現在の同誌のようなカッコツケマクリ〜みたいな内容ではなく"Interview"誌との提携による刺激的な記事と吉田カツの表紙を毎月楽しみにしていたのを憶えている。タブロイド版で定価100円だった)」であったが、今は消滅するかひどく退屈なものになってしまった。これらの変貌を堕落といわずに何と呼べばよいのか。またこの堕落ぶりにより「POPEYE」、「STUDIOVOICE(江坂健降番後)」の二誌はわれわれのリスペクトが却下された。われわれはいつでもワクワクさせてくれるメディアを希求している。
The Shagri-Las(ザ・シャングリラズ):(1963-?)音楽家。敏腕プロデューサー、ジョージ・モートンによるガールグループのプロジェクト。Biker's Anthem ともいわれた♪Leader of the pack♪の強烈さはどうだ。Mary と Betty の Weiss 姉妹、双子の Mary-Ann と Margie の Ganswer 姉妹の二組の姉妹で結成(Mary Weissはその後脱退し三人組となる)、TVを積極的に活用したプロモーション方法や、『リーダー・オブ・ザ・パック』や『リメンバー』に聴かれるような大胆なSEの導入など様々な技巧を凝らした録音でも先駆的存在。勿論、その仕掛人であり、後にマルコム・マクラレンに変わることになるニューヨークドールズの初期のプロデューサーでもあるジョージ・モートンの才覚抜きには語れない。
William Seward Burroughs(ウイリアム・バロウズ):(1914-1997)小説家、歌手、画家、ジャンキー『裸のランチ』『おぼえていないときもある』『ワイルドボーイズ』。80年代にアメリカでのブームが輸入されるかたちで日本でも再評価(というよりも主要な作品の大部分は紹介されていなかったか絶版-ex.サンリオSF文庫-となっていた)されるかたちで出版が続々とされる。われわれも最初は便乗派であったが、いまでは立派な中毒となってしまった。またバロウズの肝でもある執筆手法のカットアップをプログラムで実行する"Dr.Burroughs"も必見。
山崎俊夫(やまざきとしお):小説家。『夕化粧』。軟弱文学の極み。デヴュー当時は一部で非常に賞賛されたということだが、いまではまったく文学史に名を残していない。発掘者生田耕作に惜しみない感謝をささげる。作品集がサバト館から刊行されている。(ちなみにこの出版社名は本来すべて漢字が当てられているがJIS規格にない文字が使われているので、ウエッブなんかの紹介でこの社名を書かざるを得なくなったひとは大抵このようなことわり書きをしている)
Robert Mapplethope(ロバート・メイプルソープ):(1946-1989)写真家、ホモセクシュアル、エイズによる合併症で死去。アンダーグラウンドから出発しながら、古典的で精緻な美しさに到達した。余談だがシネマライズの頼氏のコレクションも有名。ちなみに、以前はマップルソープと表記されていた。ちなみにわれわれが一番感動するのは肛門に鞭を挿入してトカゲのようにこちらを窺っている/姿態を誇示している有り様のセルフポートレートである。
William
Forsyth(ウイリアム・フォーサイス):(1949-)振付家、ダンサー。『アーティファクト』『ヘルマン・シュメルマン』『失われた委曲』モダンバレエの最先端。その先鋭的思考の場であり、衝撃を全身でうけとめるべき場である公演の機会を逃すことは罪である、というよりその時に生きている価値がないとまで云ってしまおう。ちなみにフォーサイスメソッドの教材ともいうべき七枚組の CD-ROM の存在( Macintosh 用)が知られているが、当時彼が芸術監督の任にあったバレエフランクフルトに問い合わせを入れたら一般の方には販売していませんと無碍に断られたという報告がわれわれの耳にはいっている。われわれはケチなやつが嫌いである。また照明、音響、装置などすべてを統合するかたちでダンスを演出するその手法、あるいは演出そのものもコンピュータによる即興を導入したりなど驚くべきものだ。ちなみにわれわれはその多くの作品で音楽/音響を担当するトム・ウイレムスの商用メディア化されていない音源を所有する(盗み録りともいう)。
なお、上記 CD-ROM は再編集版のかたちで2000年に慶應義塾大学出版会より発売された。キリスト者であるわれわれは「求めよ、されば与えられん」ことを知っている。
Carl Stalling(カール・スターリング):音楽家。WarnerBros. のアニメーションシリーズ "Loony Tune" で音楽を担当。その天才の一部はジョン・ゾーンの編纂による"THE CARL STALLING PROJECT ( Warner Bro's, 9 26027-2 (CD)1990)"の2枚のCDで確認することができる。ある意味でのポストモダン音楽。
Roland Barthes(ロラン・バルト):(1915-1980)評論家、交通事故死。『恋愛のディスクール・断章』『隅景』『明るい部屋』『美術論集』。変なコメントをして、ばかを露呈させてしまうほどわれわれは愚かではない。
東海林さだお(しょうじさだお):(1937-)漫画家、随筆家、ラーメン大好き党員。仕事場が西荻窪にあり、このサイトの主宰者が一度見かけたことがあると証言している。「食」の話題をはじめとするエッセイはふざけているように見えながら非常にするどい観察に基づいている。ところでわれわれは所謂「猫舌」なのでラーメンはあまり得意ではない。
『ナークニー』:沖縄民謡。宮古音、宮古根ともいう。毛遊(モウアシ)び、歌垣のテーマソングとして人々に親しまれてきた。土地によってまた謡者によって多様なバリエーションがある。離ればなれになる男女の哀惜が主に歌われる叙情歌。数あるバージョンのなかでもとりわけわれわれの好む嘉数徳雄の唄う歌詞を引用する。
一. 宵ぬ間や互げに 想い語らてぃんよー 別る明月ぬ いちゅる苦りさ 二. 我肝淋ざびとぅ 干瀬たたく波やよー かわてぃ思無蔵が なぐりたちゅさ 三. 情あてぃからや 海山ぬ底んよー たじにらねなゆみ ありがゆくい 四. 無情ぬゆむ嵐 誰るに引かさりてぃよー 我肝あまがすが 朝ん夕さん |
Neil Young(ニール・ヤング):(1945-)音楽家。50代になっても Pearl Jam なんかと張り合うパワーを失わないスゴイやつ。愛用のギターのストラップにはジミ・ヘンドリックスのバッジがついていた。パンクの元祖とも言われる。また、その動揺が未だに正確に日本語として定着されえていないジム・ジャームッシュのフィルム『デッド・マン』にギターによる即興でサウンドトラックを提供しているが、その音はフィルム体験の動揺を正当化するでもなくわれわれに新たな動揺を与え、計り知れない高みに屹立している。『デッド・マン』のサントラCDはもはや踏み絵のように厳めしく冒しがたい様子をしている。
Jim Morrison(ジム・モリソン):(1943-1965)歌手、音楽家、詩人。オーバードーズで死亡。80年代になってちょ〜再評価されたドアーズを結成して音楽活動をおこなうが、挑発的なステージアクトが世間の顰蹙を買う。ちなみに主宰者は、「自分の耳のなかで聞こえる自分の声はジム・モリソンそっくりでさ、レコードに合わせて口ずさんでいると区別がつかなくなるんだよね」といっているが全く似ていない。われわれをふくめた多数のにんげんが永年待ちわびていた『アメリカン・プレイヤー』のリリースによってメジャーから発売された音源はすべてデジタル化された。
Joan Fontaine(ジョーン・フォンティーン):(1917-)映画俳優。『旅愁』『忘れじの面影』『レベッカ』。われわれはその声がすきだ。われわはときどき『レベッカ』のヴィデオををBGMとして流している。東京生れ。われわれはジョーン・フォンティーンに苛められたいというマゾヒスティックな妄執を抱いている、と同時に苛めたいというサディスティックな欲望もあわせもっている。これもその「声」の引き起こす作用なのだろうか。あるはただ助平だというだけなのであろうか。われわれはこの疑問に答えをだしかねている。それにしても、微妙に左右の相似性のバランスを欠いたその顔貌はメロドラマにリアリティを賦与すべく産まれてきたようではないか。
ちなみにその名はバラの品種の名前にもなっている。
河竹黙阿弥(かわたけもくあみ):(1816-1893)本名吉村芳三郎。劇作家。江戸歌舞伎最後の集大成者。『青砥塙花紅彩画』『鼠小僧』。「見栄」は張るものではなく切るものだということを強烈に知らしめてくれた尊敬すべき人物。ちなみに『白浪五人男』を体験したことにより、われわれの様式美への嗜好がたきつけられた。と同時にそれはわれわれの考えるかっこよさの基準が確立した瞬間でもあった。
Orson Wells(オーソン・ウエルズ):(1915-1985)映画監督、俳優。『黒い罠』『オーソン・ウェルズのフェイク』ラジオドラマ『火星人襲来』の騒動は有名。それにしても「声」(またしても)のかっこよさといったら。
竹内敏晴(たけうちとしはる):(1925-)劇作家。竹内演劇研究所、人間と演劇研究所代表。『ことばが劈かれるとき』。われわれはこの著作により、心を開くということ、コミュニケーションということを理解した。
John William Coltrane(ジョン・コルトレーン):(1926-1967)音楽家。『ブルー・トレーン( BluNote のジャケットがちょ〜カッコイイ、買うにせよ盗むにせよアナログで所有すること)』『至上の愛』。ある世代のひとたちには神様とまで評されたが、われわれにとってはコルトレーンはあくまで偉大な音楽家である。
Muddy Waters(マディ・ウオーターズ):(1915-1983)音楽家。『ガッタ・マイ・モジョ・ワーキン'』。シカゴブルーズ(われわれはかの偉大なるDJ糸居五郎に倣いこの呼び方をする)の超大物。"Muddy Waters"の名は、幼児期に泥水のなかで遊ぶのがすきだったことから名付けられた。本名は McKinley Morganfield。雄大な「声」(ふたたびまたしても)。モントルージャズフェスティバルでの歌唱に泣け。
HyperCard (ハイパーカード):(1987-) AppleComputer 社製の Macintosh 用オーサリングソフト。
アメリカのアップル社が1987年に発表した Macintosh 用のオーサリングツール。テキスト、グラフィックス、音声などの関連を多次元的に処理できる。ハイパーテキストの考え方の基礎となった。ハイパーカードでは、情報の基本単位を1枚のページとして1画面のイメージに対応させ、カード間の関係を設定することにより、情報をリンクする。1枚のカードに文字・図形・画像・音声など各種のデータを混在させることが可能である。→(参)ハイパーテキスト |
Jesus Christ(キリスト):(8〜4BC-29?)神の子。
Ernest Che Guevara(チェ・ゲバラ):(1928-1967)革命家、フェデル・カストロとともにキューバの社会主義革命を成功させる。その後ボリビアに渡りゲリラ戦を指揮するが逮捕され銃殺される。処刑の際、銃口を向けたまま引き金を引けずに震えている兵士に対して「人を撃つときは相手の目を見るな」と恫喝したと伝えられる。
Television(テレビジョン):(1973-)音楽家。『マーキームーン』。ニューヨークパンクの筆頭的存在。トム・ヴァーレインのギターにみんなが絶賛を送っていた。
Tokai LP-500(とうかいえるぴーごひゃく):東海楽器製のレスポール型エレクトリックギター。われわれが初めて買った電気楽器だ。
Richard Hell(リチャード・ヘル):(1949-)音楽家。テレビジョンの創立メンバーであったが、早々に脱退。パンクの代名詞ともなった♪ブランクゼネレーション♪を発表。ぼろぼろのTシャツはファッションではなく本当に着るものがなかったかららしい。プロデヴューにあたって「もうドッグフードは喰いたくない」と語ったと伝えられる。テレビジョンの草創期に作曲した♪ Little Johnny Jewel♪は名曲。スーザン・ソンタグがアントナン・アルトーに比していたと椹木野衣が書いていた。
辻静雄(つじしずお):(1933-1993)あべの辻調理師専門学校校長。『フランス料理の手帖』『フランスの料亭』『料理人の休日』『舌の世界史』『ワインの本』。生前著した多くの著作は、「グルメ」とか「究極の」とかいう単語を好んで使うやつらとは全く次元を異にする料理と食とモラルに関する深い洞察を含んでいる。フランス料理の日本への紹介者にして偉大な教育者。
よい料理人の条件として「疲れたときの顔のいいやつ」と書いていた。多分深い含蓄のあることばなのだろうが辻静雄のことばだというだけで理解できずとも信じるのが正しい。
ところで、最後のエッセイ集となった『料理に「究極」なし』は異様な重さで読むものにのしかかってくる。
The Specials(ザ・スペシャルズ):(1977-)音楽家。♪Gangstars♪は77年頃のわれわれのテーマソングであった。またわれわれにスカビートを知らしめたという意味でも重要な存在。
Hukue Ubi Zawose(フクエ・ザウォセ):(1940-)音楽家、タンザニアのイリンバ(親指ピアノ)奏者。また変幻自在の発声法を体得した歌手。さらにタンザニア国立バガモヨ芸術大学教授。彼の母国語であるスワヒリ語の諺には"Muziki Ni Chakra Cha Loho"(音楽は魂の食べ物である)なんていうかっこいいのがある。また、スワヒリ語で「音楽家」にあたる単語は、歌手、演奏者、作曲家、作詞家から楽器の製作者までを含んでいるというが、音楽に関して便宜的に細分化されることのない単語を母国語とするのはわれわれの夢でもある。
-"When I play music my body begins to boil and then I have to dance. I don't need to eat or sleep because I am eating music. It is like eating honey first you dip your finger in, you taste it (he smacks his lips, theatrically) then you want more and more.." |
"Little NEMO In Slumberland"(『夢の国のリトル・ニモ』):ウインザー・マッケイによる1910-1930年代の新聞連載漫画。アール・デコ調の描線による元祖ナンセンスマンガ。シュールレアリスムに多大な影響を及ぼした、かも知れない・・・。小野耕世による邦訳があったがもう手に入らないとおもう。
Luis Bunuel(ルイス・ブニュエル):(1900-1983)映画監督。『皆殺しの天使』『アンダルシアの犬』。シュールレアリスムの多大な影響から出発したが、『皆殺し〜』を絶頂とするナンセンス映画を多数監督する。
Bob Marley(ボブ・マーリー):(1945-1981)音楽家。『ナッティ・ドレッド』の一曲♪ライブリーアップユアセルフ♪はわれわれのanthemである。
B-52's(ビー・フィフティートゥーズ):(1976-)音楽家。♪Rock Lobster♪は76年頃のわれわれのテーマソングであった。またわれわれにNewWaveを知らしめたという意味でも重要な存在。
『ガンバの大冒険』(がんばのだいぼうけん) :連続TVアニメーション。原作は斉藤惇夫の小説『冒険者たち』。木曜日(たしか)の放映は決して欠かさなかった。
Kevin
