北京大学留学生活回想録PART5

再び北京,南方大旅行,香港へ(89年7月〜8月)

再び北京
 天安門事件から1ヵ月と9日後の7月13日,わたしは再び北京の首都空港に降り立ちました。街は,
少なくとも表面的には,何事もなかったかのように以前の活気を取り戻していました。あちこちの歩道
の上に天幕の囲いができ,その中にスイカがごろごろと積まれて売られています。北京に居続けた人た
ちは,元の暮らしを取り戻しつつあるのに,あの時のまま時間が止まっているこちらのほうが,何か平
常心でいられないのでした。しかし,何もかも元通りになったわけではなく,天安門広場は戒厳令下の
まま,観光客も解放軍兵士に追い帰されていましたし,通りの各所にライフル銃を構えた兵士が立って
いて,やはりあの事件が夢ではなかったことを確かめさせてくれます。
 宿舎に着いてみると,部屋のドアには,「一九八九年六月九日封」と書かれた紙「封条」が貼ってあ
り,とりあえず何事もなかったということのようです。帰国後,連絡を取り合っていた大阪のTさんや
岐阜のGさんも,ほどなく再入国を果たしました。もちろん授業はなく,あたふたと帰国した時のまま
になっていた部屋の片付けと引き揚げのための荷造りをしつつ,何かというと寄り集まってはだらだら
と時間を過ごしました。他の人たちも,ぽつぽつ戻ってきては,荷物を片付け,帰国していきます。わ
たしの部屋のTさんと反対側の隣は,やはり日本人2人の部屋でしたが,この2人が実に対照的,Zさ
んは社交的で,いつも大勢の友達と騒いでいたいタイプ,もう1人のMさんは学者タイプで,いつも1
人静かに勉強しているような人,互いに相手を,息がつまる,うるさいと嫌っていました。先に戻って
きたのはZさんのほうで,はじめて1人で部屋を使える,のびのびできると喜んでいました。しかし,
嫌っているようでいて,どこか引き合うところがあったのでしょう。廊下でそんな立ち話をしていた矢
先,向こうから,がらがらとスーツケースを引く音がしてきました。「ひょっとして,Mさんじゃない
の。」わたしが冗談で言いました。「まさかぁ。」とやはり冗談で受け流すZさん。しかし,次の瞬間,
角を曲がって現れたのは,まさしくMさん,これは傑作でした。

撮影会  北京に滞在した記念に(?)「旗袍(いわゆるチャイナドレス)」を作ることにしました。新街口のある 店に行き,店のおばさんの勧めにしたがって「紫紅」色で花の透かし織りのある「美麗綢2.7尺寛」 メートル5.52元を,2.7m買いました。裏地はその店にはなく,近所の店を教えてもらって,教 わった通りの生地を教わった長さだけ買って来ました。おばさんは次に,わたしの向きを少々手荒に変 えながら,あちこちの寸法を細かく測りました。スリットをどこまで開けるか,どれくらいゆとりを取 るかで,長いことやりとりをし,やっと終ったと思ったら,今度はボタンをどの形にするかとか,縁取 りはどうするかとか,よくわからない専門用語を使ってきます。いろいろ作りかけの実物を見せてもらっ てやっと注文を終えることができました。この時の仕立代は55元,一週間で仮縫い,その後さらに一 週間でできあがってきました。  北京に増え始めていた美容院にも行ってみることにしました。Tさん,Gさんと北京大学の裏庭,海 淀の,その名も「海淀理髪店」というところに行きました。入口でメニューの書かれた木製の札を買っ て中に入ります。「洗髪」が1元,「剪髪」が2元でした。中はがらんとした広い部屋で,壁に大きな 鏡や洗面台が貼りついていたり,ドライヤーがかかっていたり,クッションのついた回転椅子や道具を 載せたワゴンがあったりと,一応それなりの様子をしています。ないのはシャンプー用の後ろに倒れる 椅子で,後ろにそらせた首にプールのビート板状のものをあてがわれ,妙な格好で洗われてしまいまし た。店長とおぼしき女性がやってくれるのですが,カットに入ると,若い見習いの女の子達が周りに集 まってきました。察するに,まだろくに美容の勉強をしていないようでした。輪の中心になってしまい, ちょっと困りましたが,彼女達の練習台にされなかっただけましでしょう。わたしもこの方面にはかな り疎いのですが,できあがりはまあまあだったのではないでしょうか。  