北京大学留学生活回想録PART3

東北旅行,春節,福建旅行(89年1月〜89年2月)

 また、また、Tさんからのご指摘です。
 PART2クリスマスパーティーのときには、わたしのルームメイト、Oさんはいなかった、という
のです。それどころか、Oさんの留守中に勝手に彼女の大切な油をてんぷらのために使ってしまい(ある
いは、断ってはあったけれど、予想以上にたくさん使ってしまい)、あとで怒られたというあらたな事実
も指摘されました。そう言われてみればそうだったような気もします。買物でOさんの経験がものを言っ
たのは別のときで、混同してしまったようです。

ハルピンにて  1月の20日前後に、前期末の試験があり、いよいよ春節の休みになります。  春節の休みに入ってすぐ、東北地方に行くことにしました。最大の目的はハルピンの氷祭りを見るこ とです。行きはTさん、Oさん、Oさんの友達と一緒に行くことになりました。  北京を8時35分に出た汽車は、3時間遅れの9時にハルピンに着きました。汽車がハルピンに近づ くにつれて、周りの乗客たちは羽毛入りのズボンなどを着込み始めました。わたしたちもぶくぶくに着 ぶくれて到着です。気温はマイナス20度。不用心に空気を吸い込むと、鼻の奥が痛くなり、喉がむせ てしまいます。マスクをすると良いと聞いていたのでしてみましたが、吐いた息が白く眼鏡に凍り付い て何も見えなくなるので、すぐにやめてしまいました。それでも今年は暖かいとかで、現地の人には、 南方から来たのだろうとよく言われました。一つには歩き方もあります。雪の深さはそれほどでもない のですが、完全に凍って踏み固められ、大変滑りやすくなっています。我々はちょこちょこと恐る恐る しか歩けないので、不慣れなことがすぐにばれてしまいます。しかし、どういうわけか、日本人か、と 聞く人は少なく、広東から来たのか、とか、中には南朝鮮から来たのだろうという人までいました。い くら「南」が付くからといって、韓国はそんなに暖かくはないだろうと思うのですが。  ところで、この「南朝鮮」という言い方は、今ではすっかり「韓国」に取って代わられました。現在 中国には韓国からの留学生が大勢いますが、当時北京大学には逆に北朝鮮の留学生しかいませんでした。 それも数人だけでしたが、噂では彼らは定期的に会合を持っていて、成績の良くない者、西側の人間に 近づきすぎた者は批判され、国に送り返されるのだということでした。 ハルピンはロシア人が多く住んでいた街で、ロシア風の建物が並んだ石畳の通りがあり、中央大街と 言います。この通りを北に進み、松花江の川岸にぶつかる手前を東に折れたところに兆麟公園という公 園があり、そこが氷祭りの会場です。氷を積み上げ彫刻を施した建物だの、滑り台だのが、ぐるっと並 んでいます。氷は完全に透き通っていて、継ぎ目だけが白く、透明なブロックを積み上げたような感じ です。昼と夜と両方出かけてみました。昼は北国の淡い陽の光を浴びて、きらきら光り、夜は中に埋め られた赤、青、緑のネオン管が光り、どちらも綺麗です。ただ、とにかく下が滑ります。人も多いので、 はぐれないようにしなければならないし、写真は撮りたいし、おちおち眺めてはいられません。そうこ うしているうちに、寒さで疲れてしまうので、もっと見ていたいと思いつつ、ホテルに帰るのでした。 「写真の師匠」Tさんが、寒いとカメラが冷えて、シャッターの切れるのが遅くなる、コートの中に 入れて、あまり冷やさないほうがいいと教えてくれていました。確かにハルピンに着いて以来、シャッ ターを押してから切れるまで時間がかかり、その間ずっとカメラを構えたままにしなければならなくな りました。言われた通りコートの中に入れて持ち歩いてみてもだめで、マイナス20度ともなればそん なものかと思っていたのでした。 ハルピンにはもう一ヵ所行っておきたい場所がありました。森村誠一「悪魔の飽食」に描かれた「七 三一部隊」の駐屯地の跡です。他の人たちは行きたがらず、一人で行くことになりました。「××の歩 き方」に出ていたバス停でバスを降りますが、どちらに行っていいかよくわかりません。通りかかった 人に道を尋ねると、日本人だということがすぐにわかったようですが、親切に道を教えてくれました。 