「命理正宗」格局解説 抄訳その13

財官双美格、拱禄拱貴二格、日禄帰時格、四位純全格、天元一気格、
天干順食格、地支拱夾格、両干不雑格、一気生成格、三合聚集格、福徳格


はじめに

 その13ということで、財官双美格、拱禄拱貴二格、日禄帰時格、四位純全格、天元一気格、天干順食格、地支拱夾格、両干不雑格、一気生成格、三合聚集格、福徳格を訳します。



財官双美格

 千金鑑沙條妙経に云う、
 六壬生まれで午位の中にいるのは、まず根源を要し水の通るのを見る。亥命未宮は殺を帯びるのをやめよ。平生どうして平穏であろうか。
 補して曰く、
 この本では、六壬生まれで午に臨むのを、禄馬同郷と言っている。そしてその格をみれば正官格の類になりそうだが、それは間違いである。また経文の中の休帯殺を改めて休見剋とする。すると亥卯未は剋官の殺とする。すなわち鑿である。この殺は天干戊土があればその七殺であり、これを帯びるとかえって禄を傷つけ雑官となる。
 訳が悪いのでわかりにくいと思いますので、補足しますと、壬午日においては、午の蔵干が丁正財、己正官です(私は違う蔵干の取り方をしますが)。壬午日の場合に正官は己で、己土の官殺は木であり、亥卯の木局が己正官を剋するのを剋官の殺とします。殺を帯びるとは戊土があることで、戊があって木があるということは、正官を傷つけ、また官殺混雑になります。
またいう、六壬が午に臨むのは、午中の己土を正官とし、もし命式中に亥卯未の木局がなければ、傷官があれば貴となる。四季土用の喜忌が同じかどうかはわからない。
 壬午日で木局がない場合には、乙木があれば貴となる理由はよくわかりません。
 だいたい壬午日で春や夏に生まれれば、亥卯未の木局を最も忌む。春生まれで逆行すれば、比肩運に行きまだいいのだが、秋生まれでは印綬であるといっても、木を剋して遠まわしに害となり、これは見ないにこしたことはない微妙なところであり、軽重を斟酌しなければならない。冬亥月に生まれれば、純粋に亥卯未を喜び、子月に生まれる場合はそれに次ぐ。子は卯を刑し、子亥は水であるからである、というのはどういうことか。蓋し古賦にいう、壬午癸巳二日を、同じく財官双全美といい、秋冬に生まれ金水が月気に通じるのを喜ぶ。春夏に生まれ木火が月気に通じるのを忌む。喜ぶところにあたれば大貴であるし、忌むところにあたればすなわち反って禍となる。これによってみれば、もしこの二日が亥子月に生まれれば正に月気に水が通じて、根源は水を見て通じるというべきである。身が禄旺に臨めば、財官を見て喜び、主に富貴とする。
 ここでの結論は壬午、癸巳の二日が財官双美格なのですが、日主が強ければよく、日主を弱めるようなことはよくないということにつきると言えるかと思います。
ゆえに曰く、冬生まれはすなわち玄武当権、貴にして王侯となり、そのうえ禄の上にあって財官を帯びるのによいのは、天月二徳である。
 ここでいう玄武当権とは前に述べた玄武当権格ではなく、玄武が権に当たる、すなわち水が強いということです。なお、壬午、癸巳は玄武当権格の六日の中に入っています。子月生まれの場合は、巳と壬がそれぞれ天徳と月徳になっていますので、天月二徳という言い方のしたのだと思いますが、わかりません。
ゆえに壷中子曰く、天月二徳を帯びるのは、すなわち刺繍の肩掛けに金の冠、七殺梟食を帯びるのを忌む。故に司馬季主はいう、禄は簡を要し、煩を要しない。かつ禄干は七殺を帯びないことを要し、かえって傷となり、梟食を帯びず。
