「キリストが崇められる」一章一八−二六節

 パウロはこういいます。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも、死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然と崇められるようにと切に願い、希望しています」。
 パウロが望んでいるのは、キリストが崇められることだというのです。「わたしの身によってキリストが崇められる」という事はどういうことでしょうか。

 パウロは今獄の中に捕らわれていて、身動きができないわけです。今はパウロは直接伝道活動はできない。ですから、「わたしの身によって」などといいますと、パウロ自身が身を挺してとか、パウロ自身が大活躍してとか、想像するかも知れませんが、そういうことではないのです。パウロが大活躍してという意味ではなく、パウロが用いられて、キリストが崇められるということであります。

パウロは今なにもできない、しかしそれが契機となって、他の人々が働きだして、福音が活発に宣べ伝えるている、それを見てうれしいというのであります。
 そういう心境になるためには、よほど謙遜になれなければ、自分を殺すことができなければ、できないことだと思います。

 このことで思い出すのは、吉田秀和という音楽評論家が、バックハウスというピアニストについて書いていた文章であります。こう言っているのです。「バックハウスの演奏は、要するに、曲が良ければ良いほど、演奏もよくなるということだ。だから、彼の演奏を聞いて、好きになった曲があるとすれば、それはまず名曲に間違いがないと考えてよい。ある種の名人は、大して内容のない曲でも素晴らしく弾いてきかせることができるけれど、バックハウスにはそれができない。わたしはバックハウスというピアニストを評価するとして、これ以上の言いかたを知らない。」

 別の箇所ではこうも言っています。「バックハウスという人を聴けば聴くほど、わかってくるのだが、彼は取り上げた曲が優れていればいるほど、演奏の質も高くなるという音楽家である。逆にいうと、彼にはつまらない曲でも弾き方によってびっくりするほど面白しろくなる、といった不意討ちや意外な驚きを与えることがほとんどない」といっているのであります。

 バックハウスというピアニストは、曲がよければ良い演奏をする、曲がつまらなければ、つまらない演奏しかできない、そういうピアニストだというのです。そしてこれは演奏家という芸術家をほめる言葉として、これ以上のほめ言葉はないというのです。
 
 演奏家というものは、あくまで作曲家の意図を表現するのを使命としているわけです。いわば作曲家が作った作品をどれだけ正確に忠実に再現できるかにその演奏家の使命、善し悪しがかかっているわけです。ある意味では、作曲家を超えてはいけないのです。作曲家の作曲したその作品を自分の演奏で表現する、自分の演奏でいわば作曲家を崇めるところにその演奏家の使命があるわけであります。

 演奏家論としては、これとは違った意見もあると思います。演奏も一つの創作で、作曲家の意図を超えて、あるいは作品の意図を超えて演奏してもいいんだ、演奏も創作活動なんだ、いやそれを目指すべきだという意見もあるかも知れません。

 しかし、福音を宣べ伝えるということで言えば、このバックハウスの目指している演奏家としての姿勢が、福音を宣べ伝える伝道者の姿勢でなければならない筈であります。

 パウロが「わたしの身によってキリストが崇められることだ」という時、それはこのことを言っているのではないかと思います。崇められなくてはならないのは、あくまでキリストなのであって伝道者パウロではないということです。だからパウロの身が今獄に捕らわれて、パウロ自身が身動きができなくても、それが契機になって、善きにつけ悪しきにつけ、キリストが宣べ伝えられれば、それでいいんだということであります。

 パウロという人は、人間的にはずいぶん誇り高い人だったと思います。しかしそのパウロがひとたびキリストの前に立ち、キリストを宣べ伝えようとする時に、いつも心がけた事は自分はこのキリストの前にできるだけ小さくなろう、そしてキリストを崇めようということだった、そういう意味で本当に謙遜であったということであります。

 パウロはあくまでキリストを崇めることに忠実であろうとしたのであります。口語訳でいえば、「大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが崇められることだ」と言い、「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」とまで言うのです。

 パウロは今獄に捕らわれておりますので、いつ死ぬような事態がくるかわからないという気持ちがあったのかも知れません。キリストのためならば、死んでもいいのだと言うのです。そればかりか、後の方をみますと、むしろ早く死にたいのだと言うのです。「一方では、この世を去ってキリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」というのです。

