北京大学留学生活回想録PART1

出発,授業開始から大同旅行まで(88年8月〜88年10月)

いざ,出発!
 1988年8月29日,わたしは横浜駅のプラットホームに立っていました。これから約11ヶ月間
中国に留学するためです。なぜ成田空港でなく横浜駅にいたのか。それは経費節減のため飛行機でなく,
船で渡華することにしたからです(そして,当時わたしは町田市に住んでいたので,東京より横浜が近
かった)。「鑑真号」は,今は横浜からも出ていますが,当時は大阪と神戸からしか出ておらず,まず
は夜行寝台「銀河」にて大阪へ向かったのでありました。
 荷物はわずか,リュックとバッグ一つ,他に段ボール箱3個がすでに船便で送ってあります。前途に
何が待ち受けているかわからない一人旅,身軽なのが一番です。
 「銀河」は翌朝7時半に大阪に着き,そこから地下鉄,ニュートラム,送迎バスを乗り継いで,南埠
頭K岸壁国際フェリーターミナルというところに行きます。「鑑真号」は12時過ぎに出港しました。
丸2日間の上海への船旅です。
 その日の夜,船上で上海からの列車[火車]の切符が売り出されました。とかく不便,不親切と言われ
る中国で,こんなに簡単に切符が買えるのは意外でした。中国国際旅行社が扱うので,外国人値段にな
り,さらに手数料が上乗せされて,高い切符になるのはわかっていましたが,なんだか弱気になってい
たわたしは即北京行きの切符を購入しました。これでとにかく北京まで行くことができます。
 翌々日9月1日,上海に到着,一泊して,翌日は上海の街をぶらぶらし,夕方汽車に乗り込みました。
上海〜北京ノンストップの直通[直達]列車,普通の快速[快車]が約24時間かかるところ,17時間で
走ってしまいます。その分中国人値段でも高くなっているのですいています。
 わたしが乗り合わせたのは,上海に住む50代のおばさんと,北京に帰る20歳前後の女性でした。
この人がチャキチャキの北京弁で,出身地とか年齢とか職業とか簡単な話をしているうちはまだいいの
ですが,それ以上のことになると全く聞き取れません。おばさんは「この子のなまりはひどすぎる」と
言ってくれるのですが,こちらはすっかり自信喪失です。
 やがて,日も暮れてきて,晩御飯に弁当[盒飯]を買うことにしました。財布を取り出し,上海で両替
したばかりのお金,一部は中国人が普通に使う人民元,ほとんどは外国人用の外貨兌換券だったのです
が,を取り出した時です。おばさんがわたしの財布を覗き込んで言いました。「誰が見ているかわから
ないから,大きなお金は小銭と別にして,あまり人前で出さないようにしなさい。」
 おばさんの言葉にわたしは別のことを学びました。中国人は他人の財布の中を覗くのだということで
す。しかし,わたしは後に,この時のおばさんのアドバイスを真面目に聞いておけばよかったと,後悔
することになるのです。

留学生活の始まり  9月3日朝,列車は無事北京に到着しました。しかし,大変なのはこれからです。北京大学に行くに はどうしたらよいか。タクシーはその頃大きなホテルに行かなければ乗れませんでした。わかっている のは動物園から北京大学に行くバスが出ているということだけです(何故その時それを知っていたかは 謎です)。何はともあれ地図が必要。売店で手に入れました。地図にはバス路線が書き込まれています。 北京駅からは103番のトロリーバスが動物園まで行っていることがわかりました。  何とかバス停を見つけだし,とにかくそれで終点まで行きます。動物園からはさらに,その混雑ぶり から北京の横須賀線と呼ばれている332番のバスに乗ります。今度は終点ではないので,乗り過ごし ては大変です。何しろアナウンスも路線図も何もないので,周りの人に教えてもらわなくてはなりませ ん。その時「わたしも北京大学に行くから連れて行ってあげる。」と言ってくれたのが白さんでした。  実はこの白さん,とんでもない人物だったのですが,それはまた後の話。彼女のおかげで,北京大学 で迷わずバスを降りることができました。