七政占星術~番外編


 このページでは七政占星術番外編として、七政四餘占星術の諸問題について考察したいと思います。


 -このページの目次-
   1.羅[ゴウ]と計都について
   2.觜参二宿前後説
   3.昔の星曜の位置について
   4.あらためて紫気の位置について
   5.大限宮に入る年齢について




1.羅[ゴウ]と計都について

 羅[ゴウ]と計都は月の昇交点と降交点を示すものですが、実は時代によって入れ替わっていたり、また月の遠地点(これは四餘では月孛にあたります)と取り違えていたりしたことがあるということが、『古今七政五餘析義』(郭中豪著)に書かれています。これについては、すでに基礎のところで少しばかり記載しましたが、あらためてこの問題を考えてみることにしましょう。

 最初に羅[ゴウ]の[ゴウ]について。[ゴウ]は日へんに侯という字です。口へん(喉)ではありませんし、目へんでもありません。もともと太陽に関する字で日へんが正しい、と誰かに言われたか、本で読んだかしたのですが、記憶だけで確証がないのでなんともいえません。ただ、私の記憶では妙に納得した記憶があります。また、かたくなに日へんで押し通している人(出版社)もあります。
 しかし、これ以外にこの文字は使われないので、活字もなく、今はどちらかの文字が使われるようです。私はひねくれものなので、自身のHPではあえて[ゴウ]とカタカナで記しています。
 とある人から、羅[ゴウ]の[ゴウ]は日へんではなく目へんであるというご指摘をいただきました。確かに[ゴウ]を目へんで記載しているものもありますし、そもそも一般に使われている文字セット(JISとかutf-8とか)には目へんや口へんはありますが、日へんはありません。よってウェブサイトなどで漢字で記述する場合には目へんか口へんを使わざるを得ないことになります。ただ、私の手持ちの書には(活字で)日へんで書かれているものも複数あって、目へんでなければならないとか、日へんでなければならないとか、断定的に言うのはちょっと躊躇するところです。(私も多少断定的に書いたのは反省です)
 そもそも羅[ゴウ]は「Rahu」に対する当て字なのであり、字体にこだわること自体にあまり意味がないようにも思えます。古文書をひもとけば何らかの解答は得られるのかもしれませんが、私は研究者ではなく単なる愛好家なのであり、別に字体がどうであれ占いができればいいので、このことについてはここまでとしておきます。
 また、羅[コウ]とふりがなをふっている書もありますが、もともと日本では「らご」と呼ばれていたと記憶していた(はっきりしないが)ので、羅[ゴウ]と記載しています。なお『暦と時の事典』(内田正男著)も「らごう」とふりがなをふっています。

 羅[ゴウ]、計都はインド天文学の名称からの由来とされています。それぞれ"Rahu"、"Ketu"で、元はサンスクリット語だそうで、羅[ゴウ]は月の降交点、計都は月の昇交点であり、また羅[ゴウ]は竜頭、計都は竜尾ともよばれます、という説明が『暦と時の事典』にあります。
 ここで、ちょっと天文学的な説明をしますと、月の交点というのは、太陽の天球上の軌道である黄道と月の天球上の軌道である白道が交わる点のことをいいます。交点のうち、昇交点は白道上の月が黄道を南側から北側に通過する場合をいい、逆に北から南へ通過する交点を降交点といいます。これは北半球の人には昇っていくように見えるということで昇ということにしたのでしょうが、南半球の人にはちょっと心外でしょうね。
 で、白道と黄道の交点ということは太陽と月の軌道の交わるところですから、この付近に太陽と月があると日食(皆既もしくは部分)になります。逆の見方をすれば、羅[ゴウ]計都が太陽と月に近づけば日食が起きるわけで、日食をもたらすものといえるわけです。

 西洋占星術においては、それぞれノースノードあるいはドラゴンヘッド、サウスノードあるいはドラゴンテイルとよばれているようです。今のは『占星術バイブル』(J・ホール著)による説明ですが、流智明師の『占星学教本』ではサウスノードがドラゴンヘッド、ノースノードがドラゴンテイルとなっており、逆になっています。いろいろとHPとかみてみると、一般的には前者のようですが、西洋占星術の世界でも混乱しているということでしょうかねえ?
 では、昇交点のどちらがドラゴンヘッドあるいは羅[ゴウ]なのか?
 Wikipediaによると、昇交点はノースノードとあります。すなわちドラゴンヘッドが昇交点になります。ドラゴンヘッドは漢字に置き換えると竜頭となりますが、先にあげた『暦と時の事典』の説明とは逆になってしまいます。さてさて、これは困りましたね。……
 『暦と時の事典』をよく読むと、羅[ゴウ]を竜頭、降交点といったのは渋川春海(2012年公開の映画「天地明察」の主人公。私も初日に映画を見ました)だそうです。さらに羅[ゴウ]は蝕頭神、計都は蝕尾神とも呼ばれるとあります。とすると、これは竜頭とドラゴンヘッドとは全く別物であるか、それとも、もともと中国の文献が混乱していたのか、渋川春海が間違って紹介したのか、いずれかでしょう。
 Wikipediaで羅[ゴウ]計都を見ると、羅[ゴウ]が昇交点、計都が降交点とあります。また異説があるとも紹介されています。これではますます混乱しますね。

