北京大学留学生活回想録PART2

北京の秋,江南旅行,北京の冬(88年11月〜88年12月)

 第2部に入る前に,Tさんご本人から,Tさんが当初持っていたのはミノルタではなくペンタックス
であり,途中で壊れたために一時帰国の際ミノルタに買い換えたとのご指摘を受けました。ここに訂正
し謹んでお詫び申し上げます。

目利きのおばさんたち  北京は10月に入ると,すでに長袖のジャケットは必需品で,セーターも欲しくなります。これから 最高気温0度の冬がやってくるのに備えなければなりません。冬物はほとんど持って行かなかったので, 現地調達を図ります。 当時北京は既成服がかなり出回っていましたが,簡単な服は自分で縫うという人もまだ多かった。そ のせいか,皆生地とか縫い目とかを見る目が肥えていて,わたしが着ていたような安物でも,しかも Made in Chinaであっても,日本から着て行ったものは,なにかと目をつけられました。街で知らない おばさんに突然「その服はどこで買ったのか」と聞かれることがしばしばありました。「そんなこと聞 かれたってこれは日本で買ったんですよ」と言うと,納得したようなしないような顔でそのまま立ち去 りますが,「どこそこで買った」などと言おうものなら,次は「いくらだったか」と来ます。何なんだ, 一体。いつだったか絹のスカーフの値段を聞かれて正直に答えたら,「それは高い」と言われてしまい ました。いくらで買おうとわたしの勝手じゃない,何で見ず知らずのおばさんにそんなことを言われな きゃならないのと思いつつ,「これは絹100%なんだから」などと義理も何にもない店の弁護までし てしまいました。 この時買ったものは,黒と緑のチェックのカーディガン,赤いパンツ,青のダウンジャケット,など です。あと,「雪地保温靴」というのも用意しました。カーディガンを買った時は,黒なんて若いのに なぜそんな地味なのを買うのか,もっときれいな色のを買えって,ほんとうに要らぬ世話の好きな人た ちです。 同室のOさんがパンツを仕立てたというのを聞き及び,わたしも一つ,これも黒と緑のチェックのパ ンツをオーダーメードすることにしました。型紙代わりに今持っているものを持って行くと,それを見 本に同じように作ってくれるそうです。近くの中関村の市場に行くと,広い体育館のような中に,郊外 から農民が野菜や卵,肉などを持ち込んで売っており,その向こうにミシンを前にしたおばさんたちが 十数人並んでいる一角がありました。前門でメートル40.30元で買った布と裏地,見本のパンツを 持ってその中の一人に仕立てを頼むことにします。えーと,あとはボタンとファスナーが足りないよう です。おばさんが指差す方を見ると,建物の壁際に沿って,裁縫小物だのゴムひもだのピン止めだの, こまごまと売っているおばさんたちが並んでいます。安いのはいいのですが,見るからにチャチい。果 たしてやがてボタンは割れファスナーは開きっぱなしになってしまうのですが,その時には他にないし, 適当なものを購入しました(日本から生地を持って行くような場合には,合わせてボタンその他付属品 も用意して行くのが賢明です)。 さて,この時の仕立て代は22元でした。出来上がりはというと,見本とぴったり同じとは行かず, 裾にかけて微妙にカーブがついていて,どこか違うんですよね。余計な質問おばさんたちが目ざとく見 ていたのは,そういうところだったのかもしれません。

