北京大学留学生活回想録PART4

北京の春と四川旅行,そして...(89年3月〜89年5月)

後期授業開始
 PART1でもご紹介しましたが,88年度にわたしのとった授業は,前期が,陸倹明先生の「語法
研究」,馬真先生の「漢語虚詞」,朱徳煕先生の「語法分析」,後期が,陸倹明先生の「現代漢語」,
王福堂先生の「漢語方言調査」,朱徳煕先生の「語法分析」でした。
 陸先生の授業は中国人学生と一緒で,ただ内容は中国語文法の概説なので,全然聞き取れなくて困る
というようなことはありませんでした。感心したのは中国人の学生の授業中の態度です。大きな教室の
大勢の学生の前で,特に先生の指名がなくとも積極的に立ち上がって発言し,高名な先生に対して堂々
と自分の意見を述べるのには圧倒されました。94年に自分が中国人に授業をする立場になったときに
も感じましたが,日本で見られるしらっとした受け身の姿勢はここにはなく,中国人学生はもっとずっ
と主体的に授業に参加します。
 馬先生の授業は留学生対象で,「虚詞」と呼ばれる,文法的な働きをする語の使い方を,豊富な用例
とともに解説する授業です。後期にはほとんど同じ内容を中国人学生向けにするのだということでした
が,留学生用にゆっくりやってくださっていたようです。
 朱先生の授業は,大学院生のもので,わたしは正式にはとってはいませんでした。そのため,とさら
に恥ずかしながらほとんど聞き取れなかったために,出たり出なかったりでした。行くとたいてい院生
を相手に何か話しているのですが,たぶんそれぞれの研究テーマについて報告させ,アドバイスしてい
たのだと思います。それでも結果的に,わたしは朱先生の北京大学での最後の授業に出たことになりま
した。というのも,この年の4月の下旬からは,「6・4天安門事件」にいたる一連の動きの発端とし
て,学生の授業ボイコット運動が始まり,それが多少下火になったときにゲリラ的に一度だけ授業が行
われたのですが,「事件」後,朱先生はアメリカに招聘され,そのままあちらで亡くなったのです。学
生寄りの発言をしていたので,身の危険があったのだとも聞きました。こんなことになるなら,もっと
まじめに出席して,ノートもちゃんと取っておくのだったと思います。
 王先生の授業は,外国人留学生と国内留学生用の授業でした。期末に方言の調査旅行に行くというの
でとったのですが,わたしにとってはまったくの音声学の復習で,クラスで一番できてしまいました。
王先生には随分誉めていただきましたが,複雑な心境でした。結局この授業も4月下旬からうやむやの
うちにくなってしまいましたが。
 北京大学は古い建物も多く,机も椅子も傷だらけ,三方にしか壁のない,「開放的な」教室で,真冬
にコートを着込んだまま授業を受けるというようなことさえありましたが,その恵まれているとは言え
ない条件の下で,中国人学生は一生懸命勉強していました。大学進学率が低く,また,その中でも北京
大学という名門大学に通うエリート意識というものがそうさせるのか,日本の状況と比べていろいろ考
えさせられました。

北京の春  さて,春節を過ぎると,池や川に張った氷に誰も乗らなくなりました。「春節」の名の通り,なんと なく空気が和んできて,空ももやってきたような気がします。しかしこれはもやではなくて,砂埃。北 京の春と言えば,黄砂を運ぶ風と決まっています。それでも緑化が進んで年々よくなっているそうです。 確かに89年には首から上を薄手のスカーフですっぽり覆っている女性がちらほらいましたが,94年 にはそんなことをすると,よっぽどの田舎から昨日出てきたばかりとみなされかねない状況でした。  そして,春もやはりある日突然やってきました。ほんの2,3週間の間にあらゆる種類の花が一斉に 咲き,一気に気温が上がりました。まず咲いたのは黄色い迎春花。