 ここで、再び『古今七政五餘析義』(武陵出版刊)をひもといてみましょう。この書の30ページに書かれていることを要約すると、「開元占経の九執暦には、羅[ゴウ]は阿修または蝕神と呼ばれていて、顕慶二年(657年)初一日には五相24度40分にあるとしている。白羊座0度ををゼロとすると、五相24度40分は黄経174.7度になる。ところが、(現代天文学による計算から)この日の昇交点は176度であり、これはまさに羅[ゴウ]が白道の昇交点、いわゆる月のノースノードである(ことを物語っている)」ということです。ややこしいですが、要するに、唐代の『開元占経』では羅[ゴウ]は昇交点とされていて、後世のどこかの時点で羅[ゴウ]と計都が入れ替わったと言っています。

 ひるがえって、我々(というか私)の目的は、七政四餘占星術をマスターすることであって、何も文献学的な変遷を追究することが目的ではありませんから、七政四餘の書が何を羅[ゴウ]、計都としていたのかを知ればいいわけです。それは、天文計算から得られる昇交点(黄道、白道はほぼ円なので反対側が降交点になります)が何を指しているのかを調べてみればいいわけです。
 幸い『古天文学』(斉藤国治著)には昇交点黄経の計算式がありますからそれを使います。ちなみに、月の黄経には摂動項を加える必要がありますが、せいぜい2度ですから(おおむね1度以内)、それほど影響はないでしょう。
 その式は
  33.272936-1934.144694*J+0.00208028*J^2+0.00000208333*J^3
  J=(JD-2378496)/36525
で与えられます。
 まず、『鄭氏星案』の例をみますと、昇交点が計都、降交点が羅[ゴウ]となっています。この書は14世紀明代に著されたとされますから、このころは計都が昇交点となっていたのは間違いないでしょう。
 次に『星命説証』の例をみますと、これも昇交点が計都、降交点が羅[ゴウ]となっています。この書は清代の書で、明清の時代はこう認識されていたといえます。
 ここで、古書ではなく、現代の七政書は、羅[ゴウ]計都を何と書いているのでしょうか?
 私が参考にしている『七政四餘推命全書』には、羅[ゴウ]は「北方交点」と書いてあり、また計都は「南方交点」で、あきらかに昇交点を羅[ゴウ]と記載しています。また、日本の『七政四余』も羅[ゴウ]はさらっと「白道の昇交点」と記しています。
 ただし、まだ羅[ゴウ]は「南交点」であるとする占星家も多くいます。これは、七政四餘の事例集『鄭氏星案』が昇交点を計都としているためです。『鄭氏星案』は『張果星宗』に依拠して推命を行っており、『鄭氏星案』の推命の妥当性を評価できるなら、『張果星宗』も当然計都を昇交点にしていると判断されるということになるでしょう。ちょっと説明がややこしい(というか下手)ですが、これはこれで理屈が通っていると思います。
 しかし『張果星宗』で示す羅[ゴウ]計都が各々降交点、昇交点であるということは、原典にはどこにも書いていません。また『星平会海』にもそのことは明確にされていません。はたしてどうやって判断すればいいのでしょうか?

 実は、占星家の間でもこの問題の論争はまだ続いていて決着は出ていません。そこに私が割って入って結論を出せるほど知識も経験も技量もありませんから、ここでは結論めいたことを言うことはできません。一応このHPでは、現在一般的である羅[ゴウ]を昇交点、計都を降交点としています。
 「羅[ゴウ]と計都を入れ替えてみて判断してみればどちらが正しいかわかるのではないか?」という人がいそうですが、看命は羅[ゴウ]計都のみで行うわけではなく多くの星曜で判断するわけですから、羅[ゴウ]計都の影響はそう大きくありません。しかも、羅[ゴウ]は火の餘、計都は土の餘であり、火と土というのは似たところがありますからなかなか判断に差がつけにくいです。他の星の配置がほとんど同じで、羅[ゴウ]計都だけが違うというような命が集まらないと結論できないのではないかと考えます。とすれば、事例によって判断するというのは事実上不可能といっていいのではないでしょうか?
 いずれにせよ、今後の研究を待ちたいと思います。(私が生きている間に結論が出るとは思われませんが…)




2.觜参二宿前後説

 「觜参二宿前後説」というのは、『河洛精薀』(江慎修著)に書かれていることです。そこで書かれていることをおおざっぱにいえば、「昔の星座で二十八宿をあらためて計測してみると、本来觜宿が参宿の前にくるべきであるところが逆になっていることがわかり、参宿の星座の基準となる星を乾隆18年(1753年)に改定して、觜宿が参宿の前になるようにした」 ということです。
 これはこれでめでたしめでたし、ということになるのですが、個人的にはこの問題に興味があって少し調べたことがあるので、その話をここでしたいと思います。まあ豆知識というか雑学というか。