香山紅葉 北京は秋が一番良いと言います。空が高くどこまでも澄み,深い青に輝きます。東京でも冬に強い風 が吹いた後,真っ青な空が広がることがありますが,どこかまだやさしい感じがします。北京は大陸性 の気候,乾燥しきって水蒸気を含まない,凛とした空です。黄色い瑠璃瓦と朱塗りの壁はこんな空にこ そよく映えます。 北京の秋と言えば,香山に紅葉を見に行かなければなりません。なにしろ中国語の教科書には必ず出 て来るのですから。ある日,Tさん,Tさんの友人Gさん,そしてタイ人のノイちゃんと一緒に香山に 出かけました。自転車で1時間ほど,絶好のサイクリング日和です。ちょうどシーズンですからすごい 人出で,随分待ってやっとリフトに乗れました。だんだん高く登っていくのですが,イメージしていた 紅葉の山とどうも違います。降りてみてわかりました。紅葉と言っても葉は,赤と言うより茶に近く, 木ももみじではなくて,よくわからない丸い葉の背の低い木です。しかも下がかさかさの地面であるた めに,舞い上がった土ぼこり,いわゆる黄砂をうっすら被っていて,ほこりっぽいのです。なるほど, この乾燥した大陸では紅葉というのもこのようになるのかという思いです。しかし,その辺で土産物と して売っているキーホルダーや何かには,ちゃんと五本に分かれた真っ赤なもみじの葉があしらってあ ります。もしやどこかに木があるのかとあちこち行ってみましたが,みつかりませんでした。 日本人勢はちょっとがっかりですが,タイ人のノイちゃんはそれでも大喜び,何しろ生まれてからこ れまで赤い葉をつけた木など見たことがないそうです。この後ノイちゃんは,木の葉がなくなった,と 言っては驚き,雪を初めて見たと言ってははしゃいでいましたが,2年目に会いに行った時は,落葉も 雪もたくさん,とにかく寒いのは嫌だと言っていました。 タイ人と言えば,わたしたちの向かいの部屋もタイ人の留学生のニットさんで,ときどきタイ料理を ご馳走してくれました。定番はレッドカレー(=ケーン・ペーットと呼ばれるということを知ったのは随 分後になってから,当時は泰式珈厘とだけ教わりました)をそうめんにかけて食べるというもので,必ず 生のキャベツが山盛りに刻んであり,辛ければ一緒に食べなさいと言うのでした。いまでこそ東京でも 気軽にタイ料理を食べることができますが,初めて食べる,ココナツミルクたっぷりの,辛いけれども 甘い,不思議な味が一遍で気に入ってしまいました。これがわたしのタイとの出会いです。さらにラオ スと出会うにはもう2,3年経たなければならないのですが,この時のタイとの出会いが伏線になった ことは間違いありません。

北京の冬 11月に入ったある日,冷たい風が吹き,一晩で街路樹の葉がすべて茶色くなってしまいました。空 気が昨日までとは違い,冷たく乾燥してピリっとした感触です。それからは,毎日葉が散り続け,路面 でかさかさと音を立てます。掃いても掃いても積もっていく葉を掃き集める人の姿がいつも見られるよ うになりました。やがて葉はすっかりなくなり,弱々しい太陽が裸になった枝の隙間からのぞくように なります。冬の到来です。この大陸では季節の移り変わりがきっぱりしています。日本の季節のように ちょっと寒くなった後また戻ってみるなんてことがありません。今日から冬だと言えば冬なのです。立 秋にしても立冬にしても東京にいると少しずれている感じがしますが,暦はやはりこの北京の気候にこ そあっているようです。 そして,街のあちこちに白菜の山が築かれ始めました。北京大学の中にもいくつかの食堂の脇に白菜 が積まれました。冬の間,その山を少しづつ取り崩して行くのです。積んであるうちに外側は凍って黒 くなってしまいますが,中のほうは充分食べられます。何と言っても冬の間の貴重なビタミン源です。 その当時はもう結構他の野菜にもお目にかかることができましたが,ちょっと前までは冬の北京では本 当に白菜しか食べられなかったそうです。 部屋にスチームが入りました。集中暖房なので何月何日からと決まった日に始まります。24時間な ので,夜寝る時も,朝起きる時も暖かいのはいいのですが,部屋の空気が乾燥してのどが痛くなります。 ベッドの縁に濡れタオルを掛けておくとか,洗面器に水を汲んで置いておくとかいろいろなやり方を教 わりました。わたしは北側の部屋だったのでそうでもなかったのですが,南の部屋だったGさんは,天 気の良い日など暑くて部屋にいられないと,よく避難して来ました。