むしろ日本人がこの寒い時にわざわざこの場所を見に来たということを、その人は喜んでくれているよ うだった、というのはこちらの思い込みでしょうか。  生物科学兵器を製造し、その効果を試すために中国人を生体実験に使ったというその場所は、一部が 中学校になっていて、残りが展示館になっています。日本だったらそんな跡地に決して中学校は作らな いだろうと思うのですが。展示物は写真と当時使われた医療器具、細菌を保存したという容器などです。 こんな場所ではいつも、どんな態度でいたらいいのかよくわかりません。とにかく見ておく、というこ とが精一杯できることのようです。  さて、ハルピンを立ち去る日、駅に向かう途中の跨線橋にさしかかると、ちょうど向こうから蒸気機 関車が走って来るところでした。写真に撮ろう、と思ったわたしは、羽毛入りコートの中からカメラを 取り出しました。でも、寒さで動作が遅くなっています。間に合うでしょうか。とにかくシャッターボ タンを押し、そのままカメラを構えていました。その時、ふと、カメラに着いている赤いランプが点滅 しているのに気がつきました。点滅はやがて速くなり、そしてシャッターが切れました。何のことはな い、カメラの動作が遅くなっていたのではなくて、ずっとタイマーがセットされている状態だったので す。コートの中から出し入れしているうちに、どこかでひっかかってしまったのでしょう。いつからそ の状態だったかは永遠の謎ですが、手元には何を撮りたかったのかよくわからない写真がたくさん残っ ています。もちろん、蒸気機関車も写ってはいませんてせした。

長春にて  考古学が専門のOさんは、どこかの遺跡を見に行くということで、Tさんとわたしの2人だけでハル ピンを離れました。今度の目的地は長春です。  ロシア風のハルピンに対して、「満州国」の首都だった「新京」長春には、日本の残した「遺産」が 多く残っています。たとえば中国共産党吉林省委員会の建物はかつての「関東軍司令部」、春誼賓館が 旧「大和ホテル」(ここに泊まりました、中も古いまま)、吉林省博物館が元の「皇宮」、傀儡政権のと いうことで、中国では「偽皇宮」と呼びますが、地質学院は新しい皇居となる筈だった場所、医学大学 のある場所が「満州国」の官庁街、といった具合です。これらの建物の多くは、西洋建築の上に日本風 の瓦屋根の乗った独特の形をしています。帝冠様式と呼ばれるもので、九段下にある九段会館(旧「軍 人会館」)、神奈川県庁、愛知県庁などが同じ様式です。その中を歩き回っていると、島国の人間が大 きな大陸にかけた夢の跡といった感じがして、季節も薄暗い冬ですし、なんとなく荒涼とした気持ちに なってきます。もちろん、長春は今立派な都市として機能しているので、そんなのはつまらない感傷に 過ぎず、また、夏にでも来ていたら、ずっと違った印象になったことでしょう。  とにかく長春も寒くて、長時間は歩き続けられません。そこであちこちのホテル、デパートなどで休 憩をとりつつ、ということになるのですが、どこかに入るたびに靴音がカツカツと響くのに気がつきま した。北京で買った「雪地保温鞋」というのを履いていたのですが、そのゴムの靴底が、表をしばらく 歩いていると凍って固くなり、まるで革靴の底のようになって、滑りやすくなるのでした。暖かいとこ ろに入るとまた柔らかくなり、音もしなくなります。  さて、かつての官庁街を見ての帰り、「長春電影制片廠」の前に差し掛かりました。中国で最も有名 な映画製作所の一つで、見学コースがあります。するとTさんがここを見て行こうと言いだしました。 時計を見るともうじき3時。冬の間は3時が閉館時間だそうです。もうギリギリだから明日にしようと いうと、いや、明日は日曜日だからきっと休みだ、月曜日の汽車の切符がもう買ってあるのだから今日 しかない、と言うのです。そう言われてみれば、今日は土曜日、慌てて切符売場に行きました。しかし、 閉館間際でもう切符は売らないという係のおばさん、こんな時は「わたしたちははるばる日本から、わ ざわざここを見に来て、明日にはもう帰国しなければならない作戦」しかありません。この「作戦」の 効果のせいかどうか、わたしたちは無事切符を手に入れることができました。気の毒だったのは、案内 係です。わたしたちは要らなかったのですが、外国人の見学者には必ず案内をつけなくてはならない、 という決まりがどうやらあったらしく、もう「下班」だった筈なのに、いやな顔一つせず、丁寧に撮影 所内を案内してくれました。