<鈴木弼美先生> 偉大なる反常識人

藤尾正人

last updated: 1999.9.28(sukeyoshi.html)


この一文は、山形新聞の求めに応じ、その文化欄の特集「思想するやまがた」の第一部<郷土の先人たち・四三>に、キリスト教独立学園創立者・初代校長の鈴木弼美につき、寄稿したもの。一九九七年九月一〇日号に掲載された。文中の小見出しは、山形新聞社がつけたもの。



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反常識貫き真理を説く
伝道に生涯を捧げ 独立学園を設立

一九四四年六月、鈴木弼美(すけよし)は、西置賜郡津川村から同村の渡部弥一郎と共に、治安維持法違反の容疑で検挙され、翌年二月まで山形警察署の地下監房に収監された。容疑は天皇を神としないキリスト信仰と、一貫した非戦平和思想のゆえだ。

その間、彼は「アタナシウス コントラ ムンゾムその如くわれ独りにて闘ひ抜かん」の短歌を残している。これは西暦三二五年、ニケアの宗教会議でアタナシウスが、世界を向こうにまわしても三位一体の教義を主張した故事を詠んだものだが、ここに彼の生涯を貫く思想がよく示されている。それは「真理」を命がけで追及する態度、そして神のみに頼る「独立」の精神だ。

内村鑑三との出会い

 

鈴木弼美は、山梨県で八百年もつづく甲斐絹問屋の長男として、一八九九年に生まれた。金はうなるほどあったが、金儲けでなく学問研究を一生の仕事にしようと、数学と共に学問の中の学問とされる物理学を学ぶため、一九二○年東京大学理学部に入学した。ところが在学中、内村鑑三と出会い、その聖書講義を通し物理学以上の信仰の真理があることに衝撃を受けた。

一九三○年の鑑三の死後、鑑三が青年の日からの悲願であった山形県小国郷でのキリスト伝道に、彼は生涯を捧げる決意を固めた。東京大学理学部助手を辞め、一九三三年、雪が四メートルも積もる小国郷津川村に移住し、大きな納屋を改造した自宅で「基督教独立学校」を開設する。さらに日本敗戦後の一九四八年には「基督教独立学園高等学校」を設立した。

彼は、鑑三がそれ以前の教会と違い、会堂を造らず会場を借り、献金を受けず聴講料とし、雑誌を発行して収入を計るという独立伝道方法の、その独創性に注目し、鑑三のやらなかった独創的伝道を始めたのだ。

つまり、伝道のために学校を造る。そして学校を信仰の母体にする。しかも山奥に造る。さらに小人数で教育する。そこでは「学ぶべきは天然、読むべきは聖書、為すべきは労働」の鑑三の言葉をモットーに、真理を求める教育をして受験勉強は一切しない。またそこに集う教職員は信仰的生活共同体に入り、校長も新任の教師も俸給は一律にする。それも労働基準局が最低賃金を守ってくれといっても従わない低さだ。

反常識

これらはことごとく世間の常識に反することであった。伝道のため学校を造るのは良いとして、学校を信仰の母体とするのは、いわゆる教会から異論もあろう。また山奥では生徒が集まらない。小人数では学校経営が成り立たない。これが常識だ。

しかし鈴木弼美は反常識を貫き、理想を追いつづけたゆえに、かえって現実を動かした。今、一学年定員二六名の山奥の学園に数倍の志願者があり、学園の教育方針に賛同して志の高いクリスチャンの教職員が集まるから、学校経営も行きづまらない。もちろんここに来るまでに、血のにじむような苦難の日々があった。ニシン三尾を一七人で分けたり、校長の弼美が皆の残したイワシの骨をすりつぶして食べた時代もあった。

しかし彼は、歯をくいしばって反常識を貫いたのではない。あの大きな財産も、マックス・ウエーバーがいうように、まるで肩にかかった軽いベールのように脱ぎ捨て、学園に注ぎつくし、「山奥で世界一の文学を読み、絵画を鑑賞し、音楽を聴く」生活を楽しんだ。日本の高校で、独立学園のようにパイプオルガンを備えているところがいくつあるだろうか。

また彼の時代に対する批判精神は、反戦思想による検挙以後も少しも衰えず、たえず文部省や日教組が教育を堕落させると公言し、非暴力平和団体FOR(友和会)の日本支部長もつとめ、自衛隊は平和憲法に反すると「防衛予算分の所得税拒否」を法廷に訴えた。

受け継がれる理想

弼美は一九九○年、九○歳の生涯を終えた。しかし彼の理想は小国郷に根づき、二代、三代の校長を中心にうけつがれ、生徒は県内はもとより全国から集まり、卒業生は全国に散った。生涯、人に使われたことがないお坊ちゃんの、わがままで、頑固で、反常識の弼美、信仰の真理をあきずに説きつづけた弼美に、反発となつかしみを覚えながら散っていった。

一九九八年春、弼美の創立した学園は五○周年を迎える。鑑三の夢は彼によって実現したのだ。

メモ

鈴木 弼美:すずきすけよし。

一八九九(明治三二)年ー一九九○(平成二)年。山梨県都留郡七保村(現大月市)生まれ。慶応普通部、八高、東京大学理学部卒。山形県西置賜郡津川村叶水(現小国町)に五八年間住み、基督教独立学園を創立し、伝道と教育に生涯を捧げた。一九五六年河北新報「河北文化賞」、一九七二年「吉川英治文化賞」受賞。著書に「科学とキリスト教」(共著)、「真理と信仰」。昇天記念文集「この宝を土の器に」。


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