そう言われてみれば,南の部屋よ り北の部屋のほうがスチームの幅が広い,つまり管の数が多い。街中の平屋の家では練炭などを焚いて いたようです。そうすると重たい練炭を買って来たり,朝起きて焚き付けたりといった手間がかかるこ とでしょう。冬の北京では街中なんとなく練炭のすすけた匂いが漂っていました。しかし冬には寒いと ころにいるほうが却って寒い思いをせずに済むようです。建物がそれなりの構造をしているし,暖房設 備も当たり前に整っているからです。中国では,長江(=楊子江)以南では外国人用のホテルなどを除い て,暖房が禁止されていました。いくら南とは行っても,上海あたりでは0度程度まで気温が下がるの で,これは悲惨です。 すすけた炭の匂いとともにいつも思い出すのは鳩の笛です。食用に出荷するため飼われている鳩の群 が大きく旋回しながら飛んでいるのですが,その鳩に飛ぶ時風を受けて鳴る笛[鴿哨]がつけてあり,冬 の空を何とも言えない物悲しい音が渡って行きます。群が向きを変えるその羽ばたきの音とともに笛の 音色も微妙に変化します。今は市内で鳩を飼うことが禁止されて,この音を聞くこともなくなったのは 残念です。

南京にて 11月の第3週,わたしが選択している授業の先生がよそへ集中講義に行き,授業がなくなってしま ったので,南京方面へ旅行に行くことにしました。南京大学には後輩Yさんが留学しています。Yさん に長距離電話を掛けて,まずは南京での宿を確保しました。 南京大学には日本人留学生は40人ほどだそうで,100人単位でいる北京大学とはだいぶ雰囲気が 違います。数が少ないほうが日本人同士固まることなく,よいように最初は思いましたが,どうも40 人というのはちょうど一クラス分,まとまりのよい規模であるようで,何をするにも一緒で却ってよく ないとのことでした。でも「お客さん」であるわたしにとっては,「クラス」の皆に暖かく迎えてもら い,楽しく滞在することができました。特に自転車を貸してもらって「クラス」で出かけた紫金山は, 紅葉の季節でもあり,その美しさと北方ほど乾燥していない空気の優しさとともに忘れられない思い出 です。 さて,南京大学の留学生宿舎はというと,古い建物で趣きはありますが,その中に住むのはなかなか 大変そうでした。まず,びっくりしたのは電話の呼出し。北京大学もそうでしたが,宿舎では電話は各 建物の一階にあるきりで,掛ける時も降りて行くし,自分に掛かって来たものは呼出しをしてもらって, 降りて行きます(今はもちろん違います)。北京大学の宿舎では部屋にブザーがついていて,階下でおじ さんがボタンを押すと部屋毎に鳴る仕組みになっていました(このブザー,慣れないうちは隣のTさんの 部屋のブザーと区別がつかず,二つの部屋の人間が同時に飛び出すことがしばしばだった)。これが,南 京大学に行くと,おばさんが中庭で叫ぶという仕組みになっていました。わたしがYさんの部屋に滞在 していた間にも,突然中庭から「Y,電話!」という叫び声が聞こえることがあり,Yさんは窓から顔 を出し,「はーい」とかなんとか言って部屋を出て行きます。なんとものんびりした呼出しです。 次がシャワー。北京大学と同じように宿舎内にシャワー室があり,わたしは北京での作法に則って, 洗面器にタオルだの石鹸だのを入れて持ち込みました。ところがここの人たちは誰も洗面器を持って来 ていません。その理由は個室の中に入ってすぐに納得できたのですが,洗面器を持って入っても置く場 所がないのです。小さな台の一つでもあれば,そこに載せられるのに,何もないので仕方なくコンクリ ートの床に直接置いて使い始めました。3つほど並んだ個室でそれぞれ盛んにお湯を流しています。5 分ほど経った頃,足元に異常を感じてふと下を見ると,お湯がくるぶしのあたりまでたまっています。 改めてよく見ると,わたしが使っている個室は一番下流に位置しており,全個室の排水が流れて来てい ました。