 まずはなぜ觜宿を参宿の前におかなければならないかということです。すでに基礎編で述べたように二十八宿は東西南北の4つに分類され、觜宿参宿は西方七宿に属します。またそれぞれの宿には星曜が充てられていて(度主)、觜宿には火星、参宿には水星が充てられています。西方七宿は奎婁胃昴畢觜参の順で、度主を並べると木金土日月火水という順になります。では他の方角の七宿の度主の順序はといえばやはり木金土日月火水という順になります。したがって、実際の基準となる星が参宿が前だからといって、参宿を前にするわけにはいかないわけです。西方だけ木金土日月水火となるのはそれまでの理論構成を全面的に変更することになり、やっぱり具合が悪い。そこで考えられたのが二十八宿の基準星の変更というわけです。
 この各宿の基準の星を「距星」といい、各宿の最も西の星を指します。觜宿の距星は觜距星、参宿の距星は参距星と呼ばれ、その各距星の間の距離(度)がその宿の広がりになります。ちなみに觜宿の広がりは黄経にして1.1度であり、最小の広さです。なお、中国はもともと赤道座標系を使っていましたから、赤経でみると、やはり参距星の方が前であり、広がりは赤経では0.8度です。ただし、占星術では黄道座標系を用いています。
 では、觜距星と参距星はいったいどの星なのでしょうか?中国の科学史の大家、薮内清先生によれば、觜距星はオリオン座λ星、参距星はオリオン座δ星にあたるとしています(『中国の科学』)。ただし、それよりも暗いオリオン座φ1星を觜距星としている書(例えば『古天文学』)もありこれも有力です。(基礎編ではφ1を距星としました)
 恒星表を見ると、2000年分点で、オリオン座λ星は赤経5h35m8s(83.8度)、赤緯+9°56'3'' オリオン座δ星はは赤経5h32m0s(83.0度)、赤緯-0°17'57'' です。本来なら参距星は觜距星の後ですから、赤経はδ星の方が大きくならなければなりません。つまりはこの距星では逆転しているわけです。
 では、今からおよそ2000年前、中国では漢代ですでに二十八宿は固まっていましたが、そのとき、例えば紀元前1年(西暦ゼロ年に当たりますが、西暦ゼロ年はありません)ではそれらの距星の位置はどこだったのか?計算してみると、λ星の赤経は56.8度、δ星は57.9度となり、觜宿は参宿よりも前にあり、赤経で1.1度の広がりとなります。これは当時の二十八宿の記述とほぼ合っていて、この同定はほぼ間違いないと思います。
 しかし現在では順序が逆転しているわけで、それで清代に距星の変更を行ったわけです。しかも距星の変更を行ったのは、なんと中国人ではなくドイツ人です。そのあたりの経緯については、『中国の星座の歴史』(大崎正次著)に書かれていますが、そのときに参宿の距星をオリオン座ζ星としています。この星の2000年分点の位置は赤経5h40m46s(85.2度)、赤緯-1°56'34''です。これならばλ星やφ1星よりも後になります。しかし、二十八宿の順序を守るために距星をそう易々と変えていいものかどうかは、喧々囂々の議論があったわけですが、結局距星を変えるということで決着しました。
 このこと一つみても、まず理があって(すなわち觜は参より前にあるべきという理屈)、現実を理に合わせるのが正しいというのが中国の思想というか考え方なのだなと感じます。

PS なお、明の時代には、参宿を觜宿の前に置くという改定が行われました。しかし守旧派(旧法派)が認めなかった、という経緯があります。それもあって清代に距星の変更ということで妥協を図ったのです。




3.昔の星曜の位置について

 勉強のために、昔の星図(例えば『鄭氏星案』など)をひもとくことがあります。その際、『古天文学』の計算式を利用して星曜の位置を計算します。ほとんどの星曜はまあまあの正確さで位置が得られるのですが、いくつかの星曜は時折位置がずれることがあります。
 数度の誤差があるのはいくつか理由がありますが、ひとつは中国の昔の経度の取り方が現在の取り方と異なっていることにあります。とくに黄経(黄道座標系)については、いまの取り方とかなり違うので、計算してみると5~6度違うこともあります。詳細は『中国の科学』(薮内清編著)や『中国占星術の世界』(橋本敬造著)を参照してください。 その他、二十八宿の配置を昔のままにしていることも考えられます。これは暦法の改定がなされなかったせいかもしれません。ただしここはよく調べていません。

 ところが、それでも説明できないぐらい大きな差が時折見かけられます。それは主に水星と羅[ゴウ]計都です。
 羅[ゴウ]計都は、白道の交点であることは前に書きましが、昔の暦法ではどうやら正確に計算できていなかったようです。そのあたりは、学術的ではないですが、小説もしくは映画『天地明察』をご覧ください。というのは、白道の交点というのは目にみえる星ではないので、計算で出すしかなく、なかなか精度があがらないという事情があります。
 羅[ゴウ]計都は四餘ですから比較的影響は少ないですが、問題は水星です。水星は七政で水をつかさどる重要な星です。したがってその位置が正しくないと誤った判断を下すことになりかねません。もちろん他の星曜があるので、大きく判断を間違うということはないのかもしれませんが…。

 水星についても調べたり考えたりしてみました。
 水星は太陽に最も近い内惑星です。地球から見れば、太陽から大きく離れることはありません。たとえば太陽と反対の方角に見えるということはありません。したがって、目で見える時間というのはそう長くはなくて、夜明け前もしくは日没後しか見ることができません。また太陽に近いと位置が把握できません。
 また内惑星ということで、天球上の軌道はかなり複雑です。例えば、2013年の場合、2月下旬~3月下旬、7月上旬~7月下旬、10月下旬~11月中旬 の3回逆行します。その軌跡もループを描いたり、折れ曲がったりでなかなか予測のつかない動きです。ただし、現在は天文学の発達で水星の位置がかなり正確にわかるようになりました。
 では、昔はどういうふうに求めていたのでしょうか?ここでは水星についてのみ調べてみます。
 まず、『星平会海』には、水星の行度(進む速さ)について、「水星一日に一度半行き、或いは五日に七度行く。一月に一宮を過ぎ、毎月の行度は同じからず」とあります。で、『星平会海』では水星の行度についてはこれ以上の説明はありません。あとは観測しろということなのか、それとも別冊付録でもあったのか?具体的な星図の作り方については解説が全くありません。
 『張果星宗』はどうでしょうか。水星の行度(進み具合)について、「順或一日行一度、大約一月一宮、一年一周転」とありますが、ただし「有遅留伏逆、晨夕次見之」とあります。つまりよく観察しろということです。といっても、日の出前か日没後かにしか観測できませんし、もし太陽に近ければ全く見ることができません。したがって観測といっても、毎日根気よく見なければ、水星の位置を観測で知ることはできません。
 また別に、「春に奎婁を見て、夏に東井を見、秋に角亢を見、冬に牽牛を見る」とあります。これは水星がおおむね太陽の方角にあることから言われることですが、これもまたおおざっぱではあります。春に太陽は奎婁の方角にありますが、もし水星が太陽と離れていれば、そういう位置には見えません。
 「辰星算法」には、比較的細かな計算が示されています。ここでは細かな説明は省きますが、おそらく当時の暦法によるものでしょう。およその方法を述べると、基準日をおき、太陽と重なる日数と行度、順行の日数と行度、速度が落ちる日数と行度、逆行の日数と行度などを加えていき、水星の位置を見出す方法です。計算間違いをするとすぐに実際の角度とずれが生じる方法です。