官がある場合七殺があれば官殺混雑となります。偏印は壬にとっては庚ですが、子月生まれの場合甲乙が二徳になりますので、傷をつけることになります。
また洞玄経にいう、壬は亥を禄とし戊寅はもとより財ではない。
原文は「戊寅本非駕」で、駕は馬で財のこととして訳しました。そうすると壬午日で戊寅月の場合は、寅木は財ではないが、寅午で火局で財となります。
また[ラク][ロク]歌にいう、禄馬にはさらに多くの説があり、自衰自死が敗絶を兼ねるのは、壬午癸巳日生まれであり、亥が月支にあるのを喜ぶのである。
自衰自死とは納音からみた十二運のことですが、この部分はよくわかりません。ちなみに壬午は自死であり、癸巳は自絶です。
壬癸は卯を貴人とし、合を帯びるのがよく、空亡を帯びるのを忌む。頭上に財官があればよく、刃梟を帯びるのはよくない。そこで酔醒子子平にいう、貴人が頭上にあり財官を帯びれば、門は馬車で充ちる。そのうえ貴人は未宮で井鬼の合となり、家居出入の門の三合とする。さらに未と午が六合の情となっている。喜忌篇にいう、四柱干支は三合六合の地を喜ぶ。酔醒子にいう、六合に功あるのは六部の権尊である。また亥が合禄となるのを喜ぶ。ゆえに天乙妙旨にいう、君が禄馬貴人を見ないのは、準托(引き立て、支え)がない。五行の善悪を考究し、天元[イン]弱は必ずしも災いとはしない。地気が堅牢なのは喜びや楽しみがある。また[ラク][ロク]子にいう、貴人食禄を見るのは禄馬同郷にあらざるなし。また理愚歌にいう、貴人が空亡に落ち込むのは、禄馬背違でなければ、亥卯未はすなわち壬午癸巳の二日は深く喜ぶところで、忌むことはない。まさにいわゆるただの水木傷官格で、財官を両方見て初めて権力者とする。これはまさにいわゆる病あってまさに貴となるというもので、傷がなければすばらしいとはいえない。
(以下命例は省略)
 天乙妙旨註解を付補して曰く、およそ人の命に禄馬貴人があるのは、もとより富貴であって吉である。また貧賎があっては凶であり、これはみな無準托であるとはどういうことか。だいたい禄馬貴人を考えてみると、頭上に財官があって、三合六合、生旺進気は、これを五行の善といい、善はすなわち富貴にして吉である。頭上に殺梟刑冲破害があって、衰絶無気であれば、これを五行の悪という。悪はすなわち貧賎にして凶である。壬午癸巳癸未の場合、財官に坐して命中に表れたもの隠れたものが非常に強ければ、これを天元[イン]弱という。ゆえに曰く、官星が旺じすぎれば、天元[イン]弱の名がある。財は養命の源、官は扶身の根本で、宜しければ福をうけて栄え、これは必ずしも災いとなるわけではない。五行の善とは地気が堅牢なことで、身旺であることをいう。身旺は財官を我の用とし、富貴と喜び楽しみは余りある。五行の悪は、地気が堅牢でなく、堅牢でないとはすなわち身弱のことである。身弱はすなわち財官に勝たず、貧賎で心配事がつきない。
 いろいろな書が引用されて、整理がついていないように思います。訳もまとまりを欠いていますが・・・。
 財官双美格または禄馬同郷格というのは、壬午か癸巳日生まれで日主が強い場合をいいます。財官食傷を喜び、極端に身旺になる運や支冲を忌みます。貴命よりも富命になりやすいとされます。
 私は、このような格を独立して考える必要はないように思います。