排水口が小さすぎて流し仕切れず,水位がどんどん上がっています。とうとう床に置いた洗面 器が浮かび上がり,ぷかぷかと漂い始めました。個室の扉は床まで届かないタイプで下が30cmほどあ いており,洗面器はぷかぷかと出て行ってしまいそうです。洗面器は気になるし,足元は気持ち悪いし で,そそくさと出てしまいました。翌日は洗面器でなく,ビニール製のバッグを借りたことは言うまで もありません。どこに行ってもそれなりの流儀があるものだと思いました。それと同時に,あれでもや っぱり北京大学は恵まれていることを実感しました。 流儀と言えば,南京のアイスキャンディー売りも北京とは違っていました。北京では売り手は黙って 座っているか,「氷棍,雪[米+羔]!」と呼ばわって売るのが普通ですが,ここ南京ではアイスキャン ディーの入った木製の箱を小さな木片で拍子を取って叩いて売っています。公園等に行くとあちこちで 閑そうにトントコトントコやっている人がいて,最初はなにかと思いました。ちなみに中国ではアイス キャンディーは大人も街中で堂々と食べるもので,かつ寒い時にも食べるものです。 南京での最後の一日,「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」に行きました。当時の写真などととも に,虐殺の行われた現場から掘り出されたという遺骨が陳列されています。南京大虐殺については,あ ったとか,いやなかったとか,規模はもっと小さかったとか,いろんなことが言われおり,それを反映 してか,建物の壁に犠牲者の数とされる「300000」という数字が大きく彫り込んであるなど,多 分に政治的においのする記念館です。しかし,とにかくこれが中国側の公式見解であるということはよ く解ります。南京のことに限らず,日本が50年前の戦争のことでいまだにいろいろ言われるのは,こ ういう姿勢の欠如も一因なのではないかと思います。何か謝罪とか言って相手国に対して発言している ような場合にも,国内のいろいろな勢力の顔色を伺いながらという,内向きの態度がどうも感じられま す。これで対外的な信頼関係を作れるわけがありません。国内でいろんなことを言う人がいるのは仕方 がない,それはそれとして,日本国政府としては対外的にこういう内容を事実と認める,そしてそのよ うな見解を政府が持っているということを自国民に徹底させる,という姿勢こそ相手の信頼を得るため に必要なのではないでしょうか。 そうそう,南京を去る前に記念にYさんとおそろいで,黒と白のチェックのマフラーを買いました。 わたしはまだ時々使ってますが,Yさんはまだ持っているでしょうか。

無錫,蘇州 今回の旅行は,南京から,無錫,蘇州を回り,上海に抜けて北京へ帰る予定です。上海まで一緒にと Yさんを誘いましたが,行かないというので,一人で旅を続けることにしました。無錫では泊まらずに, 駅からレンタサイクルで太湖を望む[元/亀]頭渚まで行き,取って返してまた列車に乗りました。別 に急ぐ理由はなかったのですが,泊まる場所を捜すのも面倒だったし,湖以外には特に何もなさそうだ ったからです。駅で少し時間があまったので,駅前の店で小龍包を食べました。後で知ったのですが, それが無錫の名物だそうで,偶然にもそれが食べられたのは幸運でした。 次の目的地,蘇州に着いたのは暗くなってからでした。どこかに泊まるところをみつけなければなり ませんが,右も左もわからず,もうほとんど人通りもありません。困っていると,人力車のお兄さんが 声を掛けて来ました。宿を紹介してくれると言います。他に選択の余地はなく,ろくに値段の交渉もせ ずに乗り込んでしまいました。運を天にまかせるしかありませんが,ホテルに着くまでの時間の長かっ たこと。どんなところを走っているかもよく見えないし,どこかに連れ込まれるのではないかとか,み ぐるみ剥がれるのではないかとか,無事に着いたとしてもボラれるのではないかとか,あらゆることを 想像しました。