Zさんも「旗袍」を作ったし,髪も切ったし,それに暇でしたし,わたしとZさんをモデルにした撮 影会をしようという大胆な企画が持ちあがりました。Tさんは用意周到,北京までメイクセットを持っ てきており(自分は一度も使ってませんでしたが),以前薬局でバイトしていた時に契約化粧品会社の美 容部員さんが来てメイクをしてくれたものだ,とか言いながらわたしたちにメイクをしてくれます。し かし,わたしはその時すでに日焼けで眼鏡の跡がくっきりついていて,どんなにがんばっても消せない ので,しかたなく眼鏡をかけたまま撮影することになりました。宿舎の近くの木陰や池や花壇などで, 小一時間も撮ったでしょうか。もともと土台に問題があるのに加えて,当時真っ黒の太い縁の眼鏡をし ていたせいもあり,なんだかちぐはぐな,あまり見たくない写真がいっぱいできてしまいました。

再見了,北京!  東京出発前に,今度の帰国は香港からと考えていました。中国の南方を旅行して,最後に広州から香 港に出るのです。北京出発を8月7日と決めました。  いざ,立ち去ることになると,あちこち名残惜しく,もう一度行きたいところがたくさんできてしま いました。蘆溝橋の「抗日戦争記念館」にもまだ行っていない。愛車「鹿牌」の自転車も乗り納めです。 しかし,夏に北京大学から自転車で街に出かけていると,左腕だけ日焼けすることに気がつきました。 北京大学は北京の北西の郊外にあり,街に出るには必ずまず南に下り,それから東に向かうことになり ます。帰りはまず西に,それから北に向かう。朝,出かける時は太陽は東側にあり,帰りには西側にあ りますから,常に自分の左側にあることになるのです。今でもわたしの腕は左側のほうがシミ・そばか すが多い。ちなみに自転車ででかけると行きより帰りがつらい。これは北京の地形が平に見えてわずか に西側が高くなっているためと,夕方になると必ず西風が吹くからです。以前同室だったOさんも,誰 かからそういう話を聞いてきて,体験に学ぶのと人の話から学ぶのと方法に違いはあっても,それぞれ の情報収集が間違っていなかったことを確認しあったことがあります。  荷造りのほうもぼつぼつ進めてはいましたが,なかなか終りません。たった3箱でやってきたのに, 帰りは13箱になってしまいました。箱は郵便局で買うのですが,大が4.80元,中が4元しました。 発送する時に中身を調べられることがあるので(これは国際ルールなので決して中国だからというわけ ではない。時々,これだから中国は…などと憤慨している人を見かけるので念のため),梱包は完全に はしないでおきます。ガムテープなどはまだ質のよいものがなく,日本から持っていったものを使いま した。問題はこれだけの荷物をどうやって郵便局まで持っていくかです。その当時,北京大学内の郵便 局では国際便の小包は発送できませんでした。一番近くて語言学院まで行かなければなりません。留学 生事務所に頼み込んで,トラックを一台出してもらうことにしました。トラック代は適当でいいからと 言われて,運転手に直接10元渡しました。それが適当な額だったかどうか,今でもわかりませんが, 運転手は運転の他に荷物の積み降ろしもしてくれました。語言学院の郵便局には愛想は悪いけど,手際 はいいお兄さんがいて,どんどん荷物を量り,超過した箱から少なめの箱に物を移すなどしながら,こ ちらの持っていったガムテープで梱包までしてくれます。隙間の空き過ぎる箱には箱の切れ端を詰める など,ここまでしてもらえるとは全く思っていませんでした。ということで,この厄介な仕事もなかな か気分よくやり終えることができたのでした。語言学院のお兄さんには数年後にもお世話になりました。  いよいよ北京を発つという日,TさんとGさんが見送ってくれました。列車は夜の11時27分発。 2人に夕ご飯をご馳走になりました。国際飯店の最上階にあるレストランです。総ガラス張り,ゆっく りと回転していて,北京の街を見渡すことができました。夜になるとまだまだ灯かりの少ない,暗めの 夜景でしたが,別れを告げるのにこれ以上の場所はなかったでしょう。北側にはちょうど,周囲より明 るい北京駅が見えます。9月のあの日,北京駅に降り立って始まった留学生活は,思いがけない中断を はさみながらも,今日北京駅から旅立つことで,やっと出発点に帰ることができ,完結することができ るような気がしました。  再見了,北京!