 以上、星曜の位置について考えてみました。座標系の違いや観測の困難さあるいは計算間違いで、古い星図を見るときには注意が必要です。
 実際に今のような座標系での精密な水星の位置がわかるようになるのは、明代末に西洋天文学が中国に導入されてから以降のことになります。




4.あらためて紫気の位置について

 紫気については実際の天体だったり天文現象ではなく、仮想上のものだという話はすでにしました。また計算式も挙げました。ただし、ちょっと計算式に疑問が出てきたので、あらためてここで考えてみようと思います。したがって、これから述べる結論は、かつて私がHPに書いた結論と異なります。で、かつて書いたものを修正することになりますが、それの点は深くお詫びします。勉強が進んだうえでの結論ということでご容赦ください。
 なお、以下に天文用語(太陽年とか朔望月とか)が出てきますが、それはWikipedia等で調べてください。それらの意味は割愛します。
 また、大数(ユリウス通日)を扱うので不必要に桁数が多いですが、それもご勘弁を。

 まずは、『古今七政五餘析義』をひもといてみます。
 この書では、まず暦法家の多くが十閏(閏月を10回置く期間)を紫気の周期とからめているが、それはおかしいのではないか、と述べています。
 そして十閏の説明については、著作の数多い鐘義明師の紫気計算方法を説明しています。祖沖の書に「紫気は閏月を起点として、10閏の期間を1周する。紫気の周期は月の満ち欠けに二を加えて求める。閏を10日として、その行度を12度とし10回の閏で12宮を回る。」とあります。これを現在の天文定数で示すと、
  一朔望月:29.5305…日 一太陽年:365.2421…日 一太陽年/12:30.4368…日
  太陽年/12-一朔望月=0.9062…日  1年間の差は12倍して 10.8751…日
  この差を埋めるには、30.4368…/10.8751…=2.7987…年毎に閏月を置けばよい
  この期間の10倍は 27.9875…年 であり、これを紫気の周期と置く。
  19年に7回の閏月を置くという暦法をとれば、
  19/7=2.7714…年(原文のまま、19/7は2.7142…です)   に一度であるから、10倍すると27.7142…年となる。
  紫気は28年で一周するというのは、だいたい合っているといえる。
 以上は鐘義明師の引用の翻訳ですので原文がどうかはわかりませんが、計算とか考え方は間違っています。それについては後述します。

 さて、著者の郭中豪師は、紫気の作られた考えについて次の二つの可能性があるとしています。
 一つは、二十八宿および恒星月との関係。恒星月とは月が天球上を一周する周期で27.33日です。月が毎日二十八宿をめぐるというのが紫気を考える発端となったのではないか。もう一つは、古人はすでに二十八宿で月日を表す習慣があり(今は一般的ではないが)、二十八宿を年に当てはめる方法があったのではないか、としています。すなわち、紫気は月と二十八宿に関係が深いのではないかとの考えです。
 次に、紫気の開始日はいつなのか。
 郭中豪師はそれを『星学大成』の記述をたどっています。細かい話は省略しますが、『星学大成』が書かれたのは1563年で、それより465年前には紫気があったとわかるとしています。
 『星学大成』の記述には、紫気の起点は基準日より1288日前で、紫気は10228日で一周する、とあります。10228日は28年と約1日です。
 『星学大成』が書かれたのは1563年10月17日です。『清史稿』によると紫気は1743年12月22日(冬至)には、午宮17度50分14秒にあるとされています。それから計算すると、『星学大成』が書かれた日は亥宮11度35分30秒の位置に紫気があったと推定される、と郭師は述べています。
 それから縷々計算していくのですが、郭師の計算では1084年8月2日甲子年壬申月丙申日戊子日の立秋が子宮ゼロ度で、この日が紫気の開始日ではないかとしています。この日から896年後(28年×32回)の立秋をみてみると、1980年8月7日になりますが、王麗福著の『七政四餘星暦』では8月10日が子宮ゼロ度となっているそうで、その差はごくわずかとなります。