幸い恐い目に遭うこともなく,料金も多少高めというところで,あるホテルの前で人力 車を降りることができました。しかも,わたしの身なりから察したのか,それなりのところに連れて来 てくれたようです。当時蘇州No.2のホテルが「南林飯店」と言いましたが,このホテルは「北林飯 店」という看板を掲げていました。この名前から中身は推して知るべしです。しかし,こちらとしては, 暗い心細いところで寝る場所が確保できたので,それだけで充分という気分でした。  蘇州は運河の街,石畳の街,庭園の街。手頃な大きさの街なので,自転車を借りて回りました。いか にも中国という絵があちこちに展開しています。張継の「楓橋夜泊」の詩で有名な寒山寺もこの街にあ ります。行って見ると,なるほど境内に小さな鐘楼があり,大晦日にはここで除夜の鐘を撞きに来た日 本人の列ができるそうです。寒山拾得の拓本が沢山売られています。笑ったのは門前の橋に「ここは楓 橋ではない,楓橋は隣の橋」と矢印付きの貼り紙がしてあったこと。きっと詩のせいですぐ近くにある ものと思い込んで来る日本人が大勢いるのでしょう。 借りた自転車を返す時,その駅前の貸し自転車屋のおじさんにある事を頼まれました。この頃観光に 訪れる個人旅行の日本人が増えたので,日本語の看板を掲げたい,ついては字の見本を書いてもらいた いというのです。まだ,汽車の時刻までは随分あったので,快く引き受けることにして,カタカナを教 えてもきっと怪しげなものになると思い,「貸自転車 1時間1元 1日10元」と書いて置いて来まし た。一体どんな看板に仕上がったのでしょうか。

上海 さて,今回の旅の最終目的地,上海に着きました。ここでは留学生なら割引で泊まれることで有名な (?)上海音楽学院に直行します。幸い部屋は空いていました。今回上海に行くにあたっては「上海−疾 走する近代都市」(藤原恵洋著 講談社現代新書884)という本を読んでいたので,黄浦江沿い,外灘の曲 線に沿って並ぶ西洋建築を眺め,イギリス租界とフランス租界とで形が違ったという当時の電柱やマン ホールの蓋を探し,無暗と歩き回りました。この後も休みのたびに旅行に出かけましたが,いつも結局 ひとり黙々と歩き回る旅になってしまいました。ただひたすら歩き,あちこち写真を撮るだけ。撮る写 真もその辺の路地とか,建物とか,目にとまった看板とかそんなものばかりで,帰国後見せても,人が 写っていなくてつまらない,こんなものを撮って何になるのかと家族の評価も散々だったのですが,ひ どい時には一日で口をきいたのは料理の注文をした時だけなんていうこともありました。歩いているう ちに自分でも一体ここで何をしているのだろう,という思いが湧いてきます。「旅」というからには現 地の人との触れ合いがあって然るべきではないのか,それとも,タクシーでも雇ってぐるっと回れば行 動範囲が広がってもっといろいろな体験ができるのではないか,などと考えながら,でも,そんな思い 切ったことはできず,疲れた足を引き摺ってほとんど苦行のように歩きつづけるのが常でした。今にな ってみると,これもまた,中国人社会の中に外国人としてひっそりと身を置く,一つのやり方ではあっ たと思います。  上海,秋と来れば,当然名物上海蟹ですが,どうしようか,随分迷いました。まず,食べるにしても どこに行ったらいいか皆目検討もつきません。店に入ってどう注文したらいいのかも問題だし,しかも 一人なので,食べられる料理も限られてしまいます。しかし,この次いつこんな機会が訪れるか分から ないし,ガイドブックに載っていた「新建酒家」という店に行くことにしました。ガイドブックに載っ ているくらいなので「外国人擦れ」していて,しっかり120元のコースをセットして来ました。100元と いえば,当時,為替レートはともかくとして,感覚としては1万円というところでしたから,貧乏留学 生としては大変な額です。