Mitnick(ケヴィン・ミトニック):(1964-)ハッカー/マスコミに捏造された反英雄。たぶん喧伝されているような有害な人物ではないとおもう。1999年3月26日(米国時間)、7件の通信およびコンピューター犯罪に関して有罪を認め、禁固46ヵ月の判決を受けた。
2000年1月に釈放された。釈放後、米国 CBS テレビのインタビュー番組に出演しその日本語版が放映されたがちゃんと録画したかな?われわれは録画したぞ。
Roxy Music(ロキシー・ミュージック):(1971-)音楽家。『ロキシー・ミュージック』『フォー・ユア・プレジャー』『アヴァロン』。ブライアン・フェリーの特殊なひねくれ方をもってして始めて実体化しえたロックグループ。このひねくれ方もわれわれに大きな影響を及ぼした。初期には化粧をしたブライアン・イーノも在籍。さらにわれわれは名作『フォー・ユア・プレジャー』のジャケットに登場した、その異様な低音から性転換した男性ではないかとの噂も立ったアマンダ・レアの吹き込んだ唯一のレコードである "I am a photograph" を所有している。
夢野久作(ゆめのきゅうさく):(1889-1936)小説家。『ドグラマグラ』『押絵の奇蹟』『氷の涯』。「酒臭い息を吹きかけられるような」とか「マグマが噴き出すような」とか評された独得の文体で知られる。60年代に再評価される。われわれが今の方向性をもつに至った出発点に位置する作家。いまでこそわれわれのリスペクトでは高い位置づけはされていないが、決してわすれてはならない存在である。
Hieronims Bosch(ヒエロニムス・ボッシュ):(1450?-1516)画家。怪物の造形において驚異的な想像力を示した。現在はヒエロニムス・ボスの表記に統一されつつあるが、われわれが始めて衝撃をうけたときのヒエロニムス・ボッシュという表記に徹底的にこだわる。
Charles Manson(チャールス・マンソン):音楽家、その言行が単なる狂信者集団 Manson Family の磁場を形成した。♪ヘルター・スケルター♪がかれのテーマソングだった。
Pierre Barough(ピエール・バルー):(1934-)音楽家、放浪者。『花粉』『生きる』。フランスの先鋭的レーベル、サラヴァのリーダー的存在。♪男と女♪の作曲によってしか認識されていないのが甚だ遺憾ではある。
北一輝(きたいっき):(1883-1937)国家社会主義者。ファッショ的国家改造運動の理論家として活躍。2.26事件に連座して処刑される。『日本改造法案大綱』『國家改造案原理大綱』『國体論及純正社会主義』等の著作は、軍国主義への反省(というイカサマな大義名分)からか現在その原典にあたるには困難を極めるが、そんな状況をわれわれは唾棄すべきものとしか感じない。
Wilhelm Furtw:ngler(ヴィルヘルム・フルトヴェングラー):(1886-1954)音楽家。1951年のバイロイトの『第9』を聴いたことのないやつに「音楽」という単語を口にする資格はない。また犯罪的再編集をした東芝EMIも同様。われわれは断固糾弾する。
丸山圭三郎(まるやまけいざぶろう):(1933-1995)言語学者。『カオスモスの運動』(講談社学術文庫)もまたわれわれの聖書であるといわざるをえないが、実際に内容を理解しているかどうかについてははなはだ疑わしいといわざるをえないが、やはりわれわれの聖書であるといわざるをえまい。気持ちが塞いでいるときには勇気を与えられる書物の著者。ソシュールの日本への紹介者。NHKのフランス語講座の講師としても有名。
Danielle Dax(ダニエル・ダックス):音楽家。"Pop Eyes" "Inky Bloaters"『狼の血族』。メジャーになって毒っ気を抜かれてからのことについてはわれわれは倫理的配慮をもって無視する。初期の形容しがたい音楽の傾向をわれわれは評価する。また、ホリー・ワーバートンによる美麗ジャケットでも知られる。ちなみにわれわれ fortress beethoven の名は彼女のスタジオ名 "Fortress Dax" にその起源を持つ。
鈴木翁二(すずきおうじ):(1949-)漫画家。『銀のハーモニカ』。水木しげるの弟子。無頼派をもって漫画界に登場する。万年マイナー漫画誌『ガロ』で活躍。同じく無頼派文学的表現をしていた阿倍慎一、古川益三(漫画専門古書店まんだらけ社長)と一二三トリオと呼ばれる。水木によれば「足の裏がいつもきたなかった」とのことである。ちなみにわれわれが丸尾末広を軽蔑しているのは、以前インタヴューで、その文学性ゆえに鈴木を非難していたからだ。また、吉祥寺駅前のブックスいずみという書店はブックカバーに鈴木翁二のイラストを使っている。サイン本も手にいれたぜ。
Friedrich Wilhelm Nietzche(フリードリッヒ・ニーチェ):(1844-1900)哲学者。『善悪の彼岸』『この人を見よ』。われわれはその狂気(まさに)に接しえたことを嬉しく思う。とともに友達じゃなくてよかったとも思う。
Karlheintz Stockhousen (カールハインツ・シュトックハウゼン):(1928-)音楽家。CDの値段が高いことをわれわれは糾弾する、しかしどうせ買えないんだからやめる。電子音楽の創始者という言い方だけでは一部しか表現できないが、教科書ではないんだからそれでよしとする。
"The Koran"(コーラン):イスラームの経典。Mhammad が全能の神 Allah からのお告げを聞いた。読むものではなく朗唱されるべきもの。
John Zorn(ジョン・ゾーン):(1953-)音楽家。コブラ。音楽の複合的多面体。たぶん死んだ後も的確な評価はされないであろう天才。
Black Panther(ブラック・パンサー):(1966-)武装集団。黒人差別への徹底交戦を主調した。
Charles Fouleare(シャルル・フーリエ):(1772-1837)空想社会主義者、都市理論家。『愛の新世界』。平岡正明によってわれわれはこの狂気の哲学者であり妄想のユートピストであるシャルル・フーリエを知った。一体この書物を何と呼べばよいのか、われわれはいまだに探しあぐねている。
Martin Luther King Jr.(マーチン・ルーサー・キング・ジュニア):(1929-1968)牧師。暗殺される。"I have a dream"ではじまるスピーチのわれわれの中に引き起こす熱さは何だ?って誰にきいてるのだろうか?
Igor Fyodorovich Stravinski(イゴール・ストラヴィンスキー):(1882-1971)音楽家。『ペトリューシュカ(1911年版)』『花火』『火の鳥』。ディアギレフ、ニジンスキーらとバレエ・リュスの中心人物となる。
Raymond Carver(レイモンド・カーヴァー):(1938-1988)小説家、詩人、アルコール中毒。『大聖堂』。ミニマリズムと称される小説の、ミニマルであるからこそ可能な豊かさを表現しえた。それにしてもカーバーに続く他のミニマリストたちの貧乏くささは我慢ならない。また、われわれにチェーホフの読み方を教えてくれた。
『わたしは真悟』(わたしはしんご):(1982-1986)楳図かずおの漫画。人間と機械と感情。物語の進行に難のある部分もみうけられるが、そのエモーションはそれらを補ってあまりある。というよりも最早感情のみしかないというべきであろう。しかしながら、何と美しい感情であろうか。
Charlie Parker(チャーリー・パーカー):(1920-1955)音楽家、麻薬中毒。中毒末期、意識が朦朧としているときでもフィルの音を聴くと足が無意識のうちにリズムをとっていたという。かっこいい。こんな瞬間にこそ「音楽」はわれわれの前にその姿を見せる。
Andy Warhol(アンディ・ウォーホル):(1928-1987)美術家。『ポップワーズ』(SALE2誌で連載されていた)もまたわれわれの聖書である。変人。東野芳明によるポップアートの画家のインタヴュー集『裏切られた眼差し』(中野幹隆のいたころの朝日出版社、エピステーメー選書の一冊)でもウォーホルの不気味さは際立っていた。また「誰でも15分間は有名人になれる」といった新しいメディアのなかでの人間のありかたについての示唆もインターネットをはじめとした各種の情報メディアの普及した現在においてはその重みをいっそう意味あるものにしている。
生田耕作(いくたこうさく):(1924-1994)フランス文学者。セリーヌ、シュルレアリスム作家の紹介、翻訳等。ちなみにおそらく唯一のテレビ出演であろう『日曜美術館』にベルギー象徴派のフェルナン・クノップフ(現在はクノッフという表記が一般的だがわれわれは敢えて生田耕作にならう。クノップフもまたわれわれの好む画家である)の作品の解説者として出演していた(1982年頃)ことを知るひとはそれほど多くはいまい。まして録画をし、あまつさえ大切にコレクションしているなどは親族を除いてはわれわれのほかにはいようはずがあるまい。どうだまいったか。
保田與重郎(やすだよじゅうろう):(1910-1981)国文学者。『日本浪漫派』『日本の橋』『かぎろひ抄』(正確な表記をしないのはわれわれの意図に反するが(かぎろひ=.陽炎の古語)フォントがないのでやむをえず)『冰魂記』。日本浪漫派の巨星。太平洋戦争後の日本では、日本帝国主義の協力者、戦争と侵略を美化する御用文学者と見なされ、文学の戦争犯罪人として糾弾された(そういった理由から公職追放になったりしてこの国の程度が知れもするが)。いのちをもった文章がどういうものか確認せられたい。
なお、1999年より新学社から「保田與重郎文庫」として主要著作が刊行中。"今"、"保田與重郎の著作が"、"正字正かなで"、"コンパクトなかたちで"、"(比較的)廉価で"入手できるということ。これ以上は何も云うまい。
The Chemical Brothers(ケミカル・ブラザース):(1995-)ブレイクビーツ博士。ライブはばかまるだしであったとの報告がわれわれの耳に届いている。
椿實(つばきみのる):(?-2002)小説家。『メゾンベルビウ地帯』。作品集は一冊だけだがその天才を確認するには十分であろう。凝りまくった文体が特徴。三島由起夫の絶賛を浴びた。ちなみに三島由紀夫は一時期の高橋源一郎のように推薦文を多数書いたが椿實を推薦する文章は興奮が隠しきれない様子で面白いものである。
谷川俊太郎(たにかわしゅんたろう):(1931-)詩人。『みみをすます』『にほんご』。われわれにことばのつかいかたをおしえてくれたいだいなしじん/しじんではない。現在は詩作を行っていないがその真摯な沈黙もわれわれの見習うべきアティテュードだ。
Sir
Alfred Hitchcock(アルフレッド・ヒッチコック):(1899-1980)映画監督。『めまい』『サイコ』『レベッカ』。いまさらいうまでもない有名な映画監督。トリュフォーとの対話を採録した『映画術』(ちなみに日本版は世界でもっとも完璧な版)は映画をみるものも作るものも聖書とすべき書物。
ところで、「ブライアン・デ・パルマが1シーンかけてやるところをヒッチコックは1カットで済ませてしまう」などといった気の利いた風な引用をすることもなく、われわれはヒッチコック的サスペンスの日常への侵入を示すあるエピソードをここに記す。
われわれがむかし夏の日に理髪店に行ったときのことである(われわれは必ず太陽の照っているときに散髪に行く習わしとなっている)。「短めにお願いします」といつものように調髪についての注文をすませ、店主の手が半ば自動化された軌跡を描きながら調髪していくのを、その小刻みなハサミの音も心地よく、たっぷりと幅のある椅子に収まってゆっくりと眠りへと移行していく途上、われわれの正面の大きな鏡の前が物置台のようなスペースになっていると想像されたい。そこにはさまざま調髪の道具に混じって、散らばった髪を掃き落とすための毛足の長いブラシが、長くのびた毛を上に向け仰向けに置いてあった。見るともなく眺めていると、一匹のゴキブリの成虫が何の匂いに釣られてか、そのブラシの方へゆっくりと歩いていき、体を横向きにしながら植え込んであるブラシの毛の間へ滑り込んでいってしまった。取りたてて衛生とか清潔とかいったことに気をかけないわれわれは「あ〜ぁ、あんなとこ入ってっちゃって」などと思い乍ら眺めていた。
穏やかな空気のなかでわれわれはいつものようにゆっくりと眠っていった。その間も店主の馴れた調髪の手は滞ることなく、後頭部から側頭部へ、前髪へと形を整えていき、背もたれをゆっくり倒すと蒸しタオルが顔に当てられる。われわれがこよなく愛する「蒸しタオル」のプロセスがやってくるのだ。
われわれが理髪店に行く最大の理由はこの「蒸しタオル」以外に理由はない。「調髪」といういくつかの段階によって構成される一連の作業において、その後半部に位置し、鋭利なカミソリと地肌の接触といういやがうえにも緊張のたかまる場面を前にした一時の安息ともいうべき、またはベイトオヴェンの第九の凶暴な第四楽章を控えた第三楽章の安らぎともいうべき穏やかな時間が用意されているのだ。
タオルはいうまでもなく清潔でなければならない。リネンサービス会社の薬品くささは僅かでも感じられてはいけない。温度も少し熱いくらいの、かといって熱すぎず、店主の職業的メチエによって流水への当て方を加減され、当然蛇口からわれわれの顔面への距離による熱の放散も計算された、まさに「蒸しタオル」の温度でなければならない。無駄の無い軌跡を描いてわれわれの顔面に到着した「蒸しタオル」は額から顔全体を覆うように配置される。このときも何度も置き方を直されては興ざめである。2つ、多くとも3つの動作で、息苦しくならないように鼻孔周辺は避けて万遍なく顔を覆わなければならない。当然そこには店主の数十年の技術が造形する「蒸しタオル」の置き方が現前するのである。残念なのはわれわれが実際にどのように置かれているかを自身の目で見ることができないことである。われわれが薄目をあけて確認できるのは「蒸しタオル」の黄色い繊維(そう、タオルも黄色でなければならない)とそこから透けて見える天井の蛍光燈の曖昧な輪郭(言ってしまえば照明も蛍光燈でなければ駄目である。冷たそうな蛍光燈の白い色によって空気が冴えたものに感じられ、ほどよく熱い「蒸しタオル」を引き立てることになる)だけである。蒸す時間もまた絶妙な計算が必要である。タオル・スチーマーから取り出され、外気に触れ、流水をくぐった瞬間から「蒸しタオル」からは急激に熱が放散されており適温は長くは続かない。ここでも店主の計算は正確である。「蒸しタオル」で顔を蒸されているという至福の時間は、それを中断させようといった残酷な魂胆からではなく、むしろ客に不愉快なおもいをさせまいという職業的配慮をもってわれわれの顔面から遠ざけられる。まだそれが十分熱いからといって無理に催促はしない。われわれは店主の技術と計算に全幅の信頼を寄せているのだ。店主がわれわれの顔から「蒸しタオル」を取り去ったとき、それはまさにそうするべき時だったのであり、店主の正確な計算に感謝せねばならない。「蒸しタオル」というメインエヴェントが過ぎるとわれわれの興趣は一気に冷め、ふたたびゆっくりと眠りに落ちていくのだった。
「はい、どーも」という店主の声に目を覚まし、曖昧な返事をすれば調髪というプロセスは終了である。あとは気持ち良かったという態度でサービスの対価を支払い、洗練された技術に対するお礼を述べて店をでるといういつもの段取りのはずだった。が、「はい、どーも」の後に、まだ覚醒へと戻る途中で店主は顔に散らばった髪の切り落しを払おうとわれわれの前の台から毛足の長いブラシを手に取った。ゴキブリの入っていったことを口に出すまもなく、ブラシは柔らかくわれわれの顔を掃いたのであった。(
F.O )
ね、ヒッチコックでしょ?