紫禁城の宮殿内や、清朝の頃の北京の街並みを再現したセットなどがあり ます。すでに人気はなく、なんとなく足早の落ち着かない見学になりましたが、幸運にもスタジオの一 つで「開国大典」の撮影が行われており、毛沢東そっくりさんの演技をワンカット見ることができまし た。翌日、また前を通りかかると、案の定休館で、この時見学して本当によかったと、Tさんに感謝す る次第です。  「偽皇宮」は日本が長春を「満州国」の首都とした時に、溥儀を皇帝として迎えたところです。ここ のダンスホールは、映画「ラストエンペラー」でダンスパーティーのシーンの撮影に使われており、な るほど映画の通りです(当たり前か)。そしてここに展示してあった当時の玉座とは、最近になって意外 なところで再会しました。この玉座の置かれた部屋のインテリアをデザインをしたのが現在の千葉大学 工学部の前身、東京高等工芸学校なのだそうで、その歩みを紹介する展覧会でこの玉座と周囲の装飾品 の複製とデザイン画が展示されていたのです。これも当たり前と言えば当たり前ですが、過去は現在に つなかっているのだなぁと妙な感慨を持ちました。

瀋陽と撫順  次に訪れたのは瀋陽です。3時過ぎに瀋陽駅に着いたので、ゆっくり落ち着いてホテルを探すことが できます。まずは目星をつけていた遼寧賓館に行ってみると、一人50元の部屋しかないということで した。ガイドブックに出ていた金額よりずっと高いので、交渉してみましたが、まったく下げてくれま せん。そこでわたしたちが次にとった行動は、フロントで電話を借りて近くの東北飯店に値段を聞くと いうものでした。我ながらすごいことをしたものだと思いますが、なんとその結果、遼寧賓館に突然、 2人で65元の部屋が現れたのですから、そっちもすごいと思います。  瀋陽には、ミニ故宮があります。清朝が勢力を拡大して北京に進出するまで、ここを都としていたか らです。ミニ十三陵や張作林爆殺現場、「満州事変」の勃発した柳条湖なども近くにあるのですが、酷 寒の地に一週間、毎日歩き回っているためさすがに疲れがたまり、精力的に動く気にはなれません。故 宮を見て後はぶらぶらしました。  しかし、もう一カ所どうしても行かなければならない場所がありました。撫順にある平頂山というと ころです。ここには万人坑と呼ばれる場所があり、日中戦争時ゲリラ掃討という口実で、日本人が住民 を集団虐殺した現場です。万もの人が埋められている坑(あな)です。瀋陽の駅から撫順駅まではバス で1時間半ほど。市内の路線バスに乗り換えて、平山街というところで降りなければならないのですが、 思っていたより市街に近いところだったらしく、どうやら乗り過ごしてしまったようです。車掌さんに 尋ねると、もう通り過ぎてしまった、もうじき終点で折り返してくるからそのまま乗っていなさい、と いうことでした。引き返してきて平山街に着くと、今度は降りるように教えてくれました。結局、乗り 過ごした分と引き返してきた分はタダ乗りしてしまったわけです。  さて、万人坑は現在は、当時死体を埋めた表面の土のみが取り除かれ、そこにかぶせる形で建物が建 てられており、「平頂山殉難同胞記念館」になっています。中に入ると、まず周辺の地形の模型があり、 案内人が当時の状況を説明してくれました。ここは崖下に位置し、日本軍はすべての住民をここに集め て殺し、崖の土をくずして埋めたのだそうです。そして、奥が表土を取り除いただけの現場でした。死 体はすでに白骨化しており、何も語ることはありません。でも、その不自然な形に折り重なった様子が 当時の状況を示しています。発すべき言葉もなく、わたしたちは黙々と見てまわりました。案内人も、 何も言わず黙ってついてきます。その沈黙がどんな饒舌にも勝っていたことはいうまでもありません。 現在南京での事件については取り沙汰されることがありますが、それだけを問題にして済むものではな く、中国全土でのこうした行為の積み重ねがあったことを、忘れてはならないと思います。  撫順ではさらに、蒸気機関車が螺旋を描いて上り下りする広大な露天掘りの炭田と、溥儀が服役して いた撫順戦犯管理所陳列館を見て瀋陽に戻り、翌日の汽車で北京に帰ってきました。