桂林  8月7日北京を発って,最初の目的地は桂林です。桂林までは2泊の列車の旅。列車の中で,桂林の ホテルを紹介するという放送が入ったので,最近はこんな商売っ気のあることもするのか,と物珍しく, 言われた車輌まで行ってみました。園丁飯店というホテルだそうで,紹介料は2.50元。「わたしは 外国人だが大丈夫か」と何度も確かめましたが,車掌は「没問題[大丈夫]!」と大見栄を切ります。半 信半疑ながら,だめでもともと,これも記念と思い,何やら書きなぐった紙切れ1枚もらってきました。  翌日,桂林に到着,その園丁飯店なるところに行ってみると,どうもやはり外国人を泊めるところで はない雰囲気です。とりあえず例の紙切れを見せると,書類を寄越しました。名前や年齢,性別など書 き込んで,さて,その次の蘭が「国籍」でなく「民族」となっていました。はて自分は一体何族だった かと少し考えましたが,他に思いつかないので,「大和族」と書き込みました。次に身分証明書を見せ ろと言われ,パスポートを出したところで,何,外国人なのか,ということになり,案の定ここには泊 められないということになってしまいました。やっぱりあの「没問題!」はあてにならなかった。仕方 なく近くの外国人用ホテルを教えてもらい,そちらに移りました。  そのホテル「錦桂飯店」というところに部屋を取ると,今度は同時に翌日の漓江下りの予約をさせら れました。これは当然外国人料金で,しかも外貨兌換券しか受け取ってくれません。桂林には世界中か ら漓江下りの観光客が来ますから,取れる所からきちんとお金を取る仕組みができているのです。漓江 下りは中国人料金で行くのが安いと聞いていたので,断りたかったのですが,桂林に来て漓江下りをし ない奴はいないだろう,と言わんばかりの勢いに圧倒されてしまいました。  そして,その「外国人用」漓江下り,漓江下りは街はずれの「象鼻山」から船が出るものと決まって いる筈なのに,マイクロバスで客を拾いながら各ホテルをまわり,そのまま市街から随分遠いところま で運ばれてしまいました。結局,漓江下りのコースの3分の1くらいまで行った,竹江というところか らやっと船に乗ることができました。このほうが時間の節約になるし,どこも似たような景色なのだか ら,合理的と言えば合理的ですが,何か損をしたような気がします。この船は昼食付き,でも,両岸に あの水墨画そのままの風景が流れて行くので,おちおち食事などしていられません。感激のうちに4時 間弱で,終点陽朔に着きました。陽朔からはまたバスで2時間近く走って桂林まで戻ってきます。気が ついたら随分写真を撮っていました。本当に,どこを撮っても絵になるところでした。  後は鍾乳洞などを見て,数日ぶらぶらし,13日早朝,列車で南寧へと向かいました。

南寧  南寧には余さんという,北京大学で知り合った友人がいました。遊び来たら家に泊めてくれると言っ ていました。以前なら,自宅に外国人を泊めるなんてとんでもないことだったのでしょうが,もうそん なことはないのでしょう。それに南に行くにしたがって政治的統制が緩んでいるような感じもしました。  余さんには桂林から電報を打っておいたのですが,電報なんて日本でも打ったことはなく,書き方が よくわからなくて,どうも名無しで届いたようです。でも,とにかくうまく連絡が取れ,無事彼女の家 に泊めてもらうことができました。  しかし,南寧はどうにも暑い。余さんのお母さんは公務員でしたが,午前中8時から11時まで仕事 をすると,昼はいったん家に帰ってきて,午後は3時まで昼休みです。日中の時間帯は,無理に活動す ると本当に病気になりそうです。幸い(?)南寧にはこれといった名所旧跡もなく,余さんの家でワンタ ンを作ったり(この家では冷めてもそのままやはり冷めたお粥といっしょに食べていた。