 何故早く死にたいかと言えば、死んだらキリストと会えるからだというのです。この世に生きている間は、やはりいろいろ煩わしいことがあって、ついキリストのことをおろそかにしてしまうという事もある、しかしこの世を去ったら、そういうものからも解放されて、キリストと共にいることに専念できるから、その方がはるかに望ましいというのです。パウロはこれ程までに、キリストと共にいることを望み、キリストを愛していたのであります。

 愛するということは、愛することによって何かを得られるとか、何かプレゼントされるとか、得をするとかということではなく、愛するという事は、愛する人と一緒にいることを喜ぶということです。

 ところが、われわれはそのことを忘れてしまいがちなのです。その事に鈍感になってしまうのです。ですから、愛するということは、その人と一緒にいること、共にいることなんだという事は、その人を失ってみて始めて改めて気がつくことが多いのではないかと思います。

 まだ一緒にならない前の恋愛中には、その人と会うという事、会っているというだけで楽しい筈です。しかし結婚していつも一緒にいると、いつでも一緒にいられると、会っているだけで楽しい、一緒にいるだけでうれしいという愛の本質を忘れてしまい、鈍感になってしまうのではないかと思います。

 われわれが神を愛する、キリストを愛するという事も、神を信じたら、何かいいことが起こるのではないか、商売繁盛、健康でいられるのではないかと、そんな事ばかり求めだすのであります。

 パウロは、死んだら天国にいくんだとか、天国はさぞかし素晴らしいところだろうなどという想像力を一つも働かそうとはしていないのであります。ただキリストと共にいる、それが天国というところだとパウロはいうのであります。

われわれは天国というところをそのように考え、期待しているでしょうか。われわれは天国というと、美しい花が咲き乱れて、とそういうことしか想像できないのではないでしょか。

 確かにヨハネの黙示録には、それを連想させることが書かれております。「天使は、また神と小羊、つまりキリストのことです、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せてくれた。川は都の中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。呪われるものは何一つない。

神と小羊の玉座が都にあって、神の僕達は神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや夜はなく、ともし火も太陽も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」と書かれております。

 そこには確かに美しい川が流れ、その両岸には木々があると書かれておりますが、しかしあくまでその中心は神とキリストである小羊が玉座におられる、そしてわれわれが神を礼拝しているということであります。
われわれが心おきなく、神とキリストを礼拝することができる、そこが天国だというのであります。

今あらためて、パウロが自分は世を去ってキリストに会いたいと願うということ、「死んでからキリストにお会いする」「死んでからキリスト共にいることを切に願う」ということはどういう事なのだろうかと考えてみたいと思います。

 われわれはキリストに具体的にお会いしたことはないのです。イエス・キリストに直接お会いしたことのある弟子達でしたら、自分が死んでからイエス・キリストにお会いしたいということ、それを切実に望むということはわかることであります。

 われわれもこの世において、愛する者を失っているならば、自分が死んだ後天国にいって、その愛する者と再会したい、それを切実に望むということはよくわかることであります。私自身、三十三になる息子を亡くしておりますから、自分が死んだあと、息子と会いたいということは切実に思います。

 しかし、われわれはキリストに会ったこともないのです。それなのに、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望したい」と本当に思えるだろうかということなのです。

 イエスの弟子達ならば、そのように熱望するのはわかります。パウロはどうだったでしょうか。学者の見解では、パウロはおそらく生前のイエス・キリストには一度も会ったことはなかったということであります。あのダマスコ途上で、イエス・キリストの幻には会っていますが、そのような体験はそう何回も経験したわけではないと思います。

 そういうパウロが今、この世を去ってキリストと共にいたいと熱望しているということはどういうことなのでしょうか。

 パウロはコリントの手紙のなかで、「かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方はすまい」といっているのであります。新共同訳では「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしない」となっております。

