『命理正宗』 「病薬説」原文および訳と解説


はじめに

 『命理正宗』は明代の張神峯によって書かれたものです。なぜ、この本を取り上げるかというと、彼の考えはなかなか面白いからであることです。
 彼の考えでもっとも重要なのは「病薬説」ですが、最後に紹介するとして、まず「総論子平謬説類」から紹介していきます。 私はなかなか痛快で面白いと思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。
 原文は台湾の武陵出版社(1986年初版)のものを使い、ところどころは集文書局版と対照しました。元は原文を付けていませんでしたが、HTML5で書き直すにあたり、レイアウトを変更、原文も入れることにしました。原文を入れましたので、抄訳ではなくなるべく原文に忠実な訳に変えました。
 区切りのいいところで、私の考えを述べていますが、あくまで参考まで。原文も付けましたので、私の話をうのみにしないで自分自身で考えるのが一番です。




総論子平謬説類

格曰:如珞琭子、専以財官為主。據其為説亦謬矣。雖人身以財官為依據、然財官太旺、日主太弱、則身主不能任其財官。苟日主太旺、財官気軽、則財官不足身主之理。当以財官日主二字参看。若子平書云、財官軽而日主旺、運行財官最為奇。若財官旺、而日主弱、運行身旺最為奇。此言至約至当、可為看命之法則。若珞琭子所言、止要財官生旺、不看日主旺弱、豈不甚謬乎。
 珞琭子(古の推命家)は専ら財官を重んじるとしたが、それは間違った考え方である。財官が非常に強く日主が非常に弱ければ、財官に堪えられない。仮に日主が強すぎ、財官の気が軽ければ、すなわち財官が自分に足りないというわけである。まさに財や官と日主の二字を見るのである。子平書にあるように、財官が軽く日主が旺じていれば、財官の行運が最も良い。財官が強く日主が弱ければ、身旺の行運が最もよい。この考え方は至極至当なものである。珞琭子の言うような、ただ財官生旺をみて日主の強弱を看ないのは大変な間違いである。

 古人を痛烈に批判しており、言い方は痛快です。言っていることは全くその通りで、とくに反論はありません。が、珞琭子も別に日主はどうでもいいと言っているわけではありません。


一、日貴格、如甲戊兼牛羊、乙己鼠猴郷之類也。焉有斯理?雖曰天乙貴人、日主臨此貴人之上、或作日貴論其休咎。然貴人之説、名有数端。原取名之不據理出、即與五星、小児諸多関殺、妄謬之説同。雖曰日主臨之、不論財、官、印星、独以貴人為主、其為虚誕。且原立諸多貴人之説、只是飄空而立、不根理出、豈可信乎?六乙鼠貴格、亦同此例、謬説無疑也。
一、日徳格有五;甲寅、戊辰、丙辰、庚辰、壬戌日也。何以見其為徳也、不考原委、不詢来歴、誤以日徳名之、豈不是子平中之謬説乎?
一、日貴格というのは、「もし甲戊なら丑未、乙己なら子申」といった類のものである。どこにそのような理屈があるだろうか?日支に天乙貴人がつく場合であるが、日主が貴人の上にあるとか、貴人の弱さや欠点を論じたりする。しかし貴人の説では、貴人と名のつくものはたくさんあり、もともとその名も理屈のあるものではなく、五星や小児関殺と同様、全く間違いである。財官印などを無視し、ただ貴人だけで判断するのは間違いのもとである。またもともと貴人には多くのものがあり、ただ理屈なく立てられ根拠はない。どうして信じられようか。六乙鼠貴格などの格も同様で誤った理論であること疑いなし。
一、日徳格には5つの組み合わせがあり、甲寅、戊辰、丙辰、庚辰、壬辰である。なぜそれを見て徳というのか、もともとのいきさつは考えられず、来歴もはっきりせず、日徳とこれを名付けるのは誤りであり、どうして間違った説ではないと言えるだろうか?

 従来ある格局に対する批判を展開しています。論の持っていきかたが強引であると思いますが、一理はあります。
 日貴格ですが、天乙貴人の取り方が古法と新法では異なっていて(これは「大六壬古今論集」で紹介しています)、日貴格にあてはまる日干支は説によっていろいろあります。それはそれとして、四柱推命の理論体系からすれば、日貴則ち貴命と論ずるのは無理がありますが、日貴であることに着目して命式を見直すと、また違った見方ができるのではないかと私は考えます。
 日徳格ですが、これまたなぜこのような組み合わせができたのかはよくわかりません。よって張楠のいうことはわかるのですが、実占上どうかは検証の必要があるでしょう。


一、魁罡格、取壬辰、庚戌、庚辰、戊戌、臨四墓之土、取其為魁罡格、能掌大権。並不以取論、何以臨此四墓之上、就能掌握威権、此亦子平書之大謬也。
一、六壬趨艮、謂用寅中甲木、能合己土為壬之官。謂用寅中丙火、能合辛金為壬之印。倶是無中生有之説、吾恐謬也。大抵與前拱禄飛天禄馬之説相為表裏、此説非、故以謬名之。
一、六甲趨乾、謂亥上乃天之門戸、謂甲日生人臨此、謂之趨乾。仮如別日干生臨亥上、何以不謂之趨乾也?然天門亦只好此六甲日主来趨也。然天体至円本無門戸可入、然乾乃西北之界、類天之門戸、豈可論人之禍福乎?此説是子平之大謬也。
一、勾陳得位、以戊己為勾陳、其一理也。得位謂其臨財官之地。若戊己身主不柔、則能任財官也、則謂之勾陳得位也、宜矣。若戊己気弱、臨其財官太旺之地。或為財多身弱。或為殺重身軽。若以勾陳得位為美、豈不謬乎?玄武当権與此理相同也。
一、魁罡格というのは、壬辰、庚戌、庚辰、戊戌をいう。これは墓にあたる支が土の場合魁罡と呼び、大きな権力を得ることができる。別に論理があるわけでなく、どうしてこの四墓の上に臨めば権威を握れるなどといえるだろうか。これもまた子平書の大きく間違った説である。
一、六壬趨艮は、寅の蔵干である甲木と壬の正官である己土が合するということ、また寅中の丙火が壬の印である辛金を合することで説明される。だが、これは無から有を生じるような説であり、全くの誤りである。だいたいが前の拱禄とか飛天禄馬とかの説と表裏をなすものであり、この説は否定され、間違いであるとするのである。
一、六甲趨乾というのは、亥を天の門戸とし、甲日生まれの人が亥をみて趨乾と呼ぶのであるが、では他の日干生まれの人がどうして趨乾と呼ばないのであろうか?しかるに天門はただこの甲日主の場合のみを好んで趨というのである。 天体というのは丸いものであって、入るべき門戸があるわけでなく、乾というのは単なる西北の境界である。天の門戸の類がどうして人の禍福を説明できるであろうか?この説も子平の大きな間違いである。
一、勾陳得位というのは、戊己土を勾陳と呼ぶことから来ており、それは一理である。得位とはそれが財官の地にあることをいう。戊己日主が強ければ勾陳得位といってよいが、戊己(日主j)が弱くて財官が旺じているのは、財多身弱、殺重身軽というべきで、 勾陳得位が何でもよいとするのは間違いでないといえるだろうか。玄武当権も理屈は同様である。