Erik Alfred Leslie Satie(エリック・サティ):(1866-1925)音楽家。「家具の音楽」という概念を創造し、アンビエントの遠い祖先と考えられる。今では半端な教養をひけらかすやつらのアイテムのひとつに成り下がってしまった。
Stock-Housen and Walkman (ストック・ハウゼン・ウオークマン):サンプリング博士。全員がウオークマンを楽器にしていることと、カイリー・ミノーグのプロデューサー、ストック/エイトキン/ウォーターマンをもじって付けたグループ名といい、またその音といいかなりふざけている。よろしい。ライブはあまり面白くなかったとの報告がわれわれの耳に届いている。
Amina(アミーナ):歌手、女優。"AMINA"。1980年代後期にワールドミュージックのブームに名を馳せていたマルタン・メソニエの肝いりでデヴュー。モロッコ出身ではあるがどことも言い難い(存在しない)異境性をその声は持っている。
近田春夫(ちかだはるお):音楽家。『歌謡曲』『天然の美』『考えるヒット』日本語ラップの創始者。著書や数々の発言で目にする「どうしようもなくなったら死んじゃえばいいじゃん」という言葉はわれわれの思想の中心部に照明をあてる。この言葉をわれわれは座右の銘としている。短期間ではあったが1980年頃ニッポン放送で深夜番組のDJ(古い意味での)をしており、気にいった曲は繰り返し何度もかける、気にいらない曲は途中でやめるなどの傍若無人なふるまいをして一部の顰蹙をかうが、われわれは喝采を送り続けていた。正統の批評がどういうものかをあっさりと体現してしまう偉大な批評家でもある。
また、もし氏が P.K.ディックの『暗闇のスキャナー』を誉めていなかったらわれわれはついに読むこともなかったであろうということも考えると決して疎かにはできない人物である。
Antonin Artaud(アントナン・アルトー):(1896-1948)劇作家、俳優。『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』『神の裁きと訣別するために』(ラジオ放送の録音が宇野邦一の解説付きでペヨトル工房からカセットブック化されている、ちなみに同じ音源はアメリカで CD 化もされている)。狂気に囚われていた。
Heliogabale(ヘリオガバルス):(204〜222)ロオマ帝国の皇帝。便所で暗殺される。この人も狂気に囚われていた。
石川淳(いしかわじゅん):(1899-1987)小説家。『紫苑物語』『文學大概』『狂風記』『白頭吟』『至福千年』『森鴎外』。文体がすべてだ。ちなみに『狂風記』について吉本隆明は『焼跡のイエス』と比べて後退も進歩もしていない(という主旨の)批評をしていたが、その発言についてはわれわれは断固抗議をする。「吉本隆明のばーか」。吉本にばれませんように。さして多くも無いわれわれの蔵書のなかでも『石川淳選集』十七巻が揃っているのをみるたびに、(『佳人』『明月珠』が収載されていないとしても)われわれをしてこれで必要にして十分と思わせてしまうという事実がわれわれの石川淳に対する気持ちを表している。またわれわれは新漢字、新かなに直された石川淳の作品を決して認めない。何の原稿の写真だったか自筆原稿の余白に「正字正カナノコト」と朱記されていたからだ。
加えてわれわれの蔵書には『紫苑物語』の肉筆署名、落款入り限定版があることを大変自慢にしている。表紙を拝むがいい。
(昭和四十九年、槐書房刊)
いしかわじゅん:(1951-)漫画家。俳優。「うそつき」。石川淳のあとにいしかわじゅんだなんてふざけてると思われるであろうか。然り、最初はふざけていた。が、よくよく考えてみるといしかわじゅんもかなりの割合でわれわれの血肉となっていることに気付いた。
「フロムK」はとりみきの「愛のさかあがり」とならんでマンガの随筆的展開のメルクマールだ(と思う)。
なお一時期宮西計三がいしかわじゅんの手伝いをしていたが、ヒトコマに異常に時間がかかっていたそうだ。これはさもありなんというはなし。
日本で出版された漫画すべてを読んでいるかのような該博さにも驚嘆する。NHKの「BSマンガ夜話」は氏の、知識に裏打ちされた適確な批評や感想の聴けるよい番組だ。けど不定期なのでよく見逃してくやしい思いをする。
T-Rex(T-レックス):(1967-1977)音楽家。『スライダー』『電気の武者』。グラムロックのアイコンでもあった Marc Bolan は占い師に占われた通りに交通事故死。また優れたプロデューサー Toni Visconti の名前も忘れてはならない。
M彙ius(メビウス):(1938-2012)漫画家、イラストレーター。『エイリアン』『デューン』等でのデザインワークで知られるが大友克洋の画風を一変させたほどのその描写力にかなうものはいない。
Public Image Limited(パブリック・イメージ・リミテッド):(1978-)音楽家。セックスピストルズ解散後のジョニー・ロットンがジョン・ライドンと改名して結成したバンド。ダブ等のテクニックを導入した後で発表した『フラワーズ・オブ・ロマンス』の頃が一番良い。
三島由紀夫(みしまゆきお):(1925-1970)小説家、劇作家。割腹自殺『豊饒の海』。あまりにも有名な作家。だが、それほどのものでもないかも知れない。自身親しくもあった澁澤龍彦の『三島由起夫覚え書き』にこの作家の意味のほとんどが言い尽くされている。気がする。
Pierre Dreau La Lochelle(ドリュ・ラ・ロシェル):(1893-1945)小説家、ダダイスト。ルイ・マルの映画『鬼火』の原作『ゆらめく炎』の原作者として知られる。その特徴はただニヒリズムのみ、現世への反感に耐え切れず自殺をする主人公そのままにピストル自殺によりその命を断つ。また、当時のニヒリズムの常としてかれもファシズムへの傾倒をみせる。人間の暗部を否応無しに感じさせる。また、同じ様な暗部を描いたアルベルト・モラヴィアの『孤独な青年』、およびその映画的翻案であるベルトルッチの『暗殺の森』にもニヒリズムとファシズムの接近が描かれるが、作家の資質的違いなのかこちらにはドリュ・ラ・ロシェルにみられる自己破壊的なものはなく、ある種エネルギッシュなものをもっている。
Billy Holiday(ビリー・ホリデイ):(1915-1959)歌手、麻薬中毒、アルコール中毒。『奇妙な果実』『レディ・シングズ・ザ・ブルース』。再晩年の♪柳よ泣いておくれ♪で聴かれるアルコールに破壊されつくしたとさえ云える歌声は地上で聴きうる最も悲しい声である。悲惨な自伝の作者でもある。
宮澤賢治(みやざわけんじ):(1896-1933)詩人、小説家。『グスコーブドリの伝記』については「ヒューマニズムが白々しい」とかいわれるがそんなの関係ないね。われわれはこれが一番だと思っている。ちなみにうつむきながら田園を散歩している写真があるが、あれはベイトオヴェンをまねたものだ。ご記憶されたい。
Siouxie and The Bansees(スージー・アンド・ザ・バンシーズ):(1977-)音楽家。『ジュジュ』『スルー・ザ・ルッキンググラス』(タイトルはルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス"Through the Looking Glass"』 とクラフトワークの曲名より)セックスピストルズのベーシストであったシド・ヴィシャスの親衛隊だったスージー・スーが結成したニューウエイヴのグループ。
伊藤若冲(いとうじゃくちゅう):(1716-1800)画家。代表作でもある『動植彩圖』全三十六幅はすべて宮内庁所蔵で滅多に実物を目にすることはできない。収蔵品の公開予定はまめにチェックされたい。精緻な筆致で描かれた鶏や植物たちは現実を超越している。ずっと八百屋をしていて40歳を過ぎてから画業に専念した。的確に捉えられ精密な描線で描かれた動植物たち。細密を極めた具象画が抽象的なリアリズムへと変貌する様を見よ。1984年11月4日にサントリー美術館のプライスコレクション展でわれわれが初めて若冲と出会ったときの衝撃は並みのものではなかった。
Arnold Schoenberg(アーノルト・シェーンベルク):(1874-1951)音楽家。『浄められた夜』。十二音音階の創始者。シェーンベルクの旋律はわれわれにウイーンで過ごした日々を思い出させる。行ったことはないが。
泉鏡花(いずみきょうか):(1873-1939)小説家、劇作家。『春晝』『春晝後刻』。文体。「幻想小説」などという安っぽい表現でくくってほしくない。後期の、ことばそのものが幻想と化す様を見よ。ちなみに鏡花はことばには魂があると信じていた。執筆中にふと傍にいた妻に漢字を尋ねたところ、妻は空中に指でその漢字を書いた。すると鏡花は慌てて書かれたあたりの空気を手で掻き乱した。そのままにしておくとことばがたましいをもってしまうからだというのである。良い話だとはおもわないか?
種村季弘(たねむらすえひろ):(1933-2004)ドイツ文学者。マゾヒズムの語源となったザッヘル・マゾッホやマニエリズム評論の名著『迷宮としての世界』で知られる美術史家グスタフ・ルネ・ホッケの紹介。俊逸な探偵小説『謎のカスパール・ハウザー』『ナンセンス詩人の肖像』等。ちなみに主宰者の学生時代の恩師でもある。湯河原在住。
『海女と大あわび』(あまとおおあわび):千葉県の民話。昔聞いただけなので細部までははっきりしていないが、われわれが感動を抑えることのできなかったそのものがたりとはこうである、
むかし、
あるちいさな漁村にわかいおとことわかいおんながおりました。 おとこは漁師で小舟でうみへこぎだしては漁をしておりました。 おんなは海女でうみへもぐってはあわびを採っておりました。 ふたりは裕福ではなかったもののしあわせに暮らしておりました。 ある日、いつものようにおんながあわびを採って海面へあがろうとしましたら、腰にさげていたびくのなかからあわびがひとつこぼれ落ちてしまいました。 あわびはゆっくりと沈んでゆきおおきないわにあたってさらに下へと転がって落ちてゆきました。 しかし、いわと見えたのは、じつは何百年ものむかしからこのうみにすんでいる大あわびだったのです。 この大あわびにはこんな言い伝えがありました。 「大あわびにわるさをするとしけになる。」 年長のあまたちは言い伝えをしんじて決して大あわびのいるあたりには近寄ろうとはしませんでしたが、 わかいおんなは知らずにそのすぐそばまで来てしまっていたことにきがついたのでした。 するとそのとき、いままで浪ひとつなかった海面がひとしきりおおきなうねりを浜までよせますと見る間にうみは大しけとなったのでした。 あまたちはいそいで浜にあがり、沖で漁をしていたおとこたちもようやくの思いで浜まで逃げかえりました。 しごとのできなくなった漁師や海女たちはいそいそとそれぞれの家へかえってゆきました。 わかい海女もわかい漁師と家へかえってゆき、そのひいちにちなかよくすごしました。 さてあくる日になると昨日の大しけがうそのようにおだやかなうみがしずかな波をたてていました。 漁師たちや海女たちは昨日採れなかったぶんを取り返そうとそれぞれうみにでていきました。 わかいおんなはまた知らぬまに昨日の大あわびのところにきてしまいました。 わかいおんなはふと、もし今日もうみがしければまたあのひととなかよくすごせるかなとおもいました。 そこで腰にさげていたびくからあわびをひとつとりだしますと、大あわびにあたるように静かにおとしました。 あわびはゆっくりと沈んでゆき昨日のように大あわびにあたってさらに下へと落ちてゆくのでした。 するとやはり昨日のようにいままで浪ひとつなかった海面がひとしきりおおきなうねりを浜までよせると見る間にうみは大しけとなったのでした。 漁師や海女たちは昨日のようにいそいで浜にあがり、昨日のようにいそいそとそれぞれの家へかえっていったのでした。 わかい海女もわかい漁師と家へかえってゆき、そのひいちにちもなかよくすごしました。 そんなことがそれからいくにちかつづきました。 小さな漁村では収穫があがらないのでみんながこまっておりました。 だれかが大あわびにわるさをしているんじゃないかとうわさするものもあらわれました。 収穫のあがらないことにこまった村人たちは、何日もかけて沖のさらに先のうみへ漁にいくことにきめました。 わかいおとこはひときわゆうかんでおもいやりがあったのでじぶんからすすんでそのやくめをひきうけました。 つぎのひもうみはおだやかでした。 わかいおとこはみんなにみおくられながら沖のさらに先のうみへ漁にでかけてゆきました。 わかいおとこの小舟がすいへいせんにきえようとするころ、わかいおんなはひとりでうみにはいり大あわびのところまできていました。 わかいおんなはもうあのひとがうみに出られなくなればよいとおもって、腰のびくごと大あわびめがけてなげつけました。するといままでにあったことのないような大しけとなりそれがまるいちにちつづきました。 つぎのひになると昨日の大しけも止み、またいつものようなおだやかなうみになりました。 わかいおとことわかいおんなはそれっきりうみから戻ってはきませんでした。 -おわり- |
Gavin Bryers(ギャビン・ブライヤーズ):音楽家。"Jesus blood never failed me yet"『イエスの血は決して私を見捨てた事はない』。浮浪者の口づさむ賛美歌の一節のループに弦楽四重奏がからむ。とてつもなく深い慰撫を感じる音楽。また『タイタニック号の沈没』の美しさも記憶されるべきだ。エイフェックス・ツインによるリミックスと合わせて。
Tom Waits も歌ってる。"Jesus' Blood never failed me yet"
Sylvie Guillem(シルヴィ・ギエム):(1963-)バレエダンサー。われわれはシルヴィ・ギエムと同時代にいき、そのバレエを観ることができることを感謝しなければならない。
直筆サインを自慢してみました。
Dominique Sanda(ドミニク・サンダ):(1951-)映画俳優。『暗殺の森』『やさしい女』『刑事キャレラ10+1』。ヴィスコンティ作品のようなインテリ受けする映画からB級SF映画、果てはポルノまがいの映画まで出演する。われわれが美貌というものを認識した最初の顔貌。モデルになった PARCO のポスターを盗もうとわれわれは二回挑戦したが二度とも失敗し手に入れることができなかった。まだ手口の杜撰だった頃の想い出である。ちなみに『暗殺の森』はベルナルド・ベルトルッチとヴィットリオ・ストラーロによる彼らの最良の仕事でもある。
Bob Dylan(ボブ・ディラン):(1941-)音楽家。『追憶のハイウエイ61』。いうまでもなくボブ・ディランだ。
Steve Reich(スティーヴ・ライヒ):(1936-)音楽家。『ドラミング』『ザ・ケイヴ』『マレット楽器、声とオルガンのための音楽』。それにしても"マルチヴィデオ・ミュージック・シアター"あるいは"ドキュメンタリー・ミュージック・ヴィデオ・シアター"と呼ばれている『ザ・ケイヴ』は衝撃であった。各自あらゆる方法でそれを確認すべし。
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(アバ):(1973-1982)音楽家。いうまでもなくアバだ。正しい表記にこだわってみました。(IE向け、ネスケじゃわかんないでしょ?しかも Windows オンリー。) |
田口賢司(たぐちけんじ):小説家。テレビマンユニオン勤務。『ボーイズ・ドント・クライ』『センチメンタル・エデュケーション』の初期作品だけを評価する。現在における軟弱文学の可能性を示唆した。だけだったのが唯一悔やまれる。ちなみに、浅田彰を筆頭としたポストモダン華やかなりしころデヴューした彼は中森明夫、野々村文弘とあわせて新人類と呼ばれていた(その後この新人類という呼称が範囲をひろめたのは諸君もご存知のとおり)諸君て?