日本ではレンギョウと呼ばれる花で, 北京ではその名の通り,この花の咲くのが春の来る合図です。後は杏,梅,桃,木蓮,リンゴ,海棠と 次々に咲き,最後が桐の花。そして木々の枝の先が緑色を帯びてきます。寒くて色の乏しい冬の後でこ れらの満開の色を目にするのは本当にうれしいものです。桜の花は色が淡いせいか,この土地ではあま りにも弱々しく見えます。桜がまとまって植えられているのは玉淵潭公園ですが,94年の春にここへ 出かけた時,北京電視台に出演してしまいました。街頭インタビューとでもいうやつでしょうか(公園内 だから街頭ではないが),最初はたまたまそこにいた人としてマイクを向けられたのですが,日本人とわ かると,桜に日本人とはおあつらえ向きというわけで,わざわざ撮りなおしてくれました。放送が見ら れなかったのは,残念だったというべきか,あるいは良かったというべきかも知れません。  やがて柳絮が舞い始めました。柳の樹やポプラに似た楊樹の,綿毛のついた実が風に乗って舞うので すが,話に聞いていただけで見るのは初めてです。明るい春の日差しの中をぼた雪のようなものが舞い 飛び,本当に幻想的な光景です。でもそれは遠くから見てのことで,実際に飛んでくると口や耳に入っ てつまりそうだし,建物の中に入ったものなどは,ほこりの塊のよう,雪と違って溶けないし,掃こう にもふわふわしてまとまらないというやっかいものです。不思議なことに,この柳絮の舞う様子,何故 かどうにも写真に写りません。光線の向きなどいろいろ変えて試してみたのですが,どれもあまりよく 写ってなくて,ただ楊樹の並木が写るばかりです。最近は雌株が雄株に植え替えられていて,この北京 の春の風物詩もやがて見られなくなるかもしれません。  ところで,写真の現像は,北京大学の南門を出て少し西に歩いたところにある工芸品店に頼んでいま した。ここはわたしが「開拓」したところで,後からわたしが連れて行ったTさんやGさんも皆わたし の名前にされてしまい,受け取りに行くと撮った覚えのないものまで渡されるということがしばしばあ りました。プリント込みの現像代が18.08元という値段は,10年たった今もあまり変わっていま せん(もちろん,この他にピンもキリもあるのですが,同レベルで比較しての話です)。先払いで,出来 上がってきた時に焼きあがりの枚数に応じて精算します。ここで現像すると戻ってきたネガが長いまま 丸く巻かれていて,それまで,短く切ってシートに平らに収まったものしか見たことがなかったわたし は,そう言えばフィルムってこういう形だなと妙に感心したのでした。困ったのは焼き増しで,何しろ 書き込みをするシートがないのですから,焼き増しするコマをはさみで切り取って持って行かなければ なりません。この時に切り取ったコマは,案の定その後何枚か紛失してしまいました。これではあんま りなので,試しにネガ番号と枚数を紙に書いて巻いたままのネガと一緒に渡してみました。店の人はぶ つくさ言いましたが,取次ぎ先の現像所にはちゃんと伝わったようで,無事希望通り焼き増しが出来て きました。以後,皆このやり方にならったのは言うまでもありません。しかし,そのうち日本から持っ ていったフィルムがなくなり,現地調達するようになってあらたな問題が発生しました。ちゃんとブラ ンドを確かめて買ったはずのフィルムの中にときどき偽者が混じっていて,こいつは現像してみると, ネガに番号も何もついていないのです。なるほど,こんなものがあったりするから,切り取って持って 行くなんてこともやむを得ないのだなぁと,またもや感心するわたしでした。