 後で張楠は格局についての解説をしています。まあここでの主張は、格局を一律に間違いだと言いたいのではなく、命式を格局に当てはめて単純にみてはいけない、日主の強弱や財官印などを十分に検討する必要があるということにあると思います。


一、従革格、謂庚辛日干見申酉戌全、或巳酉丑全、此多剥離原非純粋可観、與壬癸潤下格、理同此二格。吾見多矣、未曽有富貴者、但当以別理推之。止有曲直、稼穡二格、多富貴。火全巳午未格、亦未見其美。由是尊其所正、而闢其所謬也。
一、従革格とは、庚辛の日干で申酉戌がそろうこと、あるいは巳酉丑がすべてあることであるが、この多くは日干が弱められ純粋なものをみることがない。潤下格も同じである。この二つの格は取り方は同じである。私は多くの例をみたが、富貴であるのを見た事がなく、 まさに別の理屈で考える必要がある。曲直と稼穡の二格に限っては富貴であることが多い。炎上格もあまりいいものを見たことがない。よって正しいところを取って、間違いをしりぞけるのである。

 この部分は『四柱推命五大秘伝集』にもあります。この理由について同書は干関係によって説明しており明快です。私もほぼ同書の考えに賛成です。(もっとも私にはちょっと別の観点もありますが…) 興味のある方は同書を参照してください。
 同書の是非はともかく、この部分は重要な指摘で、「一行得気格は富貴の命式である」と割と多くの本に書いてありますが、神峰の「実占経験と一致しない、さらなる検討が必要だ」という意見、 そのような意見の正否を検討することにより、四柱推命はまた一段の進歩をするのだと思います。従来の考えを単純にうのみにしない批判的な態度は、別に四柱推命に限らず、大事です。ただ、私も疑り深い方なので、張神峯の態度は是としますが、その論の進め方には多少疑問符です。


動静説

何以為之動也?其体属陽、陽主動、故天行健、円転循環而無端。故以人之八字、天干呈露於上者為之動也。如八字天干甲木、但能剋運上天干之戊土也、不能剋巳中所蔵之戊土也。蓋以動攻動為親切。如男人之攻得男人也、不攻閨閫中所蔵之女人也。但雖不能攻人、而亦有揺動震驚之意、但不能作実禍也。如女人見男来攻、雖不能加捶楚於其身、而亦有恐懼之意焉。如運上申中、地支之庚金、亦不能攻我八字中天干所透之甲木者也。是以天干之動、只能攻得天干之動、不能攻地支之静也明矣。
 動とは何か?その体は陽に属し、陽は動くことを基本とする。故に天は健やかに行き、円を描いて循環し終わることがない。それで人の命式においては、上表に出ている天干を動とする。
 例えば、天干に甲木がある場合、命式や行運の戊土を剋することはできるが、地支である巳の蔵干の戊土を剋すことはできない。 動を以って動を攻めることは身近であり、例えば男と男のけんかのようなものである。やられるのは男であって、その妻や恋人まで害が及ぶわけではない。 ただ、攻めることはできないかもしれないが、妻や恋人も驚いたり動揺したりすることはありえる。ただし、実害はない。逆に妻や恋人が男同士のけんかに割り込もうとしても、驚かせることぐらいはできるが、相手の男をやっつけるところまでは難しい。 行運で申、蔵干に庚金を持つが、が巡ってきても、命式中の天干に透る甲木を攻めることはできないのである。よって天干は天干だけを攻めることはできるが、静である地支は攻めることができないのは明らかである。

 ところどころ意訳しています。
 比喩としてはわかるのですが、ちょっと強引な説明ですね。
 動静説と名付けた理由を考えてみると、天干は動でありその作用は表にすぐに出やすい、また地支は静でありその作用はすぐには出ないがじわじわと影響を与える、ということではないかと思います。そうであれば、この論は張楠の見方をよく表していると思います。


