軍隊で遺言に書いた聖書の一句

(2003年8月)

新約聖書・ヨハネの黙示録2章10節   藤尾 正人




<信仰を求めて>


夏がくるといつも思い出すのは、二十歳(はたち)のころの入隊前後の体験です。

1944年の春、いよいよ日本陸軍の船舶隊に入隊が決まった時、私はあらためて天皇のために死ねるかと、自分に問いかけました。当時軍隊に入ることは死を意味し、とくに敵前上陸を支援する船舶隊は死亡率が高かったからです。
入隊前、ある方の紹介であの高村光太郎に、日の丸の旗への署名をお願いにあがりました。駒込あたりのお家でした。

「君はどの部隊にはいるのか」
と聞かれ、
「船舶隊です」
と答えると、
「命はないね」
と言われ、
旗に「わたつみ(海)に敵をうつ」と筆で書き、高村光太郎と署名されました(その旗が今も手元にあります。日本敗戦の時、東条英機に署名してもらった戦友はあわてて焼き捨てました)。

高村光太郎にも死亡率が高いと知れた船舶隊と決まって、私はいささかあわてたのです。なぜなら軍隊での死は、天皇のための死だったからです。しかし正直、私は天皇のためには死ねないなと思いました。見たこともない遠い存在でした。だれのためなら死ねるかと考え、愛する家族のためなら死ねると思いました。そしてこの地上に爪痕一つ残さず死ぬ自分があわれで、自分なりに死にものぐるいで信仰を求めたのです。求めるものが見い出せぬままに入隊となれば、脱走だ。いや脱走すれば親が苦しむぞと迷いました。救ってくれるなら仏教でも、何でもよかったのです。越前の永平寺で座禅をしたのもそのころでした。


<受 洗>


私は友人とある哲学者をたずね、死についての悩み、そこからの解放をお聞きしました。その方は戦争はやがて終わる。自分はいまヤスパースがどんなことを言っているか知りたいのですと言われ、
「君の家の宗教は」
と聞かれました。
「キリスト教です」
と答えますと、
「では信仰がしっかりした牧師のところへ行きたまえ」
とおっしゃいました。

その日、直ちに私は浅田正吉先生の家にうかがい、信仰についての疑問を話しました。
浅田正吉というかたは、ご自分からお教えになりません。しかし質問すると直ちに必要にして十分な回答がはねかえるのです。お聞きすることがなくなり、黙っていると、浅田先生も黙っていられます。最後に、
「右の頬を打たれなば、左をもむけよと聖書にありますが、それができなければクリスチャンになれませんか」
と聞きました。
ぼんやりとながら、キリストを信じれば永遠の生命にあずかれると聞いていたからです。このまま死ぬのが情けなく、嫌だったのです。しかし右のほおをなぐられ、左も出すなど、とてもそんなことは出来ないと、この聖書のことばが心の刺になっていたのです。

すると浅田先生は驚いたことに、
「そんなことが、すらすら出来るようでしたら、キリストは十字架で死ぬ必要がなかったのです」
と言われました。
「できなくてもいいのですか」
「そうです」
「では私でも洗礼を受けられますか」
「もちろんです」。
その日、その夜、浅田先生の家の風呂場で私は洗礼を受けました。永遠の生命にあずかれる以上、死は恐ろしくなくなりました。天皇のためには死なないが、キリストの兵士として死のうと、はればれとした思いで入隊しました。


<山上の垂訓問答>


1945年1月、私は四国の瀬戸内に面した香川県豊浜の陸軍船舶幹部候補生隊の生徒でした。
ある日上官によびだされました。
将校室に入るには、入り口で、
「藤尾候補生、野口中尉に用事!」
と大声でどなるのです。
「入れ」
の声でドアを開け、また、
「藤尾候補生まいりました」
と敬礼しながら言います。その区隊長の机には入隊時に提出した「身上調査書」がおかれていました。区隊長はその調書の最後の「崇拝する人物」欄に、私が「キリスト」と書いているのを指さし、
「貴様はキリストを尊敬しているのか、信仰しているのか!」
と大声でたずねました。
「はい、信じています」
と答えました。
「貴様は『右の頬を打たれなば、左をもむけよ』というキリストのことばを知っとるか!」
とたたみかけて聞きます。
「はい知っています」
というと、
「そんなことで戦争ができると思うか!」
とどなって、机をドーンと力いっぱいたたきました。敵の弾が右から飛んできたら、左も撃ってくださいというのかというのです。

聖書の中に「キリストのゆえに、長官の前に引き出された時、言うべきことは聖霊が授けてくださる」とマタイ福音書10章にありますが、まさに聖霊の助けにより、駆け出しのクリスチャンの私がこう答えることが出来たのです。

「区隊長が、いま言われたキリストのことばは『山上の垂訓』という、キリストの高い倫理的な教えをしるしたところであります」
(この山上の垂訓を当時私は高い倫理ととらえていましたが、倫理ではなく神を信じて生きる楽しく自由なイエスの世界を教えた箇所だとあとで教えられました)。つまり「山上の垂訓」という区隊長も知らない用語を持ち出して一発くらわしたのです。
「しかし人間が、こういう高い教えをすらすら実行できるなら、キリストは十字架で死ぬ必要はなかったのであります」。
なんということでしょう。私が浅田正吉先生に質問し、お答えくださったやりとりが、そのまま軍隊で繰り返されたのです。試験で予習した箇所がそのまま出題されたようなものです。聖霊の助けというべきでしょう。