拱禄拱貴二格

 喜忌篇に云う、
 拱禄拱貴は填実すれば凶。
 補して曰く、
 禄というのは臨官の禄で、貴というのは官星の貴であって、天乙貴人の貴ではない。格解に又一説あり、拱禄は拱財星のことであり、拱貴は拱天乙貴人であると、これは誤りである。拱禄に五日あり、五禄にはみな財がない。どうして拱財といえるだろうか。拱貴に五日あり、四日は拱内にありまた合して天乙貴人を見るが、甲申日甲戌時は拱酉貴であるが、酉は丙丁の貴人であって、甲の貴人ではない。官星と貴人が挟む場合、挟まれたものはさらに微妙である。再度いうが、拱貴を天乙貴人を挟むとするのは間違いである。
 癸亥日と癸丑時の場合、あるいは癸丑日で癸亥時の場合、これは子を挟みその中に癸水の建禄がある。丁巳日丁未時は、午を挟みその中に丁火の建禄がある。己未日己巳時は、午を挟みその中に己土の建禄がある。戊辰日戊午時は、巳を挟みその中に戊土の建禄がある。この五日五時が拱禄格である。
 甲申日と甲戌時の場合、酉を挟みその中に辛金がありそれを官貴とする。甲寅日甲子時は、丑を挟みその中に辛金があり官貴とする。戊申日戊午時は、未を挟みその中に乙木があり官貴とする。乙未日乙酉時は、申を挟みその中に庚金があり官貴とする。辛丑日辛卯時は、寅を挟みその中に丙火があり官貴とする。この五日五時が拱貴格である。
 この二格が純粋であれば大貴である。身旺印綬傷官食神を喜び、日時を刑冲してしまうのを忌む。また四柱に日干を傷つける七殺があるのを恐れる。これらはみな禄や貴を挟んでいられない。また四柱に禄や貴を見るのを恐れる。これを填実すなわち凶というのである。けだしこの二格は、挟まれたものがないのがよいのである。ちょうど器が空であれば物を容れられる状態であるが、器に物があればもはや物を容れることはできない、というようなものである。それゆえ填実は凶というのである。また禄貴が空亡になっているのを忌む。
 [ショ][コ]天にいう、
 甲寅甲子丑貴があり、戊辰戊午禄が中にある。刑冲填実空亡に遇うのは、災いや心配事があり、官に当たってはならない。官が透干しなければ栄えることができる。青雲に道あって名を揚げ、定めて権柄三公の位、衣は紫、腰には金を下げ、聖王に拝する。
 最後の方の句は単に高い地位を得るということでしょう。
 質問、三車ですでに云う、傷官食神を喜ぶと。古歌にまた曰く、傷官が月支にあるのを恐れと。これはどういうことか。格解はこの二説を収めているといっても、その喜忌の同じでない理由を言っていない。およそ財印あれば、すなわち傷官食神が喜神となる。景鑑に云う、財印なければ傷官を喜ばずとは、まさにこのことである。
 格解に云う、癸酉日癸亥時は、また戌の中の戊土を貴とする。註に言及しないのはなぜか。
 補して曰く、言及していないのは、蓋し癸酉日は甲子旬中にかかり、甲子旬は戌亥を空亡とする。すでに空亡となっているため、貴人を挟んでも役に立たない。それでこの日時は拱貴ととらない。およそ子平で拱禄拱貴というのは、最も天中殺を忌む。天中殺とはすなわち空亡である。走貴人の説というのがあり、それはこの日時であり、拱貴とはならないのは、疑いない。
 拱禄格、拱貴格については、張楠はあるともないとも明言していません。が、ニュアンスからはありうるとの立場でしょう。ただ重視しているふうではありません。私としては、これまで何度も述べてますが、顕れていないものをとって格とするのは、どうも納得いきません。が、実占上はたまにこれしかないということもあるので、まあ覚えておいて損はないかもしれません。