何以為之静也、其体属陰、陰主静。故地承順、方静守固而有常。故以人之八字、地支隠蔵於下者為之静也。如八字地支之庚金、但能剋運上地支之甲木、不能剋運上天干之甲木也。蓋以静攻静為親切、如女人只攻得女人也、不能攻在外之男人也。但雖不能被其攻、亦有揺動震驚之意也。如運上地支之庚金、亦不能破我八字天干之甲木也。是以地支之静、只能攻得地支之静、不能攻天干之動也亦明矣。又如辰戌丑未四地支之物、乃天地四方収蔵之庫、極牢固。仮如八字地支、辰中有戊土、乙木、癸水、運或行寅、寅中雖有甲木、亦不能破其戊。又運行酉、酉中雖有辛金、亦不能破其乙。又或行午、午中雖有己土、亦不能破其癸。非不能破也、蓋其庫中鎖鑰甚牢。真要戌字運来冲開之、就如有了鑰匙、開了其鎖、而放出戊土、乙木、癸水出来。如丑字就要未字冲、別物不能攻之。故曰雑気財官喜見冲、正此意也。
 静とは何か?その体は陰に属し、陰は静かなことを基本とする。地は従順であるがゆえに保守的で変わらないもので、人の命式においては、地支蔵干を静とする。
 命式中の地支蔵干の庚金(地支でいえば申)は行運の地支蔵干の甲木(地支でいえば寅)は剋すことができるが、行運干の甲木は剋すことができない。 けだし静は静を攻めるのが身近であり、女性はただ女性のみを攻めることができるというようなことで、外にいる男性は攻めることができないのである。ただし、その攻めにあわないといっても、また驚かせることはできるのである。行運支の蔵干に庚金があっても命式天干の甲を破ることはできない。これが地支の静というもので、天干の動は攻められないのは明らかである。
 また、辰戌丑未は天地四方の収蔵庫であって、その地支は非常に強固なものである。命式の地支に辰があれば、その蔵干は戊土、乙木、癸水であるが、行運寅の蔵干に甲があるからといって、戊土を破ることはできない。 また、行運で酉が巡ってきても、酉の蔵干の辛が命式中の辰の蔵干乙を破ることはできない。行運で午が巡ってきても、午中の己土が辰の蔵干癸を壊すことはできない。 命式中の辰に対しては、戌運が巡ってきて辰を冲することで作用を開くことができる。ちょうど鍵で錠前を開けるようなものであり、その錠前が開けば戊土や乙木や癸水の作用が発現する。丑の場合は未の冲が必要で、別の支では攻めることができない。故に雑気財官は冲を見て喜ぶというのはまさにこういうことなのである。

 動の部分と裏返しの話です。
 ただし辰戌丑未については、単純な蔵干の生剋関係ではなく、冲開しなければ地支の蔵干の作用は表れないとしています。これは結構重要な指摘であり、張楠は土支は冲開するという立場だったことがわかります。
 冲開については、「四柱推命古今論集」の中の「墓庫冲開論」を参照してください。


蓋頭説

何以為之蓋頭也?如人之一身、独有頭為一身之端也。頭與面相連、耳目口鼻繋焉、統而言之為之頭也。其下若四肢腹肚稍有不善、可以衣服以飾其不善也。若頭之諸物発見於外、則為之動物、非若四肢腹肚所蔵之静、不足為軽重也。大抵人之八字類此。如八字中上四個字是頭也、下地支四字是肚腹四肢也。支中所蔵之物是五臓六腑也。如肚腹秀気発出在頭而上来、便是英華発出外来。一生富貴貧賎、只従頭面上見得。
 蓋頭とは何か?人の場合をみてみると、頭は人体の端に一つだけある。頭と顔は連続してあり、耳目口鼻があり、それを総称して頭という。 その下に手足や胴体があり、いささか善くないところがあれば、衣服で飾り立てることはできる。 頭は外にあって物を見るものであり動といえる。そして手足胴体の所蔵する静がなければ、重要とするには足りない。(頭が動で体が静でなければバランスを欠く、というぐらいの意味か?)人の命式もそのようなものであり、天干が頭、地支が手足、胴体にあたり、地支蔵干は内臓にあたるといえよう。 もし胴体が健康でその栄養分が頭まで回れば、すなわち才能が外に表れてくる。一生の富貴貧賎は頭面を見ればわかるのである。

 この部分は初訳が間違っていましたので、数か所訂正しました。
 蓋頭説の蓋とは何かと言われると、何とも表現しにくいです。辞書的にいえば、“フタ状のもの、かぶせるもの、隠す、圧倒する、およそ” などの意味がありますが、どうもピッタリきません。とりあえず私は「フタ」としておきます。
 よく蓋頭、截脚という言い方をします。日本語でいえば「頭にフタをする、足を切る」ということになります。要は天干に対する地支の作用と地支に対する天干の作用を総称したものと言えるでしょうか。次の項で、そのうちの蓋頭について説明しています。


 如八字是傷官、這傷官蔵在内、尚不足畏。如天干透出此傷官、便是頭面上見了、怎能掩飾。凡有所害之物露出頭面、便是動物、就能作害。凡行運、如原八字是乙日干、用丙丁火為傷官。乙日干傷官重者、便以庚金官星為病。若八字上見了庚金、便要丙丁為疾病之神。如早年行壬申、癸酉運便是不好運。蓋因壬癸水蓋在申酉頭上、是壬癸水蓋了頭便不好也。後行甲戌、乙亥運便好了、是甲乙木蓋了頭也。又行丙子、丁丑運又好、蓋得丙丁火蓋了頭来剋庚也。雖下面地支有亥子丑水、其水被丙丁蓋了頭、亦不能為害。又如庚辛日干、喜甲乙、丙丁四字為福神、庚辛壬癸四字為病神、行運望見甲乙丙丁数字蓋了頭便好、如望見庚辛壬癸数字便是壊運、雖運上地支有甲乙丙丁、亦被庚辛壬癸蓋壊了頭。此地支雖有甲乙丙丁亦不能作福、蓋為庚辛壬癸蓋在上面出頭不得。看八字以此蓋頭字望見了、就識得人一生好悪、此是真伝秘訣也。
 もし、命式が傷官を恐れる場合、地支にあるうちは恐れるに足りないが、天干に現れるようであれば、すなわち頭面上に見えるわけで、どうして覆い隠すことができようか。およそ害するものが頭面に表れるのは、すなわちこれは動のものであり、すぐに害をなすことができる。およそ運をめぐるとき、例えば乙日干の場合、丙丁火を用いて傷官とする。乙日で傷官が強い場合、庚金正官を病とする。 命式中に庚金があるなら、すなわち丙丁を疾病の神とする。 もし早年に壬申、癸酉の行運がめぐってくるのはよくない。これは、壬癸水のフタによって申酉の頭上を覆っているわけで、壬癸水が頭にフタをするということで好くない。後に甲戌、乙亥運に行けばよいが、これは甲乙木が頭を覆っているのである。また丙子、丁丑運もよいが、丙丁火のフタを得て頭を覆い庚を剋するのである。下面の地支に亥子丑の水があるといっても、その水は丙丁にフタをされているわけで、害とはならない。また庚辛日干の場合、甲乙丙丁の四字を喜び福神となるなら、庚辛壬癸の四字は病神である。行運に甲乙丙丁の字を望み見てフタをするならば好いが、庚辛壬癸の字を望み見ればすなわちこれは運を壊す。行運地支に甲乙丙丁があっても、庚辛壬癸のフタにより壊されれることになる。この場合地支に甲乙丙丁があっても福とはなれない。庚辛壬癸をフタとして上面にあれば、地支は頭に出ることはできない。命式を看る際に、このフタとなっている字を看ることにより、人の一生の良し悪しを知ることができる。これこそ真伝秘訣である。

