<乗松雅休> 乗松さんのこと

藤尾正人

last updated: 1999.10.20(norimatu.html)


この一文は、キリスト教文書センターの求めに応じ、計らずも日本人海外伝道の最初の人物となった、朝鮮伝道者・乗松雅休(のりまつ まさやす)について、その機関誌「本のひろば」の一九八五年一〇月号に寄稿したもの。



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最初に外国伝道へ行った日本人


わたしが「のりまつさん」という珍しい名前を耳にしはじめたのは、もうかれこれ三十年も前のことであった。その一九五○年代の中頃(昭和三十年ころ)乗松さんは無名の中に沈んでいた。彼の属していたキリスト同信会では、人間については沈黙し、キリストを証したいという伝統があったためか、この朝鮮伝道の父といわれ、日本最初の海外伝道者であった彼の伝記を書くこころみは、一度たりともなされたことはなかった。

ところが、五十年も前に一度だけ「乗松さん」の伝記を書こうとした人物がいた。それは当時、韓国水原(スウオン)高等農林(現ソウル大学農学部)教授であった佐藤得二その人である。

のち東京に戻り第一高等学校の教授になったり、文部省の教学官や局長をつとめたこの硬骨漢は、「女のいくさ」で直木賞を受けて周囲を驚かせたが、じつは「男のいくさ」を書くこころみを始めていたと筆者にもらされたことがある。(注・筆者が勤務していた国立国会図書館調査局の上司・関口隆克氏が、元文部省教学官で、佐藤得二氏と同僚のため、佐藤氏はよく筆者の部屋を尋ねられ、筆者も逗子の佐藤氏邸を訪問した。)

彼が水原にいた昭和ひとけた台、かかりつけの韓国人の医師(京畿道立病院長・申鉉益)がキリスト同信会の信者であったことから、その集会に交わるようになり、その伝道者・キム・テェフィ(金太煕)から乗松のことを聞いて、日本人の中にもこのように韓国人を愛した希有(けう)の人がいたかと驚き、大学ノートにその伝記資料を書き留め、写真なども集めたという。  それが日本への帰途、釜山あたりでカバンごと盗まれ、すぐとって返してキム・テェフィにもう一度初めから話してほしいと頼んだところ、キムはぱっとひれ伏し「それがみこころでした。乗松兄はみずからについて語ることを喜ばれませんでした。それに乗松兄を尊敬するあまり、わたしが語ったことにも少し誇張がありました。もう二度とお話しません」と言ったという。そして佐藤得二は「乗松さんは朝鮮に伝道に行ったんじゃないんですよ、朝鮮人を愛しに行ったんですよ」と筆者に語られた。



乗松の生涯


「日本帝国主義下の朝鮮伝道」(飯沼二郎・韓晢曦共著、日本基督教団出版局)に、くまなくその足跡を照らし出されている乗松雅休は、文久三年(一八六三)伊予の松山藩士の家に生まれ、「坊ちゃん」を書いた漱石が赴任するより十六年も前に、松山中学を第一回生として輩出(当時は、卒業といわず輩出とよんだ)。上京して松山藩久松家学寮に入り、明治十五年(一八八二)ごろ文明開化の最先端にいた横浜で神奈川県庁の属官になった。

たまたま海岸教会員の家に下宿したのが縁で、首藤新蔵とそろって受洗した。首藤は東京商船学校に学んだ俊秀で、生涯乗松と主にある刎頸(ふんけい)の交わりを持った。二人はそろって明治学院神学部に入るが、明治二十三年(一八九○)春、当時ケンブリッジを出て、日本で独立伝道していたH・G・ブランドに出会い、二人とも教会を出てブランドの群れに投じた。それが今のキリスト同信会だ。




(前列左からニ人目が乗松雅休。そのうしろはブランド夫人、さらにニ人右がブランド。前列右に横たわる少年は長男の乗松由信。1912年(大正1年)4月、朝鮮水原にて)

それ以来、彼は主の福音に自由にされた喜びをもって日本各地を伝道するが、何の動機によってか、明治二十九年(一八九六)十二月、ひとり朝鮮伝道におもむいた。その前年に起こった日本人の朝鮮王妃虐殺という閔妃(ミンビ)事件のため反日気運うずまく半島で、彼は朝鮮家屋に住み、朝鮮の服をまとい、朝鮮式の食事をし、その子息にすら日本語を教えなかったという。このような伝道が祝されないわけがなく、各地に集会が起こされていった。しかし彼の朝鮮伝道の期間はわずかに十五年で、病をえて小田原に帰りそこで天に召されるが、強烈な愛の印象を朝鮮の兄姉らに残した。