その上わたしが中文系に入ると言うと,親切にその事務室ま で連れて行ってくれました。しかし! その時,時刻は11時半を回っており,事務室は昼休み[下班 了]! 鍵が掛かっていて誰もいません。2時までは開かないと言います。  こうなるともうあきらめの一手しかありません。しかし荷物は重いし,お腹だって減って来ます。昼 休みには他の用事があると言う白さん,いきなり近くを通った2人の女子学生をつかまえて,わたしの 面倒を見て欲しいと頼むではありませんか。白さんとその2人は顔見知りでも何でもないようすです。 これには驚きましたが,もっとびっくりしたのは,その2人,王さんと劉さんが,何のためらいもなく わたしの世話を引き受けたこと。2人はわたしを寮の部屋に連れて行き,荷物を置かせ,食堂でお昼を ご馳走してくれ,おまけに自分のベッドで昼寝までさせてくれたのでした。  その時連れて行ってもらった学生食堂には圧倒されました。巨大なホールの中にずらっと並んだテー ブルにはぎっしり人がおり,壁際にいくつも並んだ窓口の前には,手に手にホーローの食器を持った学 生が,行列というよりは集団状態になっていて,もみ合う中から次々とご飯やおかずを手に入れた者が 出て来ます。人気のおかずは早めに行かないと売り切れてしまうのだそうです。その時は,あの中に割 り込んで行っておかずを買うなんてことはとても出来そうになく思えました。  やっと2時になりました。お世話になった2人にお礼を言い,戻って来てくれた白さんに連れられて, 再び事務室にやって来ました。そこでわかったことは留学生の入学手続は中文系でするのではなく,留 学生事務室で一括してするのだということ。留学生事務室は留学生の宿舎「勺園」の中にあるというこ と。何のことはない,最初から宿舎に行っていればよかったのでした。  どうにか入学手続を済ませ,部屋に落ち着くと,白さんがここでの生活に必要な物を買いに行かなけ ればならないと言います。もっともなので,今度は購買部[小売部]に連れて行ってもらいます。ここで は欲しい物は皆店員に頼んで棚から取ってもらわなくてはなりません。白さんの勧めで,タオル2枚, カップ,食堂必携品ホーローの食器2つ,梨1斤(=500g),ビスケット1斤,インスタントラーメ ン1斤を買いました。  長い一日がやっと終わりました。夜になってわかったのですが,「勺園」の中には留学生用の食堂が あり,そこでは持参の食器は要らず,おとなしく並んでいればご飯もおかずも買えました。また,売店 もあり,そこではビスケットやインスタントラーメンを量り売りでなく袋入りで売っています。外国人 留学生には中国人学生とはまるで違う世界があったのでした。どうやら白さんのおかげで,わたしは中 国人学生の生活を半日してしまったようなのです。実に貴重な体験でありました。

宿舎での生活  北京大学の留学生宿舎には「勺園」という名前がつけられています。初日に休ませてもらった中国人 学生の宿舎は8人1部屋,院生[研究生]は4人1部屋ですが,留学生は2人1部屋です。1人につきベ ッド1台,布団シーツ1組,机,椅子,本棚,洗面器,魔法瓶が各1つ支給されます。  わたしのルームメイト[同屋],Oさんはわたしより2,3日後に到着しました。Oさんは考古学が専 門です。ルームメイトが日本人だったことにわたしはがっかりしました。中国語オンリーの環境にする ことができないと思ったからです。今から考えると何もそんなに肩肘張らなくてもと言ってあげたいと ころですが,ともかくその時のわたしはOさんに部屋の中でも中国語で話すことを提案しました。まあ, 結局は,たちまち面倒になり,なし崩し的に日本語での会話となったのですが。 驚いたのはOさんの荷物の多さです。なにしろ羽毛布団まで持参していました。段ボール箱が10箱 あまり,しかも月に1箱ずつ日本からの追加支援が来ます。中身はほとんどが,うどん,缶詰,削り節 などの食品です。一通りのことに慣れてしまえば,留学生,特に習得すべき単位数の決められていない 「進修生」の生活はいたって気楽なもの。