 乙日日干を例にとって蓋頭を説明しています。しかし、この部分は非常にわかりにくい説明になっています。一つの命式を説明しているのではなく、その都度想定している命式が違うようです。前半は一応乙日庚午月甲または己年生まれを想定していると思いますが、その後の大運の説明は相互に矛盾しているような気がします。それぞれ違う命式を想定しているのならわかりますが、具体的な命式が提示されていないので真意をつかみかねます。
 後半の庚辛日生まれの場合は比較的わかりやすくて、甲乙丙丁が喜神の行運で、庚辛壬癸が忌神の行運ならば、と条件を提示しています。この場合は地支に甲乙丙丁があっても福とならないと書いてあり、つまりは日干には地支の作用は直接的にはないと言うことを説明しています。
 まとめると、動静説、蓋頭説とも天干と地支の作用に関しては、別のものであると言っているのだと思います。 流派によっては、地支蔵干にすべて変通星を割り当て、天干の変通星と同じような見方をしているものもあります(台湾にも結構多い)が、張神峰はそれに対しては否定的なのでしょう。
 私は張神峰の見方に近いやり方をしていますが、十分検証した上でのことではありません。
 ただ、張神峰は地支相互の作用は、蔵干関係による作用であるかのように言っていますが、私は、合冲刑会等の地支自身の相互作用の結果だと思いますので、そこのところは同意できかねます。


六親説

年上財官、主祖宗之栄顕。月家官殺、主兄弟之凋落。又曰;年看祖宗興廃事、月推父母定留存。然年属祖宗之宮、臨財官之地、及坐禄馬之郷、栄顕理然也。但坐比肩、劫財、無財官之可依據、此乃祖宗飄令也。然父母之宮、又当與歳上之祖宗、月上兄弟両宮、相寓而参看焉。若歳月無財官、倶主根基浅薄、白手成家。独月令官殺司権、倶主損傷兄弟。雖有兄弟、多主鬩墻。何也。比肩乃兄弟之星、見官殺而剋之、安得不損兄弟乎!故曰;官殺排門兄寿夭。殺官司戸弟郎当。故月乃門戸也。又若日通月気、比肩神旺、多主鴻雁成行。理雖如是、亦貴変通。
苟或日主根多、比肩太旺、亦主参商。蓋縁兄弟多、来劫財神也。此又喜官殺、而得兄弟也。偏財為父、比劫重重損父親。正印為母、財星旺処須損母。以官殺為子、傷官、食神多損子。若官殺太重、剋制日主、則自身救死不贍、安能生子乎。必須食神、傷官制去官殺、方能生子也。
男命如斯、女命亦然。若財官旺、而日主弱、夫家興、而母家滅。蓋財官乃旺夫之物也、然財能損母、官能剋兄弟、多主父母兄妹飄零。
孤鸞曰;木火蛇無婿、蓋乙巳、丁巳日也。然乙巳坐下有庚夫、丁巳坐下有庚財、有財能生夫也、不可謂無婿也。女命此二日、多主旺子旺夫也。金猪定無郎。辛亥日坐下有正財、財亦能生夫、豈可謂無郎乎。土猴長独臥、乃戊申日也。坐下有金、能剋夫也。女命戊申日、極損夫也。木虎定孀居、甲寅日也、夫星絶於寅也。甲寅日女命極剋夫也。又女命食神傷官多、泄損精神、不能生子也。又喜印星損其子、養其精、方能生子也。若食神傷官少、而又嫌印星能損其食神傷官之子也。
若辰戌丑未四字全、此坐天地之四獄也、又安能生子乎。若止犯二字、亦不畏也。若夫子星入墓、亦多雖為夫子也。男女二命倶不可犯妻星、夫星、子星。而論之倶只看八字有病、能去其病、則有妻、有夫、有子也。論六親只是死格、説見上文五星謬説内。
 年柱の財官は先祖が栄えていたことを示し、月柱の官殺は兄弟が落ちぶれることを表す。 また年柱は先祖の興廃、月柱は父母の状態を示すともいう。年柱に財官があり地支に禄馬(財官)があるなら栄えているというのも理にかなっている。 しかし、地支が比肩劫財で財官の根がないならば、先祖は落ちぶれていたと判断すべきである。しかして父母の宮、またまさに年上の先祖と、月上の兄弟の二つの宮は、一緒に看るべきである。もし年月柱に財官がなく、ともに根が弱ければ、その人は一から家を興すことになる。月柱に官殺があり強いのは兄弟を傷つけることになり、兄弟があっても相争うことになる。というのは、比肩劫財が兄弟の星であり官殺はそれを剋すからである。 官殺は兄の寿夭を決め、殺官は弟の凋落をつかさどると言われるのはこのことである。ゆえに月は門戸といえる。日主が月支に通根して比肩が強いならば、多くは独立していく。以上理屈はこの通りだが、実際上はうまく応用していく必要がある。
 日主に根があり比肩が強すぎれば、兄弟仲が悪く分かれて暮らすことになる。兄弟に縁があるのは劫財であり、また官殺が喜神の場合である。 偏財は父とするので、比肩劫財が多いのは父親を損なう。母は印綬であり、財が強すぎるのは母を剋す。 (男命の場合)官殺を子とみるので、食傷が多いのは子を損なう。官殺が強すぎる場合は、自分が弱くなり、自分のことで精一杯で子供を作るどころではない。 この場合は、食傷で官殺を制し取り去ることが必要である。
 男命はこのとおりであるが、女命も同じようにみる。財官が強ければ、日主が弱くなり、夫の家はよいが、自分の生家は滅んでしまう。 財官というのは夫を強めるもので、財が強ければ母(印)を損なうし、官は兄弟を剋すわけであるから、多くは父母兄弟は落ちぶれるとする。
 孤鸞日で「木火蛇は婿がない」というが、これは乙巳、丁巳日のことである。しかし、地支に庚を含み、これは財官であるから婿がないとはいえないだろう。 女性でこの日の生まれで夫子供に恵まれている人はいるのである。「金猪は定めて旦那なし」というのは辛亥日生まれであるが、 日支に財があり、財は官を生ずるから、やはり旦那なしとはいえないであろう。 「土猿は長く一人で寝る」というのは戊申日生まれであるが、地支蔵干は庚でありこれは確かに夫星を剋すことになる。 「木虎は定めて一人暮らし」というのは甲寅日生まれであるが、夫星にとって寅は絶にあたるので、確かに夫を剋すのである。  女性で食傷が多いのは、精神を疲弊し損なうため、子ができない。このとき、印が強いのは子ができないが、日主が強くなれば大丈夫である。 また、食傷が弱い場合は印を嫌う。
 土支である辰戌丑未がすべてそろう女命は、「天地四獄に座す」といい、子を産むことができないとされる。 四字のうち二字にとどまるのであれば問題はない。官殺、食傷が墓にあたる場合は、夫子供を持つのは難しい。
 男女にかかわらず、財官、食傷は重要であり、それらを壊すことはさけなければならない。 さらに、ここで論じたことは、命式に病があり、その病を取り去ることができれば、妻を持ち、夫を持ち、子を持てるということである。 六親に関して固定的な見方をするのは、誤った考え方の一つである。