あんまり暑い からか),テレビを見たりして過ごしました。朝の比較的涼しいうちに,毛沢東が泳いで渡ったという 川を見に行ったり,広西民族文物苑を見にいったりしました。南寧は広西壮族自治区の区都。200キ ロ先はベトナムなのです。  わたしの様子がいかにも退屈そうだったのでしょうか,それとも,邪魔になったのでしょうか,寧明 という場所が面白い,とある日余さんのお母さんが勧めてくれました。明江という川にせり出した崖に 古代人の描いた壁画があると言います。切り立った崖に何のために,どのように描かれたのか,なぜ現 代まで残っているのか,謎のままだそうです。南寧から寧明までは,180キロ,約5時間列車に乗り ます。今まで幹線ばかり乗っていましたから,初めてのローカル線です。車輌は古く,車内のあらゆる 部分が飴色に光る木でできていました。いくつかトンネルをくぐるうちに,ふと気がつくと,その辺に 炭の粉のようなものが散らばっています。昔蒸気機関車がトンネルに入ると煤が入ってくるので慌てて 窓をしめた,という話を聞いた覚えがあります。もしや,今乗っている列車は蒸気機関車が引いている のでしょうか。なにしろ,ここ中国では,乗客は列車が入線するまでホームには入れてもらえず,ホー ムに入ったら,座席指定にも関わらず皆自分の席目指して走るので,先頭の車輌がどんなだったかなん て,見ている余裕はありません。寧明に着いて降りた時に,駅員に不信気な顔をされながら,出口に向 かう人たちからちょっとはずれて,確認しました。やはり,蒸気機関車でした。中国ではいまだ現役で, 鉄道マニアがたくさん来るとは聞いていましたが,まさか自分が実際に乗ることができるとは思ってい ませんでした。  寧明での宿泊先は県の招待所です。ホテルと呼べるものはまだありませんでした。留学生宿舎のよう な部屋に蚊帳を吊ったベッドが4つ並んでいましたが,他に客はなく,広い部屋を1人占めです。  壁画のほうは確かに謎めいていました。旅行社で船を出してもらって川から見に行くのですが,他に は近づきようがないのです。現代でもあのせり出した崖に絵を描こうと思ったら,かなりの大工事にな るでしょう。石灰質の白っぽい崖に紅い顔料でたくさんの人型が描かれています。大勢でいろいろな活 動をしている様子を表しているようです。絵がすべてくっきりしていて,染みたようなところやかすれ たようなところがないのも不思議でした。船は往復で6時間,昼食をどうしたのか,なぜか記録してい ないのでわからないのですが,とにかく30元を旅行社に払っています。まずまずというところでしょ うか。ところが,戻ってきたとき,大変なことになっていました。ベトナムとの国境まであと数10キ ロという寧明は,当時まだ外国人が行く際には旅行許可書が必要な場所だったのです。こちらは中国人 の友人に勧められてきたので,そんなことは考えても見ませんでした。招待所でも何も問題にされなかっ たのに,船をチャーターした時にパスポートを見せ,それで見つかったようです。旅行社の人たちがこ の問題について盛んに討論しており,結論としては,夕方の列車にまだ間に合う,今日中に荷物をまと めて出て行くようにということでした。明日になると警察が捕まえに来るとまで言うのです。本当はきっ とそんなに大したことではなかったのでしょうが,許可書を持たない外国人を泊めて,船にまで乗せた となれば,誰かが責任を取らされることになったのかもしれません。とにかく,あたふたとオート三輪 で招待所に戻り,荷物をまとめて駅へと向かいました。本当はここにもう一泊して,ゆっくりするつも りでした。寧明の街の真中の三叉路には,中央に大きな榕樹[ガジュマロ]が生えていて,実に気持ちよ さそうな素敵な場所だったし,水牛が水を飲む溜め池もありました。寧明の街の光景はもやっとした光 に包まれた,おぼろげな印象として残っているのみです。