春節  2月2日に北京に戻り、一息つくと、2月5日が旧暦の大晦日です。地壇公園の「廟会」に行きまし た。提灯や風車などの民間工芸品、シンコ細工に景品付き輪投げ、素人芝居にのど自慢、そして各種 「小吃」と、縁日にありそうなものは皆揃っています。そのすべてが赤、青、黄、緑、桃色の強烈な配 色に彩られています。しかしその配色は決して不調和ではなく、灰色にくすみがちな冬の北京に活気を 与え、温かみを感じさせるものになっています。  下町で本場の春節を過ごしたいと、Tさんと一緒に、天壇公寓にある某企業駐在員Cさんの部屋に泊 めてもらうことにしました。天壇といえば下町という発想だったのですが、行ってみると北京の街のは ずれもはずれで、さらに外国人用アパートがあるくらいですから、下町という雰囲気からはかなりはず れた場所でした。それでも、Cさんの友人も来ていて、にぎやかな大晦日になりました。真夜中0時を 前に外に出てみました。近所をウロウロしてみましたが、どうということはありません。ところががっ かりする間もなく、0時になったとたん始まりました、ものすごい数・音量の爆竹です。ひも状につな いだ爆竹を街路樹の枝や、手に持った棒の先につけて長く垂らし、下から火をつけると、火が燃え登る とともに順に爆竹が爆発します。あまりの音に耳は麻痺するし、火の粉は飛んでくるし、煙と火薬のに おいがあたりに立ち込め大変なものです。後には火薬を包んでいた赤い紙の破片が紙ふぶきのように降 り積もります。この爆竹で毎年数人の負傷者が出るそうですが、アパートの4、5階の窓から1階まで 届くような長い爆竹を垂らしている人もいるのですから、無理もありません(下の住人はどこに垂らし たらいいのか)。1994年にはとうとう市内での爆竹は禁止になってしまいました。その年の春節に は爆竹の音を録音したテープというのが売り出されましたが、あまり売れなかったと見えて、あるいは それも禁止されたのか、その後は見たことがありません。  初一は今度は龍潭公園に行ってみました。こちらでも廟会が開かれています。これはこれで楽しいで すが、春節はやっぱり家族や親戚と過ごすためにあるようで、どちらかというと家にこもって過ごすも ののようです。今回は幸い友人たちと過ごすことができましたが、もしも単なる個人旅行者として来て いたら寂しい思いをしたに間違いありません。びっくりしたのは、北京駅の駅前広場。普段は地方から 出てきた人たちが行くあてもなくごろごろしていたりして、大変な混乱なのですが、春節のこの数日間 はそれがきれいにいなくなっていて、広場が広ーく空いていました。

汽車の切符と外貨兌換券  Cさんの家からの帰り、Tさんと北京駅に立ち寄りました。春節休みの残りを広州で過ごそうと、汽 車の切符を買いに行ったのです。  各種個人旅行マニュアルでつとに有名なとおり、中国の汽車の切符は買うのに一苦労です。オンライ ンシステムというものがありませんから、行き先別、予約か当日かの別などによって決まった場所の決 まった窓口に行かなければならず、まずどこに並ぶかというのが大問題です。並んだら並んだで、列は ちっとも進まず、割り込みとそれを取り締まる駅員とのけんかもあり、2時間や3時間かかるのは当た り前ですし、やっと自分の番が来たと思ったら「没有」と言われ、「じゃあ、硬臥でなくて軟臥でもい い、午後の汽車じゃなくて午前のでもいい」といろいろ妥協の姿勢を見せてもなぜかすべて「没有」の 一言、わけのわからないまま追い払われてしまうということもしばしばでした。駅員のほうから「この 列車のこの席ならある」といったような情報提供は一切受けたことがありません。  北京駅は、これらの点でまだましでした。というのは、駅の奥の方に「外国人専用窓口」というのが 設けられていて、そこでどの行き先の切符でも3日前から買うことができたからです(他の地方都市の 駅にも「外国人・軍人専用窓口」といったものがあるのだが、開いていた試しがない)。しかしこの 「外国人専用」も何か特殊な関係や紹介状を持っていれば、中国人でも利用できるらしく、実際にはほ とんど中国人で混雑していましたが、それでも最大1時間並べば用が足せました。紹介状が必要な他に、 ここでは通常の倍の外国人料金で売っていたので(これも何か抜け道があったのかも知れませんが)、 やはりそれ相応の地位や収入のある人たちが利用しているようで、ここで買った切符で汽車に乗ると、 乗り合わせた人たちの雰囲気が一味違う感じがしたものです。