しょっちゅう誰かの部屋に集まっては(当初の意気込みに反 して日本人同士であることが多かった),何か作って食べたりすることになります。Oさんは京都から 来ていて,「関東のお人にはこの上品なお味はわからんやろ。」などと言いつつ,いろいろな料理を作 ってくれました。  「勺園」の1〜3号楼では部屋にトイレ,洗面,シャワーはなく共同です。洗面所には大きな流し台 があり,そこで手洗いで洗濯します。お湯の出る時間は決まっていて,朝6:30から8:00までと, 夜4:00から8:00までです。飲用に大きなボイラーでお湯を沸かしており,これの沸き上りの時 間が朝8:00と午後2:00となっていました。部屋に備え付けの魔法瓶を持って汲みに行きます。 食堂は朝6:30から7:30,昼11:40から12:40,夜6:00から7:00,売店の営業 は午前8:30から12:00と午後2:30から6:00となっていました。これらの時間は中国人 学生用の施設に比べて30分から1時間ほど長くまたは遅くなっていて,その分便利でした。例えば中 国人学生のシャワーは6:00だか7:00だかまで,しかも宿舎とは別の建物にある,ボイラー室も 外にあって,雨でも降れば,傘をさして汲みに行かなければならない,食堂は夕方5:00に始まり, 30分もすれば売り切れるという具合です。でも,留学生でこの違いを意識していた者はどのくらいい たのか,生活の不便さとそれにからめて中国の後進性についての愚痴を聞くことが多かったように思い ます。  9月15日,「新生開会」なるものが持たれました。8時から講堂に集められます。いろいろ細かい 注意をしているのですが,全部中国語で,音響も悪く,よく聞き取れません。そして1人1人の話がと てつもなく長く,いつ終わるとも知れません。せいぜい1時間位と予想していたわたしたちは,あっけ にとられてしまいました。しびれを切らした学生がどんどん抜け出していくのですが,壇上の人たちは 構わず話し続けます。公安からの人が話している間にとうとうほとんどガラガラになってしまいました。 わたしは他に用もないし,内職しながら最後までつきあいましたが,終わったのが11時過ぎ,なんと 3時間ぶっ通しだったのです。以前から中国の会議はすごいと聞いていましたが,なるほどこういうも のだったのかと納得しました。でもおかげで中国人学生用の食堂の食券が「勺園」の中で買えることが わかり,行ってみようかという気持ちになりました。あの時連れて行ってもらった活気に満ちた食堂の 光景がよみがえります。

学生食堂に挑戦!  北京大学の学生食堂は第1から第5まであり,それぞれ「学一」「学二」…と呼ばれています。その 他に職員用食堂や回教徒用の豚肉を出さない食堂などがあります。初日に連れて行ってもらったのはど うやら「学一」のようです。中国人学生によれば,5つの学生食堂には,おかずのおいしいところ,マ ントウ(肉まんの具がなく中まで小麦粉になったようなもの,主食にする)の白いところ,餃子のおいし いところなど,それぞれ特徴があるのだそうですが,わたしにはそんなことはわかりません。そもそも 「マントウが白い」とはどういうことか実感できるようになったのは,半年も経ってからのことです。 とりあえず「勺園」から最も近い「学五」に行くことにしました。ここは初日の食堂より一回り小さく, 院生宿舎が近いせいか少しおとなし目の感じです。  留学生食堂と学生食堂との最大の違いは,留学生食堂が1種類の食券であるのに対して,学生食堂の ほうはおかずの食券[銭票]とご飯の食券[米票]と小麦製品(マントウ,麺類,パンなど,餃子は皮が小 麦粉なのでこっちの仲間)の食券[麺票]に分かれていることです。中国人学生が「米票」「麺票」を買 うのには,お金の他に米や小麦粉の配給切符「糧票」を添えて買いますが,留学生は「糧票」の分をお 金で払えるようになっていました。  留学生食堂では一つになっているおかずと主食の売場がここでは分かれており,両方買おうとすれば, 最低2回並ばなければなりません。