 以上が『古今七政五餘析義』に書かれている内容ですが、これはあくまで『星学大成』に拠った論です。すなわち、郭師は28年(二十八宿紀年法)で一周するという前提で説明し、その基準日を1084年の立秋日としています。
 基準日云々はさておき、周期については、二十八宿が1年に割り当てられていたと考えていたのか、28太陽年を周期としています。
 判田格師の『七政四余』には、『四餘見伏細草』『紫気月孛羅[ゴウ]計都』を精査した結果、紫気は28太陽年を周期とすると明言(断言)しています。申し訳ないのですが、私はその2書を見ていないので、何ともいえませんが。(何ともいえないとは、肯定的でも否定的でもありません)

 ところで、さきほどの鐘義明師のいうことを考え直してみます。
 閏月は、昔の置閏法である19年に7回閏年を置くという方法をとれば(でこれはそこそこ正確です)、32.5か月に1度です。すなわち、32か月か33か月目に閏月が来る計算となります。なお、今の閏月は二十四節気の中気によって決めています。詳細は旧暦の本を参照ください。
 太陽年基準(1年=365.2422日)での32か月をとってみると973.98日です。一朔望月の32か月は944.98日であり、その差は28日でまもなく1か月ずれることになります。1か月を超えるのは33か月目であり、太陽年では1004.42日、朔望月では974.51日でほぼ30日の差となります。ここで閏月を入れると、朔望月が34か月分となり1004.04日で、半日弱ずれますが、ほぼ一致します。33/12=2.75であり、閏月は約2.75年に一度置くべきだということになります。ただし、実際にはもう少し短い年数で閏を入れる必要がありますから、2.75年よりは少し小さくなります。実際に計算すると、2.715年になり、この10倍は27.15年ということになります。閏で計算するとこうなるはずで、鐘義明師の計算は少し変です。この計算だと紫気は一周を27年ちょっとで回ることになり、28年ではありません。
 ここでは、私は十閏の期間が紫気の周期ではないと言っているわけではありません。鐘師の計算がおかしいという指摘です。

 原典にあたっていないのですが、前の十閏の根拠となっている文章は次のようなものです。
 「紫気之起於閏月、十閏之期宜有一周天、命名紫気。取気盈朔虚之数而加二求之、為閏有十日、為其行者十二度也;為閏者十月、為其行者十二宮也。」
 始めの文は、紫気は閏月に入るときを起点として、十閏の期間で天球を一周するとあります。つまり11番目の閏月に入るときにもとに戻るというわけです。次の文の盈朔虚とは月の満ち欠けのことであり、その数に二を加えて紫気を求めるとしています。で、閏に十日あって、その行く者(すなわち紫気の進む度数)は十二度といっています。これはどういう意味でしょうか?
 一太陽年は365.2422日、一朔望月の12か月分は29.5305…×12=354.3671日で差は10.8748日となります。これが閏に十日有りということでしょう。この文の通りにいえば、紫気はこの日数の間に十二度進むというわけです。ただし、ここでいう一度とは、一周360度の1度ではなく太陽の進む度数だと思われます。
 ここで、しばらくの間、太陽の1日に進む角度を「度」、数学的な角度を「°」で表記することにします。
 太陽が一日に進む度数を一周360°に換算すると、一度は0.98565°になります。よって、紫気の進む度数は、12×0.98565=11.8278…、1年に11.8278°進むということになります。したがって紫気が天球を一周する年数は、360/11.8278=30.4368 約30.4年となり、これは28年で一周するという多くの記述とかなりの開きがあります。おそらくこの解釈は誤りでしょう。
 そうではなく、十日が十二度だと解釈すればどうでしょうか。太陽が十二度進むということはすなわち十二日ということですから、閏の十日を1.2倍するということになります。閏は実際には10.8748日だということは前に計算したとおりで、それを1.2倍すると13.0498日、360°換算すれば、0.98565倍して1年に12.8625°進むということになります。とすると、360/12.8625=27.9884 1周約27.988年となり、これは28年に近い数字となります。
 また、「二を加えて之を求む」というのに着目すれば、10.8748に2を加えて、12.8748日、それで周期を計算すると、約28.369年となります。まあこれも28年に近い数字です。
 しかし、この論法はなぜ「二を加える」のかがわかりません。つまり、28年というのが先にあって、何とか28年になるようつじつまを合わせたという感じはいなめないように思います。

 別の書をひもといてみましょう。私の持っている『天星選択秘旨』は七政択日の書ですが、その中に紫気の行度が書いてあります。その文を記すと、
 「紫気亦起箕初順行、毎旬行二十一分(日行二分六秒)、五旬則減一分、歳行十二度二十九分、二十八年一周天。
 天度二万一千六百分、二十八年合十閏、得一千零三十八旬、毎旬二十一分、当行二万一千七百九十八分、五旬減一分、転歉九分、宜一百一十五旬則少減一分、恰足二万一千六百分之数而周天。」
 これは明代乾隆29年甲申年に今法に改められたものとあります。
 まず天度21600分とあります。これは現在の分(360°、1°=60分)と同じです。また1旬は10日であることがわかります。紫気は10日に21分進み、1年では12°と29分すなわち749分、28年で21600分進むとあります。ところが、21600分を28で割れば771.43分となり、これは計算が合いません。ではどこを基準とすればいいのでしょう。
 その前に後半の意味をとってみると、28年は10閏に合い1038旬を得る。毎旬21分とすると21798分だが、5旬で1分減とすると21591分となり、残念ながら9分合わない。よってさらに115旬に1分を加えると(減らすのをやめると)ちょうど21600分となり1周天にぴったりである、ということです。ということは、紫気はちょうど1038旬で一周するということになります。これは、10380日ですから、28.4195太陽年となります。これからすると、一日の行度を基準として考えているような感じです。
 昔の本には紫気の行度は29年と書いたものもありますから、28.4年というのも間違いだと断定するわけにいかないでしょう。
 さてさて、混乱は増すばかりです。仮に28年を正とするなら、これは10226.78日ですから、1日の行度は2′と6.73秒です。日行2分6秒というのとおおむね合っています。10日では21.121′でこれだと5旬で1′減じる必要はありません。短い期間の誤差は長い時間をとれば、誤差は拡大しますので、長い期間を基準とした方が誤差は少なくてすみますから、28年1周天を基準にしたほうが間違いないような気がします。