北京でフライングレシーブをした話  ルームメートのOさんが出ていってしまいました。別にわたしが嫌いになったというわけではなかっ たのでしょうが,一人静かに勉強したいのだそうです。留学生宿舎は二人一部屋が原則ですが,高級進 修生はもう一人分の部屋代を払えば,一人で住むことができたのです。学期の途中に新しい人が入って 来ることは滅多になく,結果的にわたしもしばらく一人で一部屋占有することができました。そこで部 屋の模様替えをすることにしました。ベッドを窓際に寄せて,その分机も奥の方に移動しました。する と机の上に置く電気スタンドのコードがコンセントに届かなくなりました。延長コードが必要です。近 所の「五金商店(金物屋)」に行ってみますが,いわゆる延長コード状のものはなく,プラグと電線とタッ プがばらばらに売られているだけです。どうやら皆そうしているらしいので,わたしもばらばらのを買っ て組立てました。周りの絶縁ビニールをはがして,中の銅線を束ねて,なんてやっているうちに,小学 校の理科の授業を思い出してしまいました。この時特に困った記憶はないので,きっとドライバーセッ トくらいは持っていたのでしょう。あるいは誰かに借りたのかもしれません。  今はもちろん,立派なテーブルタップをその辺で購入することができますが,簡単な工具は持って行 くと便利です。特に,自転車に乗ろうという人は,レンチもあったほうがよさそうです。修理屋はあち こちにいますが,ちょっとしたことでいちいち行くのも面倒ですから。例えば,道が悪いせいか,乗っ ている内にあちこちボルトやネジが緩んできて,気がつかないでいると,そのままポロリと落ちてしまっ たりします。それで一度ひどい目にあいました。走っている最中に前輪の泥よけをとめているボルトが はずれて,泥よけが前輪に食い込んでしまったのです。その時かなりのスピードが出ていました。前輪 の回転が急に止められてしまったので,当然後ろが慣性で跳ね上がり,わたしは前へ放り出されてしま いました。一瞬何が起きたのかわからず,気がつくと道路にうつぶせになっていましたが,幸い他の自 転車にもぶつからず,怪我一つしませんでした。一緒に走っていたOさんは,まるでバレーボールのフ ライングレシーブのようだったと,後から語ってくれました。わたしは中,高,大とバレーボールをし ていたので,それこそ,昔取ったなんとやらです。前輪はどうやらパンクは免れました。無残にひしゃ げてしまった泥よけは,見知らぬおじさんが拾ってくれて,器用に路面でたたいて格好をつけてくれま した。あまりのことにお礼を言うのも忘れてしまいましたが,だまって立ち去って行ったあのおじさん には本当に感謝しています。

偽学生事件  さて,皆さんはPART1に登場のあの白さんを覚えておいででしょうか。留学生活の初日,わたし を助けてくれたあの白さんです。  白さんや王さん,劉さんとはその後も行き来していました。OさんやTさんが連れてくる友達もいて, 中国人学生の宿舎に行くことも多くなりました。中国人が留学生宿舎に入って来るには厳しいチェック があり,入口で帳簿に名前を書いて,学生証を預けなければならないのですが,外国人が中国人学生の 宿舎に入るのはフリーパスです。もっとも男性が女子学生の宿舎に入る場合は,中国人でも外国人でも, 夜10時までに出なければならないことになっていました。  ある日,Tさんと2人で白さんの部屋を訪ねて行くと,同室の人たちが顔を真っ赤にして何か怒って おり,ただならぬ雰囲気です。聞けばなんと,白さんが身分詐称の容疑でたった今公安に連れて行かれ た,と言います。白さんは実は北京大学の学生ではなく,河北省のどこかの専門学校の学生だったと言 うのです。えーっ,そんなばかな。第一,全寮制のこの管理された制度の中でそんなことができるので しょうか。よく聞いてみると,同室の人たちは順に1つのベッドに2人で寝て,白さんを寝かせてあげ ていたのだそうです。そう言えば,この部屋で学生証が紛失したことがある,と1人の人が言い出しま した。