日禄帰時格

 喜忌篇に云う、
 日禄帰時で官星がないのは、青雲得路という。
 旧註に曰く、この論は帰禄格で、四柱に一点の官星もないことを要するとは、まさにこの格のことで、青雲得路というのは、日干が生旺であることを要することである。そして食神傷官運に行けば、発福する。ただし帰禄格は次の6つの状態を忌む。一つは刑冲、2つめは合、三つ目は倒食、四つ目は官星、五つ目は日月の干が同じ、六つ目は日年の干が同じ。もしこの6つの状態であるなら、貴であるとはいえない。もし時支に禄があれば、年月支にまた禄があるのは、聚福帰禄といい、大いに貴である。例えば、甲子、丙子、癸丑、壬子、これは張都統の命であるが、すなわち子が多く聚福帰禄であるとする。
 四言独歩に云う、
 日禄が時にあれば青雲得路、月令が財官ならば、これに遇えば吉助とする。
 補して曰く、
 日禄が時にあるとは、蓋し甲乙の禄である寅卯が時柱にあることをいい、丙丁日ならば巳午が時柱に、戊己日ならば巳午が時柱に、庚辛日ならば申酉が時柱に、壬癸日であれば亥子が時柱にあることをいう。命式中に一点の官星もなければ、科甲に合格し、仕官の道が開ける。故に曰く、青雲得路。もし月令に財官があれば、ただ財官を論ずればよく、また財官双美格といってもよい。禄が時にあれば、禄は身旺を助け、この財官に勝つことができる。故に吉助という。これは財官に対して助けることをいうのであって、財官が禄を助けるわけではない。すでに、官星を見るのを忌むと言っているのだから、どうして官が禄を助けることがあろうか。
 三車一覧を見て云う、
 帰禄にはただ7日しかない。乙日己卯時、これは偏財格である。丙日癸巳時、これは官星があらわれている。辛日丁酉時、これは時上偏官格である。この三日は帰禄格になり、月令に財官があれば、ただの財官格として論ずる。すなわち吉助とは禄が財官を助けることをいうのであることは明らかである。ある人はこれがわからず、月令財官を改め、月令財神として意味をとろうとしているが、これは間違いである。格解は旧書の財官は真に正しいとしている。
 纂要に云う、
 禄あれば最も恐れるのは官星が来たときである。
 元理賦に云う、
 日禄帰時、財を見ればすなわち清高富貴。
 四言独歩に云う、
 庚日申時は、財が透干して帰禄となり名利高強。比肩は福を奪う。
 補して曰く、
 例えば庚日甲申時ならば、干禄は申にあり、時干に甲木が透出しているとき財星とする。一般的にいう年月二干ではない、もしこれが科挙試験に合格し功名があきらかになるのであれば、これは簡単に成立する。そのため(試験に合格などといわず)名利高強というのである。もし年月干が庚であれば比肩であり、年月干が日干と同じという忌を犯すことになり、必ず財は分けられ禄は減じられる。よって福を奪うというのである。
 古歌に云う、
 福禄財に逢うは名利全し、干頭は財源を透るのを忌まず、身強は破れずを平生好み、大いに比肩行き来たって遇うを恐れる。
 また曰く、
 青雲得路は日禄帰時で、元命がこれに逢うのは貴にして奇、四柱に冲なく官が至らなければ、若くして雲梯を歩いて上る。
 また曰く、
 日禄が時に居るのは最良、官を恐れ殺を嫌い身強を喜ぶ、もし比肩をみれば禄を分劫し、刑冲破害は最も当たり難し。
 また曰く、
 甲が寅宮に坐して虎の郷を見るのは、禄星が合に逢えば多くは栄える。行運中に庚辛酉をみれば、官星が露出し災いが起きる。
 また曰く、
 時帰日禄で禄が興隆すれば、切に官星が混在することを忌む、干頭が合を帯び支が破を帯びれば、若くしてひとり落ちぶれることになる。
 [ショ][コ]天にいう、
 甲乙日が寅卯時に逢うのは、日干帰禄で福あい従い、財が多く強ければ名声が顕れる。死絶休囚は信に期あり。国を安泰にし周辺の国を平定する、青雲に路あり天梯に上り、金歩玉に登って恩寵を受ける。雁塔には名をあげ鳳池に到る。
 「死絶休囚信有期」とはそれを過ぎるのを待つということでしょうか?
 後半は高位に昇るということをいろいろな言葉で並べたものです。
 古賦に云う、
 日禄帰時は、貴重く人の敬するところとなる。この部分、女命は財を見るのがよいとする。
 捷馳千里馬に云う、
 女命で傷官帰禄は、これに逢えば非常に吉である。
 通常は省略して帰禄格ということが多いです。とくに解説の必要はないと思います。