海南島  海南島も行ってみたい場所の一つでした。南寧からならそう遠くはありません。暑いから無理するな と引きとめる余さん一家に別れを告げて,今度は長距離バスの旅です。海南島に渡る船が出る海安とい う街まで,約13時間,夜行のバスに乗り,翌朝船で渡った先が海口。ここはしかし,これといった特 徴もない地方都市で,きれいな海岸といった海南島らしいところは,島の南側にあるのだそうです。し かし,日程的にすでに無理をしており,さすがにそれはあきらめました。海南島に足を載せて帰ってき たという感じです。  ここに来てびっくりしたのは,経済特別区だからなのでしょうか,電力事情がよいらしく,街のいた るところに電気冷蔵庫が置かれていることでした。北京なら木箱に綿布団をかぶせて断熱したものでア イスキャンディーを売っていますが,それがみんな冷蔵庫になったような具合です。日本だったらジュ ースの自動販売機でしょうか。自動販売機は無人ですが,それにみんな人が貼りついているようなもの です。中に入っているものも,缶入りジュースが主体で,北京では見たことがないものばかりでした。 特に「椰子汁(ココナツジュース)」が流行らしく,どこでも売っていましたが,これは1,2年後,北 京でもブームとなりました。  ココナツそのものも街角に積み上げて売られていました。一つ買うと,おじさんがナタで先端部分を 切り落として穴を開け,ストローをさしてくれます。それまでわたしは誤解していましたが,いわゆる ココナツジュースとか,ココナツミルクとか呼ばれるものは,殻の内側の白い果肉を細かくして搾った もので,実の中にもともと入っている汁は無色透明なものでした。それをストローで飲んで,飲み終わっ た後,頼むとおじさんが殻を割ってくれ,白い果肉を食べることもできました。北京からはるか南,な かなか沈まない太陽の光を浴びながら,することもなく,のんびり過ごした一日でした。

長距離バスの旅  結局,海南島には一泊しただけで,またもや長距離バスの乗客となりました。今度も5時海安発,翌 朝7時に広州着という夜行バスです。今度のバスには交代の運転手がいました。  PART3で汽車の旅については書きましたが,長距離バスの旅はよりハードです。なにしろ車体に そもそも問題があるそうで,詳しい人によれば,日本のバスは全体が一体成形になっているからいいが, 中国のは何枚もの鉄板をつないであるから揺れがひどいということでした。言われてみれば,中国のバ スの車体にはビスがいっぱいついています。座席もひどいもので,直角に折った鉄パイプに板をつけた ものを,直接床にとめただけという造りです。サスペンションもへったくれもない。しかもなるべく客 を詰め込んで儲けがでるようにしてあるので,座ったら最後,身動き一つとれなくなります。こんな座 席なので,大きな荷物は持ち込めず,バスの屋根に載せることになります。それでも無理やりいろいろ 持ちこむ人もいて,車内はいよいよ大変な騒ぎです。こんな状態で,ろくに舗装もされていないでこぼ こ道をすっ飛ばすのですから,たまったものではありません。比喩でなく本当に体が宙に浮き,また座 席に叩きつけられる,その連続です。窓はたいていちゃんと閉まらず,すきまから入ってきた埃をたっ ぷりかぶってしまいますし,寒かったりすれば,吹き込む風で体が冷え切ってしまいます。さらに,前 をのんびりトラクターでも走っていようものなら,すかさず追い越しをかけ,追い越して次の瞬間対向 車をかわすという具合で,大変スリリングな光景が展開されます。  