そう言えば,わたしも思い当たることがありました。白さんは最初は確か36楼にいたはずなの に,ある時30楼に引っ越した,と言っていたことがありました。宿舎は,普通は学科ごと,クラスご とに入り,途中で引っ越すということはないはずなのです。白さんは自分のクラスだけ半端になって, ばらばらに住んでいるとか言っていましたが,ひょっとしたら,その時何かまずいことになりそうだっ たのかもしれません。ここの同室の人たちにも,何か納得させるような説明をしていたのでしょう。わ たしとしては,白さんにどこか憎めないものを感じていました。今回のことは,学歴を偽って職を得よ うなどとしていたわけでなく,首都の名門大学にあこがれる気持ちが嵩じてしまったもので,あれこれ わたしの面倒を見てくれたり,河北の田舎のお土産だと言ってどっさりナツメを持ってきてくれたり, 悪い人ではなかったと思います。「でも,まぁ,結構いい人だった。」わたしの言ったこの一言は,し かし,同室の人たちの猛反発にあってしまいました。「どこがいい人なのだ,人を騙すのは悪いこと, 悪いことをするのは悪い人ではないか。」これが彼女達の論理でした。それはその通りなのだけど……, うーん,うまく説明できない。Tさんもだいぶ戸惑っている様子でした。なんとなく文化の違いのよう なものを感じながら,2人で顔を見合わせるばかりでした。

「教学実践旅行」  後期,もう一つ登録した授業がありました。中文系の留学生向けに開講される「教学実践」という授 業で,何かと言うと,3,4回李白や杜甫についての講義を受けて,その後彼らにゆかりの地に旅行に 行くというものでした。正直言って,唐詩にはあまり興味がなかったのですが,珍しいところに行ける と聞いて申し込みました。  3月の中旬から講義がありました。文学担当の先生が思い入れたっぷりに語ってくれるのですが,やっ ぱりどうも苦手です。4月7日に最後の説明会があり,4月11日に出発となりました。今回の参加者 は,わたしやTさんにGさん,それからわたしたちの部屋の真上に数年前から住んでいて,つい今年の 夏までいた,したがって10数年住み続けたことになったKさんなどの日本人グループ(同室のOさんは 考古学系なので参加資格なし),ノイちゃんたちタイ人グループ,中国系アメリカ人,ドイツ人,イギリ ス人,その他と多彩です。引率は周先生と潘先生。  この旅行は今までの旅行に比べてずっと楽チンでした。なにしろ,寝る場所も食べるものも,移動の 手段も確保されていて,交渉したり,行列に並んだりといったことを一切しなくて済むのです。難点と 言えば,苦労がなさ過ぎたのと,移動がスムーズなために行程が詰まっていたのとで,一つ一つの場所 の印象が薄くなったことでしょうか。これは事情通の人の話ですが,何でも周先生の教え子が目的地の 四川省の旅行社にいて,特別待遇だったらしい。中国ではやっぱり「顔」とか,コネとかが幅を利かせ ているのです。  「顔」といえば,ちょっと話はそれますが,94年にもこんなことがありました。春休みに北京のあ る旅行社が企画したベトナムツアーに参加したので(本当は北朝鮮ツアーに参加したかったのだが某所か らストップがかかった),当然必要な中国への再入国ビザを一緒に頼みました。外国人向けツアーを扱う 旅行社だったので,そのくらいのことは慣れているだろうと思っていたのですが,ぎりぎりになって, わたしの学校が発行する何とかと言う書類が足りないと言って来ました。今ごろ言われても学校はもう 休みに入っています。とりあえず,旅行社の人とタクシーで学校に乗りつけ,事務室に行ってみると幸 い宿直の李先生がいました。一緒に外事処に乗りこむと,これまた幸いなことに,李先生の顔見知りが 宿直でした。早速「小張!」