留学生は学生証を見せると半額になりま す。倍になっている外国人料金の半額で、ちょうど通常の料金で買うことができました。  「外国人専用窓口」にはもう一つカラクリがありました。当時はまだ、市中に流通している人民元と、 銀行で外貨を両替するともらえる外貨兌換券との二本立てでした。「外国人専用窓口」では外国人は外 貨兌換券を使わなくてはならなかったのですが、国費留学生は奨学金(当時高級進修生で月303元) を人民元でもらっていたために、「免収外貨兌換券優待証」というものが支給されており、これがあれ ばこういう場所でも人民元を使うことができたのでした。外貨兌換券は当時闇で額面の1.8倍くらい (違ってたらまた誰か訂正をください)の人民元と交換できました。ということで、「学生証」と「優 待証」を組み合わせて利用すればかなり安く切符を買うことができたのです。

福州に行こう  さて、「外国人専用窓口」では、まず先に申込書をもらい(ただではなかったような気がする)、そ れに希望の行き先や日時、切符の種類、枚数などを書きこんでから列に並びます。数10分並んでわた したちの番が来ました。しかし。広州行きの切符はことごとく売り切れ、どうやっても買えそうもあり ません。広州はすでに経済発展目覚しく、ビジネスで行く人も多く、簡単には買えなくなっていたので す。どうしようか。と思いながら壁の鉄道路線図を眺めていると、ふと福州という文字が目に入りまし た。よし、じゃ福州にしよう。もともとどこでもよかったんだし、南は南だ。ところが、Tさんはよっ ぽど広州に行きたかったらしく、広州がだめならもういい、どこにも行かない、と言い出して、結局一 人で行くことになりました。むくれるTさんに待っててもらい、もう一度並びなおして、福州行きの切 符を一枚だけ買いました。こうしてわたしは一人福建省を旅することになったのでした。  早速ガイドブックをめくります。福州から長距離バスで泉州、厦門(アモイ)と進み、余裕があれば 広州まで行こう、となんとも大雑把な計画を立てて、2月10日、北京駅10:38発福州行きの列車 に乗り込みました。これから2泊の汽車の旅です。「硬臥[2等寝台]」はベッドが3段、6人ごとに 仕切りがありますが、ドアは付いていません。一人旅の時には、4人で閉め切りのコンパートメントに なっている「軟臥[1等寝台]」よりずっと気楽です。日本の寝台車は通路に平行にベッドが並んでい ますが、広軌の中国では車両の片側が通路になっており、ベッドは通路に直角に作られています。「硬 臥」に乗る時はわたしはたいてい上の段を買いました。下段だとベッドを座席代わりに提供しなければ ならないし、中段はちょうど人が立った時の目の高さだし、上段なら荷物も多少安心だからです。乗り 込むとすぐに車輌担当の車掌が小さなポケットのいっぱい付いた専用のバインダーを持って乗客の間を 回り、切符とベッドの札を交換します。車掌はこの札でベッドの空きなどを管理します。降りる時に札 を返して、切符をもらうのです。  各仕切りごとに魔法瓶が一つか二つ備えられており、乗客が交代でデッキにあるボイラーまで汲みに 行きます。客は皆ホーローの巨大なカップやガラス瓶(インスタントコーヒーの空き瓶再利用が多い) を旅行用に持ってきており、各自湯や茶を飲みます。食事時にはその巨大カップでインスタントラーメ ンを作って食べる人もいます。寝台なので、トイレのほかに洗面台もついていますが、2日も走ってい るとどちらもどんどん汚くなり、仕舞いには水もなくなってしまいます。ここにもお作法があって、ま ず歯を磨く時は洗面台にかがみこみ、口を開けたまま磨くこと。次に顔は水を流して洗うのでなく、タ オルを濡らして絞り、それで拭くこと。これは水が節約できてなかなかいい方法ですが、注意点は拭く 際にタオルを動かすのではなく、顔を動かすこと。濡らしたタオルは通路の荷物棚に掛けて干しますが、 外から見えてはいけないのか、窓枠より下に垂れていると掛け直しに来る車掌もいました。途中、停車 駅が近くなるとトイレには鍵が掛けられてしまいます。停車中は使えないのです。なぜなら浄化槽とい うようなものはついていないから、おっとこの先は書くのがはばかられます。  さて、そんなこんなで済ませることを済ませてしまうと後は本を読むかおしゃべりでもして過ごすほ かはありません。この汽車の中でわたしは泉州の元宵節はなかなかにぎやかだ、ということを聞き及び ました。昔から海外に出て行く人たちが多かった土地柄で、その子孫の華僑がたくさん出資するのだそ うです。この年の元宵節は2月20日、それに合わせて泉州に行くには、福州から先に厦門に行き、そ れから泉州に戻らなくてはならない。ここで急に計画変更となりました。