Three Dog Night(スリー・ドッグ・ナイト):(1968-1981?)音楽家。♪ジョイ・トゥ・ザ・ワールド♪。わかりやすすぎるその音楽性においてわれわれは評価する。
Raymond Roussel(レイモン・ルーセル):(1877-1933)小説家、劇作家。『ロクス・ソルス』『アフリカの印象』『私はいかにして或る種の本を書いたか?』。われわれは原典(フランス語)に接していないので定かではないが、地口や語呂合わせであふれているそうだ。しかしわれわれの所見ではナンセンス。これのみ。文化人類学者ミシェル・レリスの叔父。
日夏頌之介(ひなつこうのすけ):(1890-1971)詩人。『黒衣聖母』『轉身の頌』『明治浪曼文学史』『サバト恠異帖』。奇怪な言語を駆使する魔法使い。
Erwin Blumenfeld(アーウィン・ブルーメンフェルド):写真家。1940年代の"VOGUE"等のファッション誌で活躍。エッフェル塔の鉄骨から身を空へとまさに解放せんとする女性の写真(こんな解説では解らないと仰る貴兄に実物をお目にかけよう↓『ルシアン・ルロンのドレスを着たリザ・フォンサグリーブ』"SUR LA TOUR EIFFEL"(1938))が有名。ファッション写真に実験的方向性を導入した。
載せたはいいが著作権者の承諾を得ていないので責任の取れないひとは毟(むし)ってはいけません。
しかしきれいな写真である。われわれはこの写真の存在を(株)宣伝会議の発行していたちょっとカッコよかった雑誌『FILE』で初めて目にした。ついでにいえばこの雑誌は偉大なコミックアーティスト、マーク・バイヤーの漫画を連載した日本で唯一のメディアであった。
坂東玉三郎(ばんどうたまさぶろう):歌舞伎役者。『鷺娘』。舞台のうえではすでに性別を超え、今度は人間を超えようとしている。われわれは同時代にいることを感謝し、欺瞞にあふれたやつらから玉三郎をわれわれの手中に取り返さなければならない。歌舞伎もご大層なくくりにされてしまっているが奪取せねばなるまい。
Neil Jordan(ニール・ジョーダン):(1950-)映画監督、小説家。『狼の血族』はなみだを流さざるをえない映画。「赤頭巾ちゃんのお話の単なるフロイディズムによる絵解き」などという酷評は狼の遠吠えに雲散雰消してしまうがよい。われわれは断固支持する。
"Apocalypse Now"(『地獄の黙示録』):(1979/2001)フランシス・フォード・コッポラ監督によるベトナム戦争の映画。制作ドキュメンタリー『ハート・オブ・ダークネス』と合わせて狂気の沙汰を確認せよ。しかしワーグナーを鳴らしながらの機銃掃射などというものは想像力ということばも追い付かないほど常軌を逸していると思わないか?
九鬼周三(くきしゅうぞう):(1888-1941)哲学者。『いきの構造』もまたわれわれの聖書である。この著作には、場所は教えないが読んでいるとわれわれは必ず涙してしまうくだりがある。サルトルの家庭教師でもあった。「いき」ということばを本当のかたちで使いましょう。(お願い)
Salon Music(サロン・ミュージック):(1982?-)音楽家。『マイ・ガール・フライデー』(これが何の引用か、さらにそれが何からの引用なのかは敢えていわない)で登場したときはこんなに音楽が自由なのかという驚きをわれわれにもたらした。また、フリッパーズ・ギター、ザ・コレクターズを世に送出したことでも記憶されるべきである。しばらく表にでるような活動はなかったが、現在はガレージっぽく(といってもこの意味はよく知らない)なって作品をコンスタントに発表している。今のもよい。
『仮面の忍者赤影』(かめんのにんじゃあかかげ):(1968-1969)少年向け活劇TVドラマ。「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だったころ、琵琶湖の南に金目教という怪しい宗教がはやっていた。それを信じないものは恐ろしい崇りにみまわれるという。藤吉郎はその秘密を探るため、伊賀の里から仮面の忍者を呼んだ...」というのがオープニングのナレーション。だいじょうぶ(右手で拳をつくり、その拳を少し内側に巻き込むかたちで顔にもっていき、親指を鼻にあて、「だいじょうぶ」と云い乍ら鼻にあてた親指を回転軸とし、せりふの長さにあわせてゆっくり開いていく。マウスから手を離してやってみたまえ。さあ)。堀江卓の『矢車剣之介』を思わせる「からくり」っぽさはほとんどナンセンスである。
Philip Glass(フィリップ・グラス):(1937-)音楽家。『グラスワークス』の頃はいちいち驚いていたが、いまはどうでもいいと思っていることに気付き愕然とする。なお、エイフェックスツインに協力したことは特筆されるべきである。ちなみに、ジャン・コクトーの映画『美女と野獣』にサウンドトラックを提供しているが、これは当初エイフェックスツインが作曲することになっていたのだった。しかし、そのころエイフェックスツインは女に振られて音楽どころではなかった。そのためフィリップ・グラスが起用されることになったのである。という噂だ。
Jean-Marie Straub+Daniele Huillet(ジャン・マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ):(JMS1933-)映画監督。『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』『アメリカ』。今のハリウッド流の見せかけに漬かりきってしまった者にとっては耐えられないであろうその強さ。われわれはそれを映画と呼ぶ。
"Lawrence of Arabia"(『アラビアのロレンス』):(1962)David Lean による T.E.ロレンスの伝記映画。ピーター・オトゥールの変態っぽさが如何なく発揮された名作。モーリス・ジャールの音楽。この映画によってアラビアの砂漠はわれわれの第二の目指す場所となった。ロレンスのアラビアが。ちなみに女が出てこない映画としても知られる。
Wilhelm Richard Wagner(リヒャルト・ワグナー):(1813-1883)音楽家。『トリスタンとイゾルデ』。いびつな国王ルートヴィヒ二世(彼にはヘルムート・バーガーがルートヴィヒ二世に扮したヴィスコンティによるもののほかに、いびつな映画監督ハンス・ユルゲン・ジーバーベルクによるいびつな伝記映画がある。ちなみにダニエル・シュミットのいびつにして偉大な『ラ・パロマ』に出演していたペーター・カーンがルートヴィヒ二世に扮した。)の寵愛を受けた。その楽曲のスケールといい、後世への影響といいすごいやつだ
Daniel Schmid(ダニエル・シュミット):(1941-2006)映画監督。『ラ・パロマ』『今宵かぎりは…』。『ラ・パロマ』は素晴らしい。飽きもせずサインを自慢させてしまうほどわれわれを熱狂させる。
持っているサインの自慢ばかりしているが良いではないか、
来日時にダニエル・シュミットにサインしてもらった『ラ・パロマ』のパンフレットだ。
Jacques Rivette(ジャック・リヴェット):(1928-)映画監督。『彼女たちの舞台』『北の橋』。こいつもまたすごいやつだ。とはいえ、あまり数多くみているわけではないが。
宮武外骨(みやたけがいこつ):(1867-1955)ジャーナリスト。『滑稽新聞』。さらにこいつもすごいやつだ。筆禍で5回投獄されても、16回の罰金刑を食らおうとも真の意味でのジャーナリズムを貫き通したとは。
James Graham Ballard(J.G.バラード):(1930-)小説家。そしてこいつだ。バラードは有名なようでいて『夢幻会社』『クラッシュ』『残虐行為博覧会』やテクノロジー三部作等の重要な部分はあまり読まれず、いまだに初期の破滅四部作で語られている。これは由々しき事態であると云わざるをえない。『夢幻会社』は今はなきサンリオSF文庫のラインアップで絶版状態だが、これをもってわれわれはバラードの最高作と呼ぶ。なお、その後『夢幻会社』は創元SF文庫に収録されている。
1981年に今はなきサンリオSF文庫より刊行された"The Unlimited Dream Company"
の邦訳。
廃刊直後は定価460円の文庫のくせに一万円位の値で古書店にならんでいた。
もちろん自慢だ。
少年倶楽部(せうねんくらぶ):大日本雄弁會講談社(現講談社)発行の少年向け総合誌。このページのどこかでも書いたが、重要な雑誌である。すばらしい。大佛次郎、高垣眸、山中峯太郎、吉川英治、森下雨村等の良質な作家や高畠華宵、山口将吉郎、樺島勝一などの良質な挿絵画家、また田川水泡をはじめとする良質な漫画家の連載など、贅を尽くした雑誌が可能たりえたのは、良識のあった時代だからこそであろう。昭和初期の黄金時代を羨ましくおもう。
。銭十六金価定。紙表号月一年八和昭
。たしまみてし慢自がるあはで版刻覆
Andrei Tarkovsky(アンドレイ・タルコフスキー):(1932-1986)映画監督。『ノスタルジア』には衝撃をうけた。観終わったあと、寄せては返す潮のように(詩人だろ?)鳥肌が立ち、意味不明の嗚咽が沸き上がってきたのを憶えている。だがなんといっても『鏡』こそがわれわれにとってはショッキングな映画であった。単純にいってしまえばイメージや情景の羅列なのだが、それらの構成のされかたの衝撃的なこと(といっても決してショッキングなものではなくあくまでも幼少時の思い出が映像化されていて、一見脈絡のはっきりしないような構成であるが、この構成以外にはありえないと思わせるに足る天才の仕事であった)。ちなみに遺作となった『サクリファイス』をわれわれは決して評価しないわけではないが、蛇足と呼ぶ。
松本俊夫(まつもととしお):映像作家。『ドグラマグラ』『映像の発見』。非難されたり無視されたりしているが、われわれは一時期、確実に彼の映画理論にかぶれていた(この辺りの記述はわれわれの年代を推定する根拠になるであろうか?)者の義理としてここに名を挙げる。ちなみに有楽町の立ち食いそば屋で目撃されたことがある。
El Malo(エル・マロ):(1995?-)音楽家。日本のブレイクビーツ博士。その実力はこれから評価されていくであろう。
Eduard Manet(エデュアール・マネ):(1832-1883)画家。『フォリー・ベルジェールの酒場』『草上の昼食』『オラムピア』。われわれはエドゥアール・マネによって黒が色彩であることを知った。ちなみに主宰者は『オランピア』を学校の教科書かなにかでみてはじめて勃起し、美術への興味を開かれたという(単に助平とも考えられる)。しかし、マネの作品は、学校の教科書のなかとか銀行のロビーとか談話室滝沢とかにちんまりとお行儀良くは決しておさまることはない。その異物感は歴然とあたりの空気を緊張したものに変える。その生々しさはいまだにわれわれを悩ましくさせる。(一応リスペクトです)
Irish Republican Army(アイ・アール・エー):(1919-)通称IRA。北アイルランドの解放のために今も戦っている。
Robert Rauschenberg(ロバート・ラウシェンバーグ):(1925-)美術家、振付家。コンバインペインティングの創始者。タブロー上のアナーキー。ラウシェンバーグのことば:「ダ・ヴィンチの『受胎告知』にはまったくヒエラルキーがないのが面白い。」そう、われわれが彼の作品に感じる衝撃はこのヒエラルキーのなさに由来している。
Barder-Meinhorf Group(バーダー・マインホーフ・グループ):旧西ドイツのテロリストグループ。中心となったアンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホーフの名に由来する。都市型テロの方法論的改革者。処刑あるいは自殺によって消滅せしめられた。その中心人物アンドレアス・バーダーの顔写真をジャケットにしたBlack Grapeのアルバムもよい(どこかで書いているかも知れない)。(と書いたものの顔写真はテロリストのジャッカルのもののようだ。)
宮西計三(みやにしけいぞう):(1956-)漫画家。『ピッピュ』。ハンス・ベルメールに起源をもつその驚異的描線。その描線の繊細さは印刷では表現することは不可能で、原画を見たことのあるものにとって、印刷物で我慢させられるのは非常な苦痛である。最近消息不明なのが残念、といってもいわゆるエロ漫画なのでそんなに表にでることはないのだが。
などと思ってたら2000年になって十年ぶりの新刊『バルザムとエーテル』が刊行され、それに合わせたサイン会でサインをもらったぞ。サインのそばには一冊づつ違った詩のフレーズのようなものが書き添えられていて、われわれのには「十年の値にと歯の十本も取らるなり」って書いてあった。はじめて目にした実物の宮西計三はフリルのついたサテンっぽい黄色の光沢生地のシャツで、顔色が悪く、白髪まじりの長髪で、下を向いたまま一度も顔を上げず、いかにもああ云う作品を書いてる人だなぁって感じで嬉しかったものだ。
The Zombies(ゾンビーズ):(1963-?)音楽家。『シーズ・ノット・ゼア』。60年代の多くグループのなかでも、その陰靡で湿った感触で気にせざるを得ないつみなひとたち。
Henning Bendsen(ヘニング・ベンドセン):カメラマン。カール・ドライヤーの『奇跡』の撮影監督というだけで尊敬の対象たりうる。フィルム上で「白」を発明した。ほかにラース・フォン・トリアーの『ヨーロッパ』がある。
Apple Computer Inc.(アップル・コンピュータ):(1978-)コンピュータハードおよびソフトウエアメーカー。
鈴木清順(すずきせいじゅん):(1923-)映画監督、俳優。『刺青一代』『殺しの烙印』『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』。オールナイトの4本立てとかで騒ぎながら観るのが正解。要口笛+拍手。ちなみに、群雄社発行の『陽炎座』は荒戸源次郎の価値ある仕事のひとつであるというだけでなく贅を究めた稀代の美しい書物である。この書物のおいたちについては"QUICK JAPAN"vol.13に詳しい。
これが表紙だ
持っていることを自慢してみました。古書店などで見掛けたら迷わず買うように。
Bert Jansch(バート・ヤンシュ):(1943-)音楽家。イギリスフォーク界の巨人。深い。
Adorf Hitler(アドルフ・ヒトラー):(1889-1945)社会主義労働党総裁。自殺。『わが闘争』。ヒトラーがユダヤ人に対して行ったことをわれわれは決して許してはならない。しかしわれわれのうちにもヒトラーは居るのであり、問題としてのヒトラーにけりをつけないうちはヒトラーと生き続けなければならない。矛盾を内包した生をわれわれは生きなければならない。