とかなんとか声をかけ,あれこれ言っていると,やがて,担当者が休みで 在り処がわからないはずの書類が捜し出され(捜すのは手伝いましたが),責任者が休みで開かないはず の引出しが開いて,必要なハンコもきちんと押されるのでした。李先生には感謝,感謝。こういう「シ ステム」も場合によっては融通が利いて,悪くはないものです。ちなみに当時同僚だったI先生は,同じ 書類をもらうのに,規定通り1週間前に申請したのですが,まだ余裕があると思って脇にでも積まれて しまったのか,書類は一向に出来てこず,催促に行ったら,引出しの奥からよれよれになった申請用紙 が発見されたそうです。こっちの「正規のルート」のほうもきちんと機能していれば万全なんですがね。

江油・成都・眉山県  さて,旅行のおもな目的地は四川省。まず北京から汽車に乗り,車中2泊して,3日目の早朝,綿陽 というところに着きました。そこからさらに旅行社のバスにしばし揺られると,李白の故郷,江油に着 きます。招待所で朝食をとり,すぐに李白記念館の見学です。時刻は午前8時。こんな時間からやって いる記念館があるなんて驚きです。でも,朝のすがすがしい,しっとりと水蒸気を含んだ空気は,あき らかに北京の空気とは違います。もやの中に竹やぶが点在し,どこかから鶏の鳴き声が聞こえてきて, 何かゆったりとした時間が流れて行きます。この後,四川省のどこに行ってもこんなやさしい空気が満 ちていました。  江油の街をぶらぶらしてみました。2階建ての建物が道の両側に隙間なく並び,2階部分が歩道にせ りだしてアーケード状になっている,中国の南方でよく見るようなスタイルなのですが,そのすべてが 木の板でできています。茶色の板と黒い瓦がずっと連なり,所々に点在する白地に赤文字の看板や春節 に貼りたての真っ赤な春聯や門神が目立ちます。  昼食の後,再びバスに揺られ,夕方成都に着きました。成都では,錦江飯店というホテルに逗留です。 ここは数年後に自分で行ってみたら,なかなかのお値段で,そんなところに泊まれたのも,教え子さん のおかげだったのでしょうか。  翌朝は,杜甫草堂を訪ね,杜甫研究会の会長さんのお話を伺います。午後諸葛亮をまつった武侯祠を 見て,その日のうちにまたバスで移動,今度は峨眉山のふもと,眉山県に向かいます。しかし,その道 々皆の様子が何か変です。なにかそわそわと隠している様子。眉山賓館について,夕食後町をぶらぶら して帰ってきて,やっとそのわけがわかりました。翌日はわたしの誕生日。なんと皆は内緒で誕生パー ティーを企画してくれていたのです。成都からわざわざケーキまで買い込んで来てくれていました(眉山 の町ではちょっと手に入らなかったでしょう)。四川特産のきつい蒸留酒なんかも空けてしまって,この 中国の奥地の町でパーティーは妙に盛り上がりました。でも,後で誰かが,旅行の最初に皆が打ち解け る機会ができてよかったとか言っていたので,わたしは単なるダシだったのかもしれません。

楽山・峨眉山  前夜気分良く寝てしまい,翌朝は6時半に起きて散歩しました。眉山は江油よりもさらに小さなこじ んまりした町で,やはり茶色の板と黒い瓦が連なった町並みです。早朝,あちこちから湯気が上がり, 饅頭や豆漿などが道端で売られていました。味見をしたいけど,ここはがまんしてホテルで朝食です。  8時半に出発,途中蘇軾とその父,弟を合わせてまつった三蘇祠を見て,バスで楽山に向かいます。 近年世界遺産に指定された楽山大仏のあるところです。この楽山大仏は三つの川の合流点に面した断崖 に刻まれています。昔ここは流れが複雑で水難事故が多かったので,海通という僧が大仏を刻むことに したのだそうです。掘り出した土砂で川底をならし流れを穏やかにするという実際的な効果もねらって のことです。まずは船でその川面から大仏を眺めます。大仏のあるのは凌雲山,ちょっと離れて吊り橋 でつながっている小ぶりの山が烏竜山,遠くからこれを眺めると,二つの山が烏竜山を頭とする巨大な 涅槃仏に見えるのだそうです。