 この文による周期の計算は以上ですが、それ以外に注目すべきは、箕宿初度が紫気の基準点となっていることです。もしこれが正しいなら、今までの考え方を若干変えなければなりません。基準点が箕宿初度というのは箕宿距星です。これは恒星です。太陽年というのは春分点を基準として考えているものですが、恒星が基準となると、恒星年で考える必要があります。一恒星年は365.25636日ですから、太陽年との差は0.01417日、28年だと0.39676日の差となります。ということは、周期は28太陽年より若干短いということになります。
 恒星年か太陽年かというのは、紫気というものがどういう根拠のものかということに関係すると思います。
 紫気は木星の餘気であるから、太陽系の星の配置に従うべきという考え方はあるでしょう。しかも、他の四餘(羅[ゴウ]計都月孛)を考えると、他はすべて太陽と月の現象なのであって、恒星基準ではありません。しかしながら、紫気が仮想的な天体であるならば、そうであるべきということも言えません。
 なお、念押ししますが、十二宮位は春分点を基準とするわけで、春分点とは地球の自転軸の垂直方向と黄道の交点ですから、地球の自転と公転だけを基準にしているわけです。恒星とは本質的に関係ありません。二十八宿基準というのは恒星ですから、これを基準に考えると、むしろ春分点の方が天球上の位置からずれていると言われるわけです。

 いろいろとぐだぐだ述べてきましたが、ここで周期の問題はとりあえず棚上げして、まあ28年周期と仮定したとき、どこに起点を置くのか、そうしたときに古書の紫気の位置と一致するのか、を調べてみたいと思います。なお、以降は昔の日付を使うと混乱しますので、ユリウス通日(JD)を使うことにします。ユリウス通日については、ネットや暦の本を参照してください。

 まずは『古今七政五餘析義』から。この書の結論は、1084年甲子年の立秋を子宮0度としています。この日の立秋はJD=2117202.24日です。また、この書によると「王麗福著の星暦で1980年8月10日が子宮0度となっている」ということで、先の基準日が(だいたい)正しいと主張しています。1980年8月10日のユリウス通日はJD=2444461.5(何時かわからないのでとりあえず小数点以下を0.5とした)ですので、この2点から計算すると、
  [紫気黄経]=mod(0.035201448×JD+291.42,360) :modは剰余を示す ①
ということになります。これは28.0002年で一周ということで、正確に28年といえます。これはまあ28年周期を前提にしているので当然ですが。
 仮に著者の主張するように、1980年の子宮0度が立秋の日だとしますと、ちょうど28年周期となるので、JDの係数は0.03520169となります。

 この①式と私の持っている本の星表を比べてみましょう。

 まず『七政四餘推命全書』の星表から。
 この本には1930年から1993年の星表があります。その表の紫気をみますと、1930年1月1日(JD=2425977.2)の紫気は戌9°ですわなち黄経9°、1993年12月30日(JD=2449351.2)の紫気は未22°(黄経112°)です。この2点から計算すると、
  [紫気黄経]=mod(0.035210062×JD+270.12,360)  ②
 この式では周期は27.9933年となり、これもほぼ28年周期となっています。
 では、この式②に1980年8月10日(JD=2444461.5)を代入しますと、299.8°でこれは丑29.8°でほぼ子0°です。すなわち、①式と②式は若干の誤差があるもののほぼ同じ式といえます。

 次に『七政占星奥義』(1996年版)という本ですが、この本の星表は1945年から1985年の40年間の表が載っています。いちばん新しい1985年の表を見てみると、紫気は3月20日に亥0°となっています。亥0°は黄経でいえば330°で、これは前の①式で計算したものと30°ほどずれています。「変だな」と思って、同日の太陽の位置をみると、亥0°(すなわち黄経330°)と書いてあります。3月20日は春分の日にきわめて近いため、黄経は0°となるはずで、これも明らかに30°ほどずれています。
 というわけで、この書の星表は独特の星表なのでそのままの数字は使えません。そのため太陽の位置を手がかりに表の数値を修正することにしました。この表には1945年から1985年までの表がありますので、はじめと終わりで計算します。
 1945年1月1日(JD=2431456.2)の欄を見ると、太陽は寅12°、紫気は巳24°となっています。この日の太陽の黄経は280°(丑10°)ですから、28°ずれています。よって、紫気も28°修正して読み取ると、辰22°で黄経は202°となります。
 次に1985年12月20日(JD=2446419.2)の表を見ると、太陽は卯29°、紫気は亥9°(10°に近い)です。太陽の黄経は268°ですから29°ずれていることになり、紫気は戌8°(黄経8°)となります。ただし、紫気は8°よりは9°に近いです。そこで、仮に8.8°としましょう。
 この2つの数字で計算すると、
  [紫気黄経]=mod(0.035206843×JD+278.10,360)  ③
 これだと27.9959年という周期になり、これも28年周期をとっています。③式にJD=2444461.5(1980年8月10日)を代入しますと、紫気黄経は299.9°であり、①式とほぼ同じ結果が得られます。
 ここまでは①、②、③式での結果はほぼ一致します。