おかずの売場も複数あり,それぞれ売っているおかずの名前と値段 を小さな黒板に書き出しています。初心者のわたしはその名前を見てもさっぱりイメージが湧かないの で,まずは売場を覗きこんで偵察した後,列に並びます。外から見た時は混乱の極みに見えた行列とい うか集団も,自分がそこに入ってみると意外にスムーズに進んで行きます。わたしの番が来ました。留 学生食堂では指差せば済みますが,ここではそれでは許してくれません。黒板に書いてあったメニュー の内読めた物を言いました。しかし声が小さかったのか,発音が悪かったのか,聞き返され,トロい奴 が来たとばかり,不機嫌な顔をされました。しかしここでめげてはいられません,次はご飯です。「米 票」には「二両(1両=50g)」と書かれていますが,分量がよくわかりません。とりあえず1枚渡し ました。わたしが差し出したホーローの食器に茶碗で1杯ご飯を計って入れてくれます。わたしが食器 を差し出したままにしていると,何だこいつという目つきでもう行けと合図します。これで「二両」が どのくらいかわかりました。わたしにはちょうどいい量です。「白いマントウ」,つまりいい小麦粉で 作られたふかふかして香りのいいマントウなどは,「麺票」に「銭票」を足して買うことなどもだんだ んわかって来ます。慣れるに従いメニューを見れば中味の想像がつくようになり,ここの食堂で,中華 のメニューを読む基礎が培われました。

履修登録  翌週からはいよいよ授業が始まります。留学生には「勺園」内の「漢語中心」で専ら中国語だけを勉 強する者と,各学部[系]に入り中国人学生と一緒に専門分野を勉強する者とがいます。また,1〜2年 だけ籍を置く「進修生」と4年間カリキュラムに従って学ぶ「本科生」に分かれます。「進修生」は決 められた習得単位というものもなく,好きな授業だけ適当に聞けばいいので,気が楽です。わたしは 「中国語言文学系=中文系」に入る進修生なので,中文系に行って履修登録をします。中文系は「五院」 と呼ばれる古い建物にあります。ややこしいのは,こちらにも留学生処という部署があり,留学生用の 授業を開講していること。初日にウロウロさせられたのはこのためです。  きれいに印刷された時間割表が配られるというようなことはなく,五院の廊下にベニヤ板が立ててあ り,そこに貼り出された手書きの時間割を自分で写します。参考までに,88年度の留学生用の授業と 語学関係の授業を,当時わたしが写した範囲で以下にご紹介します。手書きの読みにくい字を写したの で,間違いがあるかもしれません。ご了承ください。「級」というのはその年度の入学生ということで, 88年度なら87級は2年生になります。*印がわたしの登録した授業です。 前期 院生 語法分析=朱徳煕*,歴史語言学=徐通鏘,<馬氏文通>通読=郭錫良,古代漢語詞匯=蒋紹愚, 当代語言学専題=葉蜚声 留学生 留88級 漢語概論=賈彦徳,現代漢語=王理嘉・王晶,古文選読=邵永梅,中国通史=歴史系, 基礎漢語=漢語中心 留87級 古代漢語=王若江,古代文学作品選=馮鐘芸,現代文学史=商金林,民間文学=段宝林 留86級 漢語写作=劉一之,当代文学=趙祖謨,古代文学史=周光填 留85級 漢語虚詞=馬真*,古代文化=厳紹[湯/玉],民間文学=段宝林 八六級 語法研究=陸倹明* 八七級 句法分析=呉[競÷2]存 後期 院生 外国語言学史=葉蜚声,語言理論専題=石安石,語言研究方法論=徐通鏘,古音学=唐作藩, 説文解字=何九盈,訓詁学=王寧,語法分析=朱徳煕*,語音分析和実験=沈炯, 古文字学=裘錫圭,漢語方言調査=王福堂* 八八級 古代漢語=何九盈,現代漢語=陸倹明*,語言学概論(下)=王洪君,古代漢語=伝聯栄, 現代漢語=呉[競÷2]存,古代漢語=呉鴎,現代漢語=蘇培成 八七級 音韻学=唐作藩,現代漢語詞匯=符[水+隹]青,索緒爾(ソシュール)語言理論=索振羽 八六,八五級 漢語史=郭錫良,社会語言学=陳松岑,唐詩語言研究=蒋紹愚,現代漢語虚詞=馬真, 語音研究=王理嘉,漢語方言専題研究=王福堂  陸倹明先生はわたしの指導教員,馬真先生は奥様です。朱徳煕先生は大変高名な先生ですが,院生の 授業で内容が高度,なまりもすごい,しかも馬真先生の授業と重なっていたために,たまにしか聞きに 行きませんでした。王福堂先生の授業は最後に方言調査に行けるというので取ったのですが,天安門事 件のためにそれはついに実現しませんでした。