それはあたかもイエスが強烈な愛の思い出を弟子たちに残して死に、その死後四十年から六十年にかけて福音書がしるされていったように、乗松も死後四十年から六十年のちに、生前没後も無名であった彼の声価がにわかに高まり、脚光を浴びるようになったのを見ても、たしかに乗松はイエスに従ったしもべであった。

彼は生前一冊の著書も残さなかったが、朝鮮にいた明治三十二年(一八九九)、ブランド、乗松、首藤の三人でギリシャ語原典から「羅馬書(ローマ書)を翻訳している(限定復刻昭和五十五年同信社)。幸い乗松は明治三十五年創刊の「恩寵と真理」にたびたび寄稿しているので、その中から「乗松雅休著作集」の刊行計画もある。(注・昭和六十三年に「イエスを見よ」の書名で乗松の著書が同信社から刊行された)。



その死と記念碑


乗松は大正十年(一九二一)主に召されるが、その壮烈な就眠記録は「先輩兄弟ら、大正篇」にくわしい。その遺骨は、遺言により翌年朝鮮に運ばれた。運んだのは乗松の長男・由信と、伝道者・宇津木勢八、そして白洋舎創立者・五十嵐健治らであった。

日本人は朝鮮で死んでも骨は日本へ持ち帰るのに、日本で死んで骨を朝鮮に埋めた乗松は、いかに朝鮮を愛したことかと当時の人々を驚かせた。

日本人の記念物が、神社を始め根こそぎ破壊された解放後の韓国で、乗松の記念碑は、水原のキリスト同信会の会堂裏の丘の中腹にひっそりと建っている。

しかし乗松の評価はプラスのみではない。民衆神学の激しい流れの中に立つ今の韓国では、三一運動とのかかわりの中で、乗松の限界を指摘する声が、韓国のキリスト同信会の中にあることも事実である。

とはいえ乗松自身は、主にとらえられ、主イエスのみを目当てとして、その生涯を終えた。「乗松さんは、どんな人でした」とわたしがある老姉妹に聞くと、「真綿のような方、ふんわりと、あたたかーい感じ」という答えが忘れられない。

乗松さんは、死後時間が遠のけば遠のくほど、近くなる不思議な人だ。


(「本のひろば」三二八号所収)

(参考に、キム・テェフィ兄撰書の水原にある乗松記念碑の碑文をしるします)
(写真の右は、筆者・藤尾正人、左は元光黙/1984年)



 在主 故乗松兄姉 記念碑

     生為主死為主始為人終為人其生涯忠愛己帯主使命而舎
     其一切所有夫婦同心伝福音於朝鮮数十年風霜其苦何如
     心肺疼痛皮骨凍飢手足病敗其於朝鮮犠牲極矣然動静惟
     頼主甘苦不改楽其生涯祈祷与感謝也得我多兄弟同会于
     主主名得栄其生涯苦而亦栄矣臨終口不絶朝鮮兄弟願遺
     其骨於朝鮮此所以為我等之心碑而至於主再臨之日也与

(この碑文の読み下し。藤尾訓)

生きるも主のため、死ぬるも主のため、始め人のため、終わりも人のため、その生涯忠愛、おのれ主の使命を帯びて、その一切の所有を捨て、夫婦同心福音を朝鮮に伝う、数十年の風霜、その苦しみいかにぞや、心肺疼痛し、皮骨凍飢し、手足病敗す、その朝鮮における犠牲きわまりぬ、しかるに動静ただ主に頼り、苦に甘んずるの楽しみを改めず、その生涯 は祈祷と感謝なり、わが多くの兄弟を得、会するに主を同じくす、主の名は栄を得、その生涯苦にしてまた栄なり、臨終の口に朝鮮の兄弟のことを絶たず、その骨を朝鮮に遺さんことを願う、これわれらの心碑となすゆえんにして、しこうして主の再臨の日に至るなり。


(この乗松記念碑は、韓国人が日本人を追慕して一九二二年に建て、独立後の韓国で現存するほとんど唯一の日本人記念碑)


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