 つまりパウロは生前のイエス・キリストを思い出して、そのキリストに会いたいとか、そのキリストと共にいたいといっているのでないということであります。

 われわれがこの地上のこの世で、愛する者を失って、死んでから天国に行ってその愛する者と再会して、共にいる生活を再びすることを熱望する、そういう意味でこの世を去ってキリスト共にいることを熱望するということではないということであります。

 そういう生前のイエスと再会したいということではなく、十字架と復活においてわれわれの心のなかにはっきりと示されたキリストに再会したい、そのキリストと共に過ごしたいということであります。

 ですから、ここでパウロがこの世を去ってキリスト共にいたいということは、キリストという言葉の代わりに、神様と共にいたいと言う言葉でおきかえても差し支えないことであります。ただ漠然と、抽象的に観念的に神様というのではなく、あの具体的な十字架と復活ということで示されたキリストにお会いしたい、そのキリストを中心にした生活をしたいということであります。

 パウロはもう肉に従ってキリストを知ろうとはしないといった後、すぐ続けて、「キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者だ、古いものは過ぎ去り、新しいものが生まれた。それはすべて神から出たのだ」というのです。

 われわれが死んでから行く世界は、この世の延長の生活ではないのです。イエスは復活後の世界について「この世の子らは、めとったり、嫁いだりするが次の世ではめとることも嫁いだりすることもない」といっておられるのであります。

 ですから、この世を去って天国にいくということは、単なるこの世の生活の延長ではない、ただ愛する者との再会の場所ではないということであります。そういうこともあるかもしれませんが、あったとしてもそれは全く新しい再会であります、全く新しい世界が開かれるのであります。

われわれはこの地上で憎んだり、恨んだりした人も、天国におくっているのです。そういう人との再会などしたくないと思うかもしれません。しかし、天国はこの世の延長ではないのです。天使のようになるのだというのですから、もうその世界では、憎んだり、恨んだりする世界ではないのです。全く新しい世界であります。それがキリストと共にいる世界であります。それを今パウロは熱望しているということであります。

 パウロは自分自身の救いという事を考えたら、早く死にたい、死んでキリストが待っている所に行きたいと願っているのであります。「けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしにはわからない。わたしはこれら二つのものの間に板挟みになっている」というのです。

 パウロはここで、どちらを選んでいいかわからない、と言っておりますけれど、ここを読んでいると少し奇妙だなと思います。パウロはまるで自分で死を選べるような事を言っているように思われるからであります。パウロはまさかここで自殺したいといっているわけではないだろうと思います。

 ですからパウロが「死ぬことは益だ」「死んだ方がいい」といってみたところで、直ちに死ねるわけではないのです。それなのに死ぬ方がいいのか、生きることを望むべきか迷っているという言い方はどういう事なのでしょうか。

 これはパウロが、実際問題として死ぬか生きるかということで迷っているのではなく、死ぬことを願いながら生き続けるべきか、それともなんとしてでも生きようとして、生きることに執着して、生きることを願うべきかで迷っている、つまり「願う」ということで、迷っているということだろうと思います。パウロが死を願ったからといって、すぐ死が来るわけではないのです。

 しかし、少なくとも死を願う方向で生きていったら、そういう姿勢で生活していったら、やはり生き方も変わってくるということは言えるのではないでしょうか。そのことでパウロは今迷い、板挟みになっているのてあります。

 そういう事なら、われわれもまたこのパウロの迷いを考えてみなくてはならないと思います。
 われわれもまた自分の人生を、死を自覚して、ある意味では、死を願いながら、生きるか、それともただ生に執着しながら生きるか、その選択はしておかなくてはならないのではないか。いつ死んでもいい、キリストが待って下さっている死ならば、いつでも死ねる、死を待ち望める、そういう事を願って生活するのとしないのとでは、やはり生活の仕方は違ってくるのではないかと思います。

 ただ、ただこの世に生きることに執着する生き方をしていくのと、キリストが待っていてくださる死を待ち望みながら、依然としてこの世に生き続ける生き方をするのではやはり、同じ生きるにしても、生き方で少しは違ってくるのではないかと思います。