自転車で北京市街を走る  北京に着いて四日目に,北京生活の必需品,自転車を手に入れました。夏休みに短期留学をしていた 友人に帰国時譲ってくれるよう頼んでおいたものです。中国では自転車も自動車並みに登録してナンバ ーをつけ,登録証を運転免許証のごとく携帯しなければなりません。北京大学は海淀区にあり,海淀区 の「公安局非機動車登記所」は北京大学から少し南に行ったところにあります。  窓口に行き,書類をもらいます。書き込むのは,公用か私用かの別,自転車のブランド名,車体の色, 自転車の形式(サドルの下からハンドルにかけての横棒のあるのが男性用[男車],ないのが女性用[女車], それとインチ数),名前,性別,年齢,所属単位などです。わたしのは「鹿ブランド」の「女車」26イ ンチ,色は赤です(93年の時は,ここで困りました。日本で言えばえんじ色とかあずき色というような 色で,中国では何と言うかがわかりません。仕方がないので係員に指差して見せると,笑いながら「紫」 と書き込んでくれました。何年勉強してもまだいくらでも覚えることがあります)。  手続が終わると,赤いビニールのカバーのついた登録証と赤地に白字のナンバープレートをくれます。 これには両端に細い溝が切ってあり,そこに付属の鉛の細い板をくぐらせて自転車のサドルの下に取り 付けます(93年からは,中国人は黄色のプレート,外国人は黒のプレートと区分けされるようになり ました。さらに1台当たり年に4.50元の税金を取るようになり,納税した印のキーホルダーをどこ かにつけなければならなくなりました)。  中国人が日本に来ると自転車が歩道を走っているのを見て驚きますが,北京の街を自転車で走るのは 本当に快適です。大切な交通手段だから当然ですが,通りにはすべて自転車専用の車線が確保されてい ます。車の一種なのでちゃんと車線と右側通行を守って走ります。一見無秩序で危険に思える北京の交 通ですが,いったんその流れに乗ってしまえば,それほど恐いことはありません。最後まで恐かったの は交差点で左折をする時。車と同じなので,前方の信号が青の時,一気に対角線まで交差点内をつっき ります。特に北京大学から市内に向かう白石橋路と,動物園前に通ずる西直門外大街とが交差する紫竹 院公園前では,かなりの度胸が必要でした。  自転車を手に入れてからは,大抵の場所は自転車で行きました。混んでてわかりにくいバスに乗らず に済むし,小さな路地にも気楽に入って好きなところで止めて写真を撮ることができます。そのうち北 京の旧城内の通りをすべて自転車で走破しようと思い立ち,地図を塗り潰しつつ,1週間に1,2度は 出かけました。わたしのお気に入りのサイクリングコースは,1番が,北京図書館旧館の前から東へ, 北海と中海の間の橋を渡り,故宮の北門から美術館に向かうコース,通りの名前で言えば,文津街−景 山前街−五四大街となります。途中には今は文物局になっている元の北京大学の校舎「紅楼」があり, 書店,画材屋などがあって,文化的な香のする通りです。故宮の堀を廻りこむ微妙なカーブも自転車で 走るにはなかなか爽快です。2番目が新街口豁口から西海,後海の水辺をめぐり,鼓楼・鐘楼界隈へ抜 けるコース。空気の乾いた北京では水のある風景は人をほっとさせます。平屋の古い民家が広がる中に 威圧するように立ち上がる鼓楼と鐘楼は何度見ても感動します。ほかには三里河路の釣魚台迎賓館と玉 淵潭公園,木犀地までの間。ニセアカシアの咲く頃には南北の長街も良い。もちろん長安街を進んで行 って,8車線+広場になる天安門前に出た時の,音がわーっと抜けて行くようなあの感覚も忘れられま せん。  ある時,若い先生にどのくらい自転車に乗るのかと聞いて見ると,大学から王府井くらいまでは自転 車で行くという答で,わたしのしていることは普通のことだとわかり,安心しました。ちなみにわたし の自転車では王府井まで2時間ちょっとかかります。一方で,年配の先生には,大学の中でほとんど用 が済むので,ここ何年も市内には行っていないと言われてしまいました。やはり学究の徒はこうでなく てはならないのでしょうか。