Derek and the Dominos(デレク・アンド・ザ・ドミノス):(1970-1973)音楽家。『いとしのレイラ』はエリック・クラプトンが感情だけで作ってしまったアルバム。これが実際の恋愛沙汰と密接に関係してできたものであることはあまりにも有名。
中平康(なかひらこう):映画監督。『狂った果実』はフランスでヌーヴェル・ヴァーグが起こるきっかけともなった古典(古いという意味ではなく、時間を超えているという意味である)。
"NOA NOA"(『ノア・ノア』):ポール・ゴーギャン作。タヒチでの滞在日記。われわれの南方指向のきっかけとなった。ちなみにゴーギャンには『ト・ポイポイ』というタイトルの人間がウンコをしているところを描いた絵画作品が残されているが、ヴィム・ヴェンンダースの『さすらい』とともに、あるいはジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』『モンド・トラッショ』とともに、あるいはサミュエル・ベケットの『初恋』とともに、あるいは暗黒大陸じゃがたらまたは江戸アケミの『(すみませんタイトル忘れました)』とともに、あるいはただのガキのように排泄行為あるいは排泄物に対する(ごく自然な)興味を刺激する
MAX3.0(マックス):(1988-)フランスの高等技術音楽機関 IRCAM 開発 OpcodeSystems 社製の Macintosh 用マルチメディア開発環境。高橋悠治も使っていたのを観たことがある。カール・ストーンも有名なユーザー。「演奏」の概念を変革しうる驚異的なプログラム。ちなみにパッケージの唱い文句は"Object Oriented Programming Environment for Music and Multimedia"。
CHIC(シック):(1977-)音楽家。天才ナイル・ロジャースの仕事になんのコメントもいらない。♪Good Times♪は超名曲。
田中一村(たなかいっそん):(1908-1977)画家。われわれの憧れである奄美の自然をルソーのような筆致で描いた。1985年NHKの美術番組で特集が組まれ、再発見の評価がたかまり画集も出版された。このようなマスコミの機能についてはわれわれは何の異議もとなえず、むしろ評価に値するものと考え素直に歓ぶものである。
Jean Vigo(ジャン・ヴィゴ):(1905-1934)映画監督。『新学期・操行ゼロ』『アタラント号』『水泳選手ジャン・タリス』。ボロボロのプリントでしか観たことがないが、はじめて『新学期』を観たときはその天使的鮮烈さにびっくりした。ジャン・ヴィゴという名前の語感、フランスでは上映禁止になったとか、操行ゼロというタイトルとかでちょっと危険な映画を想像していたのであるが、何とまあ無垢そのもののような映画なのかと思った。
BS2放映時の『新学期・操行ゼロ』のキャプチャ画像を無断掲載。
Monster of Frankenstein(フランケンシュタインのモンスター):Mary Cherryの小説『フランケンシュタインあるいは現代のプロメテウス』の登場人物。というより、われわれはボリス・カーロフの肉体を得てはじめて実体化された映画版のモンスターに大きなリスペクトを表明する。
ボリス・カーロフの肉体により実体化されたフランケンシュタインのモンスター
『水平社宣言』(すいへいしゃせんげん):(1922)差別撤廃を目的として組織された水平社の設立者のひとり、西光万吉(清原一隆)によって起草されたマニフェスト。1871年明治維新政府は近世社会の最低身分とされた賎民の身分職業とも平民同様とする、といういわゆる解放令を発布し、法律・制度の上では差別はなくなったはずだったが、具体的な施策はほとんどとられず、現実には依然として差別はなくならなかった。そのため、部落差別の解消を目指す様々な思想が生まれ、運動が起きた。特に大正中期の米騒動を契機として、被差別部落の人びと自らが部落差別をなくすために立ち上がったのが1922年の「全国水平社」創立大会であ り、ここで「水平社宣言」が採択された。この宣言は日本における最初の人権宣言とも言われる。主宰者が小学生のとき、社会科の授業中に授業を聞かずに副読本の資料集を読んでいたときにはじめその存在を知り、その文章に感動した。
大 光 事 う と の う そ れ を を 教 陋 必 る 弟 れ ∧ 実 た 正 人 水 を が し に わ わ だ と う の 引 剥 者 劣 わ 兄 然 こ を ら つ は わ 過 長 全 十 の 平 願 何 て よ れ れ °す だ 夜 き ぎ で ∧ れ 弟 で と 堕 の ね `れ 去 い 国 一 世 社 求 ん 人 つ わ わ 殉 る `の 裂 取 あ ろ わ よ あ に 落 人 ∨ そ ら 半 間 に 年 に は 礼 で の て れ れ 教 時 そ 悪 か ら つ う れ °る よ さ 間 に れ の 世 虐 散 三 熱 `賛 あ 世 `は が 者 代 う 夢 れ れ た れ の °つ せ を 人 ら た 紀 げ 在 月 あ か す る の 祖 `エ が に し の ` `の つ 祖 て た 労 間 の め 間 ら す 三 れ く る か 冷 先 か タ `あ て う そ ケ だ ∨ 先 自 こ ∧ を す の に れ る 日 `し も を た を な で そ つ わ ち こ モ °な は ら と い 冒 べ 運 `て わ 人 て の よ さ 辱 ら あ の た れ に へ ノ ケ る 自 解 を た 涜 て 動 種 き が 宣 間 生 で く が ∧ ず る 荊 の わ も 下 の モ 階 由 放 想 わ さ が が 々 た 特 に ま あ 知 ど は 卑 こ 冠 だ れ `ら 心 ノ 級 ` せ え ∨ れ わ `な 兄 殊 光 れ る つ ん ず 屈 と を °は な な 臓 の 政 平 ん ば る て れ 何 る 弟 部 全 り た °て な か な を 祝 犠 `お い を 皮 策 等 と `か い わ 等 方 よ 落 言 国 あ ° い に し る 誇 福 牲 こ 誇 嘲 裂 剥 の の す こ の た れ の 法 °民 水 れ る 冷 ∨ 言 り さ 者 の り 笑 く ぐ 犠 渇 る の ご 罰 に 有 と よ 平 ° わ た め 葉 得 れ が 血 得 の 代 報 牲 仰 者 際 と な よ 難 ` 団 社 れ い 人 と る る そ を る 唾 価 酬 者 者 の わ き の つ い 多 結 わ か 間 怯 時 時 の 享 人 ま と と で で 集 れ 運 で て 効 く せ れ `を 懦 が が 烙 け 間 で し し あ あ 団 ら 動 あ ま 果 の よ は 人 冒 ∧ 来 来 印 て の 吐 て て り り 運 の は つ た を 人 ° `間 涜 き た た を `血 き ` ` ` ` 動 中 `た 他 も 々 心 を し ょ の の 投 人 は か 暖 生 男 実 を よ か の の た と か 労 て う だ だ げ 間 涸 け か 々 ら 行 起 り え だ 人 ら に ら ∧ は だ ° °返 が れ ら い し し 者 せ 人 つ °々 さ よ 人 い な ∨ す 神 ず れ 人 き き で る 間 て そ に な つ 世 た ら な 時 に に た 間 人 産 あ は を 多 し よ か て の わ ぬ る が か あ °の 間 業 つ む 尊 く て つ つ な 熱 ∨ °行 来 わ つ 呪 心 の 的 た し 敬 の `て た さ と る そ 為 た ろ た わ 臓 皮 殉 ° ろ す 兄 こ 毎 事 れ ° |
Blondie(ブロンディ):(1974-)音楽家。われわれがどこかでリスペクトせざるを得ない天才ナイル・ロジャースのプロデュースによる『オート・アメリカン』はよく聴いていたし、今でもよく聴いている。
Survival Reserch Laboratories(サバイバル・リサーチ・ラボラトリーズ):(1978-)Mark
Paulineの率いる美術集団。彼らのパフォーマンスは"Machine Battle"とも呼ばれ、自作機械同士を戦わせるものである。「テクノロジー」とか「戦争」とかいった現代思想の用語で説明することもできるが、われわれはそのほとんど気狂い沙汰としか評し得ないイヴェントの「暴力」や「破壊行為」そのものがエンタテインメントと化す様を前にして素直に楽しいという感想以外何ももたない。これほどの純粋なエンタテインメントは他にはないであろうとも思う。また、彼らの火器に関する技術力はアメリカ国防省も一目置いているらしい。事実、そのパフォーマンスを記録したヴィデオでは炎を操り人形のように扱う様子が確認できるし、火炎放射器から吐き出される炎が驚異的な長さを誇らしげに提示しているのを見るだけで十分分かることだ。動物の死体を使うこともあり、動物愛護団体の非難の標的ともなっている。また当然のことながらそれらのイヴェントは治安とか安全とかいったものとは程遠く、記録ヴィデオの最後にはほとんど毎回、駆けつけた警察官や消防車の姿が映し出される。ご愛敬である。という説明だけではよく解らないという向きには、ペヨトル工房から発行されていたヴィデオ『絶望的悲しみの苦き報らせ』を見つけだし(残念ながら200コピーのみの限定版なので入手はかなり困難と思われるが、われわれは持っているぞ、どうだまいったか。あるいは輸入版がアンダーグラウンド系のヴィデオ店にもある。ちなみにそのヴィデオが入手可能なショップにはメディアになりたかった高杉弾の『トライアングル』がある。かつて渋谷に存在した店舗は主宰者が好む品揃えで嬉しがらせ、またその値段によって悲しがらせたという。その後消息を知らなかったがオンラインで出店していたのを知ったときは感慨深いものがあったそうだ。まだメジャーになるまえの高城剛が仕入れの仕事をし地歩を固めていたと聞く。)、その目で何がおこなわれているのかを確認されたい。なお、彼ら自身によるウエッブサイトでもビデオが購入できる。過去に一度晴海埠頭での来日公演の計画があったが、圧力団体により阻止された経緯がある。ちなみにマーク・ポーリンは実験中に自分の片手の指を吹き飛ばしてしまった。もしあなたがエンタテインメントとは何かを知りたければ彼らのヴィデオを観るのがいい。
ちなみに人と話すときに「ラァブ(Lab.)」と略すと通っぽく見られる。
なお1999年末に初来日公演が実現したが、この最高のショウにして最低のイベントについてはいろいろと云いたいことがあるのだがここでは書かない。
Jean Renoir(ジャン・ルノアール):(1894-1979)映画監督、俳優。『ゲームの規則』『黄金の馬車』。ルノワールの豊饒さについては蓮實重彦の言をまつ必要はあるまい。
陳建民(ちんけんみん):料理家。NHKで放映されていた『今日の料理』での話し方が大好きであった(とはいうもののリアルタイムの経験ではないが)。そこでの料理について、息子の鉄人陳健一は、(高度成長期の日本の)限られた食材で可能な限り本物の中華に近い、日本の家庭でも作ることができる中華料理を考案したと評していた。
麻婆豆腐を日本へ初めて伝えた。
Fedelico Fellini(フェデリコ・フェリーニ):(1920-1993)映画監督。『フェリーニのカサノバ』『8 1/2』。それにしても全編がセット撮影で製作された『カサノバ』はすごい。『フェリーニのカサノバ』についてだけは誰も、蓮實重彦でさえ何も語りえていない。もちろんわれわれが何かを語りうると錯覚さえさせえない得体の知れないものである。ところでこのページは fortress beethoven 版『アマルコルド』なのだといったらあなたはどう思われるであろうか?
MOSSAD(モサド):イスラエル中央情報局。反ナチ組織。第二次大戦後、潜伏していた元ナチスの指導者たちを徹底的に探し出して処刑した。その執念においてわれわれは敬意を惜しまない。
黒澤明(くろさわあきら):(1910-1998)映画監督。『隠し砦の三悪人』『七人の侍』。われわれはおそらくそれほど黒澤明を評価はしていない。だが、『隠し砦〜』の面白さは抜群である。われわれのそれほど多くないヴィデオのコレクションのなかでも回転率の高いタイトルのひとつでもある。その英語タイトル"Hidden Fortress"はわれわれの名前とも遠く呼応している。などと思い上がったことも云ってみる。
Hector Zazou(エクトール・ザズー):音楽家。『サハラ・ブルー』『コールド・シー』。エクトール・ザズー自体(実験ロック)はそれほど評価しないが、この2枚の企画盤については、参加させた音楽家の面子をみてもある種鬼面人を脅かすの観は否めないが、かなり面白いものとなった。われわれはこの鬼面において評価を惜しまない。
四世鶴屋南北(よんせいつるやなんぼく):(1755-1829)戯作者。『東海道四谷怪談』。伝聞なので定かではないがこのひとは、親族に自分が死んだら着せるようにと経帷子を託していて、火葬にしたところ爆発をおこした。つまり経帷子には爆薬が仕込まれていたという。また、辞世の句は「みなさまへ/さていろいろと/ありがとう/お先に失礼/はいさようなら」というものだった(これも伝聞につき定かではない)。う〜ん、なんて迷惑でふざけた奴なんだ。われわれはこの伝聞をもってファンになってしまった。
二世為永春水(にせいためながしゅんすい):(1790〜1843)江戸後期の戯作者。江戸の人。本名、鷦鷯(ささき)貞高。通称越前屋長次郎。青林堂という本屋を営むかたわら「明烏後正夢」を刊行。以後次々と作品を書き人情本の第一人者として活躍。天保の改革の際、風俗壊乱の理由で処罰され、憂悶のうちに病没。「春色梅児誉美」「春告鳥」など。<以上の記述は、マイクロソフト/小学館の BookshelfBasic より無断転載。しかしそんなことより、われわれがすぐ上で鶴谷南北のものと記憶していた辞世の句が為永春水のものであったことが判明したため修正のために項目を追加した。また辞世の句自体も間違っていたので正確にここに記す。何にしても死に際にこんなことばを組織するほどの強烈な余裕にわれわれは驚愕と尊敬を隠しえない。
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Kraftwerk(クラフトワーク):(1974-)オンガクカ。『トランス・ヨーロッパ・エクスプレス』。主要メンバーのひとりKarl
Bartosは1993年に独自のプロジェクト"ELEKTRIC MUSIC"でポップ路線を推し進めた。われわは限定版12インチシングルの"Tour
de France"を未だに聴きえていないが、持っているものはダビングしてわれわれに送り付けるように。といってもこのページを見るやつがいるのだろうか?