烏竜山の船着場から階段を上っていくと烏竜寺,反対側に下って吊り橋 を凌雲山へと渡り,大仏の足元に出ます。大仏の脇にはくねくね折れ曲がりながら上っていく階段があ り,大仏の頭まで登りきったところが大仏寺です。凌雲山を降りてきて4時半,移動の激しいこの団体 はここでさらにバスに乗り,一気に峨眉山の入口,報国寺まで来てしまいました。夕闇の迫る中,報国 寺を拝んで,近くの紅珠山賓館に到着,やっとこの日の行程が終りました。この日,中国のニュースを よく見ているKさんが,胡耀邦が亡くなったと教えてくれました。  翌日はいよいよ峨眉山です。峨眉山は中国四大仏教名山の一つ。何日もかけて寺に泊まりながら登り, 標高約3000メートルの山頂でご来光を拝む人もいるようですが,わたしたちはたった一日で峨眉山 のさわりのところだけを回る予定です。報国寺を出てバスで万年寺に向かい,ここからは山歩き。白竜 洞,清音閣,一線天などの1000メートル前後のところを巡る「一日遊」コースです。山道は途中か ら清らかな流れと一緒になりました。厦門で懲りたはずなのに,またもや靴と靴下を脱いで水の中に立っ ているわたしの写真が残っています。ここの水はしかし冷たかった。水はやがて五顕崗の駐車場近くま で来て,コンクリート製の水路に流れ込みました。水路は時に地面近くを流れ,時に二階家ほどの高さ にまで柱で持ち上げられ,土産物屋などの傍らを抜けて行きます。ある家の二階の窓から,幼い女の子 が身を乗り出して,窓の下の水路で手を洗っていました。  4時前にはバスに乗り込み,夕方にはもう,前々日発った眉山まで戻ってきました。

再び成都  翌日は朝からまたバス,昼前には成都に着きました。午後は自由行動となったので,自転車を借りて, 成都見物です。北京でしていたのと同じように,地図を見て通りの名前を確認しながら走りました。そ の日走破した経路が細かく日記に書いてあります。いつか何かの役に立つことがあるでしょうか。  今回は成都に少し落ち着く予定でした。成都を拠点に郊外に点在する名所を順に訪ねます。18日は, 北西に50キロほどの灌県にある,紀元前に作られた灌漑治水施設「都江堰」を見,近くの青城山とい う道教の名山に登りました。海抜1260メートルの「上清宮」というところまでひたすら登って降り てきました。  19日は単独行動で,ミニバスに乗り,北東20キロの新都県の宝光寺に行きました。バスからの道 々の眺めがいかにものどかな農村地帯という雰囲気で,自転車でも借りて,のんびり来たかったところ でした。  20日にはまた全員で西郊外の崇慶県に行きました。ここには陸遊をまつった陸遊祠があり,そこか ら山に入ったところに九竜溝という「風景区」があります。山の涌き水が集まった流れに沿って遊歩道 が巡っており,そこを2時間ほどかけて往復し帰ってきました。地図を見るとパンダの絵が付いていて, どうやら「風景区」のさらに奥はパンダの生息する原生林ということのようです。  この日の夕方,成都の市内でデモがありました。ホテルの窓からこれをみつけたわたしは,すぐさま カメラを持って下に降り,通りに出て行きました。他の人たちはそんなわたしを上から見下ろしていた そうです。デモに参加した人たちは特に何か叫ぶわけではなく,静かに進んで行きます。胸に白い紙製 の花をつけ,あるいは花輪を掲げ,先日亡くなった胡耀邦の写真を掲げている人もいました。どうやら 胡耀邦の追悼デモらしいということはわかりましたが,これがやがて天安門事件につながっていくとは, 当時知る由もなかったのです。  さて,この日が実は成都滞在の最後の日でした。成都といえば麻婆豆腐,麻婆豆腐といえば「陳麻婆 豆腐店」。ということで,夕食後,Tさん,Gさんと連れ立ってやってきました。