国慶節の夜  10月1日は中国の建国記念日,国慶節です。88年は39周年と半端なので,派手な演出はないと は聞いていましたが,でもどんな様子かは行ってみなければわかりません。留学生数人で連れ立って, 9月30日夜天安門広場まで出かけて行きました(ついでながら,94年の45周年の国慶節では,日 本でも報道されたように,大規模な花火大会が行われたのですが,わずか10日ほど早く帰国しなけれ ばならなかったために,見ることができませんでした)。天安門や前門,人民大会堂など広場のまわり の建物は無数の電球がその輪郭を縁取っています。広場の中央では,多数の鉢を組み上げて作った花の 「段飾り」,噴水,龍の形の飾りなどが明るく輝いていました。天安門には赤い提灯が掲げられ,その 灯りが堀の水面にゆらゆら揺れています。東京の,あるいは現在の北京の基準で言えば寂しい飾りかも しれませんが,まだまだ暗い頃のこと,ここだけが華やかに輝き,浮かび上がって見えます。毎年の政 策を反映すると言われる肖像画は,広場の中心,毛沢東に正対して,孫文のものが一枚ありました。  広場の様子は,わたしの単純カメラではちゃんと写りそうもなかったので,隣の部屋のTさんのカメ ラで撮ってもらいます。Tさんは写真撮影と切手収集という渋い趣味を持っていて,「写真は銀台紙, 切手は黒台紙」が口癖でした。ミノルタα何千とか言うカメラをいつも持ち歩いています。わたしが写 真に興味を持つきっかけを作ってくれた,わたしの写真の師匠です。  カメラで自分たちを撮りたい時は,誰かに撮ってもらわなければなりません。当時,まだ割合は少な いけれども,カメラを持った中国人も多少いました。撮影を頼む時にはそういう人を捜すのが無難です。 それはお互い様で,こちらがカメラを持っているのを見て彼らからもよく頼まれました。当然といえば 当然だけど,ものを頼むにも人を見て頼まなければならないわけです。しかし,それも日本人とはちょ っと基準が違うところがあるようで,これは別の話になりますが,道を尋ねる時は,普通,なるべく地 元の人らしい,その辺りに詳しそうな人に尋ねますよね。北京滞在中,よく道を尋ねられるので,最初 のうちはそんなに地元っ子に見えるのかと密かに喜んでいたのですが,どうやらそうではなくて,当時 の中国の基準で行けばまあまあの身なりをしているところを見込まれて?尋ねられていたらしい。身な りのいい人→学歴の高い人→物知り→道にも詳しいという発想,かどうかはわかりませんが。  さて,翌日,国慶節当日は,まず年に数回のみ公開される人民大会堂を見学し,天安門の二階に上が って上から広場を見下ろし,降りて奥へ進んで故宮を見ました。国慶節フルコースと言えるでしょうか。 どこへ行ってもものすごい人ですが,どこかのんびり,祝日ムードです。祝日と言えば記念撮影。人込 みをものともせず精一杯の晴れ着姿でポーズを決めた撮影現場にいたるところでぶつかります。自前の カメラのない者は,写真屋に頼みますが,どちらの場合も,彼らが写真に収まるところを見ていると, ポーズの取り方が日本人とはどこか違います。夜の天安門広場でも,昼の故宮でも,花の「段飾り」の 前で,あるいは宮殿をバックに,記念撮影が行われていましたが,撮られる人は,必ず体はカメラに対 して斜め45度,手は腰に,顔も遥かに明るい未来の方に向けなければならないようです。中国人の多 くは,歌ったり踊ったりする時には,プロ顔負けの堂々とした演技をするのですが,写真を撮られると なれば,やはりプロのモデル気分なのでしょうか。