などと書いておいて期待するでもなく待っていたら EC でちゃんと CD 化されてわれわれも聴くことが出来た。キリスト者であるわれわれは「求めよ、されば与えられん」ことを知っている。
R.D.Laing(R・D・レイン):心理学者。『ひき裂かれた自己』。この人の本は『新世紀エヴァンゲリオン』のブームのからみで平積みにされていたりした。著作においてかなり論旨は明解だが、それ故に評価されるべきではない。患者とのスキャンダルで彼は自分の理論の実験の場としていた精神病院を追われ、行方不明となり、インドかどこかで仏教徒の恰好をしているのをヒッピーに目撃されたりもしている。ただ、新聞で訃報を聞いたときはテニスのプレー中だったというから解脱しそこなって一般人に混じっていたのかも知れない。(非難しているように見えてもリスペクトです)
山形浩生(やまがたひろお):(1964-)翻訳家。『新教養主義宣言』『山形道場』われわれはバロウズの翻訳でその名を知ったが、彼の嘲笑的で攻撃的な文体がわれわれにもたらした影響は大きい。また、山野浩一や山田和子のやっていた「NW-SF」誌(ちなみに J.G.バラードの『ハイ・ライズ』の日本語への移植はここでなされた。事務所は荻窪にあった。)なきあとの唯一のマイナーSF雑誌であったトーキングヘッズ誌(現TH叢書)での活動も評価する。野村総合研究所勤務。このひとがピアスをしているのを知ったときは少し評価を下げた。われわれはこの名前が目次に在るか無いかでそのメディアの良識の有無を判断している。
(ちなみにこのページはどういう経緯かご本人の目とするところとなり、われわれのセレクションにつき好意的な評価のことばを頂いていることをここに自慢する。)
Tranceglobal Underground(トランス・グローバル・アンダーグラウンド):(1994-)音楽家。♪Psycho karaoke♪。一部で有名な Natasha Atlas をメインボーカリストに擁するバングラ系バンド。
林明子(はやしあきこ):絵本作家。『コンとアキ』(福音館)に見られる優しさにわれわれは最上級の賛美を送る。われわれは何度読んでもその度ごとに、その優しさに泣く。「心が洗われる」という陳腐の極みのような表現をこの世で唯一実体化する書物。泣け!!!ちなみにわれわれはサインを持っている。
Fritz Lang(フリッツ・ラング):(1890-1976)映画監督。『死刑執行人もまた死す』。かれの映画によって意志をもつということ、厳格であることを学んだ。顔がかっこいい。
Darth Vader(ダース・ヴェイダー):20th Century Fox 製映画『スター・ウオーズ』の登場人物。悪を象徴する。かれによって惡の意志をもつということ、ダークサイドの力を知った。顔(マスク)がかっこいい。
田河水泡(たがわすいほう):(1899-1989)漫画家。『のらくろ』『蛸の八ッちゃん』。1975年頃講談社の覆刻が相継ぎその概容がわれわれの知るところとなった。ちなみに『少年倶楽部』(昭和8年分)本誌の覆刻や、同誌の主な読み物や漫画を文庫化した少年倶楽部文庫(新漢字新かなであったことだけが惜しまれる)の刊行、並行的に企画された国枝史朗文庫版全集の刊行がわれわれに及ぼした影響は大きい。ちなみに、田河水泡は氏の本名の高見沢を「たかわみずあわ」ともじったペンネーム。
Cornelius(コーネリアス):音楽家。『69/96』。Flipper's Guitar の片割れ小山田圭吾が本体。フリッパーズ・ギターの音楽的アイデアの革新性の大部分はこの人の功績と思しい。フリッパーズ時代の『ヘッド博士の世界塔』もわれわれの愛聴盤である。ちなみにこのアルバムの最後の曲の歌詞「初めて買った皆さまにだけ飛び出すよフリッパーズ世界で初」というのは初回プレス分のみ3Dジャケット仕様であったことに由来する。あまり話題にならなかったが、森永製菓の小枝チョコレートのTVコマーシャルに女装で出演していた。変なやつだ。同じライブに観客として居合わせたときはわれわれの選択に自信がもてるというバロメーターでもある。
Akai S3000XL(あかいえすさんぜんえっくすえる):赤井電機製のサンプリングマシーン。われわれが唯一「武器」とするもの。音楽の概念さえ変えたサンプリングマシーンへの尊敬の念を代表してここにその名を記すとともに感謝をささげる。ちなみに18MBだ。
Harbie Hancock(ハービー・ハンコック):(1940-)音楽家。『処女航海』『カメレオン』。
中川信夫(なかがわのぶお):映画監督。『東海道四谷怪談』の怖さは凡百の恐怖映画を退屈なものとせしめる。超傑作。(ちなみに宣伝を頼まれているわけではないが、現在日本国内でヴィデオ発売されていないこのタイトルはオンラインヴィデオショップ『トライアングル』で入手可能なので運悪く興味が湧いてしまった貴兄はすかさずクリックポチっとな。)
"Excalibur"(『エクスカリバー』):(1981)ジョン・ブアマンの騎士伝説の映画。われわれはブアマンの無駄な装飾主義が唯一意味をもったこの映画を評価する。
手塚治虫(てづかおさむ):(1928-1989)漫画家。『火の鳥』『どろろ』『I.L』。いわずもがなの漫画界の巨匠。われわれはその思想よりも、誰かがエロチックとさえ評したその描線に魅せられる。
Agn駸 b(アニエス・ベー):デザイナー。われわれは基本的に服装に関しては機能を満たせば良いとするものであるが、ここのシャツは着心地が良かった。それだけだ。
子供の科学(こどものかがく):誠文堂新光社発行の少年向け科学雑誌。われわれの科学への興味を開かせたその影響も計り知れない。ちなみにこの雑誌からわれわれの得た知識は生物、物理、天文等の科学への興味、鉄道模型の作り方、紙飛行機の飛行性能の上げ方と原理、そしてなによりも記しておかなければならないのは、ことばへの関心を主宰者に目覚めさせたことである。小学生の中学年(っていうんだっけ)のころいつものように『子供の科学』のNゲージ(鉄道模型の種類です)の制作記事を読んでいた少年は文章の途中で自分の目が同じところを何度も繰り返して読んでいるのに気付きました。その文章の一行の文章は上の行とまったく同じものでした。つまり誤植があったんですね。たしか「のコイルを軸にグルグル巻いてその上」(ちょっと短いのでほかにもっと言葉が入っていたはずです)という行が二行続いていました。つまり、「のコイルを軸にグルグル巻いてその上のコイルを軸にグルグル巻いてその上」というふうになっていたんです。これに気付いたとき少年は自分がただ連なっているインクを見ているのではなく、一連の意味内容をあらわすために誰かによって組織された言葉の連なりを読んでいるのだということを感じました。これがことばというものに関心をもつきっかけになった(ような気がする)のです。つまり誤植によって露呈する言葉という制度的媒体の亀裂を目撃したことによってその制度あるいはそれらの組織のされかたについての理解の端緒となった事件といえる訳です。このことは少年にとっては大事件でした。
Ry Cooder(ライ・クーダー):(1947-)音楽家。『チキン・スキン・ミュージック』『ジャズ』。ギターの神様。フレットを押さえる指先は人間のものではなかったと目撃者は語っていた。
Velvet Underground(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド):(1966-?)音楽家。アンディー・ウオーホルのバックアップで登場したアングラバンド。"The Velvet Underground And Nico"は誰もが持っているがほんとうに聴く権利をもっているものはわれわれを含めてそうは多くない。『ホワイトライト/ホワイトヒート』も良い。
高級藝術協會(こうきゅうげいじゅつきょうかい):(1983頃)南伸坊、上杉清文、末井昭、平岡正明らを中心とする文化人/業界人のお遊び的集団ながら、赤瀬川源平の超藝術トマソンを産み出す母胎となるなど重要な運動への発展の契機となった。メンバーにはほかに上野昂志、糸井重里、秋山道夫、渡辺和博、荒木経惟、巻上公一、四方田犬彦等。当時末井が編集長をしていた雑誌『写真時代』を主な活動の場としていた。
上杉清文(うえすぎきよふみ):(1946-)成就山本国寺住職、劇作家、思想家。『無責任な思想』を筆頭に、そのアナーキーな思考と文体はわれわれに多大な影響をあたえた。われわれはそもそも仏教徒ではなく、しかも軽蔑さえしていた仏教に対する理解の端緒ともなった。ちなみにわれわれはキリスト者である。アナーキーと良識が脳内に共存している。NHKのラジオに出演していたのをたまたま聴取したことがあるが、別人のように良識のひととなっていた。それにしても偉大である。繰り返す、偉大である。
Edger Allan Poe(エドガー・アラン・ポー):(1809-1849)小説家、詩人、アルコール中毒。『ユリイカ』に示された世界観はボードレールに多大な影響を与えた。また推理小説の創造者でもある。
George Martin(ジョージ・マーティン):(1926-?)音楽家。『ジョージ・マーチンの冗談音楽』。ビートルズのプロデューサー。もしかしたら同名異人かあるいは別人の解説をしてしまっているかも知れない。が、まあいいか。そもそもこのページはかなりの度合いで記憶違いや未確認情報や噂が混入しているのですべてを信じてはいけない。しかしこのページ書いてあることはすべて真実である。
『探偵物語』(たんていものがたり):連続TVドラマ。松田優作主演の探偵ドラマ。火曜日(たしか)の放映は欠かしてはならなかった。ドラマといい、演出といい、役者といい、すべてが良質なものであった。ちなみに当時録画していたビデオを見直してみたところすべて3倍速で録画されておりほとんど鑑賞に足る能わざるものと化してしまっていてひどく悲しい思いをしてしまいました。1997年にリバイバルブームがあった。
Pete Townshend(ピート・タウンゼント):(1945-)音楽家、小説家。『四重人格』『トミー』。ひねくれ者の代名詞的人物。
『高等魔術の教理と祭儀』(こうとうまじゅつのきょうりとさいぎ):エリファス・レヴィによる高等魔術の解説書。一説によるといかさまだというが、この著作もわれわれに影響を与えている。といってもわれわれは魔術師ではない。
辻潤(つじじゅん):(1884-1944)ダダイスト。意識的か無意識的かその言動はアナーキーそのものであった。というかアナーキーとかダダとか舶来もののラベルよりは日本的な無常観を強く感じさせる。独特の無垢な文体も心地よい。
Flyng Lizards(フライング・リザーズ):(1979-?)音楽家。デイビッド・カニングハムによる音楽プロジェクト。『ミュージックファクトリー』『トップ10』。ビートルズの♪マネー♪の間抜けなカバーで有名だが、かなり先鋭的な実験をおこなっている。
Boeing B-17G(ボーイングびーじゅうななじー):(1943-1945)Boeing社製の四発重爆撃機。軍用機デザインの極致。この機体をみたときにわれわれは形態の美しさというものを知った。8,680機が製造された。
Otis Redding(オティス・レディング):(1941-1967)音楽家。『ドック・オブ・ザ・ベイ』『ヨーロッパのオーティス・レディング』。This is SOUL。
坂根巌夫(さかねいつお):岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー学長、評論家。『遊びの博物誌』『新・遊びの博物誌』。遊び=科学ということをわれわれはその著書『遊びの博物誌』から学んだ。
星新一(ほししんいち):(1926-1997)小説家。とりあえず読書がきらいだったわれわれにそのショートショートという取りつきやすい形で読書という行為に導いてくれたことを感謝する。
Electric Light Orchestra(エレクトリック・ライト・オーケストラ):(1971-?)音楽家。才人ジェフ・リンがその才能を最大限に発揮したグループ。『エルドラド』『オーロラの救世主』。ちなみに1977年の武道館での来日公演時にそのころはまだ珍らしかった演出用レーザー光線が自分に命中するのを怖れて音楽を聴くどころではなかった人物がいたという報告をうけている。
Marquis de/Donatian Alfonse Fran?ois de Sade(マルキ・ド・サド):(1740-1814)小説家。『ソドムの百二十日』『悪徳の栄え』サディズムの語源。蔓延しすぎた誤解からの脱却は不可能であろうが、サドは単なるエロ作家でも変態でもなく並外れて論理的な思弁家である。
ヤン富田(やんとみた):(1952-)音楽家。ドゥーピーズというでっちあげプロジェクトで才能爆発。ただ楽しめばよい。
"Pink Framingo"(『ピンク・フラミンゴ』:(1972) John Waters の変態映画。われわれはこの映画(まだ日本では正式公開されていなかったころいまはなきアンダーグラウンドの拠点、黙壷子フィルムアーカイブでよだれを垂らしてへらへら笑いながら観ている自分に気付いたときに青春も終わったなと思ったら泣けてきた大阪の女やさかい。)によってアングラーへの路を開かれた。
東京おとな倶楽部(とうきょうおとなくらぶ):メディア。中森明夫がやっていた雑誌。5号で終わった。すべて揃えている人間はそうは居まい。だから偉い訳でもない。
Scot Fitzgerald(スコット・フィッツジェラルド):(1896-1940)小説家、アルコール中毒。『ラスト・タイクーン』『華麗なるギャツビー』やはり晩年のアル中がらみの作品に敬意を表明するべきであろう。妻のゼルダも『壊れる』など破滅的なタイトルの小説を執筆しているが読んでいないのでリスペクトはしない/できない。
稲垣足穂(いながきたるほ):(1900-1977)小説家、詩人、アルコール中毒。『彌勒』。
Sex Pistols(セックス・ピストルズ):(1975-)音楽家。『勝手にしやがれ』。今までも何度かピストルズ関連の項目が挙がっていたと思うが、当然本人にもご登場を願った。ちなみにわが主宰者はジョニー・ロットンの目が渦巻きになっている写真がプリントされたTシャツを着て中学に登校していたという(これでわが主宰者の年齢に検討がついたであろう)。
電気グルーヴ(でんきぐるーう゛):(1992?-)音楽家。『カラテカ』は当時のヘビーローテーションであった。今でこそ日本のテクノ界では一流というになっているが、思い起こせば当時はマーケティングの方法がそういうものであったからでもあるが毛色の変わったコミックバンドとして扱われていたと思う。この国に音楽を聴くに値しない人間がいかに多いかの実例だ。われわれは特に砂原良徳の動向に注目している。
Duke Reid(デューク・レイド):音楽家。スカ(といってもはずれのことではない)とはこの人のことをいう。Prince Buster のこともいう。Skatalits のこともいう。Baba Brooks のこともいう。King Edwards のこともいう。しまった、ほかにもいっぱいいる。"Music is my occupation" は必聴。
James tiptree Jr.(ジェイムス・ティプトリー・ジュニア):(1916-1987)小説家。男性名で活躍していたが80年代になってから自分が女性であることを発表した。本名はアリス・ヘイスティングス・シェルドン。病床の夫を射殺しそのあと自殺した。『愛はさだめ、さだめは死』『たったひとつの冴えたやりかた』。『接続された女』でサイバーパンクの預言者ともいわれる。近年とみに再評価の気運が昂まってきている。
Art of Noise(アート・オブ・ノイズ):(1983-)音楽家。『アンビエント・コレクション』。サンプリングの方法論の基礎をわれわれは彼らから教わった。サンプリングマシンの存在を知らなかった当時のわれわれはターンテーブルとテープレコーダーを駆使/酷使して真似を試みていたものだ。余談だがテープレコーダーはわれわれにとって非常に面白い玩具だった。われわれは多くのテープレコーダー再起不能にした。
沢田研二(さわだけんじ):歌手。ジュリー。『勝手にしやがれ』『サムライ』等歌謡曲の最盛期を代表する歌手。
Malka Speigel(マルカ・シュピーゲル):歌手。ヘブライ語の響きがどれほど耳に心地よいものであるかを確認すべし。ちなみにテクノ方面の仕事は退屈なものがおおい。
暴力温泉芸者(ぼうりょくおんせんげいしゃ):音楽家、映画評論家。中原昌也の個人ユニット。『ケ・セラ・セラ』。このひとの最良の仕事は、越路吹雪へのトリビュート盤『拝啓、越路吹雪様。』所収の♪暗い日曜日♪である。これだけ聴けば暴力温泉芸者が何なのかが理解されるであろう。ちなみにこの森本美由紀のイラストのちりばめられたトリビュート盤自体も素晴しいものであることを書き添えておく。