 今までは台湾の本でしたが、日本の本で紫気の星表が載っている書が判田師の『七政四余』(初版)です。この書は1900年から2100年までの紫気の位置が記載されています。で、この書ですが、結論から言うと、前の3つの式とは少し異なります。
 とりあえずこの書にしたがって計算してみましょう。
 まず1900年の表には1月1日0時(JD=2415020.125)に室7度とあります。室7度は同書の二十八宿変換表12に亥10度とあります。黄経では340°です。次に2100年の表をみると、12月14日10時53分(JD=2488416.578)に昴1度とあります。二十八宿変換表2で酉14度(黄経44度)を得ます。
 この2つの位置から計算すると、
  [紫気黄経]=mod(0.03520606×JD+276.66,360)  ④
 JDの係数から周期を計算すると27.9965年となり、判田師も28年周期で計算していることがわかります。この式にJD=2444461.5を代入すると、296.5°となり、①式の結果と3.5°のずれがあります。周期は28年と変わりませんから、①~③式と④式では約4°のずれを生じていることになります。

 これは余談ですが、判田師の二十八宿表は『果老星宗』が書かれたであろう元~明代の二十八宿をもとに作られています。二十八宿を実星とせずあくまで天の座標系であると考えれば、これはこれで一つの考え方でしょう。しかし、少なくとも中国、台湾の主流は実星の観測に基づき二十八宿の位置を決めていますので、昔の二十八宿とは異なっています。例えば室7度は現在では戌0°とされています。

 これらの式をいろいろな例にあてはめてみましょう。
 『七政四餘快易通』には2002年8月11日10時半(JD=2452497.6)の例が載っていますが、そのときの紫気は卯12°です。この日を式①から④で計算すると、①卯12.9° ②卯12.8° ③卯12.8° ④卯9.4° で、①~③はほぼ同じで、④はやはり3.5°ずれています。卯12°と本にはありますが、おそらく卯12から13°の間であり、①~③式の方が合っています。台湾本はたぶん同じ星表を使っていますから、同じであるのは当然かもしれません。
 ちょっと古い清代の書である『星命説証』の例では、1824年4月26日戌刻(JD=2387378)に紫気は未2°です。この日を計算してみると、①未0.6° ②申29.9° ③未0.1° ④申26.8° であり、①~③で1~2°、④では5°程度の差を生じています。台湾の書にしたがうかぎりは、①~③、より①に近い方がよさそうではあります。

 これにて一件落着、と言うところですが、途中で棚上げにしていた問題がありました。それは紫気の位置を恒星を基準にして考えたらどうなるかということです。その原文はすでに挙げた「紫気亦起箕初順行」という文です。すなわち箕宿0度が起点となり順行するというわけです。
 で、計算方法ですが、これは今のところよくわかりません。以下は単なる仮説に基づいての計算です。
 まずは、箕宿0度になる紫気を求めます。ここは①~③式でもっとも確からしい日を探すことにします。箕宿0度に紫気が来るのは1950年5月ごろです。西暦1950年時点での箕宿0度は黄経270.6°で、これは丑0.6°になります。
 『七政四餘推命全書』の表によると、丑0.6°は1950年5月4~5日となりましたので、JD=2433406 としましょう。
 この日を基準にして紫気は28年ごとに箕宿0度になると考えてみます。ところで地球は歳差運動をしており、また恒星にも固有運動がありますから、箕宿0度の黄経は年々変わります。あまり古いのも何ですので、ここで1950年から280年さかのぼって西暦1670年を考えてみましょう。1670年の箕宿0度は寅26.7°、黄経では266.7°になります。これが280年分の移動とすると、次の式が求められます。
  [紫気黄経]=mod(0.035239826×JD+197.80,360)  ⑤
この式によると、紫気周期は27.9697年となり、28年に極めて近いですが、これまで検討した中では最も短い周期となります。これは箕宿というか、恒星が地球の歳差運動のせいで見かけ上順行するためで、これに追いつくために紫気が短い周期となることになります。
 この式でJD=2444461.5を代入すると、黄経は300.2°となり、ほとんど問題となるずれではありません。しかし、『星命説証』と比較すると、3°程度違うことになり、⑤式はこれを満足しません。
 ただ、私はこの考え方に魅かれるものがあります。何かこの考え方をいじくりまわして立論できないか今後ゆっくり考えたいと思います。

 ここまでいろいろと考えてきましたが、今のところこれはという結論が出ません。ということで、とりあえずは暫定的な結論。
 まず周期ですが、ぴったり28太陽年と10228日(星学大成)=28.0033年の2つがあると思いますが、(以前の結論とは違い)個人的には28年よりやや長めの方が合うような気がします。
 次に基準日をどこに置くかですが、1980年の8月10日(JD=2444461.5)に子宮0度というのが最も確からしいので、それを基準に採用します。
 で、次の2式を結論とします。上がぴったり28太陽年、下が10228日を周期とした場合です。

  [紫気黄経]=mod(0.035201691×JD+290.82,360)   ⑥

  [紫気黄経]=mod(0.035197497×JD+301.07,360)   ⑦

 この両者の差異は100年で0.2°以内ですので、どちらを使ってもあまり変わりません。

[2013年2月12日追加]