店内では,まだいく つかのグループが食事をしていましたが,時刻はすでに8時半,閉店の構えです。もう出すものがない と言われました。しかし,ここで引き下がってはせっかくの名物が食べられません。わたしたちがあま りしつこく頼むので,とうとう向こうも根負けして,店を抜けて奥の厨房に連れて行ってくれました。 鍋の底に紅くどろどろたまっているものを指して,これでもいいかと聞きます。これは外国人用に手加 減してないし,最後に残ったところだから,特別辛いのだと言います。一瞬ひるみましたが,既に引っ 込みはつきません。とにかくそれを各自小さな碗によそって出してもらいました。これは本当に辛かっ た。辛い辛いと大騒ぎのわたしたちを見て,事態の成り行きを見守っていた他の客も,店の従業員も大 喜びです。こうして成都最後の夜は和やかに更けていったのでした。

大足・重慶  成都から列車で重慶に向かうと,少し手前に大足というところがあります。あまりなじみのない地名 ですが,それはすばらしい石刻群があります。40キロ四方の中に40数カ所点在しているそうで,そ のうち最も整っているのがわたしたちの見た北山と宝頂山の2ヶ所です。ぐるっと回廊状になった崖に 彫られていて,雲崗・竜門・敦煌の三大石窟ほどの広大さは感じませんが,風土の違いもあってか,よ りしっとりとした,精緻な印象です。付近一帯は畑や水田で,山肌に開かれた棚田が,美しいうろこ模 様を描いてふもとまで続いていました。  大足賓館には一泊してバスで4時間,重慶に着きました。ここでは渝州賓館に二泊して,三日目の早 朝,三峡を下る船に乗る予定です。重慶ではずっと自由行動ということになりました。  重慶は長江と嘉陵江が合流する地点にあり,両方に削り取られたような地形で少しも平らな土地がな い坂の街,また,川から水蒸気が上がるので,霧の街でもあります。さらに日中戦争当時,日本が南京 を占領した時に国民党政府がこの奥地に逃げてきて臨時政府を置いた場所でもあり,共産党側の機関も 置かれ,権謀術策渦巻く街といったイメージがあります。わたしはどうも唐詩の世界よりこっちの「革 命」関係のほうに興味が湧いてしまいます。乗船までの約一日半であちこちに点在する「革命史跡」を 見てまわろうと思いましたが,まっ平,まっ四角の北京に慣れたわたしにとって,重慶というのはなか なかやっかいな街です。地図を見ながら歩くのですが,道は山道のようにすべて曲線を描き,あらぬほ うへ進んでしまいます。また地図には高低差が表されていないので,行ってみるとすぐ目の前の崖の下 にあるのにたどり着けないといったことがしばしば。以前,中国人は道を説明する時に左右で説明しな いで,東西南北で説明するのだ,と教わったことがありますが,この重慶ではさすがにそれは無理なよ うに思えます。  地図では何もない道と道との間は至るところ階段だらけで,階段の踊り場のような場所が民家の庭先 だったりします。普通のバスも走っていますが,それ以外に川の対岸に渡るロープウエー,坂を登るケ ーブルカー,上の道から下の道に行くためのエレベーターなど,およそ街中の交通機関としては考えら れないようなものがちゃんと交通機関として機能していました。ちなみにロープウエーは長江側が片道 0.80元,嘉陵江側が0.30元,ケーブルカーとエレベーターは上り0.10元,下り0.05元 でした。