福州の温泉  汽車は3日目の朝、福州に到着しました。氷点下の東北から一気に3000キロ南です。  これまで文句を言いつつも何かと頼りにしてきた「地球の×××」も、福州についてはほんの数行書 かれているのみで、地図すらも載っていません。まずは駅前で地図を買い、バスに乗って汽車の中で教 えてもらった[門+虫]都大厦というところに部屋を取り、行動開始です。と言ってもさすがに数行で 片付けられていただけあって、林則徐記念館といくつかの公園と港、古い街並みを再現したという商業 街があるほかは、これと言った見所もありません。港に行く途中の鼓山というところにある湧泉寺はよ かった。先がピンと跳ね上がった福建風の屋根が独特です。元宵節を前に赤や桃色の提灯が売り出され ている通り、古い家並みが残る路地なども歩いてしまい、とうとうすることがなくなってしまいました。 福州の名物といえば後は温泉しかありません。地図には温泉公園という場所があります。そこにいって みることにしました。  公園というからには、箱根のあたりにあるような湯の噴出しでも見られるところがあるのかと思って いたのですが、いきなり入り口が「女浴室」と「男浴室」とに分かれていて、まるでプールの更衣室の ようです。シャワーを浴びるだけというのと、個室で浴槽につかれるというのがありました。中国でこ の手の場所はあまり清潔とは言えないことが多いし、こちらは眼鏡を取ってしまうと足元も見えないほ どの近眼なので、ちょっと不安なものはありましたが、ここまで来たからにはと、思いきって2元を払 い個室に入りました。情緒のかけらもないタイル張りの浴室にタイル張りの浴槽がドンと据え付けられ ていて、正直あまり気持ちのいいところではありません。係のお姉さんがホースをつけてバルブを開け ると、すごい勢いで湯が出てきました。大きな浴槽がたちまちいっぱいになります。でも湯は無色透明 だし、温泉だかなんだかさっぱりわかりません。とにかく記念に湯につかり、そして出てきました。

厦門のお茶会  福州から厦門までは列車もありますが、長距離バスで行くことにしました。朝8時半に福州を出発し、 夕方4時過ぎに厦門に着くという強行軍です。長距離バスでの苦労話もいろいろありますが、それはま たの機会に譲るとして、厦門では厦門大学の留学生宿舎に泊まることにしました。厦門大学は正門の向 かい側が南普陀寺という仏教寺院、中に入れば広い敷地の中に赤と緑の揃いの福建風屋根を載せた校舎 が点在し、運動場の先が砂浜になっているというところです。魯迅ゆかりの地でもあり、記念館が構内 にありました。厦門はもともと小さな島で、今は道路と鉄道の走る海堤によって大陸側の集美という地 区と結ばれています。西側の鼓浪嶼という島も厦門の一部、反対の東側は、かつて台湾との間で緊張状 態にあった金門島です。街の中心部は島の西側にあり、港を角にして鉄道駅と厦門大学とが結ばれた横 向きV字型の分かりやすい構成。洋館から福建風の民家まで建物のほとんどに赤レンガが使われ、統一 感があります。島の中心が山なので、山を背にして街が広がり、そこに海風が吹きつけて、大陸的真っ 平らな街ばかり見てきた後で、ちょっと懐かしい、ほっとする感じがしました。  鼓浪嶼に渡って日光岩や鄭成功記念館(霧が濃いと閉館になる)、厦門博物館を見ての帰り、港で大 学行きのバスを待っていると、ある男性が声を掛けてきました。上海の同済大学の学生で、厦門大学の 友達のところに泊まっていると言います。当然大学まで一緒になり、その友達の宿舎まで誘ってくれま した。これはナンパかと身構えましたが、好奇心のほうが勝り、結局ついていきました。宿舎は北京大 学の中国人学生用宿舎と似たような作りで、二段ベッドが並んでおり、その時は5、6人部屋にいたで しょうか。