5.大限宮に入る年齢について

 このタイトルは判田格師の『七政四余』からとりました。同じようなタイトルにしておけばわかりやすいと思いましたもので。
 で、この年齢とは大限において、命宮を過ぎて相貌宮に入る年齢のことです。なぜ今一度これについて考えてみるかというと、これもまた別の考え方があるようですので、一度整理してみようと思い、話題に取り上げました。別の考え方があると思ったきっかけは、『星命説証』を訳しているときにどうも大限の計算が違うなと気づいたからです。
 ひとまずは『星平会海』を見てみます。この書の巻首に「命宮躔度幾歳出童限行大限過宮量天総尺」という表があります。ここで表の見方の説明文を訳すと、「例えば五月申時生まれで太陽が申宮畢八度にあるとき、(中略)卯宮が命宮で躔度は[テイ]三度である。(童限の説明なので中略)量天尺(表)を見ると[テイ]三度の下の値は11歳でありこれが童限を出る歳である。11歳で大限は辰宮に入り21歳で辰宮を出て巳宮に入る」。
 表はどうなっているかといえば、例えば卯宮の行をみると、卯の初度は[テイ]二度、卯二度は[テイ]三度、卯三度は[テイ]四度で、この列を下にたどると命宮は十(歳)と書かれています。ただこれは当時の二十八宿の位置であり、現在の二十八宿に修正すると、卯の初度は角七度、卯二度は角八度、卯三度は角九度で、これが命宮十歳にあたります。
 「命宮躔度幾歳出童限行大限過宮量天総尺」を今流に書き直したものが『七政四餘推命全書』にあります。簡単に表にしてみると、

黄経限宮0~33~66~99~1212~1414~1616~1818~2021~2424~2727~30
命宮1~101~111~121~131~141~151~161~171~181~191~20

となっています。上は太陽の宮位における行度、下は命宮の年齢です。30度を11分割しているので等分にはなっていませんが、実際は等分すべきものでしょう。また、この表の年齢は数え歳であり、また大限宮の境というのは前後の宮の影響を受けますから、あまり厳密に計算しても意味がないと思います。実用的には、太陽の度数を3で割って10を加える年齢ということで十分でしょう。さらに、数え歳でも満年齢でもあまりこだわってもさほど意味はないように思います。これは四柱推命の大運に対してもいえることですが…。
 判田師の『七政四余』の114頁に同じような表があります。この表には命宮ではなく相貌宮に入る年齢を書いています。で、一番上が命度逆算の数字が書いています。命度逆算とは30度から命度を引いた数ですので、上の表と(だいたい)同じことになります。
 また台湾書である『七政四餘快易通』には「その人の出生時の太陽の宮位度数をみて、1度を4か月とし、3度を一歳として起算すれば、すぐに命宮の起限年歳が求められる」とあります。これも同じような求め方です。

 そこで、私が疑問に思ったきっかけとなった『星命説証』についてです。その中の「状元三台命図解」の例の説明の行限について書いた部分を訳しますと、「28歳辛丑年、斗木23度に行く、流年は気官が填限する」。斗木23度は子宮3度です。「斗木23度に行く」とは大限宮が子宮であるということを示していると思いますが、子宮は相貌宮ですから、斗木23度が28歳だとすれば、相貌宮に20歳ぐらいで入る必要があります。ところが、この命の星図を見ると、太陽は房初度であり、これは寅宮の2度になります。とすると、相貌宮に入るのは11歳であり、これでは全然合いません。と書いてもわかりにくいでしょうが、いずれこの部分はHPにアップしますので、それまでお待ちください。
 ここで、大限宮は十二宮位を順に進むことを考えると、太陽の逆行度を3で割るという考え方もありえるかもしれません。すると、太陽の逆行度は寅の28度で3で割ると約9年で、相貌宮に入るのは19~20歳ということになります。こう考えると、斗木23度というのが28歳ぐらいにあたりますので、ピッタリです。
 ところが、『星命説証』の初めの部分に載っている「出童限行大限」をみてみますと、次のように書かれています(多少はしょります)。「童限を出るのは太陽の過宮の深さで見る。太陽の過宮の三日を一年とし、三十日を十年とする。もし三日未満の場合、例えば二日と6時間なら、10歳と10か月とする。数え11歳の7月初1日生まれの場合、6月30日が生まれてから10年となり、それからさらに10か月の行限を加えて数え12歳5月初1日で相貌宮に入ると計算することになる。(以下略)」この説明からすると、やはり諸々の本と同じです。つまりは同じ書の中で大限を違った取り方をしていることになります。それとも「状元三台命図解」の例は単なる考え違いなのでしょうか?

 ただ、太陽の進む方向と大限宮の動く方向は逆であることから、逆行度をとって3度が1年にあたると考えるのも、何となくわからないでもない気がします。ただ、命宮の度数は太陽の度数で命宮は30度分の広さを持つと考えると、やはり普通に太陽の度数を3で割るのが妥当かと思います。どういうことかというと、例えば命宮が寅宮で命度が6度とすると、命宮は寅6度から丑5度の広がりを持ち、相貌宮は卯6度から寅5度の範囲であると考えることができます。この場合に相貌宮は10年で1宮(30度)ですから、3度が1年ということになります。すると寅6度の時点で10年、さらに卯宮に入るためには6度あるわけですから、それを3で割ると2年となり、12歳で卯宮に入るという計算ができます。すなわち太陽の度数を3で割って10歳に加えるというのと同じ結果が得られるというわけです。(この説明は図がないとわかりにくいですね)

[2013年2月24日追加]



   作成  2013年 1月13日
   改訂  2018年 3月21日  HTML5への対応、一部追記


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