<禁じられた聖書>


区隊長は話が面倒になったためか、
「もういい。貴様、聖書を持っとるか」
「はい」
「送り返せ」
と命じました。
そこでは聖書が禁書となったのです。
私は旧新約聖書のポケット判を持っていましたが、素直に送り返しました。そのすぐあとの夜の点呼の時、週番将校が、
「面洗場(部隊では洗面といわず面洗といいました)で聖書を落としたやつがいる!」
と聖書を手に掲げ、
「藤尾、貴様か!」
と、私をにらみました。
「違います」
と答えたものの、そのとき、隠せばよかったと悔やみました。それと、ああクリスチャンが私のほかにいるといううれしさでした。

クリスチャンはいないようでいるものです。あるとき演習で40キロほど行軍し、海に面した小学校に泊まりました。私と同期の候補生は全員学生あがりです。夜講堂で演芸会があり、なんと外国語学校からきた生徒たちが英語の寸劇をやりました。音楽学校からきた生徒が講堂のピアノを弾きました。もちろん暗譜です。そして一曲弾いたあと、つかつかと壇上の前へ来て、最前列にいた隊長に、
「賛美歌を弾いてよくありますか!」
と大声で求めました。
隊長は股の間に軍刀を立て、両手で柄をにぎりながら、
「いか〜ん!」
とどなりました。
そのとき、ああ、ここにもクリスチャンがいるとうれしくなりました。彼はまたピアノの鍵盤を見事にたたきました。あとでピアノがこんなに美しい音色を出すとはと、先生も村人も驚いたそうです。

私が崇拝する人物欄に「キリスト」と書いてしぼられた時、「ケルケゴール」と書いて呼び出された生徒がいました。
「これは何者か」
と聞かれ、
「哲学者です」
と答え、ことなきをえたそうです。彼もクリスチャンで、敗戦後、東京の教会で活躍していました。
私の隣りに寝ていた伊東猛夫君は、崇拝する人物に「リンカーン」と書いてうんとしぼられたといいます。そうでしょう、日本の中に崇拝する人物がなく、戦っている敵国の大統領の名を書いたのですから。 ともかく「カタカナ」で書いた三人が槍玉に挙がったわけです。
先年この伊東君と大阪で会った時、私が死ぬのはこわくないと言っていたのに衝撃を受けたと話していました。私はそんなことを言ったのは忘れていましたが、たぶん言っただろうと思います。逆に伊東君は「リンカーン」と書いたことは忘れていましたが、そういえばそのころ、リンカーンの伝記を読んでとても感動した記憶があると言いました。面白いことに、お互い自分のことは忘れ、相手のことを覚えていたのです。


<二十歳の遺言>


聖書を送り返したので驚いた両親は、手紙のつど聖書のことばを書いてよこしました。
軍隊ではプライベートな場所も時間もなく、あるとすれば唯一トイレでした。胸のポケットに畳んでいれた手紙を、しゃがんで読むのです。
聖書のことばは、なんでもない平和な日に読むと、別に感動しないところも、ある事情の中におかれると、2000年の時を越えて現代に響いてきます。
中でも忘れられない聖書の箇所があります。第二テモテの1章2節以下です。

文(ふみ)をわが愛する子テモテに送る。
願わくば、父なる神およびわれらの主キリスト・イエスよりたまわる恵みと憐れみと平安がなんじにあらんことを。
われ夜も昼も祈りの内にたえずなんじを思い出でては、先祖以来清き良心をもて仕うる神に感謝す。
われなんじの涙を覚え、わが喜びの満ちんためになんじを見んことを欲す。
これなんじが抱けるまじりなき信仰を思い出ずるによりてなり。
その信仰のさきになんじの祖母ロイス、および母ユニケに宿りしごとく、いまなんじにもしかるを確信す。

ここの「祖母ロイス」を「祖母きぬ」に、「母ユニケ」を「母貞子」に読み替えれば、そのまま私宛の手紙なのです。また「涙を覚えている」とか、「会いたい」という気持ちは、涙が出るほどうれしく思いました。今でも文語訳ですらすら言えるほど繰り返し読みました。

さてその夏、私たちに遺言を書けとの命令が部隊本部から届きました。
四国にいた私たちにも時々米軍の空襲があり、私の区隊は小さな小学校に疎開していました。沖縄戦はすでに終わり、米軍の日本上陸がまぢかに迫っていて、いよいよその日が近づいたのです。
しかしなんという残酷さでしょう。なんというあわれさでしょう。わずか二十歳(はたち)の若者たちに遺言を書かせる戦争とは、軍国主義とは。
私は毎年の成人式にきれいな着物を着た男女が群れるのを見て「ああ、いい時代が来た」と心底うれしくなります。それにひきかえ、遺言を書かせた日本がついこのあいだまでそこにあったのです。

命令が封筒と便箋とともに届いた時、一瞬どよめきが起こり、ついで蝉しぐれだけがひびく静寂がひろがりました。私たちは鉛筆でめいめい遺言を書き始めました。
その時私はためらわずヨハネ黙示録2章10節の一句を書きました。

「なんじ死に至るまで忠実なれ、さらばわれなんじに生命の冠をあたえん」

天皇のためには死ねないし、いや死なないが、キリストの兵士として生きかつ死のうという決然たる勇気をこの一句が与えつづけてくれたからです。
便箋を畳んで封筒に入れ、指示どおり短い頭の毛も鋏で切って入れました。
ほかの戦友が何を書いたか知りません。しかし聖書のことばは、たとい一句であっても、それを本気で信じ、日々の生活に生かす時に、その人を根底から支えてくれるのです。