フフホト・大同旅行  10月の第3〜4週にかけて,先生の出張で授業がほとんどなくなりました。ちょうどひまだった他 の人たちと一緒にフフホトと大同に行こうということになりました。確か4,5人で行ったのだと思い ますが,一人はOさん,もう一人はNさんと言って,大学の先輩で某大手新聞社から派遣されていた人, あとはどんな人たちだったか思い出せないくらい,よく知らない人同士のグループでした。皆1年目の 人たちで,来たばかりでいきなり一人で旅行する度胸のない者が集まったというところです。  北京発の夜行に乗り,内モンゴル自治区の区都,フフホトに到着,ここには2日間滞在して,郊外の 観光用パオに泊まり,塩ゆでの羊の肉を食べ,観光用の馬と駱駝に乗りました。草原はこの季節枯れ果 てて茶色一色,緑の絨毯とはほど遠く,観光用パオも塀に囲まれた狭い敷地の中に並んでいて,ちょっ と期待はずれです。雰囲気だけ楽しんで,再び列車で三大石窟の一つ,雲岡石窟のある大同にやって来 ました。ホテルも列車の切符もまったく予約なしのいわゆる自由旅行なので,着いてまずは翌日の北京 行きの切符を買い,雲岡賓館に部屋を確保したところで街の探検に出ました。大同の街は全体が黄土の 色をしていて,なんだかすすけた印象の街です。デパートなどをうろうろして,さてホテルへ帰ろうと 乗ったバスはずいぶん込んでいました。奥のほうはもっとあいていそうなのですが,入口に人が固まっ ていて動きが取れません。ふと気がつくとかばんが人込みに引っ張られて向こうのほうに行っています。 やばいと思う間もなく,バスはどこかの停留所に着き,人がどっと降りて急にバスがすきました。あぁ, やられた! 後から思うと,確かにすきがありました。旅程は後一日,ホテルも取れて北京行きの切符 も手に入り,ほっとしたところでした。皆と一緒だからという油断もありました。わたしたちはバスを 待っている時から目をつけられていて,込んでいるように思えたのはどうやら周りを囲まれていたよう なのです。盗られたのは財布でした。上海からの列車の中であのおばさんがしてくれた忠告を思い出し ました。財布の中には切符代とホテルの支払いのために結構な金額が入っていました。いえ,お金はま あいいとしましょう。その他に買ったばかりの列車の切符もありましたし,特に惜しかったのは,何か の役に立つかもと入れていた日本の大学の学生証です。これは本来卒業の時に大学に返さなければなら ないものでしたが,なぜかとりあげられずにすんだ記念品だったのです。そんなもの彼らにとっては単 なる紙切れでしょうから,きっと大同の街のどこかに捨てられてみじめな姿になっているであろうとこ ろを,その後たびたび思い描きました。  もう,あきらめてはいましたが,雲岡賓館に中国国際旅行社の事務所があるので,一応被害届を出し ました。北京行きの切符ももう一枚手配してもらいました。OさんやNさんにお金を借りて支払います。 これがもしも一人旅であったら,どうしたものか途方に暮れたことと思います。この盗難事件はかなり ショックではありましたが,学ぶことも多かった。どうすれば人にすきを見せずにすむかがわかったよ うな気がしますし,上海のおばさんの忠告を忠実に守るようになり,財布を持つのもやめました。周囲 の中国人を見習って,鞄や服のポケットからごそごそ取り出すことにしたのです。この時に恐らく,わ たしの顔つきが少し中国人に近づいたのではないかと思われます。  最後の日はいよいよ雲岡石窟の観光です。山門から階段を上り,左に折れて屋根の掛けられた部分を 通り抜けると,その先は大小の洞窟のいくつも彫られた断崖がずっと向こうまで続いています。絵葉書 から受ける印象よりもずっと開放的な広々とした空間です。崖に彫られた大仏様が,沈んでいたわたし の心を優しく慰めてくれました。(PART1完 1998.4.19脱稿)

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