長距離バスで一番困るのは,トイレです。バスが走っている間はとにかく運転手が一番偉いので,ど こで休憩するか,どこで食事をするか,すべて運転手の腹づもり一つです。運転手としてはなるべく早 く目的地に着きたいので,あまり休憩はとってくれません。時々どうにもがまんのできなくなった乗客 が運転手に停まってくれるよう頼んだりするのですが,急に不機嫌になる運転手もいます。運転手にへ そを曲げられると,最悪の場合,目的地に着かないことになるので,周りの乗客が心配して,頼んだ人 間にさらにがまんさせたりします。やっとどこかの小さな街につき,休憩ということになるのですが, こちらは一人旅なので今度は置いて行かれるのが心配です。おかげで,中国の片田舎でトイレを探し出 す勘が養われました。でも,不思議と置いて行かれるようなことはなかったので,それなりに乗客を把 握していたのでしょうか。運転手の気分によっては,見渡す限りの畑のど真ん中に停まることもありま す。そういう時は本当に困りますが,背に腹は代えられません。しかたなく,おばさんたちにくっつい ていったりするのですが,しまいには,青空の下というのも,気持ちが大きくなって,悪くはないもの だと思えるほどになりました。それでも,若い女性の中には,そんな場所では絶対に降りない人たちも いて,彼女達の体はどんな構造になっているのかと他人ごとながら余計な心配をしたりしました。

大きな声で言えない話  話が上品でないほうにそれたついでに,中国のトイレについて。中国のトイレにはドアがないという のは有名な話ですが,全部にないわけではありません。昔からの古い住宅街の共同トイレでは,まずド アはありませんが,外国人も利用するような,ホテルや観光地のトイレにはついています。また,最近 は中国も評判を気にしてか,ドアをつける(そして有料にする)ことが多いようです。住宅街のトイレは ドアはなくとも清潔です。なにしろ,古い住宅にはトイレがなく,共同トイレが言わば自宅のトイレと なるわけですから,それはきれいに使っています。そして,近所づきあいが行なわれる場でもあります。 慣れてしまえば,ドアのないのは何でもない。ただし,日本人同士で行くとどうもだめですが。だんだ んと北京にも高層住宅が増えてきて,トイレが各戸につけられるようになり,住民にとっては便利にな りましたが,一旅行者としては,まだまだ少ない大型店舗の,あまり気持ちのよくないトイレを利用せ ざるを得なくなってきたのがちょっと残念です。  気持ちのよさという点で言えば,中国のトイレはどんな場所でも男女が必ず分かれているのがよい。 わたしとしては,日本の居酒屋のようなところで,男女兼用になっているのは,ドアがないことよりよっ ぽど気になります。そして,ドアの有無よりも,日中トイレのもっと本質的な違いは「向き」です。日 本のトイレは,通路に対して後ろ向きになるか横向きになるのがほとんど,中国のトイレは必ず通路に 向かう向きになります。そのためにドアがなくてもそれほど気にならないのかも知れません。これに慣 れると,通路に背を向けてしまうのは,たとえドアがあっても背後が無防備になる感じがして落ち着き ません。  トイレで圧巻だったのは,天安門広場のトイレです。広場で大きな行事がある時など,広場の両脇の 側溝に並んでいる蓋をあけ,周りに天幕を張ると仮設のトイレになります。仮設といっても中には1列 約10人分,それが2列に並んでいて,5×10mくらいの広さがあります。もう一つ,忘れられない トイレは北京大学の南門近くのトイレです。北京大学の今はつぶされてしまった講堂では,時々映画が 上映されるのですが,二本立ての場合でも,休憩はなく,切れ目なく二本目が上映されました。それで, 自分で適当な時に,一番近くのトイレに行くのですが,このトイレは,旧式,つまり床に穴を掘っただ けのもので,なんと電気がないのです。夜になれば大学の構内は暗く,トイレの中はなお真っ暗です。 何も見えない中でそろりそろりとすり足で進み,なんとか目的を達することができましたが,あの時も し穴に落ちていたら,と思うと今でもぞっとします。懐中電灯必携のトイレでした。