四位純全格

 補して曰く、
 子午卯酉の四位がすべてあるのは、おもに男女酒食に昏迷するといっても、男の場合はまだ吉といえるが、女命では結局凶である。それで男は興衰を犯し、女は孤独を犯すというのである。
 寅申巳亥がすべてあるのは、四孟格といい、男命がこれを得れば、主には大富貴で、それで寅申巳亥は位三公に至るというのである。女命がこれを得れば、主には心不定、ゆえに寅申を互いに見るのは狂蕩、巳亥が相向かうのは心不正というのである。
 辰戌丑未がすべてあるのは四庫といい、男命がこれを得れば、九五の尊とする。それで辰戌丑未がすべてあるのは、順行すれば帝王となるのは疑いなしとする。女命がこれを得れば美とはせず。それで冠帯互いに逢うのは、きっと醜いうわさになるとする。
 九五の尊とは易経の乾為天の九五爻の爻辞に示す内容です。
 冠帯互いに逢うというのは、辰戌丑未がそろうことです。
 洪範に云う、
 寅申巳亥を重ねて見るのは、聡明生発の心があり、子午卯酉重ねて逢うのは、酒食荒淫の志をもち、辰戌丑未を全て備えるのは、すなわち財庫富貴の尊である。ただし以上は男命の場合である。
 淵源に云う、
 寅申巳亥がすべてあれば、孤淫でお腹が大きく、子午が卯酉に逢うのは、きっと人に随って行き、辰戌と丑未があれば、女性の道に外れることをする。以上は女命である。
 この格は男女差別が著しいですね。まあ社会が女性に対して厳しかったときの話で、現代はこれをそのまま応用はできません。もっともこの格に適合したからといって、この通りにはなりません。結構普通に見られる格です。



天元一気格

 四言独歩に云う、
 天元一気は、地物相同、人命これを得れば、位は三公に列する。
 旧註解に云う、
 例えば周益公の命、庚辰、庚辰、庚辰、庚辰、これはこの格に会う。また4つの己巳、4つの戊午、4つの乙酉、4つの丙申、4つの丁未、4つの壬寅、4つの癸亥をいう。ただ4つの辛卯だけは貧乏で夭折の命である。その他はみな貴である。また4つの甲戌はまた主に家を破るが、本人は聡明であり、火運にいけばまあよいが、大器とならずに終わる。
 どうして辛卯や甲戌がよくないのかはここには説明がありません。



天干順食格、地支拱夾格、両干不雑格、一気生成格

 古歌に云う、
 富貴は天干順食で奇となし、地支拱夾は知る人は少なく、両干不雑はまだだいたい貴であり、一気生成は世の中では稀である。
 旧纂要註解に曰く、
 例えば脱脱(何某の意味?)丞相の命、壬辰、甲辰、丙戌、戊戌。丙の食は戊、しかして辰戌には戊土があり、みな食神である。さらに壬は甲を食とし、甲の食は丙、丙の食は戊、これを天干順食格という。
 例えば帖木遠太師の命、甲寅、戊辰、丙午、丙申。寅辰は卯の字を挟み、辰午は巳の字を挟み、午申は未の字を挟む。これを地支拱夾格とする。
 例えば葉丞相の命、庚寅、戊寅、庚寅、戊寅。これを両干不雑という。
 例えば火午赤国公の命、癸亥、癸亥、癸丑、癸丑。これを一気生成格という。
 補して曰く、
 纂要の日時は、もともとは癸丑であって、格解に癸亥と改められているがそれは間違いである。だいたい年月が同じ癸亥であり、日時が同じ癸丑であっても干支はみな北方水郷であり、秀気は不雑である。ゆえに一気生成というのである。もし干支がすべて癸亥であれば天元一気である。二格は大同小異か。そうではなくて、すでに先の文で天元一気を説明したので、どうしてここでまた繰り返す必要があろうか。
 また補して曰く、
 諸五星指南を考えると、両干不雑格というのは、すなわち連珠格である。ゆえにまた両干連珠格というのは、甲子年乙亥月甲子日乙丑時をみればそれである。王侍郎の命、庚辰、辛巳、庚辰、辛巳もそれである。
 独歩に云う、
 八字連珠とは二神を用いるのをいう。これを二神ではなく支神というのは誤りである。
 ここは、4つの格をただ説明しているだけですが、例としてあげているのが高位の人ばかりなので、この4つの格も貴命だということを言いたいのではないかと思います。



三合聚集格

 指南旧註に曰く、
 ある干が三位を帯びるか、支神が三位を帯びるか、納音が三位を帯びるか、それらをみな三合聚集という。例えば乙丑年乙酉月丁巳日乙巳時は、3つの乙があり、これを干三合という。また丙寅年庚寅月戊寅日戊午時は、3つの寅があるが、これを支三合という。また例えば辛卯年木、庚寅月木、丙戌日土、己亥時木、3つの納音木があるが、これを納音三合という。蓋し一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じるとする。数が満ちるという意味である。
 この二格を考えると、四柱用神喜忌はどうかということを見なければならず、喜に値すればすなわち福、忌に値すればすなわち禍、さらに制化がどうなのかを見なければならない。
 この二格が何を指すのかがはっきりしません。しかし、最後の文は、要は喜忌制化を見なければ最終判断は下せないよ、ということで、格としては意味がないと言っているようです。