通の人と一緒であれば,蟹だけ思い切り食べるということもできたのでしょ うが,仕方ありません。奥まった静かな部屋に通され,何品か蟹肉を使った料理が出た後,いよいよゆ でた蟹の登場です。雄雌一対二匹の蟹が皿に載っています。店のお兄さんが食べ方の手本を見せてくれ ます。小さなはさみで器用に殻を切り開き,中の身を取り出します。これを酢醤油につけて食べるので す。自分でも真似てやってみますが,お兄さんがやるとあんなにきれいに切り開かれたものが,どうも なかなかうまく行きません。お兄さんはずっと見守っているし,他に客はいないし,落ち着かなくて, 肝心の蟹の味は何だかあまり味わえませんでした。まあ,おいしかったと思うほかはありません。  上海からの汽車の中で男2人,女1人の3人連れの旅行者と一緒になりました。中国のものは信用で きないと言って,大量のパンを持ち歩き,3食それを食べていました。それこそ何のために旅行をして いるのかよくわからないのですが,3人は北京に着くと,わたしにホテル探しを手伝ってくれるよう頼 んできました。中国語は全くできない様子だし,かなり中国に参っているようだし,と義侠心を出した のが間違いのもと。彼らはまずタクシーを呼び,その値段の交渉をわたしにさせ,2軒のホテルで値段 が折り合わず,3軒目でも更に徹底的に値切ろうとします。間に入ったわたしはいい迷惑です。やっと 2部屋借りることになると,なぜ3人1部屋にしてくれなかったのかと文句を言います。中国では夫婦 でない男女の同宿は許可されないと説明しましたが,夫婦ということにしておけばいいと,なおも納得 しません。いい加減わたしも腹が立ったので無視して帰ってきてしまいましたが,反面,彼らのしたた かさに少し感心もしました。でも,後からよく考えたら3人なのだから,どう組み合わせても最低2部 屋は必要です。それにこちらは好意のつもりで手助けしたのに,彼らはどうも中国人と同じ人種である わたしにはサービスさせて当然という意識だったような気もします。彼らの国籍は敢えて秘します。ど この国にも,日本人の中にもこういう人たちはいるし,逆に中国から遠く離れた国にあっても,中国の ことを深く理解し,本当に愛している人たちがいるからです。

クリスマス・パーティー  12月に入るやいなや,Tさんのルームメイト,ドイツ人のアンちゃんは,完全にクリスマスモード になってしまいました。まず,友達から送ってもらったといって,組立て式のカレンダーを見せてくれ ました。小さな窓がたくさん並んでいて,毎日その窓をひとつづつ開けて行き,最後にクリスマスにな るというものです。次が,お母さん手作りというクッキーとチョコレートで,毎年必ず作ってくれるの だそうです。わたしたちにひとつづつ分けてくれましたが,後は大切に仕舞い込んでしまいました。ア ンちゃんが言うには,「このお菓子は,坐火車来了[汽車で来た]」そうで,なるほどそう言われてみれ ば,ドイツと中国とは確かに陸続きなのでした。  クリスマス・イヴには,Oさん,Tさん,Gさんとそれぞれの友達や友達の友達なども集まって,パ ーティーを開きました。中国人側は餃子を,日本人側は精進揚げを作ることにしました。Oさんはいつ も自炊をしているので,近くの市場で売られている野菜については特に詳しく,レンコン,インゲン, サツマイモなどがたちまちそろいました。料理のほうも京都人のOさん,大阪人のTさんが取り仕切り, 味のわからない関東人のわたしは助手に徹します。中国側の餃子作りは本格的で,まず皮にする小麦粉 をしっかり練って寝かせます。その練る手許を見ると見事な菊練りになっています。具のほうはパック に入った挽肉なんかは売っていませんから,固まりの肉を買ってきて丁寧に脂身を落とし,細かく切っ て叩きます。叩いているうちに挽肉とは全く違う,肉の練ったようなものが出来上がりました。他に入 れるものは白菜だけ,これも細かく刻んで,よく水気を絞ります。