広州  さて,バスのほうは,ひたすら目的地を目指すかというと,そうでもなく,大きな荷物を傍らに,手 をあげて途中から相乗りしようという沿道の農民なんかもいて,値段の交渉が始まったりします。交渉 がまとまれば,その大きな荷物を屋根の上に載せるのに手間取り,いつまでたってもバスは動きません。 相乗りさせる時には,切符を切らず,もらったお金はそのまま運転手のポケットに入ってしまうようで した。それを取り締まる係が乗り込んで来て,慌てて切符を切ったが間に合わず,罰金を取られる,と いった事態も目撃しました。そんなこんなで,8月21日,やっとの思いで広州に着きました。  広州は大都会でした。駅はとにかくやたら大きいし,道路は高架になっているし,珠江にはベイブリッ ジのような橋がかかっているし,近代的展示の明るい博物館はあるし,政治の中心ではあるけれどどこ か垢抜けない北京とは,なにもかも違っていました。とりあえず,地図を買おうと,駅近くでおばさん がやっている新聞スタンドに行きます。広東人はよそ者と見るとボルことがあると聞いていたし,ここ はひとつ,以前習った広東語でと思い,「幾多銭(Gei do chin)?」と尋ねたまではよかったのですが, その後がいけませんでした。広東語では「1」は「yat」,「2」は「yii」と言います。さらに「〜円」 と言うのを「〜man(文)」と言います。おばさんの答えは「Yii man.」というものでした。一瞬わたしは 「man」と日本語の「万」とを混同して,ギョッとなりました。いくら物価が高いと言ったって,「万」 はないだろう。次の瞬間,そんなはずがないことに気がつき,「man」が「円」だったことを思い出しま した。でもそちらに気をとられ,「yii」の理解のほうがおろそかになりました。1元札1枚を差し出し た時点で,わたしが北の田舎者であることがばれてしまいました。おばさんはすかさず「両塊(Liang kuai)。」と言い直し,指も2本たててくれました。  次は宿の確保ということで,沙面にある外事招待所というところに行きました。そこはいわゆるバッ クパッカーのたまり場で,フロントも慣れたもの,たちまちドミトリーにベッド一つ確保することがで きました。ところが,部屋に行ってみると男性がいます。間違いではないのか,と聞くと「男女不分!」 の一言。夫婦でないと男女は同室にしないんじゃなかったのか(PART2参照),さすがは広州,さば けていると言うべきか,それとも大部屋に大勢いっしょなら問題なしということなのでしょうか。  気を取り直して荷物を置き,対岸の州頭咀桟橋に行って,3日後の香港行きのフェリーの切符を購入。 ここまで済ませてしまえば,後はあちこち見て歩くだけです。まずは,広州人の胃袋を支える清平市場, それから越秀公園,中山紀念堂,白雲路にある魯迅故居にも行きましたが,そこは建物だけで,紀念館 は別の場所にあります。そちらは改装中で閉館していました。その他博物館やお寺や革命関係の史跡な どが,毎日決まった時刻に夕立の降る,南方の湿っぽい空気の中にありました。これまでの旅行と同じ ように,ただひたすらに歩きまわるだけでしたが,歩きまわるということは,結局自分に向き合い,自 分を見つめ直すことでもありました。