 原文に改行はありませんが、私の方で適当に改行をつけました。他の項も同様です。
 禄馬は財官とも建禄長生ともとれますが(初訳は建禄長生)、次に通根(依據)がありますので、財官と訳しました。
 六親説は、五行関係を父母兄弟夫妻子女にあてはめる場合の注意点を実例に即して挙げています。 ただ、途中孤鸞日の話になったりで、あまり整理されたものとはいえません。勉強のつもりで、各干が父母兄弟夫妻子女のどれにあたるのか自分で確かめることをお勧めします。

 
病薬説類

何以為之病。原八字中、原有所害之神也。何以為之薬。如八字原有所害之字、而得一字以去之、之謂也。如朱子所謂、各因其病而薬之也。故書云;有病方為貴、無傷不是奇、格中如去病、財禄両相随。命書万巻、此四句為之括要。
蓋人之造化、雖貴中和、若一一於中和、則安得探其消息、而論其休咎也。若今之至富至貴之人、必先労其筋骨、餓其体膚、空乏其身、然後動心、忍性、増益其所不能、人命之妙、其猶此乎。
愚嘗先前未諳病薬之説、屡以中和、而究人之造化、十無一二有験。又以財官為論、亦倶無帰趣、後始得悟病薬之旨、再以財官中和参看、則嘗八九而得其造化所以然之妙矣。
何以言之、仮如人八字中、四柱純土、水日干則為殺重身軽、如金日干、則土厚埋金、火日干則晦火無光、木日干則為財多身弱、土日干則為比肩太重、是則土為諸格之病、倶喜木為医薬、以去其病也。如用財見比肩為病、喜官殺為薬也。如用食神傷官、以印為病、喜財為薬也。
或本身病重而薬少、或本身病軽時得薬重、亦宜行運、以取其中和、若病重而得薬、大富大貴之人也。病軽而得薬、略富略貴之人也。無病而無薬、不富不貴之人也。
究人之命、将何以探其玄妙、如八字中先看了日干、次看月令。且如月令中支中所属是火、先看月令中此一火字起、又看年上或有火、又看月時上或有火、宜将以上各火、做一処看、或為病、或非病、又或地支雖又蔵有別物、且不必看、若再看別物、則混雑不明。故曰従重者論、此理是看命下手法処、若以火論、又再看水看金看土、則不知命理之要也。
若財官印綬有病、就要医其財官印綬也。如身主不利、就要医身主也。如八字純然不旺不弱、原財官印倶無損傷、日干之気、又得中和、並無起発可観。
此是平常人也。然病薬之説、此是第一家緊要、售斯術者、不可不精察也、詳見見験類。
 病とはいったい何のことか。元の命式中の害となる干支をいう。薬とは何であるか。命式中の害となる干支を取り去るものをいう。朱子のいわゆる、各々その病によって薬となるのである、ということである。故に書にいう「病があってこそ貴であり、傷がないのはすばらしいとはいえない。格局の病を取り去れば、財禄はついてくる。」 多くの命書にこの四句が重要であるとある。
 命式においては、中和を貴ぶが、すでに中和であれば別に盛衰や休咎を論ずる必要はない。いま富貴となっている人は、そうなる前には苦労をし、がまんを重ねて、そうなったのである。これは人の運命の妙というものであろうか。
 私が病薬説を知る前は、中和のみで命式を看ていたが、十に一、二はあてはまらなかった。また財官で論じてもやはりそうであったが、のちに病薬のことを悟り、再度財官中和に着目すると、かつては八、九割だったのが命式の妙を感得することができた。
 どう言えばよいか。例えば、日干以外がすべて土であるとき、水日干の場合は殺重身軽、金日干の場合は土厚埋金、火日干の場合は晦火無光、木日干の場合は財多身弱、土日干の場合は比肩太重という。これらは、土が命式に対してなす病であり、この場合は木で抑えるのを喜ぶ。これを薬として病を取り除くのである。もし財が用神(喜神)の場合は、比肩は病であり、官殺を喜び薬となる。食神傷官が用神の場合は、印は病であり、財を喜び薬とする。
 命式中に病が多く薬が少ない場合や、あるいは病が少なく薬が多い場合、行運ではその中和をとるのがよい。もし病が重く行運で薬を得れば、大富貴の人となる。病が軽くて薬を得る場合は、そこそこの富貴の人といえる。病も薬もないなら富貴の人とはいえない。
 命式をみるのに、その玄妙さを知るにはどうするのか。まずは日干をみて、次に月令をみる。そして、月令が例えば火に属するのであれば、まずはその火から出発して、さらに年干支、月干支に火があるかを看る。この火に着目することで命式を判断すれば、火が病の場合とそうでない場合がある。地支に別の五行があっても、必ずしも着目しなければならないわけではない。それにとらわれると何が何だかわからなくなる。それを、「重要な五行から理を論ずるのが看命の着手の方法である。もし火に着目したあと、水や金や土に着目するのは命理の要をわかっていない。」というのである。
 財官印綬に病があれば、すぐにその財官印綬に医が必要である。日干に病があれば、日干に医が必要である。
 命式が純であるのは強からず弱からず、財官印ともに傷がないことで、日干の気も中和を得て、これといった特徴がないならば、これは普通の人である。
 病薬の説は、非常に重要なポイントであって、四柱推命を行う者はこれによって精察しなければならず、その意味を詳らかにしなければならない。