そのうちの一人のお姉さんが田舎から来ていて、お土産が干し芋とお茶、随分質素なナンパ です。しかし、こんな学生宿舎の中で本格的な「工夫茶」のセットが出てきたのには驚きました。一口 大の小さな湯呑と、小さな急須、盆がセットになったあれです。そんなに高級そうではありませんが、 大きなカップにどさっと葉を入れて湯を注いでしまう北京の学生とは随分違います。さらに他の人もそ れぞれ自分の茶を出してきて、利き酒会ならぬ利き茶会となりました。これが南方の文化というものな のでしょうか。南の人が北は野蛮だというのも納得できてしまいそうでした。  厦門を発つ日の朝、時間があったので、運動場の先の浜辺に行ってみました。わたしには水辺に行く と裸足になって水に入りたくなる、という習性があり、ここでもそれが出てしまいました。だって、2 月の中旬というのに、北京の5月並に暖かいのです。しばらくピチャピチャやっていると、どこで見て いたのか、またもや突然、「海は初めてか。」と声を掛けられました。中国の内陸には海を見ずに一生 を終える人がいくらでもいますから、そんな風に、いかにも海が珍しそうに見えたのでしょうか。いま さら島国日本から来たとも言えず、黙ってこそこそと靴をはいて帰ってきました。

泉州の提灯  3時間のバスに揺られ、最終目的地となった泉州にやってきました。そろそろ後期の授業も始まるの で、着いてすぐ旅行社に行き、「汽車火車聯票」という、福州行きのバスと福州―北京の汽車の切符が セットになったものを買いました。  泉州はこじんまりした街で、自転車があれば充分なところです。板塀の平屋の家が並んでいますが、 陰気な感じはなく、提灯屋の店先が華やか。また昔から海の交易ルートの重要な拠点の一つだったため に、開放的な、エネルギッシュな雰囲気です。ここに居着いたイスラム商人もかなりいたらしく、イス ラム風の装飾をつけた民家があったり、春聯(赤い紙におめでたい対句を書いて戸口に貼るもの)や 「福」の字を書いて貼り出す赤い四角い紙にも、漢字でなくアラビアの装飾文字が書かれていたりしま す。海上交通史博物館には、近くの海底から引き上げられた交易船が展示されていました。あとは、双 塔を持つ開元寺と、老君岩などがある清源山が有名です。そうしてうろうろしているうちに、どうやら この街の中心は人民体育場のあたりであり、元宵節のメイン会場もそこらしい、ということがわかって きました。  さて、いよいよ、元宵節の当日です。元宵節というのは陰暦の1月15日の夜の行事、春節の最後を 締めくくるもので、提灯を飾るのが習わしです。夕食を済ませ、暗くなるのを待って、まっすぐ体育場 へ行きました。入口に大きな見事な提灯が掛けられています。期待は高まります。ところが。一番の目 玉、華僑の資金提供で作られた提灯というのは、門の二階に品評会のようなかたちで展示されているら しく、それを見るには切符を買って入らなければならないということがわかりました。そしてその切符 売り場がとんでもない状態だったのです。売り場の前で一群の人たちがひたすらもみあっています。き ちんと並べはもっと効率良く買えるのにと思うのですが、思っても仕方がありません。わたしもこのや り方に少しは慣れてきたつもりでしたが、ここはちょっとスゴ過ぎました。これまでの「外から見れば 混乱に見えても中にはそれなりの秩序がある」というのとは違って、「中に入ってもやはり混乱」なの です。値段がその辺に書いてあれば、ちょうどのお金を持って手だけ無理やり差し出すということも出 来たかもしれませんが(それもかなりの覚悟が要りそうでしたが)、それもなく、誰かに聞こうにも皆 殺気立っていてそれどころではない様子なのです。しばらく近くから呆然と眺めていました。でも、こ こでなくてもにぎやかな場所は他にもあるだろう。そう考えたわたしは、そこはあきらめて街へ出まし た。しかし。街中には提灯は飾られているものの全体に薄暗く、体育場の賑わいとは比べ物になりませ ん。結局あの体育場がすべてだったわけで、北京行きの汽車に乗りこんだ後も、見られなかった品評会 が心の中でどんどん素晴らしいものになっていったのでした。(PART3完 1998.11.20脱稿)

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