餃子と言えばニンニクが連想されま すが,本場では,食べる時に生のニンニクをかじりながら餃子と一緒に食べるということはありますが, 具の中には入れません。彼女たちの手際は本当に鮮やかで,寝かせ終わった小麦粉の固まりの中央に穴 を開けて引っ張って輪にし,それを切り分けて棒状にし,端から小さく切って丸め,綿棒で伸ばして皮 にします。中国の綿棒は日本のものと違い,15cm程度と短く,真ん中が膨らんで両端がやや細い形を しています。1分に約2枚の速さで次々と皮ができ,2,3人でどんどん具を包んで行きます。速いだ けでなく,出来上がった皮は真ん丸,包みあがった餃子は普通の形だけでなく,鳥の形あり,水のしず くの形ありと芸術作品に仕上がっています。試しに少しやらせてもらいましたが,見るとやるとでは大 違い,手つきだけは真似てみるのですが,伸ばせばいびつな形になってしまうし,時間がかかりすぎて 水分が抜けて皮が固くなり,包めば中身が出てしまうしで,ひどいものが出来上がってしまいました。 今では少しマシになりましたが,伸ばす時のコツは外へ引っ張って伸ばすのでなく,中心に向かって推 して伸ばすところにあるようです。今に至るまで,この時食べた餃子よりおいしい餃子にまだ遭遇した ことはありません。

湖の上に人が出るようになりました。すっかり凍ったのです。北京大学の中の未名湖は一部がスケー トリンクになって,貸しスケート靴という看板も出ました。残念ながらわたしは全く滑れないので,手 摺のないところではとても無理だと思い,あきらめました。 未名湖では小さいからと,もっと巨大な湖のある頤和園にTさんと出かけました。柵を乗り越え湖面 に出ましたが,最初は恐る恐る足を踏み出していました。毎年春になると必ずどこかで氷漬けの人間が 浮かぶなどと脅されてきたので,あまりいい気持ちはしません。氷が割れて落ちるとすぐにまわりの氷 が寄って来てくっついてしまい,助けようもないのだそうです。しかし,足元を見ると青く透き通った 水がそのまま奥のほうまで凍っていて,見ているうちに現実離れした不思議な空間にいるような感覚が 起こって来ました。Tさんに何枚が写真を撮ってもらい,そのうちの一枚が今テレフォンカードになっ ています。 12月28日,夜から雪が降りました。降ったといってもうっすら粉砂糖を振り掛けた程度です。こ の年は1月5日と6日にもう一度,もう少し多く降りました。北京は冬,寒いところですが,乾燥して いるので雪はあまり降りません。降ると乾燥が和らいで,すすけた街の景色も明るく見えるので,北京 の人たちは大変喜びます。わたしはと言えば,もちろんカメラを持って街中に出かけて行きました。古 い民家の屋根瓦の黒と雪の白が美しい模様を描き出しています。雪はいわゆるパウダースノー,雪合戦 用の弾を作ろうにもどうにもまとまらないような雪です。積もってすぐはほうきで掃いてしまうことも できますが,そのままのところは踏み固められて行きます。東京では昼間いったん溶けたものが夜に再 び凍ってつるつるの路面が出来上がってしまいますが,一日の最高気温が零下の北京では,降ったまま の粒がそのまま押し固められる感じです。しかし,やはり滑ることには変りありません。それでも自転 車で出かけてしまう人たちの乗り方は芸当の域に達しています。固まった雪もいつかは消えてなくなり ますが,溶けて消えるというよりは,そのまま蒸発していると言ったほうがあっているかもしれません。 さて,中国では正月は旧正月のほうを祝うので,年末年始は3,4日授業が休みになり,中国人学生 が主催するみかんとピーナッツと歌の清く正しいパーティーがあっただけで,特にどうということもな く,また昭和天皇の崩御というニュースも何かピンと来ないまま,1988年は暮れ,1989年が静 かにやって来ました。(PART2完 1998.6.20脱稿)

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