 訳はところどころ自信がなく、また意訳もしていますが、内容についてはとくに解説の必要はないでしょう。
 なお、朱子の言だという部分の原文に当たれていませんが、それに類することは言っていたのでしょう。病薬説や動静説は朱子の影響がありそうです。


雕枯旺弱四病説類

何以為之雕也。如玉雖至宝也、而貴有雕琢之功、金雖至宝也、而貴有鍛錬之力。苟玉之不琢、雖曰荊山之美、則為無用之玉也。金之不錬、雖曰麗水之良、則為無用之金也。人之八字、大概類此、如見官星未曽有傷官、見財星未曽有比劫、見印綬未曽有財星、見食神傷官未曽有印綬。若此純然無雑、不猶未琢之玉、未錬之金乎。大抵天之生人也、盈虚消長之機、未嘗不寓焉、若四時之有生長也、必有春夏焉、若四時之有収蔵也、必有秋冬焉。又如地理、有龍穴砂水之美、而来脈又貴有蜂腰鶴膝断続之妙焉、人之造化、窮通寿夭之理、亦貴宜有去留舒配、以取用焉、是以八字貴有雕也。
 雕とは何であるか。玉が至宝であるといっても彫刻を施すことにより貴重なものとなる。金が至宝であるといっても鍛造したり精錬したりすることで貴重なものとなる。もし玉も彫刻がなければ、荊山の原石だといっても使い物のない玉である。金も鍛錬しなければ、麗水の金だといっても使い物のない金である。 命式についてもこのようなものであって、官星があっても傷官がない、財星があって比肩劫財がない、印綬があって財星がない、食神傷官があって印綬がないというようなものである。もし純粋で全く混じりけのないものであれば、彫刻のない玉や鍛錬しない金のようなものである。だいたい人は生まれて、盈虚消長の機会のないところにいるということはない。季節においても、生長の時期である春夏が必ずあり、収蔵の時期である秋冬があるのである。また風水地理のように、龍穴砂水の美があってこそ、来脈また蜂腰鶴膝の断続の妙があるのである。人の運命には順調不調、寿夭の理があり、また進退、停滞があってこそ、運がすばらしくよくなるのではないだろうか。以上が命式のよさが雕にあるということである。

 意味はだいたいわかるかと思います。人は純粋なだけでは深みが出ないというようなことでしょうか?
 終わりの方に「蜂腰鶴膝」とありますが、蜂の腰や鶴の膝のような細い部分に気(龍脈)が集まるということのようです。私は風水は素人なので、気になる方は風水の専門書をひもといてください。


何以為之枯也。風霜之木、春華之至可観焉、旱魃之苗、得雨之機難遏焉。故冲霄之羽健、貴在三年之不飛、驚人之声雄、貴在三年之不鳴、是以清涼之候、恒伸於炎烈之余、和煦之時、毎収於苦寒之後、故人之造化、官貴有枯也、行官旺地、貴不可言、財貴有枯也、行財旺郷、財難計数、然又当喜有根在苗先、実従花後、但貴其有根而枯也、不貴其有苗而枯也、苟若官星無根、則官従何出、財星無根、財従何生、是以財官印綬、貴有根而枯之病也。或若無根、而自為之枯焉、則亦非矣。是以八字貴有根枯之病也。
 枯とは何であるか。風霜に耐えてきた木も春になれば花開き、旱魃に耐えてきた苗も時機をみて成長することができる。ゆえに冲天をつくほどの羽を持って3年間貴であっても飛ばない、人を驚かせるほどの鳴き声を持って3年間貴であっても鳴かない。よって涼しい季節でも炎烈の残る時期に常に伸び、暖かい時期でも苦寒の後に収穫を得るのである。ゆえに人の運命も、官のよさが枯れてしまった後で、官の強くなる行運に行けば出世するし、財のよさが枯れてから財の強くなる行運に行けば大変な財を得る。したがって、まさに根があって苗が出る、実は花の後につく。ただ貴はその根があって枯があればであるし、苗だけで枯があれば貴となならない。もし官星に根がなければ官は何にしたがって出るのか。財星に根がなければ財は何にしたがって生ずるのか。財官印綬が通根していても枯れるという病があるのだが、通根していなければもとより枯れてしまっている状態である。これが命式の貴に根と枯があるという病である。

 「三年飛ばず鳴かず」というのは荘王の故事です。ネットで検索すれば容易に見つかるのでそれを参照してください。
 枯というのは、もともと良い命であるがパッとしない時期の後に喜神の行運が来れば大きく発展するということで、そのパッとしない時期を枯と言っています。すなわち行運の落差があることが病と薬にあたるわけです。注意しなければいけないのは、もともとの命式が貴命なり富命なりでないと大きく発展はしません。