福徳格

 統宗にいう、
 陰土に三あり。己巳、己丑、己酉がそれである。四柱に丙丁寅午戌を見なければ貴である。大運年運も皆同じ。もし巳酉丑の三合金局を得れば最も貴である。もし行運で寅午戌を見れば、官を辞し財を失い、問題は免れない。刑冲破害を忌む。
 詩に曰く、
 陰土が蛇、酉、牛に逢うのは、名を福徳といい、貔貅(豹に似た伝説の猛獣)と号する、秀気は火が来たれば剋破を侵す、すべからく名利は一時休むと教えるべし。
 陰火に三日あり。丁巳、丁酉、丁丑がそれである。四柱に財官が旺じるのをみれば位は貴である。冲をみてはいけない。もし行運で卯をみるような場合である。酉と合する支干がないのはよくない。まさに財は減じ官を降りる。例えば辰と酉の合、申と巳の合がそれである。
 詩に曰く、
 陰火が巳酉丑に臨むのは、酉月に生まれれば寿命は長くはなりにくい、さらに名利多くの成敗(成功と失敗)を兼ねる、破耗荒淫禄は不昌。
 陰水に三日あり、癸巳、癸酉、癸丑がそれである。これはすなわち飛天禄馬と同じである。巳月に生まれれば、名づけて月臨風という。丑遥巳の戊土が官星であったば、かりに巳の字が填実すれば、成敗は多い。例えていえば、物がいっぱい入った器であり、空の器でなければ受けられない。
 詩に曰く、
 癸巳癸酉月臨風、名や物は遅延し作事は空、名利生成は望み有り難く、初めて成敗を知り苦労あわただしい。
 陰金、辛巳、辛酉、辛丑がそれである。四柱に丁火が旺じる位があって、寅午戌に及ぶと、普段から衣禄は貧しく少ない。もし巳酉丑の三合があればよいが、丙丁に遇えばすなわち官星とする。行運も同様。寅については、かえって吉とする。天乙貴人であるからである。
 詩に曰く、
 辛巳鶏牛の3つの位が連なるのは、金局とし禄貴は全し。もし丁火寅午戌に遇えば、平生から衣禄ともに苦しむ。
 陰木に三日あり、乙巳、乙酉、乙丑がそれである。六月生まれはよくない。他の月はみな別の格で判断する。だいたい六月未月はすなわち木の墓庫である。乙干は木に属して、地支が金旺とということは、金が木と剋すことができるということで下剋上であり不吉である。
 詩に曰く、
 陰木が丑酉蛇に臨み加わるのは、六月に生まれるのは何たることか、官となり禄を得ても長くない、たとえ文章がうまくても誇るに足りず。
 淵源にいう、
 八月生まれの人は寿短いというのは、後に六月ともに通ずると改められた。参考までに。
 福徳格、あるいは福徳秀気格とされています。なぜ巳酉丑なのか、亥卯未とか申子辰でないのかは不思議なところです。



訳者のあとがき

 以上で「命理正宗」の格局解説の訳を終わります。
 ずいぶん長い時間がかかりましたし、訳自体もつたないものですが、少しは参考になったでしょうか。私自身は、訳すことでいい勉強になりました。
 本文中の命式例は省略しましたが、これは命式例集として別にまとめていますので、そちらを参考にしてください。
 最近の推命学では、命式用神の喜忌を重視して正格のみ採用し、雑格は重視しないというか全く無視することが多いです。それはそれでいいと思いますし、私もその立場なのですが、雑格を訳してきてみて、何となくこの雑多な格局に少し愛着もわいてきています。命式中にない支をもってきて格としてみたりするのは、それはないだろうと思うのですが、それもまた四柱推命の見方であり歴史なのであって、実占家(あるいは鑑定家)ではなく愛好家である私には面白く感じられるのです。
 そのうち以上の格局を整理して目次としてアップする予定です。