三峡・武漢  24日午前8時,船は静かに重慶の港を離れました。この船の切符は何等だったのか,自分で買った のでないのではっきりしませんが,一つの船室に四つの2段ベッド,計8人が寝泊りできるようになっ ていました。昨年盛んに日本のテレビで放映された「三峡もうじきダムに沈むから今のうち」紀行物で は,途中,鬼城(豊都)や白帝城などに上陸しながら三峡に入っていましたが,わたしたちはそういった ことはなく,ただ船の上でぼーっと一日過ごしました。一日目の終り,船は万県というところに停泊し ました。ここで停まらないと,夜の暗いうちに三峡を通りすぎてしまうのだそうです。  なるほど,二日目になるといきなり始まりました。午前中に瞿塘峡と巫峡を過ぎ,昼食をとっている うちに,西陵峡にさしかかります。夕方に宜昌の閘門(ロック)を通過すると,あとは翌日夕方の武漢到 着まで茫漠たる茶色の水面が続くばかり。ハイライトはわずかでしたが,でもさすがにきれいで,すっ かり満足しました。わたしたちはタイ人のノイちゃんが持参していた,楽しいけれどあまり携帯に向い ているとは思えない,ビー玉を使ったゲームをして過ごしました。  武漢の宿泊先はホテルでなく,武漢測絵科技大学という大学の宿舎でした。食事も何だか少し寂しく なり,つまりこれが,教え子のいる四川省といない湖北省の違いだと言うことでした。その食事にタイ 人のグループは唐辛子の瓶詰めを持ってきていました。緑色で小粒だけどとても辛いやつです。日本人 が海外旅行中梅干を持って歩くような感覚らしいのですが,四川も湖北も料理はすでに充分辛い。これ でまだ辛さが足りないのかと聞くと,中国の唐辛子は美味しくないと口をそろえて言います。辛さに美 味しいも美味しくないもあるのかと思ってしまいますが,全く違うのだそうです。後に韓国人からも, キムチは韓国産の唐辛子で作らないと美味しくないと聞いたので,きっと何か違いがあるのでしょう。 うーん,奥が深い。  翌27日は朝から小雨。とりあえず最も有名な黄鶴楼に登ります。登ったところに中国建築の模型が 二つばかり展示してあり,これが何かというと,黄鶴楼はこれまで何度か修復されていて,そのいつか の修復前の建物を模型にしたものだということでした。修復といえば元の形に寸分違わず作るものと思っ ていたのですが,なんとこれらの模型は今の黄鶴楼とは全然違う形をしています。今度から「修復」と いうことばを使う時は気をつけなければなりません。  さて,今回の旅程はこれですべて終りです。後は列車で北京に帰るばかりなのですが,武漢は何といっ ても辛亥革命の発祥地,もう少し見てみたかったし,重慶にも何か残してきたような気がして,どうし てももう一度行きたくなりました。引率の先生はあきれ顔でしたが,わたしはここで皆と別れ,武漢に もう一泊し,船で下ったコースを今度は列車で重慶へと引き返すことにしたのでした。しかし,こうい う時には大抵,何かあるような気がしても実際にはたいしたものはなく,闇雲に武漢と重慶の街を歩き まわるばかりとなりました。武漢から重慶への列車の中で隣に座った叔父さんにゆで卵とさとうきびを ご馳走になったことが特記すべき事柄でしょうか。大きな弁当箱に7,8個もゆで卵がごろごろ入って いて,叔父さんは盛んに勧めてくれるのですが,1個も食べれば充分です。さとうきびはあの長くて硬 い茎を30センチほどに切りそろえて束ねてありました。叔父さんのお手本通り,歯で硬い皮をむき, 中の繊維を少しずつかじりとって甘い汁だけ吸うのですが,この繊維も硬く,無理すると口の中を切り そうです。汁を吸い終わった繊維は吐き出すしかないので,わたしたちのまわりはたちまちさとうきび の噛みカスだらけとなりました。  月が変わりました。5月です。3日までには北京に帰りたい。この年の5月4日は五四運動七十周年 の記念日で,きっと何かがあるような予感がしたからです。この予感は的中しました。しかしその何か は予想していたものとはちょっと違い,さらに事態は思わぬ方向へ進展し,一ヶ月後,誰も予想しなかっ たであろう結末を迎えることになったのでした。(PART4完 1999.3.24脱稿)

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