何以為之旺也。群芳出長、可観真木之光輝、万物凋零、可識真金之粛殺、是以各全其質、各具其形、若木不木而金不金、旺不旺而弱不弱、則五行之質有虧矣。何以考人禍福也哉。若人之用木也、則宜類聚、斯木性之不雑。若人之用火也、則宜照応、斯火性之不烈。若春林木旺、見水多益壮其神、夏月火炎、見木多愈資其烈、由此区別、則知其所以旺者、当何如耶、然或官星太旺者、宜行傷官運、以去其官星、財星太旺者、宜行比劫運、以去財星、印星太旺者、宜行財星運、以破其印星、日干太旺者、宜行官殺運、以制其日主。一理如是、百理皆然、若其旺弱之相参、斯其下矣。是以八字貴有旺之病也。
 旺とは何であるか。多くの花が成長すれば、木の本当の美しさを見ることができる。(秋になって)すべてのものが衰えて、金の本当の粛殺を知ることができる。すべてのものはその性質、形がある。もし木が木でなければ金は金でなく、旺が旺でなければ弱は弱でない。(木かどうかで金かどうかがわかり、旺かどうかで弱かどうかがわかる)すなわち五行の質があるかないかである。では、何をもって人の禍福を考えるべきであろうか。用神が木であればすなわち木が集まり木性の雑じり気がないほうがよい。用神が火であれば照応するのがよく激しすぎないほうがよい。春生まれで木が旺じていれば、水が多いと木がいっそう強くなり、夏生まれの火の強いのは、木が多ければ多いほど激しさを増す。このように、強い原因を区別し、その理由を明らかにしなければならない。官星が強すぎる場合は傷官運に行きその官を取り去るのがよい。財星が強すぎる場合には比肩劫財運に行き財を取り去るのがよい。印星が強すぎる場合には財星運に行きその印星を破るのがよい。日干が強すぎる場合には官殺運に行き日干を制するのがよい。一つの理論で全部説明ができるのである。それらの旺弱を互いにみてこう判断する。命式の良さにも旺による病があるということである。

 旺というのは端的に言えば、強すぎる害といえるでしょう。強すぎる五行や変通星はそれを弱めることで良くなるという病と薬の関係です。


何以為之弱也。雨露不足、則物性為之消磨、血気不充、人身為之羸痩、天根可躡、六陽之弱可聞乎、月窟可探、六陰之弱可究也、是以六陽之弱、不至於終弱、而有臨泰之可乗、六陰之弱、不至於終弱、而有遯比之可托。猶人之命、弱不弱而旺不旺、則何以稽其禍福哉。然雖貴有弱也、則猶恐極弱之無根、故水雖至巳為極弱、然巳有庚金為水根也、火雖至亥為極弱也、然亥有甲木、為火之根也。人之造化、財官印綬、貴有弱也、弱則有旺之基焉、若官星太弱、宜行官旺之郷、財星太弱、宜行財旺之地、日主太弱、宜行身旺之地、然猶畏弱之無根、所謂根在苗先也、弱而有根、則官星雖弱而可致其旺、財星雖弱而可致其強、是以八字貴有弱之病也。
 弱とは何であるか。雨露が不足すれば、万物は消滅してしまう。血気が十分でなければ、人体はやせて枯れてしまう。天干に透干して地支に通根していれば陽干は弱いとはいえない。月令に旺じていれば、陰干は弱いとはいえない。陽干は地支に通根していなければ弱く、通根していれば安泰である。陰干は月令に通じていなければ弱く、弱すぎることはない。命式の強い弱いによって、どうやってその禍福を判断するのか。貴神が弱い場合は、全く根がないのを恐れる。ゆえに水は地支が巳であればきわめて弱いが、巳には庚金があり、水を生ずる根となりうる。火は地支が亥であればきわめて弱いが、亥には甲木があり、火を生ずる根となる。命式において、財官印綬の良さが弱くても、弱さがなお強くなる元があるのである。官が非常に弱い場合は官の旺じる行運に行けばよく、財が非常に弱い場合は財の旺じる行運に行けばよく、日主が弱ければ身旺となる行運に行けばよい。もっとも恐れるのは、弱すぎで根もないことで、「根より苗が先にできる」ということである。弱くても根があれば、官星が弱くても官が強くなる可能性があるし、財星が弱くても財が強くなる可能性がある。以上が命式のよさが弱の病にあるということである。

 ここで根があるというのは、必ずしも通根のことのみを言っているわけではなさそうです。まあ弱神を強める元というぐらいの意味かもしれません。
 ところで、上の訳では「臨泰之可乗」「遯比之可托」は正確な意味が取れず、訳していません。臨泰は易経の地沢臨、地天泰で、遯比は天山遯、水地比です。可乗というのは地が天、沢の上にあっても吉卦であるということなのかなという気がしますが、可托というのは、文字通りにとれば物を支えられるということで、山が天を支えるのはイメージとしてわかりますが、水地比はわかりません。ひょっとすると天地否の間違いかもしれません。それにしても意味はよくわかりません。ただ、「不至於終弱」とありますので上のように解釈しています。少々意訳に過ぎているかもしれません。


損益生長四薬説類

何以謂之損。損者、損其有余也。然木生震位、正木気之当権也。金産兌宮、正金神之得位。当権者不宜資助、得位者不必生扶、仮或水又滋木、土或培金。若木有余之病、用金以制之、金気有余之病、用火以剋之。官星之気有余、則損其官星、財星之気有余、則損其財星。譬如人身元気太旺為疾、当以涼剤通薬以済之也。是以八字貴有損之之薬也。
 損とは何であるか?損とは多すぎる五行を損なうことである。木が卯に生まれるのは木気の当権である。金が酉に生まれるのは金神の得位である。当権はそれを助けることは良くなく、得位は生扶も必要ない。水は木を滋養し土は金を培養するといっても、木が多すぎる病は金で制し、金が多すぎる病は火で剋する。官が多すぎる場合は官星を損なうようにし、財が多すぎる場合はその財を損なうようにする。例えれば、身体が気が旺じすぎて病気になる場合は、涼剤通薬をもってその気を整える。これが命式の良さを損することによって薬となるということである。

 ほとんど説明の必要はないと思います。当権と得位に微妙なニュアンスの差はあるのでしょうが、ここではあまり深く考えなくても十分意味は理解できると思います。


何以謂之益。益者、益其不及也。若木之死於午、若水之死於卯也。不及則宜資助、且如木気之本衰、庚辛又来剋木也。水気之本衰、戊己土又来剋水也、則水木不及之病。在此矣、益之之理、又当何如耶。若木之不及、或行水運以滋其根本、或行木運、以茂其枝葉。若水之不及、或行金運、以浚其源流、或行水運、以広其澎湃。若官星之気不足、則喜官旺之郷、財星之気不足、則喜行財旺之地、譬如人身血気之不足、則用温薬之剤、以補之也。是以八字貴有益之薬也。
 益とは何であるか。益とは弱すぎるものを益してやることである。木は午において死であり、水は卯において死である。この場合は弱すぎるので助けるのがよい。さらに、木気衰えて庚辛金が来て木を剋すとか、水気衰えて戊己土が来て水を剋すとか、これらは水木が弱すぎる病である。これを益する方法とはどういうものであるか。木が弱すぎる場合、水の行運にいけば、木の根を養育し、木の行運にいけばその枝葉を茂らせる。水が弱すぎる場合、金の行運に行けば水の源流をきれいにし、水の行運に行けば水の量を増して水路を広げる。官星の気が十分でなければ、官の強くなる行運がよく、財星の気が十分でなければ、財の強くなる行運がよい。たとえていえば、人の血気が不足しているならば、温薬で補ってやるようなものである。以上が命式の良さを益することによって薬にあるということである。