蓮實重彦(はすみしげひこ):(1936-)映画評論家、2001年3月まで東京大学総長、フランス文学者、小説家。『表層批評宣言』『映画誘惑のエクリチュール』『映像の詩学』『監督小津安二郎』。その影響力はいまでもエピゴーネンを量産しつづけていることからも察せられよう。われわれもそのひとつである/あった。またわれわれがドライヤーの『奇跡』に邂逅しえたのはその著書『映画の神話学』に、本文とオーヴァーラップを繰り返し常軌を逸したかたちで挿入されまくっていたスチルにただならぬ気配を感じたのがきっかけとなったのであった。われわれは感謝の意を表する。ところでわれわれはその著作を読んでもあまり理解しえていないと感じながらも面白いと言ってしまうのはわれわれが見栄っ張りだからという理由からだけではなくやはり練達の文体が気持ちいいからなのだと思う。本業の多忙のためか最近目立った活動がないようなのが残念。それにしてもこの大胆にして戦略的なマゾの手練手管。
Sonic Youth(ソニック・ユース):(1982-)音楽家。サーストン・ムーア率いる無軌道音楽集団。われわれはその初期作品を賛美する。
葛飾北斎(かつしかほくさい):(1760-1849)画家。生涯に30,000点もの絵をかいた。その量をきいたときわれわれは尊敬することを誓いあった。絵自体もすごいんだけどね。
The Troggs(トロッグス):(1962-?)音楽家。偉大なるジミヘンのワイルドなカバーで知られる♪恋はワイルドシング♪のオリジナルを演っていたバンド。オリジナルというだけでここに挙がった。本当にそれだけなのだから参ってしまう。やれやれ。
『共産党宣言』:われわれはわれわれのマニフェストを『共産党宣言』の章立てに倣って作成しようとした。だが失敗した。共産党宣言でかっこいいと思ったのは”女は共有物だ”という件だね。どうして日本共産党は男女同権思想の最先鋒とかいった印象がつよいのかね、変に進歩的なことを言わずにもっと根本に返って主義主張を出せばいいのにと思ってしまう。こんなカッコイイ経典をもってるんだから変に色目を使わずに突っ走っちゃえばいいのに、と志位書記局長の質疑をみるたびに思ってしまいます。まあ、これは生産手段としての女を言ってるわけなんで、共産という思想からは当然導き出される答えなわけだ。なので変な平等主義を崇拝しているひとたちには反時代的なものに写るだろうけど。これはこれで論理的整合性のある筋の通った主張なわけなんですね。この驚くべき反時代性をわれわれはこよなく愛する。いかさまな人権思想のはばを利かせている今日にあってこそ真に啓蒙の意味で読まれるべき書物。結局科学は勝利しえないのか。
『わんわん物語』:Walt Disney社製アニメーション映画。原題"Lady And The Trump"。ペギー・リーによる名曲が聴けるだけでも十分ではないか。そう思わないか。
Lipps Inc.(リップス・インク):(1976)音楽家。♪Funky town♪の一発ヒットで消えてしまったグループ。しかしこの曲はわれわれの1976年のテーマ曲として長く記憶されるであろう。誰に?。ちなみに、グループ名の Lipps Inc. は"Rip Sync"(口パク)の洒落。
ペヨトル工房(ぺよとるこうぼう):(1979〜2000)出版社。ちなみに主宰者が書類選考でおちた出版社のひとつでもある。『夜想』『WAVE』等の雑誌の出版社。今野裕一の筍のネタをいちはやく導入する山師的慧眼にも敬意を表する。DTPをいちはやく導入したことでも知られる。以前刊行予定になっていたイアン・バンクス(変態小説『蜂工場』にいたく感銘を受け、てっきりその筋のひとだと思っていたら実は純文学もミステリーも書くひとだった)の『ブリッジ』の邦訳の予定がいつのまにか立ち消えになったままなのが非常に惜しまれる。
2000年になって解散。確実に時代の牽引車でもあった同社の刊行物群の在庫には嘆かわしいことに今後裁断の運命が待っているという、今後単行本なんかは版権の移動でどこかでまた日の目を見ることもあるかもしれないが、「ペヨトル工房」の社名が背表紙に印刷された刊行物が新しく世に出ることはなくなるのだ。
なお、2001年に冬弓舎より、ペヨトル工房の活動を総括する『ペヨトル興亡史』が刊行された。この書物は、あなたの今読み進めつつあるまさにこのページの、このすぐ上あたりの文章が引用されているばかりでなく、協力者ということで fortress beethoven の名が公刊物上に活字化されるという栄誉を賜ったという記念すべき書物でもある。などというあだしごとはさておいても、ペヨトル工房が旺盛な活動をしていた時間に間に合わなかったものにとってはペヨトル工房が何をしてきたのかを概観できるし、出版に興味のあるものにとっては、出版不況といわれる現在、出版業の立たされている困難や課題などをさまざまなかたちで考える契機となる。得るものの多い一冊だ。
The Beach Boys(ビーチ・ボーイズ):(1961-?)音楽家。天才ブライアン・ウイルソンを尊敬する。またアル中で薬物中毒で神経症のブライアン・ウイルソンも尊敬する。もちろんハーモニー・マスターのブライアン・ウイルソンも尊敬する。『ペットサウンズ』が有名だが、作曲したものすべてが素晴しい。
小津安二郎(おづやすじろう):(1903-1963)映画監督。『生まれてはみたけれど』『東京物語』。しかしここでも蓮實重彦の著書『監督小津安二郎』に大きく影響されているわれわれ自身を発見してしまうのだ。
David Lynch(デイヴィッド・リンチ):(1946-)映画監督、画家。彼の他の作品はなくなってもかまわないが『イレイザーヘッド』だけは残って欲しいと思う。われわれが愛を捧げた記憶のために。彼の画業の日本へのはじめての紹介はいまはなき尖鋭的美術館であった表参道の東高現代美術館(おそらくバブルのころの税金対策かなんかのために建てられていたと思しいが、企画展の面白さは群をぬいていた。われわれはここで森村泰昌やダムタイプ等の当時無名(ではなかったかも知れないが今ほど有名でもなかった)だった作家たちを知った。現在はオープンカフェが建っている)での個展であった。
また現在は理論的に存在しない「にっかつビデオフィルムズ」から1985年にリリースされた『イレイザーヘッド』の日本版ヴィデオパッケージの制作で、マスターテープのみしかなかった状況に作品スチル等の資料提供をおこなったのがわれわれである。記して記憶されますよう。奇特にも所有されている方がいたらそのパッケージを眺めわれわれの痕跡を確認せられたい。
"Forbidden Zone"(『フォービドゥン・ゾーン』):(1980) Richard Elfman(最もアメリカのバンド、オインゴボインゴのリーダーにして映画音楽の作曲家ダニー・エルフマンの実兄)の冗談映画。われわれ大好き!良識よ唖然とせよ!アナーキー万歳!とはいうものの作りは結構知的であったりする。しかしアナーキー万歳!!
『海底少年マリン』:連続TVアニメーション。海中を舞台にした正義の少年の活躍を描く。このテーマ曲は元気で健康であったころのわれわれのアンセムであった。劇中に、これを噛んでいれば水中でも呼吸ができるというご都合主義的な小道具「オキシガム」というものが登場するが、純粋であったわれわれはその存在を信じ込んでいた。
山東京傳(さんとうきょうでん):(1761-1816)戯作者。戯作のあらゆる分野で活躍し、町人出身の職業的解作者の元祖。『江戸生艶気樺焼』『櫻姫東文章』。いうことなし。ただ賛美せよ。
"Night of the Hunter"(『狩人の夜』):(1955) Charles Laughton の映画。これもいうことなし。ただただ賛美せよ。おとぎ話的というよりむしろ神話的な物語は決して時間による摩耗をみせない。ちなみにわれわれは何故か同じヴィデオパッケージを3本所有している。 水中に漂うシェリー・ウインタースの長い髪。
Una Bomber(ユナ・ボマー):爆弾テロリスト、元カリフォルニア大学数学助教授 Theodore Kaczynski の FBI 捜査中のコードネーム。4回の終身刑を言い渡され服役中。
Jeanne d'Arc(ジャンヌ・ダルク):(1412-1431)英雄とも狂気とも語られる。火炙りになった。偉大なカール・ドライヤーによる常軌を逸した伝記映画『裁かるるジャンヌ』がある。
Lars Von Trier(ラース・フォン・トリアー):映画監督。『エレメント・オブ・クライム』『ヨーロッパ』を監督したばかりでなく、同じデンマークの国籍をもつカール・ドライヤーが映画化を夢見ながらなしえずにその生涯を終えたエウリピデスの『メディア』を、その故に映像化したという彼の行為によって評価する。たとえ作品が退屈なものであってでもである。
高野文子(たかのふみこ):漫画家。『田辺のつる』の衝撃もまた、確実に記憶されねばならない。この人の漫画はどれも漫画とは呼びがたい感じがする。
杉浦茂(すぎうらしげる):(1908-2000)漫画家。漫画家といえば杉浦茂を忘れてはいけない。他の何物にも似ていないまったく独自のテイストを表現しうる漫画家は杉浦茂を除いては地球上には存在しない。また描線のみで食べ物の「おいしさ」を表現しうる漫画家も他にはいない。なんてね。
Yannis Xenakis(ヤニス・クセナキス):(1922-2001)音楽家。"Stochastic Music"という数学的要素による作曲法を考案。三人弟子がいて、一人は自殺し、もう一人は精神病になり、後の一人が高橋悠治であったそうだ。京都セラミックの会長が私財を投じて設立した日本のノーベル賞ともよばれる京都賞を1997年に受賞したがクセナキスは京都が何か知らなかった。
Robert Bresson(ロベール・ブレッソン):(1907-1999)映画監督。『ラルジャン』『抵抗』『スリ』『白夜』『バルタザールどこへいく』『シネマトグラフ覚書』。われわれはブレッソンの強度を羨望する。
越路吹雪(こしじふぶき):(1924-1980)シャンソン歌手。『愛の賛歌』
Adam and The Ants(アダム・アンド・ジ・アンツ):(1977-1983)音楽家。マルコム・マクラーレンがピストルズのあとに仕掛けたグループ。流行ったのか流行らなかったのかわからない海賊ルックで有名。ただ、楽曲群はかなり素晴しい。
『意思と表徴としての世界』:(1819)ショーペンハウエルの著作。われわれの聖書のひとつ。
James Dean(ジェームス・ディーン):(1931-1955)映画俳優。『理由なき反抗』。ヒーローであるためのすべての要素をもっていた。
Luchino Visconti(ルキノ・ヴィスコンティ):(1906-1976)映画監督。『ルードウィッヒ』『地獄に落ちた勇者ども』『ヴェニスに死す』。岩波ホールでは観たくなかった。
The Byrds(ザ・バーズ):(1964-1970)音楽家。♪ターン・ターン・ターン♪等によりわれわれは彼らにハーモニー博士の称号をあたえる。単純に美しいハーモニーで知られるなどと片付けられてしまいがちだが、そこには畢竟科学的分析の成果がみられる。
万国博覧会/フジパンロボット館:(1970)故手塚治虫の総合プロデュースによるパビリオン。われわれがロボットと初めて接触しえた時間と空間。ロボットとかメカニズムとかいったものにいまでも興奮してしまったりするわれわれの嗜好を決定付けた。NHKの『ロボットコンテスト』なんてゆう番組は必ず観てしまう。
1970年大阪万博のときのスタンプ帳だ。
Lee "Scrach" Perry(リー"スクラッチ"ペリー):(1936-)音楽家。ダブの帝王というだけでなく、ブルービート〜ロックステディ〜スカ〜レゲエ〜ダブへと変遷するジャマイカ音楽の歴史を体現する生き証人。奇抜な恰好でも知られる。ほとんどイッチャッテル人物らしい。
ひさうちみちお:(1951-)漫画家、タモリ倶楽部準レギュラー、俳優。『嘆きの天使』のころは素晴しい。もちろんそれ以降もだが。サインをもっているのだが手元になく、自慢できないことをわれわれは残念に思う。『ラビリンス』は、初期の緻密でクールな絵ばかりか物語やネームの完成度にも圧倒され、何度も読み返してページが分解してしまったので現在われわれの蔵書しているのは二冊目のそれである。
筒井康隆(つついやすたか):(1934-)小説家、俳優。『宇宙衛生博覧会』の危険な想像力をわれわれは高く評価する。普通良識あるおとなならば想像はしても表現はできないものだが、彼はいとも簡単にそれもダイレクトに表現しえた。これは奇蹟的書物である。
The Rolling Stones(ローリング・ストーンズ):(1962-)音楽家。『ベガーズ・バンケット』『レット・イット・ブリード』。ちなみに初来日ライブの時東京ドームの上の方でビールの滴が降り注いでくるなか比較的静かに観ていて、特に暴れた記憶もないのだが終わってみるとアザが数カ所できていたりして不思議な思いをしたことがある。しかし死ぬまでに一度は1969年の"Stray Cat Blues" を生で聴いておきたいものだ。
喜納昌吉(きなしょうきち):音楽家。ライブといえばチャンプルーズを忘れてはならない。観客が暴れることからいわゆるちゃんとしたハコではめったに観ることができなくなったが是非体験しておきたいものだ。喜納のアジテーションは最初は胡散臭いと感じるが、観客の呼吸を見事にコントロールして徐々にあるいは急激に観客をエスカレートさせる。いつものことで隅っこで聴いていたわが主催者は気が付くと踊りまくっている群衆に巻き込まれ/あるいは自らその中に突入して群衆のなかで激しいブラウン運動をしていたということだ。このときはさすがにアザだらけというに相応しい様相を呈したということだ。「危険」を理由に今後このような体験に遭遇することもないかと思うと寂しい。余談だが、ライブ終了後見知らぬひとに「あんたシマ(沖縄)のひと?」と尋ねられたときは沖縄のひとに間違えられたことに誇らしい思いをし人に吹聴してまわったとのことだ。
荒川修作(あらかわしゅうさく):美術家。その作品が装画になったというだけで新潮文庫の三島由起夫作品を買い漁っていた。
大友良英(おおともよしひで):音楽家。サンプリング世代(って?)の英雄。ライブは演奏というより機材との格闘技にちかいものであったと聴いている。日本音楽著作権協会のブラックリストの筆頭に名が挙がっているという。先鋭的音楽集団 Ground-ZERO(?-1998)の中心人物。
Boogie Down Productions(ブギ・ダウン・プロダクションズ):(1987-)音楽家。"Sex And Violence"。KRS1によるギャングスタラップユニット。ちなみにもうひとりのブギダウンはギャングの抗争に巻き込まれ射殺された。教育者でもある。
Carole Bouquet(キャロル・ブーケ):(1957-)映画俳優。『欲望の曖昧な対象』。シャネルのイメージモデルとして有名。しかしわれわれはキャロル・ブーケの顔にたいへん弱い。この容貌の特徴を特定できれば、われわれの女性の顔貌に対する嗜好の指向性が明確になるのかもしれない。だがまて今はまだその時ではない。
平賀源内(ひらがげんない):(1728-1779)科学者、解作者。『放屁論』。風狂の名に値する変人のひとり。風狂というのもわれわれのキーワードだ。
Happy Mondays(ハッピー・マンデイズ):(1989-1992,1999-)音楽家。インモラルをきめこんだマンチェスターブームの裏番。ショーン・ライダー、ベズはハピマン解消後ブラック・グレイプを結成。よりやばくなってよい。ちなみにブラックグレイプのジャケットに使われた顔写真はこのページのどこかで説明したバーダーマインホーフグループのひとりアンドレアス・バーダーのものである。97年にそのブラック・グレイプも解散している。1999年にハッピー・マンデーズの再結成が伝えられた。
宮崎駿(みやざきはやお):映画監督。『風の谷のナウシカ』。同じ1997年に公開されともに話題となった『新世紀エヴァンゲリオン』も面白かったがわれわれは『もののけ姫』を推す。
(『新世紀エヴァンゲリオン』):(1996-)とはいえエヴァンゲリオンも面白い。この項目を作成している現在、完結してはいないが、その生成の過程をリアルタイムでみることができたということを含めた体験として評価する。またこの作品が現在生成過程にあるため、われわれはその完成まで作品自体に対しての評価を明らかにすることを保留することとした。ために、この項目は括弧に括られている。
μ-ziq(ミュージック):音楽家。エイフェックスツインのレーベル、リフレックスから登場してきたエイフェックスに比肩しうる奇抜な感覚の持ち主。本名はMike Paradinas。なお、盟友エイフェックスツインとはMike & Richi名義で"Games"を出している。ライブを聴きに言ったはいいが途中で具合が悪くなり最後まで聴けなかったのが残念であった。