今ここにいる自分は,あの中国に来たばかりの,おどおどした, 頼りない自分に比べて,なんて頼もしくなったのだろう,と我ながら思うことができました。  8月24日,いよいよ中国本土に別れを告げることになりました。気分はすっかり感傷的,これといっ てすることもなく,またする気も起きず,ぶらぶらと夕方まで過ごしました。夕食を済ませ,桟橋に向 かいます。招待所のお兄さんが「sa-yo-na-ra!」と見送ってくれ,こちらも「Zhoi kin(再見)!」と 返しました。桟橋には夜9時に着,「出境手続」をして,外貨兌換券を香港ドルに換え,香港行きの船 「天湖号」に乗り込めば,後は10時の出航を待つばかり。明日の朝目覚める頃には,全く異なる秩序 が支配する世界に入っていることでしょう。  こうしてわたしは少しずつ,日本の日常へと戻って行ったのでした。

その後の北京  帰国後いくつかの後遺症がわたしを襲いました。  1.自動券売機で切符が買えない。学生時代6年間,都内の鉄道・地下鉄を乗りまわっていたのに, すっかり地理に疎くなってしまい,料金表からすぐに目的地をみつけることができません。さらに中国 の生活では縁のなかった自動券売機も苦手になってしまい,頭ではわかっているつもりでも,思うよう に操作できず,ショックを受けました。高齢者の気持ちが少しわかったかも。これは一週間ほどで回復 しましたが。  2.並んでいる人を追い越してバスに乗り込んでしまう。中国の基準でいけば,日本の客はとても乗 ろうとしているようには見えません。他の人が乗らないなら,早くしないとバスが発車してしまう,と 慌てて乗ったら,後から他の人たちが乗ってきて,恥ずかしかった。これはこの時一回やっただけで済 みました。  3.なま物が食べられなくなった。よく海外にいると刺身や寿司が食べたくなるといいますが,わた しの場合は,食べる気がしなくなってしまいました。刺身のみならず,生野菜とか,冷たいそばやそう めんも積極的に食べたいとは思わなくなりました。幸い半年ほどのあいだにこれも治りましたが。  その後,再び北京に行ったのは,1年おいた91年の夏でした。知らないうちに中国語の力が落ちて いたようで,思っていたより通じず,こんな筈ではなかった,という気分を味わいました。この時はG さんが,今度は正規の大学院生として北京大学に留学しており,いっしょに食事に行った帰り,初めて 流しのタクシーをつかまえて乗りました。後に「面的」と呼ばれるようになる,箱型のタクシーでした が,色はまだ黄色でなくて白でした。88年にはどこかホテルにでも行かなければタクシーには乗れな かったので,北京の変化を実感した次第です。天安門事件後の北京は,政治から人々の目をそらせよう とするかのように,ひたすら経済発展への道を突き進んでおり,街全体の雰囲気が全く変わっていまし た。ちょうど,日本の安保闘争後がこんな感じだったのでしょうか。最近の北京の変貌振りにはすさま じいものがありますが,基本的にはこの時に方向づけられた方へ進んでいるに過ぎないので,もう,あ まり驚くこともありません。だんだんわたしの心の北京とは離れて行ってしまいますが,それを言い出 したらきりがないでしょう。わたしより10年前に留学した人は,わたしの知っている北京には違和感 を持つかも知れませんし,これから留学する人は,今度は10年後の北京を受け入れられないかも知れ ません。それに,何よりもその土地に住む人たちが,暮しやすく,幸福であることが一番です。北京で, そして中国各地でお世話になった人たちに感謝しつつ,その他全ての人々が幸福であることを願って, 筆を置くことといたします。(PART5(終)完 1999.4.11脱稿)

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