 これもほとんど説明の必要はないと思います。


何以謂之生也。六陽生処、真為生也。如甲木生亥、亥有壬水、来滋甲木也。六陰生処、倶為弱、如乙木生於午也、午有丁火、泄木之精英、有己土為乙木之撓屈、又如六陰死処倶為生、如乙木死於亥、亥有壬水、反来滋木也。六陽死処真為死、如甲木死於午、且午中有丁火、泄木真精、己土為之撓屈。且如生之理、形気始分、赤子未離於襁褓、精華初判、嬰児初脱於胞胎。如木之生於亥、根気猶枯也、未可以木為旺也。如火之生於寅、気焔猶寒也、未可以火為旺也。又或財官印臨於生地、未可以財官印為旺也、凡気之不足。故貴済之有生之薬也。
 生とは何であるか。陽干の場合は確かに生である。例えば甲木の生は亥であるが、亥には壬水があり甲木を育てる。しかし陰干の生は弱い。例えば乙木は午が生であるが、午には丁火があり、木の精英を洩らすものであり、さらに己土があって木を撓ませ曲げてしまう。また、陰干の死は生である。乙木の死は亥であるが、亥は壬水があり木を育てる。陽干の死は確かに死である。甲木の死は午で午には丁火があり、午には己土があり、木の精を洩らし、己土は木を撓め曲げてしまう。その上生の理論については例えば、おしめが取れない赤ん坊になればその形や気がわかるのであるが、精華は胎児が生まれたばかりでわかるのである。木の生は亥で、(亥は冬であり)根は枯れており、木が強いといえるほどの状態ではない。火の生は寅であるが、(寅は初春で)まだ寒く、火が強いというほどの状態ではない。財官印が生の地支にあっても、まだ強いというほどの状態ではなく、およそ気が不足している。故に(命式の)良さはそれを助い生あれば薬となるのである。

 この項は前二つに比べるとわかりにくいです。前半は陽生陰死の話であり、後半は五行の季節的な話です。そのまま読めば、長生が単純に薬になるというわけではなく、長生は弱いのでこれを助ける必要がある、というようなことを言っているように思われます。


何以謂之長也。春蚕作繭、木気方敷、夏熱成炉、炎光始著、如木臨震位、火到離宮、若此帝旺之郷、実不同於生長之位、是以生者長之初、長者生之継也。如財官属木、則長養在寅卯辰之方、此木気方敷也。如是則貴行金運以剋之、則與長生之木、理不同也。如財官属火、則長養在巳午未方、此火気之方熾也、如是則貴行水運以剋之、則與長生之火、理不同也。是以生長二字、衰旺之不同、故運行有喜生喜剋之異。是以八字貴有長之之薬也。
以上諸格、楠於合理者取之、背理者関之矣。
 長とは何であるか。春になると蚕は繭を作り、木気が行き渡り、夏は炉のように熱く、日差しも強くなる。木の地支が卯であったり、火が午の行運に行ったりなど、地支に帝旺に行くのは、全く生長の位とは同じでない。つまり生は長の始めであり、長は生の続きである。財官が木の場合、長養は寅卯辰の方であるが、これは木気が行き渡る時である。この場合金の行運に行き木を剋するのは、長生の木の場合とは理屈は同じでない。財官が火の場合、火の巳午未であるが、これは火が非常に明るいときである。この場合は水の行運に行き火を剋するのは、長生の火の場合とは同じでない。生長の二字は衰旺とは同じでなく、行運においても生を喜ぶか剋を喜ぶかの違いがある。以上が命式のすばらしさが長による薬にあるということである。
 以上諸格について、私が理にかなったと思ったものを採用し、理に背くと思ったものは遠ざけている。

 この項は初訳とだいぶ変えましたので補足します。
 「長養」という言葉について。財官というのは剋関係に五行ですから、木に対しては金土となります。金の養、長生は辰、巳で、土の養、長生は丑、寅になります。しかし、「長養」はそういうことを意味しているわけではないような感じです。次に、「長」は「生」の始めであり、「生」に続くと言っているのですから、むしろ長は長生の後半、沐浴よりのことを示しているようにとれます。そうすると、「生長二字、衰旺之不同」というのは、先々強くなる場合とだんだん衰える場合とでは異なると言っているように思えます。ですが、これもどうもしっくりきません。
 ということで、この文章から離れて考えてみると、結局のところ、強すぎる場合には抑え、弱い場合には強める、という原則に立ちながらも、将来を考えながら生剋を選択するという、まあ何となく常識的な結論を言っているのかな、と思ったりしています。
 いずれにしてもこの「長」の項はあまり上手く解釈できませんでした。折をみてまた考えたいと思います。




あとがき

 病薬説とは、誤解を恐れずにまとめれば、命式には欠点があり、それを取り除くことの方が人生すばらしいものになる、という考え方といえるかと思います。『五言独歩』をもっと具体化したものと言ってもいいかもしれません。
 その後、命式の欠点およびそれを取り除く方法をそれぞれ四種類ずつ(雕枯旺弱と損益生長)あげていますが、はっきり言ってそれはわかりにくいし、十分な説明ともいえないように思います。
 しかしながら、病と薬という考え方を明確にしたという点では、この論は一つの金字塔といえるのではないでしょうか。
 『命理正宗』は若干粗雑で乱暴な言い方はありますが、四柱推命を行う人には必読書といえるでしょう。

 『命理正宗』では、この後、各格局について命式例をあげて、ひとつひとつの命式のポイントを解説しています。それについてもおいおい解説を加えていきたいと思います。



   作成 :  2008年5月19日
   改訂 :  2017年5月10日  原文追加、訳文修正およびHTML5への対応

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