丹生谷貴志(にぶやたかし):(1954-)思想史、美術史家。『光の国または voyage en vain』は引用や注釈などさまざまなテクストの断片をカットアップして乱反射を導入しようとしたはいいがひどく混迷した様相を呈するにいたった、その生成の過程がだれにもたどりえない不思議な書物。「これを読み通した人に懸賞をだそう」などと小林康夫がいったという。ポストモダンがもてはやされていた渦中の思想解説書ブームだったからこそ出現しえたいびつにして美しい書物。われわれは最良の読者の一部でもあると自負している。
Terrence Trent D'arby(テレンス・トレント・ダービー):(1962-)音楽家。『N.F.N.F』には芳しくない評価をくだすものもいるが、かれの仕事はこのアルバムを頂点とする。現存する最も美しい声のロックボーカリストのひとり。またE.G.O'REILLYの変名で出された限定版レコードもわれわれは所有している
大杉栄(おおすぎさかえ):(1885-1923)社会運動家。
Samuel Beckett(サミュエル・ベケット):(1906-1989)小説家、劇作家。『ワット』でノーベル文学賞を受賞。『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』の小説三部作や『マーフィー』にみられる変さはとても変。われわれの愛読書。とはいっても、読了時にはいつも自分が死体になってしまったような気分になり復活までには時間を要する。だから頻繁には読めない。ちなみにわれわれの主宰者は学生時に小説の執筆を試みたことがあり、そのときにおおいに参照したのがベケットの『鎮静剤』という短編であったそうだ。だからどうした。
Raymond Thornton Chandler(レイモンド・チャンドラー):(1888-1959)小説家、脚本家。『さらば愛しき女よ』『大いなる眠り』。潔癖症、マザーコンプレックス、アルコール中毒。また社内恋愛厳禁の早川書房のハヤカワ文庫で刊行された『湖中』は小鷹信光の訳業の最後を飾る仕事である。
Aubrey Vincent Beardsley(オーブリー・ビアズレー):(1872-1898)イラストレーター、小説家。『サロメ』『ビーナスの丘』。"イエローブック"や"サヴォイ"といった大衆誌で活躍。原画をあたってもまったくその筆跡に躊躇のあとを見つけることのできない神業的描線にただ嘆息せよ。
『デビルマン』:永井豪の漫画。われわれはその衝撃的なラストシーンを永遠にわすれはしない。これはTVアニメーションの『デビルマン』ではなく、漫画の『デビルマン』のことである。
Alejo Carpentier(アレホ・カルペンティエール):(1904-1980)小説家。『バロック協奏曲』『この世の王国』。われわれは一時ブームにさえなったラテンアメリカ文学でも特にこの作品を知りえたことを感謝する。
Anna Kavan(アンナ・カヴァン):(1901-1968)小説家。ヘロインのオーバードーズで死亡(著作名にあるバズーカは注射器のこと、また氷もヘロインの謂いである。自殺説もあり)。『氷』『ジュリアとバズーカ』。その神経症的描写でカフカとの類縁が指摘されるが、アンナ・カヴァンの場合はより自覚的であり、破滅的様相を呈する。
毛沢東(もうたくとう):(1893-1976)中国共産革命の指導者。『毛沢東語録』。
今や貴重品の『毛沢東語録(毛主席語録)』。1966年、中国人民解放軍発行。
スネークマンショー:(1982頃)正義と真実のひと桑原茂一、伊部雅刀、小林克也、YMO をはじめとする \en レーベルの音楽家たちによる集団。当時画期的出版物として一部で有名となったカセットブック『シェルター』は刷り込まれたメロンの匂いは薄れてしまったものの徒花的企図は今でも面白い。『痰壺小僧』のようなひとを恐怖させずにはおかないドラマをはじめとしてラジオの深夜放送でやりたいほうだいをやっていた。その一部は現在でも CD 等で確認が可能。
Jesus Jones(ジーザス・ジョーンズ):(1988-)音楽家。『リキダイザー』でデヴュー当時のみが素晴しい。ロックにハウスミュージックの要素をはじめて導入し、成功させ、その後の流れをつくった。
金城哲夫(きんじょうてつお):(1938-1976)シナリオライター。『ウルトラQ』にはじまる円谷プロ、ウルトラシリーズの脚本でその後の怪獣ドラマのフォーマットを築いた。沖縄海洋博の演出。
Max Ophuls(マックス・オフュルス):(1902-1957)映画監督。『忘れじの面影』をはじめとする流麗なスタイルの良質なメロドラマを多数監督。テレビの連ドラ見てる場合じゃないぞ。
『謎の円盤UFO』だと思ってたけど本当は『キャプテン・スカーレット』(なぞのえんばんゆーえふおーだとおもってたけどほんとはきゃぷてん・すかーれっと):アメリカ製連続テレビSFドラマ。「われわれはミステロンだ。おまえたちに警告する。」という台詞だけが記憶にある。われわれの「われわれ」ということばへの執着の起源であるとおもわれる。内容はまったく記憶にない。また主宰者の本棚にはその幼少時上記の台詞をいたずら書きした跡が残っている。
ずっと上記のセリフは『謎の円盤UFO』だと思ってたけど本当は『キャプテン・スカーレット』のものだということが指摘されたので訂正する。またアメリカ製でもなく、サンダーバードなんかを制作した英国ITCの作品。ちなみに『キャプテン・スカーレット』、日本では不評だったそうだ。
Erich von Stroheim(エリッヒ・フォン・シュトロハイム):(1885-1957)映画監督、俳優。『グリード』『愚なる妻』『アルプス颪』『サンセット大通り』『大いなる幻影』。出自を貴族といつわっていた。貴族の称号vonも虚偽で実際は帽子屋のこどもだったらしい。だが、その巨人的相貌はフィクションである映画の世界では気高さにおいて独裁者級である。また『エーリッヒ・フォン・シュトロハイム生誕百年記念祭』と銘打たれ草月ホールで1985年12月13日(金)から12月15日(日)まで開催されたシュトロハイムとマックス・オフュルス、ジョセフ・フォン・スタンバーグの特集上映はわれわれの経験した最も贅沢な企画上映であった。映画をネタにしたこれ以上の贅沢は存在しない。体験しえなかった者はわが身の不運を嘆け!
羽良田平吉(はらだへいきち):デザイナー。wxy誌のアートワーク、『一千一秒物語』等のとんがったデザインワークで知られる。また、このページの上のほうで掲載した『陽炎座』もまた彼の装丁である。
Vivienne Westwood(ヴィヴィアン・ウエストウッド):(1941-)ファッションデザイナー。マルコム・マクラレンとsexというブティックを開業。その後個人名で挑発的なデザインを発表する。マクラレンとの間に一子があり、ロンドンで親譲りの過激な下着のデザインをしている。
Jacques Offenbach(ジャック・オッフェンバック):(1819-1880)音楽家。『地獄のオルフェオ』というよりも♪追っかけのテーマ♪あるいは♪文明堂のテーマ♪といったほうが通り良い有名なオペレッタの傑作を作曲した。これ以外にも素晴らしい楽曲が多数ある。
ラジカルガジベリビンバシステム:(1985?-?)宮沢章夫、シティボーイズ、なかむらゆうじ、いとうせいこう等によるコミックユニット。ちなみにかれらがテレビ朝日で85年頃放映していたキララとウララが主題歌をうたっていた『パックンたまご』という幼児番組に総出演していたのをチェックしていたものはそう多くはいまい。
William Faulkner(ウイリアム・フォークナー):(1897-1962)小説家。『サンクチュアリ』『響きと怒り』。アメリカの巨人。偉大なハワード・ホークスと偉大なハンフリー・ボガートと美しいローレン・バコールによる偉大にしてかっこいい映画『脱出 (TO HAVE AND HAVE NOT,1945)』『三つ数えろ (THE BIG SLEEP,1945)』に共同脚本で参加。
Adobe Photoshop(アドビ・フォトショップ):(1989-) Adobe Systems 社製のフォトレタッチソフト。画像処理に関して不可能はないことを信じさせてくれる高価なソフト。だが高機能ゆえにただ振り回されているだけのユーザーもよくウエブ上で発見される。われわれもまた例外ではない。
大友克洋(おおともかつひろ):(1954-)漫画家。『ショートピース』『ハイウエイスター』の初期作品をわれわれは重点的に評価する。
Frank Lloyd Wright(フランク・ロイド・ライト):(1867-1959)建築家。『滝の家』等。環境までを含めた有機的設計の建築作品は、われわれにそこで生活したいと羨望をかきたてることしきりである。
Buffaro Daughter(バッファロー・ドーター):(1994-)音楽家。ここに至り、ポップミュージックのジャンル分けは全く意味をもたなくなった。1997年ビースティーボーイズのレーベルグランドロイヤルから海外デヴューを果たす。われわれはまだまだ応援する。音楽の今後あるべき姿を予言している。ライブも素晴しい。必見!
Louis ]X(ルイじゅうごせい):(1710-1774)国王。われわれは彼が何をしたかということについては一切関心がないし知りたいとも思わない。ただ単に彼が云ったとされる「我が亡き後に洪水よ来れ」という壮大な無責任思想を表明することばの故にわれわれは尊敬する。なんとすごい台詞だろうか。
西東三鬼(さいとうさんき):(1900-1966)俳人。「初春の/海にびっしり/日本の笑顔」「水枕/ガバリと寒い/海がある」。五木寛之がドストエフスキー的人物と評したその計り知れなさはわれわれに畏敬の念を呼び起こさせる。
沢木耕太郎(さわきこうたろう):(1947-)作家。『一瞬の夏』『テロルの終焉』その著作のうちでも『深夜特急』はわれわれの愛読書である。われわれを未知への体験へと誘う書物。旅をすることの本当の意味がこのなかに書かれている。
Ermanno Ormi(エルマンノ・オルミ):(1931-)映画監督。『木靴の樹( L'albero Degli Zoccoli,1978 )』。カンヌ映画祭でグランプリを受賞したこの映画は、静寂に満ちていながらもその強さで他を圧倒する。三時間近い長さに尻込みする必要はない、観ている間は時間など取るに足らないものとなる。ちなみにこの感じは同じく力強い陳凱歌の『黄色い大地』とも共通している。
Date Of Birth/Dob (デイト・オブ・バース):音楽家。『グレイテストヒッツ1989-1999』『La Lu La Ruu』。音楽のマニエリズム的あり方を実証する。まさにマニエリズム。また世界で一番はじめに CD-Extra (当時はマルチセッションCD、エンハンスドCDとかいわれていた)規格でCDをリリースした。
Hakim Bey(ハキム・ベイ) :思想家。アナーキスト。『 T.A.Z. 一時的自律ゾーン、存在論的アナーキー、詩的テロリズム』。"anti-copyright"を標榜するこの書物をわれわれは寡聞にして最近まで知らなかった。われわれは読書会を開き共鳴するものの正体を探っている。
ReBirth RB-338 v2.0
:アナログシンセサイザー/ドラムマシンエミュレータ。
一応どんなものか説明しておくと…なんてことはしない。今の時点で ReBirth を所有していなかったり、あるいはその存在を知らなかったり、などということは、パーソナルコンピュータを持っている者にはあってはいけないことだ。
でも一応説明しておくと、1980年代前半に楽器メーカーRoland が…やっぱやめた。
それにしても、すごいエミュレータだ。
前バージョンからの熱狂的なファンがハッキングをしてカスタマイズを行い、Modというカスタマイズモジュールによってドラムの音色から見た目までさまざまなバリエーションを持つにいたり、さらには開発元が自由なカスタマイズ環境を製品の標準仕様として取り込むなどという事態を現象させた。
ReBirth は単なる楽器エミュレータではなく、もはや新しい楽器と呼ぶべきであろう。
これを読んだあなたは、もしまだ ReBirth を体験したことがないのなら、今すぐコンピュータショップか楽器店に走って(歩いてではなく)行き、残念にも営業時間外であった場合は閉ざされたドアを蹴破り、ひたすら ReBirth のパッケージを目指さなければならない。もし運悪く ReBirth がなかった場合、あなたは決して諦める事は許されない。次の店を目指すのだ。けたたましく警報が発報しようとも、あるいは異常に気づいた警備員や棚卸しのため残業していた社員があなたを捕獲せんと追いかけてこようとも、あなたは捕まる事さえ許されてはいない。目的はただひとつ「ReBirth を手に入れること」のみだ。この目的が達せられないうちは、あなたの全力の走行がとまる事はない。「ReBirth を目指して走れ!」(犯罪を教唆しているわけではありません。あるいはデモ版が Propellerhead のサイトからダウンロードできます。)
なお、同じPropellerheads Softwareから2000年に発表されたReasonは、ReBirthをさえ色褪せさせてしまうほどの衝撃的なソフトウェアなのであった。
2005年に開発終了。フリーウェア化された。
QIX(クイックス):(1981)TAITO Corporation(タイトー・アメリカ)製アーケードゲーム。
"クイックス"と呼ばれる線の形をした敵の流れるような美しさで話題を呼んだ作品。 プレイヤーはジョイスティックと2つのボタンを操作、画面の枠にあるダイヤモンド形の機を移動させる。スティックにより枠にそった移動、さらにボタンを押すことによって画面のフィールドに線を書いてゆくことができる。この線とワクで閉じられた図形を作ると、そこが塗りつぶされ陣地となる。2つのボタンは、どちらを押すかにより点の動く速度が異なり、遅く動かす方が得点は高い。フィールド内を動くクイックスが陣地を取る途中のプレイヤーや引いてきた線に触れると、プレイヤーは倒されてしまう。また、陣地のふちを動く敵にプレイヤーが触れても同じである。プレイヤーが獲得した陣地の面積が、フィールドの一定割合に達するとステージクリア。この割合は最初70%で、面が進むごとに増してゆく。クリア時に獲得した面積の割合が高いほど高いボーナス点が得られる。ゲームは陣地の取り方で様々なクリア方法が考えられ、戦略的要素が高い。 |
このゲームを憶えている人間がどれほどいるのだろうか? むかし、ゲームセンターで100円でとにかく長い時間遊ぶために、われながら驚くほどの精緻な陣取り方法や、敵の動きを封じ込めてしまうトラップを編み出したり、とにかく「はまった」ゲーム。可能なら一台買って自宅に置いといて日がな遊びふけりたいと思っていた。 もう二度と出会うこともないと思っていた"QIX"に、なんと自分のコンピュータ上で再会してしまった。われわれが自慢すべきその技術はもう面影もなくなってしまっていたが、それよりも"QIX"との再会を喜び、またすばらしいエミュレータ"MAME"に惜しみない感謝をささげる。
あやしいわーるど:(〜1999) インターネットサイト。われわれがインターネットに繋がって初めて面白いと思いまたその方向性に大きな影響を受けた、しば氏によって運営されていたアンダーグラウンドサイト。以前から移転が多く不安定なサイトだったが、実質的な終結を宣言されたようでわれわれの知る限りではもはや残骸しか残っていない。アングラサイトに常のこととしてどこかで再開されているのかも知れない。特にアンダーグラウンドは「一期一会」性が強く縁のものという印象を今更ながらに実感するのではあるが、ちょっと付いていけないようなところもあったけどここの掲示板の面白さはほかの比ではなく、強い磁場が形成されていたと思しい。こういう良いサイトをわれわれは過剰開発を避ける意味でもURLをひとに教えたりなんか決してしようとは思わないが、このURLは無効なものになっているのでここに記す。ご存知ない方はここに稀に見る強力な磁場があったのだということだけご理解されたい。
唐沢なをき(からさわなをき):漫画家。『八戒の大冒険』『かすみ伝』。正統ギャグまんが家とは彼をいう。われわれは初期からのファンであることをここに表明する。
Joel-Peter Witkin(ジョエル・ピーター・ウイトキン) :写真家。出所不明の死体や身体の畸形をモチーフとすることからアンダーグラウンドに分類されがちだが、純粋に形象のイメージを追及するその写真群は正統である。
●ここまできてわれわれは「正統」を守り継承することを志していることに気付いた。だがそれはあなたには関係のないことだ。
よくここまでこれたね。ご苦労であった。ほんとに。