 キリストが待っていてくださる死を待ち望みながら、生きるようにしていたら、われわれはもっともっと身軽な生き方ができるのではないでしょうか。

 パウロはしかし、結局は自分が伝道者として召されたことを自覚して、「だが肉にとどまっている方が、あなたがたのためにもっと必要です」、だから、わたしは生きながらえる方を願う生きかたをしようというのであります。それはもちろんなんとしてでも、生きることに執着して生きるということではなく、キリストと共になる死を望みながら、しかし今神が自分に生き続けるように命じておられるこの地上の生をしっかりと歩もうということであります。

 パウロはやはり伝道者として神の救いのご計画を信じて生きようとしているわけで、ただ自分の願いを優先させるわけにはいかないという事に気がつくのであります。「どちらを選んでいいかわからない」などというと、パウロはいかにも優柔不断の人のように見えますが、そうではなくて、パウロは自分の願いというものを強烈に、はっきりと持っているからこそ、その自分の強固な願いとぶつかるものが出てきて、しばしばその選択に迷うのではないかと思います。  迷わない人は、自分の中になにもない人で、ただ時流にながされていくだけの人で、そういう人生でしかないので、それはつまらない人生なのではないでしょうか。どちらを選んだらいいか、大いに迷う人生の方が素晴らしいと思うのであります。

 最後にもう一度考えたいことは、パウロが「わたしの身によってキリストが崇められることを切に願い、望んでいる」というところであります。

 さきほどは、「わたしの身によって」ということは、獄にとらわれていて何も身動きができない状態のパウロの場合を考えたのでありますが、「わたしの身によって」ということは、それだけのことではないかと思います。

 「わたしの身によって」というのは、わたしという一個の人間を通してキリストが崇められるということであります。キリストが崇められるのは、コンピューターという機械を通してキリストが崇められるということではなく、この生身の「わたし」という人間を通してキリストが崇められるということであります。

 昔読んだ短編小説に、アナトール・フランスという人の「聖母と軽業師」という小説がありました。街道でナイフなどを足や手で操る街道芸人がいた。彼は修道院での生活にあこがれていて、あるときにたまたま通りかかったお坊さんにそのことを話すと、では修道院にきてごらんなさいと誘われて、修道院に入るのであります。

 彼は修道院にはいることができて最初のうちはとても喜んでいたのですが、そのうち落ち込んできた。それは修道院に入っている修道僧たちはみなそれぞれ自分の賜をもっていて、それで神に仕えている。
 ある人は学問、ある人は皮の細工物、ある人は刺繍と、すばらしい賜をもって神様に仕えている。しかし彼には学問もなければ、刺繍もできなければ、なにもできないということで、落ち込んでしまったのであります。

 そのうち、ある時間になるといつもその軽業師がいなくなることに修道僧たちは気づいた。ある時、どこにいくのかと、あとをつけてみると、軽業師は礼拝堂にはいって、聖母マリア像の前に寝ころんで、足で玉投げやナイフ投げを一生懸命演じている。それをみた修道僧たちは聖母様の前で寝転がるとはなんと不敬なことをするのかと、彼を礼拝堂から引きずりだそうとします。するとそのとき、、聖母マリアの像が動き出して、懸命に芸をして汗をだしている軽業師の額を自分の衣でなぐってあげたという奇跡をみたという話であります。

 これは中世の話をアナトール・フランスが小説にしたようなのですが、軽業師は自分はなんの才能もないけれど、ただひとつ自分がもっている軽業という芸、それは世間の目からみれば、いやしい芸かもしれないけれど、彼はその芸を捧げて神を崇めようとした、それを聖母マリアも認めてくれて、彼の額から汗をぬぐってくれたということであります。

 「わたしの身によってキリストを崇める」ということはそういうことでもあると思うのです。「わたしの身によって」であります。自分にできること、それがどんなに他人からみたらつまないようにみえることであっても、自分にできること、あるいは、自分にしかできないこと、「自分にしか」というと、なにか傲慢になってしまうかもしれませんが、みんなにもできて、しかも自分にできること、といったほうがいいかもしれません、それをもって、神に仕え、キリストを崇めていけばいいということであります。

 信仰生活というのは、そのように人様ざま、個性的なものなのであります。自分のそれぞれに与えられているものをもって、わたしの身によってキリストを崇めるということなのであります。